Paragraph 0/名もなき祈り/Nameless
――夏喜が沖縄での怪異を解決している頃。ヨーロッパのある地下牢には一人の男が収容されていた。
「・・・・・・主よ、私を救い給え。私を救い給え。私を救い給え」
男が地下牢の角で壁側を向いて祈りの姿勢を維持している。ブツブツと呪詛のような祈り。その先にいる存在は何か。それは男にしかわからない。
男はローワン牧師と呼ばれていた。――もっとも、その名は偽りで、本物のローワン牧師の皮を剥いでペルソナを奪い取った偽物にすぎない。本物のローワンの遺体はテムズ川の底から引き上げられている。
「救い給え。救い給え。主よ、あなたの御言を信じた私を救い給え」
「――ンフフフフフ。実に誠に良き言葉よ祈りよ戯言よ」
聞き覚えのある声に偽ローワンが振り向く。薄暗い鉄格子の向こう側、壁に取り付けられているロウソクの灯りの影が揺れた。
「ど、ドクター……? おお、ドクター! ドクターK! 私を助けに来てくれたのか!?」
「シィィィィィィィィィィィィィィィィィィ……――」
静寂を強要する、空気を裂くほどの音が地下牢に響く。偽ローワンからは見えない位置で、ペストマスクを付けたドクターKが、口元に指を付けていた。
「ンフフフ。理解したかね納得したかね、『名もなき男』。君の命魂は、この蝋燭の陽炎ほどなのだよ。んー? わからないかな? 理解し難いかな? 同感しかねるかな? 人の夢ほど儚く淡く、それでいて美しいものだよ。なー、そうは思わないかね、『名もなき男』?」
ドクターKの言葉を理解することは到底困難であるが、偽ローワンはそれを黙って聞き入った。彼の今の状況としては、固く閉ざされた地下牢から脱出できるのであれば何だっていい。命さえ残ればと、ただ切に願っている。
「そうだ。忘れていたよ盲点失念だ。君が取り逃がした少年だが、ンフフフ、いや、言うまい。君には言うまい。この身からは、これ以上は野暮だよなぁ。そう思わないかね?」
「あ、ああ。そうだね、ドクター。……それで、君は私を――」
「シィ……」
再び言葉を遮られる。偽ローワンには、ドクターKという人物が理解できない。
シルクハットを被ったペストマスクの怪人。痩せこけた肌だが、なぜか女のような艶があり、ペストマスク越しに聞こえる声は多重に認識される声質へと変化している。ロボトミーを生業とする闇医者であり、霊体手術の類を極め、麻酔なしで生きた人間の身体を弄ぶサイコパス。その怪人は、未だ地下牢の前へと姿を現さない。
「君には、そうだな。ンフフフフ。――用無しだ」
「なっ……」
「用無しだよ、『名もなき男』。君の失態は、君を匿っていたこの身だけでない、この身が崇拝してやまないあのお方を困惑失念残念がらせた。この罪は、君の命ですら賄えないほどだよ、ンフフフフ」
チクリと――偽ローワンの首筋にわずかな痛みが発生した。蜂や薔薇の棘の様な痛みに思わず手で押さえ、手のひらに感じた謎の感触を確かめるために恐る恐る視線を移すと――赤く、粘り気のある液体が偽ローワンの手のひらを汚していた。
「ンフフフ。触れたな、潰したな、――殺したな、『名もなき男』。ンフフフ。実に、いや実に君は惜しい男だよ、実に、愚かで鈍い男だよ、ンフフフフフフフフ」
「なんだ、……視界が、赤い――」
暗い地下牢から見える風景が、次第に赤く染まっていく。上から流れるように、次第に濃くなっていく赤色と、肌に感じる生温かさ、そして、こみ上げてくる罪悪感と絶望感、それを上回るほどの圧迫感は、彼の胸から広がっていた。
「ぶっ……ぐっ……がっ、あぁあ、あ゛あ゛あ゛っ゛……」
世界が歪む。渦を巻いて、少し離れた位置にあった蝋燭の灯火だけが明るく、けれど小さくなっていく。偽ローワンは、背中から突き破って這い出た赤いなにかによる激痛に喘ぎながら、物陰から姿を現したドクターKの影を――
「――用無し役立たずでも、人形の素質はあるようだね。ンフフフフフフフフフフフフ」
――数時間後。ことの異常さを察知した魔法協会の魔術師たちが地下牢に通づる秘密の通路を駆ける。
「どうなっている。ここの入り口は厳重に封印していたはずだぞ。なぜ偽物の反応が消失するんだ」
「それよりもだ! 封印は解除されていないのに、どうやって中に入ったかがだな――」
「まて。牢の中がおかしい」
偽ローワンが収監されていた牢の前には、三人の魔術師が到着した。その中にいるはずの人影は暗く、深い闇の奥に気配すら同化し、それを確認しようと携帯用の照明の灯りをつけた。
「ど、どうなってるんだ……」
驚愕な声が漏れる。いたはずの人影は消え、牢の中は、赤い液体ですべてが染まっている。魔術師たちの鼻腔を刺激する鉄臭さに、これが血液だということを認識されるのは容易かった。
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