04_ガラクタの心(VI)
二日後、ノアは再度深部に足を踏み入れていた。
あの屋敷がある場所とは違う、この深部の中でも最下層に位置する人々が住んでいる……いや、捨てられている場所。
少し進めば、酒瓶を片手にケタケタと笑っている者や、暴れている者、中には薬を吸ってへらへらと奇妙な笑い方をしている者までいる。
道を曲がれば、力なく道端で座り込んでいる者も、寧ろ死体になってしまっているものまでいる。
どれもこれもが正常ではなく、漂う臭いも明らかに吸ってはいけない類の物が混じっていることが伺えた。
ノアはそっと空気を浄化する魔術を自分を中心にして使用すると、茜に視線を向けた。
「臭いはどう?」
「ん、今は大丈夫そう。かなり良くなった」
狐である茜の嗅覚は人間の数倍あるため、この最下層街に足を踏み入れた瞬間にぐらりと意識を失いかけたのだ。
少し辛そうではあるが、ほとんど茜に問題がなさそうなことを確認すると、ノアは改めて街を進み始めた。
どこもかしこもおかしくなっている者達ばかり。
茜はぐっと奥歯を噛んで、下を向いた。
自然界では死ねば必ず自然に帰る。
死して、森の栄養となり、森は生き物に恵みを与える。
当たり前の摂理が、目の前には無い。
「なんで、誰も助けない?」
茜の問いに、ノアは歩きながら不思議そうに茜を見つめた。
「助ける?なんで?」
「だって……ここは酒や薬に溺れて、おかしくなっている奴らばかりだ」
「だから?」
「酷いだろ?……酷い、光景だろ?」
目の前の惨状を見て、茜は心が痛かった。
どうして、こんなに酷い状態を放置できるのだろうかと。
表の華やかな生活とあまりに違いすぎる。
たった少し歩いた先で、森と町の距離よりももっと近い場所で、こんなにも正反対な場所があることが、茜にはどうしても信じられなかった。
ノアは茜の言葉を受けて、再度辺りを見渡した。
薬を吸って、ゲラゲラと笑っている者達が道端で屯っている。
「……酷い?彼らは楽しそうだ」
え。と茜は言葉を失った。
楽しそう、とはどういう意味だ?
視線を向ければ、ノアは微笑んだ。
「みんな、笑ってる」
「……笑ってても、異常だ」
「?」
ノアはやはり不思議そうな顔をしていた。
もやもやとした心を上手く言葉に出せず、茜はもう一度辺りを見渡した。
少し先に死んでいる子供を見つけ、茜は鼻先でそこを指した。
「……子供が死んでる」
「うん、神様との約束を守れて偉いな」
微笑んだノアは、慈しむような顔をした。
表の街で、幸せな家族を見つめていた時と、全く同じ表情だった。
「……本気で、言ってるのか?」
「何が?」
ノアは心底不思議そうに首を傾げた。
……あぁ、本当に分からないのか。
ノアは、この光景に、何も……何一つ、心を痛めてない。
茜は困惑しながらも、すとんと、その考えが心の中に落ちてきたのを感じた。
たった数日一緒にいただけだが、ノアは確かに、どこかずれていることを茜は分かっていた。
時折、表情がその場にそぐわないことがあったから。
けれど、その内にある心は違うのだろうと、思っていた。
違うと思っていた。
でも、そうじゃない。
……そうじゃないんだ。
この光景が異常なことは、人間でなくても分かる。
分かるのに、それをどう伝えれば良いのか、分からない。
茜は考える。
他者との関りの殆どを罵りと侮蔑しか受けてこなかった茜には、あまりに大きな問いだったが、それでも、茜は考える。
ノアに分かってほしいと思ったから。
黙り込んでしまった茜を軽く撫でると、ノアは何事も無かったかのように、前へと歩き出した。
***
「来たか、ノア」
軽薄そうな男……サクルが、じろりとノアを睨みつけた。
顔合わせの際に名前をお互い名乗ったものの、おそらく呼び合うことはないだろうとノアは思っていたが、向こうはそうではなかったらしい。
驚きに目を見開けば、サクルは怪訝そうな顔をした。
「んだよ?」
「……名前、呼ぶんだと思って」
言われた意味が分からなかったらしく、片眉を上げたサクルにノアは続ける。
「名前を呼ぶって、相手を認識とか認めてるとか、そういう意味になりえるから、呼ばれないと思ってた」
「はぁ?名前なんてただの記号だろ?
ノアでも1でも2でも、変わんねぇよ。
お前を示す記号がノアって言うなら、使うに決まってんだろ。呼ばない方がめんどくさい」
はぁ、とノアは間の抜けた声を漏らした。
分かっているのかいないのか、サクルには見当もつかなかったが、サクルにとってはどうでも良いことだ。
早々に気にするのを止め、懐から取り出した地図をばさりと広げた。
「作戦はこの間伝えた通りで変更はない。
俺達が正面突入。
ラザロスとショウは建物の側方に配置して、俺らが突入した数分後に突入させる。
取り逃した奴らを始末してもらう」
ショウは気弱そうな男の名前、ラザロスは獣人の名前だ。
ノアはサクルの説明に言葉を挟むことなく続きを待った。
「標的の後ろは川になってる。
まぁ町の状況を見たら分かる通り、ここの川はやばいものが流れてることが多い。
無闇に飛び込むくらいなら反撃するだろうから、基本全面戦争だ。
で。俺らの役割は全力でこいつらを潰すこと」
異論は?と聞かれ、ノアは首を横に振った。
一人でも全員倒すと思っていたくらいだ。
問題はない。
「相手は50人程度だ。一人頭……まぁ25ってとこか」
時間が迫っているからと、二人は特に声も無く歩き出した。
サクルは殺気立っているものの、その言動に動揺は見えない。
それなりにこういうことをやって来たのだろう。
ただのやかましいチンピラかと思っていたが、それだけではないらしい。
「サクル、君以外の二人の戦績は?」
「は?」
「彼らは、こういう掃除をやったことがあるのか?」
少し考えた後、サクルは前を向いたまま話し始めた。
「ラザロスは俺より経験が多い。ショウは……まぁ片手程度だな」
つまり、ラザロスはショウのお守りを兼ね、サクルは僕の監視兼調整役といったところか。
ノアは心の中で納得する様に頷いた。
対して、サクルはノアに向けていた評価を少し改める必要があるのかもしれないと感じていた。
自分の戦績だけ聞かなかったのは、今こうして向かっている間に、それだけのことを嗅ぎ取ったからだろう。
つまり、ノアもまた、こういうことを幾度となく経験してきたことがあり、それを切り抜けるだけの力を持っているということだ。
最初はただの優男かと思って……いや、仕事を取られてイラついていたのもあって、随分と強めな当たり方をしたが、面白い奴かもしれない。
サクルは口角を微かに上げた。