猫は牛乳に含まれる乳糖を、あまり消化分解できない
―――それは中世ヨーロッパをモデルにした様な世界観を持つジェム皇国。
ジェム皇国には3人の皇子が居て、第一皇子の名がアンバー・アルメリア・ロイス・ジェムだ。
アンバーには幼少の頃より決められた婚約者がいた。
その婚約者というのが、歴史あるクオーツ侯爵家の長女セルフィナイト。
セルフィナイトは、プラチナブロンドの髪を持つ美しい令嬢。
文武に秀で5カ国語を堪能に操り、社会情勢への見識が深い。
幼少から仕込まれた礼儀作法は一流で社交性があり、13歳の頃には家財の一部を任され、自身のジュエリーブランドを起業した。
その洗練されたデザインはたちまち巷で人気となったが、セルフイナイトはその売上の多くを寄付やボランティア活動に投じる。
人々はそんな彼女をこう評した。
“まさにノブレス・オブリージュの体現者、貴族の中の貴族である”と。
―――誰もがセルフィナイトを褒め称え、次期皇后として立つことを心待ちにしていた。
(……だけど、それはあくまで表の姿)
紗夜は連れて来られた手入れの行き届いた豪奢な邸宅の一室で、セルフィーの姿を震えながら観察していた。
(訳がわからないけど、これ多分あのゲームの世界……だよね?)
プラチナブロンドの令嬢“セルフイナイト”に、そのお付きのメイドの“クロエ”。そしてセルフイナイトに拾われた黒猫なる自分。―――信じ難くとも、ゲームの世界であると仮定せずにはいられなかった。
そしてこれがあのゲームの世界と言うならば、このセルフィナイトは、主人公ルナソルの最大の敵……というかガチで殺しに来ては、それを“可愛いイタズラ”と笑い飛ばす女なのだ。
紗夜が自分の為に準備された、籠に敷かれた羽毛布団に沈みながらじっとセルフィーを観察していると、クロエが紗夜にちらりと目を向け言った。
「滅茶苦茶警戒しておりますね。やはり子猫といえど、お嬢様の放つ動物を寄せ付けないオーラを敏感に察知しているのですよ。今すぐ解放してあげたほうがあの子猫は喜ぶかと」
「そんなことないわよ。ここ迄来る時私の腕の中で眠っていたのを見たでしょう?」
実はこの紗夜、セルフィーを警戒しつつも途中抗い難い眠気に襲われ、セルフィーの腕の中で30分程ぐっすり眠ってしまった。
子猫は成猫より沢山……実に一日あたり20時間ほど寝るので仕方ないと言えば仕方が無い。
「ニー、ニーッ! (あ、アンタに気を許したわけじゃないんだからねっ!)」
紗夜は一応名誉の為にそう言ってみたが、当然その声の意味は届かず、セルフィーは嬉しそうに微笑んだ。
「はいはい、お腹が空きましたのね? 厨房からミルクを貰ってきましたわ。さぁ召し上がれ」
セルフィーはそう言うと、銀の盆に乗せた白磁の陶器の器を紗夜の前に置いた。
今朝納品されたばかりの搾りたての牛乳だ。
紗夜は毒でも入っているのではと、警戒するが確かにお腹が空いた。何か食べなければ死んでしまいそうな程だ。
紗夜は考える。
―――毒で死ぬか、空腹で死ぬか……。
一応匂いを嗅いでみるが、そもそも紗夜は毒の匂いなんか知らない。
逆に匂いを嗅いだ事により、一層空腹感が高まってしまった。
「ニー! ……ペロ(えーいっ! 毒で死ぬほうが、多分苦しまない……と、思う!)」
「まぁ、いただきますといったの? 本当に偉いわねぇ」
セルフィーに明後日の方向の解釈をされつつも、ぺろりと舐めてみればこの牛乳、存外に美味い。
搾りたてだからか濃厚で、ミルクと言えど空腹の腹にはガツンとした重みを確かに感じる。
―――ただ、紗夜はつい先程まで人間だった。
ボーイッシュとはいえ、花の女子高生だったのだ。舌で舐め食べるなど言語道断。プライドが許すはずもなかった。
せめて、スープを飲むように啜り飲みたい……。
「フニょッ! (おわっ、牛乳が鼻に入ったぁ!)」
「あらあら、お皿で飲むのは初めてだったのかしら。だけど子猫用の哺乳瓶なんて流石にないわ。クロエ、直ぐに取り寄せてくれる?」
「めんど……ではなく、たまたま失敗しただけかもしれません。少し様子を見ましょう」
鼻に牛乳が入ってむせかえる様子をまじまじと観察されるのは中々屈辱的だ。
紗夜は慌てて手で顔を拭ったが、肉球の手では上手く顔を拭いきれない。そればかりか一度手を突こうと降ろした時、目測を誤りミルク皿の中に腕を突っ込んでしまった。
「……」
あり得ない自分の失態に驚いて呆然としていると、頭上からくすくすと物凄く嬉しそうに笑う二人の声が聞こえてきた。
「ぷ、くくく……へ、下手すぎますね。本当にこんなんでどうやって生き残れるのか……母猫も大変ですねぇ」
「いえいえ。こんな姿に、きっと母お猫様もめろめろになる事間違いなしですわぁ」
「……(……ちょっと失敗しただけやん)」
いわれなき避難に……いや、とても優しい視線にプライドをズタボロにされた紗夜は、八つ当たりとばかりに怒りに任せ、ミルク皿に飛び込んだ。
そしてもう、鼻に牛乳が入るのも構わず、噛み付くようにミルクをガブ飲む。
「あみゅ、ミャむ、フグ、んミャッ(飲みゃいいんだろ!? チクショー!)」
「ふあぁ、も、もう……ミルクまみれ……飲み方が尊すぎますっ。なんて懸命な。おいちーでしゅか、しょーでしゅか。やっぱりお腹が空いていたのでしゅわねぇ。いつぱいありましゅからねぇ」
「あーぁ、絨毯がミルクまみれ……これだから猫は……」
「駄目よクロエ。“これだから猫は”なんて言わないで。この可愛さの前では700ゴールド(700万円)の絨毯をミルクまみれにしても怒れないわ。なんて尊いの……」
「いえ、普通に怒れますよ。さっさとつまみ出しましょうお嬢様」
「む、無理ぃー……」
と、セルフィーが悶えたその時だった。
突然紗夜の動きが止まる。
急に紗夜の腹部に、なんとも言い難い不快感が走ったのだ。
(な、何これ……急にお腹が……やっぱり毒だったの!?)
そして紗夜はヨタヨタと移動する。
絨毯がお高いと聞こえたので、これ以上絨毯を汚さない様にテーブルラグまで移動してあげたのだ。
そしてとうとう耐えきれず、一度えづきリバースした。
「ニーッ、カフ……ケロッ(うぷ、も、だめ……******………)」
「って、何でわざわざそっちに移動するのぉ!? 誰がしみ抜きすると思ってるのよ、もおぉ!!?」
叫ぶクロエ。どうやら紗夜の懸命な、気遣いは裏目に出たようだ。
次いでセルフィーもそんな紗夜の姿に絶叫する。
「あぁ!? お、お猫様が!? 誰か!? この屋敷の従業員の中に猫のお医者様はいらっしゃいませんか! 猫のお医者様は……!」
まるで飛行機内での緊急放送のように叫ぶセルフィーに、落ち着きを取り戻し……いや、諦めの境地に至ったクロエが溜息混じりに言った。
「はぁ……確か今年から馬の世話係として入ってきたガンフィールが獣関連に詳しかった筈。呼んできます」
「お、お願いね! 急いでね! お猫様ぁっっ、すぐにクロエが先生を呼んできてくれますからねっ」
◇◇◇
それから間もなく、クロエは一人の若い男を連れて戻ってきた。
焦げ茶色の短髪に日に焼けた長身の男。少し寄れた白いシャツに皮のズボンと長いブーツを履いた、今年から厩番見習いとして雇われ始めたガンフィールだった。
ガンフィールはぐったりとした紗夜をコロリと転がし仰向けにさせると、コチョコチョと指先でそのお腹を撫でる。
紗夜はもうされるがままだ。
ガンフィールはふと近くに置かれていたミルク皿を目に止めると、セルフィーに尋ねた。
「あー、お嬢様、牛乳飲ませたんすか?」
去年まで学生だったガンフィールは、まだ学生臭さが抜けていない。
自分より年下の主人に向けた半タメ口に、クロエが鬼の形相でガンフィールを睨んだ。
しかし気が動転気味のセルフィーは、そんなガンフィールを指摘することなくコクコクと頷き説明をする。
「え? ええ、保冷庫から出したての新鮮な牛乳をあげましたわ。とても美味しそうに飲んでおりましたけれど……」
「うん、それ駄目す。牛の乳だと猫は腹下すんすよ。しかも保冷庫から出したてとか最悪すね。冷たい牛乳とか人間の子供でも腹冷やすっしょ」
「ちょっと、ガンフィール! 言葉遣いっ!」
「うっす。サーセン、クロエ先輩」
そんなやり取りを聞きつつ、胃を空っぽにして落ち着いた紗夜は、ガンフィールに腹を撫でられながらまたその意識を抗い難い眠りに沈めたのだった。
「はっ、ちょっと見てクロエ! これですわ! これが噂に聞くバンザイ寝……! あぁ、なんて愛おしいのっっ」
(ΦωΦ)せるせるのお猫様日記(ΦωΦ)
○年7月23日
お猫様のミルクの飲み方が可愛すぎました。
ミルク皿に頭ごと突っ込んでしまって、決して上手な飲み方ではないけど、その下手さ故に懸命さ伝わってきて、庇護欲が掻き立てられるというか……寧ろ爆発? いつまででも見てられる……いえ、見ていたい!
最終的には前足も突っ込んで全身ミルクまみれに……(理性崩壊)
―――だけどお猫様に牛乳はあまり良くないみたい。
早急に獣医院に使いを送り、お猫様用の粉ミルクを取り寄せました。
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