03_花人(Ⅲ)
二日後、テオは再び研究所へと忍び込んだ。
深夜帯のため、研究所の中に人間はほとんどいない。
笑みを称えた月が微かな光源を地上へと注いでいた。
真っすぐに、サクラのいる部屋へと歩く。
迷いはない。
早まる足と共に、鼻歌でも歌いたい気分だった。
部屋へ入ると、サクラはいつものように笑顔をテオに向けてくれた。
テオも笑顔を返す。
「サクラ、ここから逃げよう」
テオは肩に背負っていた荷物を床へ置き、その中からある『もの』を取り出して、サクラの牢へとかざした。
シュン、と小さな音を立てて開いた扉に、サクラの目がゆっくりと見開かれる。
導かれるようによろよろと外へ出てきたサクラに手を差し出せば、呆然としながらもしっかりとテオの手を取ってくれた。
テオは微笑んで、サクラも微笑んだ。
行こう。外へ。
床に置いていた荷物を取ろうとして、手中に残っていた『もの』が視界に入る。
もうこれは必要ない。
それを乱雑に投げ捨てて、テオは荷物を背負う。
そしてサクラの手をあたらめて握ると、二人は外へと歩き出した。
月明かりが差し込む部屋の中で、切り取られた『人の指』は冷たい床の上に転がっていた。
***
研究所の外へ出るのはそう難しくはない。
いつもの道を辿ればいいだけ。
けれど……。
研究所のあちこちで怒鳴り声や走る音が響いていた。
静寂が常の深夜の研究所の中はどの部屋も煌々と明かりが灯されている。
サクラもいつもと違う研究所の様子を感じ取っているらしく、どうするのかと僕を見上げた。
「大丈夫。道はあるよ」
僕はサクラの手を引いて、走り出した。
いつもの道は使えるかもしれないが、危険が大きすぎる。
だから、もう一つの道を使うことにした。
「地下水道……?」
「そう。少し臭いけど、我慢してね。外まではこれで出れるから」
下水が流れる地下道。
町の至る所に張り巡らされたこの道は、研究所と外を繋げるもう一つの道だ。
サクラの手を取り、テオは迷いなく歩き始めた。
地下道の地形は、全て把握している。
町の人間さえ知らないこの道を研究所の人間がそう簡単に思いつくこともないだろう。
ランタンを光源に、足元に気を付けながら二人は歩く。
サクラの足にはテオが用意した靴を履かせてある。
あの牢の中でも、舞っていた時でも素足だったからか、少し違和感を感じているようだが、安全のためだ。
下水には何が含まれているかも分からないから。
どのくらい歩いたか、不意にサクラの足が止まった。
あと少しで目的の出口なのに、どうしたのだろうとテオが振り変えれば、サクラは瞳を閉じていた。
「サクラ?」
「……音がする」
咄嗟にランタンを消し、耳を澄ませる。
サクラの言う通り、自分達が向かう方向から、何か奇妙な音が聞こえた。
話し声と唸るような鳴き声。
この先に人がいるのは明白で、テオはすぐに頭の中に地図を広げた。
本当は町の外に繋がるこの先に行きたかったが、仕方ない。
町の中の道に一度出て、警備の状況を確認しながら外に出るか、町に身を隠して明日を待つかを選ぶしかない。
一つ頷いた時、唸るような声が耳に響いた。
はっと顔を上げれば、異形の者がテオ達を見下ろしていた。
分厚い鱗に覆われた巨体。
トカゲのような顔、手足には水かきと鋭い爪。
リザードマン……?!
テオは素早い動作でサクラを背に隠し、腰に隠していたナイフを引き抜いて対峙した。
頬に冷たい汗が流れる。
別の国で闘技場の見世物にされていたリザードマンは、武装した人間を簡単に蹴散らしていた。
目の前のリザードマンは、あの見世物にされていた個体よりも小さく見える。
それでも、自分の二倍はあるこの巨体に襲われれば、ただでは済まないだろう。
「……」
逃げるか?
いや、リザードマンは足が速い。逃げだした瞬間に追い付かれて殺される。
戦った方がまだ幾分か勝算がある。
前に一歩踏み出そうとしたその時、リザードマンは踵を返して元来た道を引き返していった。
え、と思わず声に出しそうになったが、空気を吐き出しただけで終わった。
そっとリザードマンが向かった方向を覗き込めば、リザードマンは灯りを手にした人間を見下ろして首を横に振っていた。
リザードマンの傍にいる人間は、苛立ちを隠しもせずに次はあっちを見に行くと、足早に視界から消えていった。
残されたリザードマンは一度こちらを見た後、すぐに人間の後を追う様に視界から消えた。
何故、助けられたのだろう?
いや、今はそれを考えるよりも、進む道を考えよう。
彼らと反対の道に進めば、町の外に繋がる道に出られる。
勿論待ち構えられている可能性もあるが、ここに居続ければ、またリザードマン達が戻ってきてしまうかもしれない。
今は見逃されたが、次はどうなるか分からない。
息を深く吐くと、サクラに笑顔を向け、テオは小声で告げる。
「行こう」
サクラは一つ頷いた。
***
町の外とを繋ぐ地下道はいくつかあるが、その出入り口は基本的に柵と錠で閉じられている。
侵入者や脱走者を出さないため、厳重に。
しかし、今はその錠は開けられ、武装した人間が辺りを警戒しながら巡回しているのがテオの目に映った。
人数は3人。
正面突破しようと思えばできなくはないが、サクラを守りながらでは些か厳しいだろうか。
しかし、見たところ飛び道具は持っていないようだし、奇襲で通り抜けることはできるかもしれない。
気を伺うことも考えるが、リザードマンが戻ってくる可能性を考えると、今進むのが最善のような気がする。
一か八か、やるしかないか。
テオは、隠れている様にサクラに指示を出し、静かに一歩踏み出した。
途端、走り出す。
真っすぐに。
消しきれない足音に気づき、見張りが槍を構えてこちらを向いた。
「止まれ!!」
テオが袖に仕込んでいた球体を彼らに向かって投げつけると、見張りの一人がそれを槍で叩き落とした。
瞬間、眩い光と共に白い煙が、一面に広がった。
動きが止まった見張りの一人を蹴り飛ばせば、もう一人の見張りは音に反応して槍を振り下ろして来た。
迷いのない槍を最小限の動きで避け、懐へ入り込む。
真下から顎を掌底で叩き上げ、相手が倒れ込む音を聞きながら、周囲に意識を向ける。
見張りはもう一人いたはずだが、姿が見えない。
音も声も聞こえない。
いや、光で目をやられているのだから、動いていないのかもしれない。
最後に見た時は一番奥にいた。その辺りに潜んでいるのかも。
テオは一先ずサクラの元に戻るべきかと背を向け、走り出した。
その時。
サクラの声が響いた。
「後ろ!!」
背後に感じた寒気に、勢いよく振り返る。
テオの目に、最後の見張りの男が、振り上げた剣を振り下ろそうとしている姿がありありと映った。
死ぬ。
そう思った瞬間、目の前に花弁が散った。
サクラが、テオと男の間に割って入ったのだ。
切られた体がテオの目の前でゆっくりと崩れ落ちる。
「サクラ!!」
倒れてくるサクラの体を抱き留め、後ろに飛び退き距離を取る。
テオはサクラの体をその場に横たえると、男に視線を向けた。
男は剣を手に、迷いなくこちらへと駆けてきていた。
あと数秒もしない内に、到達する。
考えている時間はない。
腰から引き抜いたナイフを構え、テオはふっと息を吐いた。
立ち上がった瞬間、顔のすぐ横を風の音が走り、目の前の男に何かがぶつかった。
え、と思考が一瞬停止したものの、目の前の現状を把握しようと暗がりを凝視する。
男にぶつかったのは、先ほどリザードマンと一緒に地下道を歩いていた男だ。
そして、ぶつかった衝撃からか双方目を回しているのが分かった。
テオはひゅっと短く息を吸った。
あの男が飛んできたということは、僕の背後には……。
そこまで思考し、ゆっくりと後ろを振り返った。
「リザードマン……」
先ほど僕達を見逃してくれた彼は、ゆったりとこちらへ歩いて来ていた。
助けてくれた、のだろうか。
それとも、何か思惑があるのか。
リザードマンはテオから距離を少しとった場所で立ち止まると、口を開いた。
「無事か?」
流暢に話しかけられ、思わず目を見開く。
声は落ち着いていて、嘲るようでも、見下したようでもない。
テオは頷きかけて、勢いよく首を横に振った。
「サクラが、僕を庇って……!」
サクラに向き直り、傷の状態を確認する。
肩から胸にかけて切られた鈍い刀傷。
滲む緑色の血は、じくじくと流れ出ていた。
荷物の中から布を取り出して傷の上に置き、上着を脱いで圧迫するようにサクラの体に巻き付ける。
応急手当としては、今はこれしかできない。
どこかできちんと治療しなくては。
「サクラ、ごめんね。すぐに医者に見せるから、少しだけ頑張って」
サクラは何も言わなかったけれど、瞳が、テオを見て微笑んだ気がした。
テオは泣きそうになりながらもサクラを背負って立ち上がる。
……進まないと。
前を向けば、転がっている剣を拾いあげたリザードマンがこちらに近寄ってきた。
敵意は見えないが、油断はできない。
「僕達に、何か……?」
「恩を返すのが、俺の流儀だ」
「恩?」
「歩きながら話す。護衛は任せろ」
前に歩み出た彼の背中は、とても頼もしくて、テオはその背中を追う様に歩き出した。