魔界事変29.5 『皇子の目覚めと・・・』
バンカーに匿われてはや5日が経った。ドクターに死神族は月の光で傷の治りが早くなると伝えると、月の光を不思議な力で取り込んでいる部屋に何度か移動するようにしてくれたおかげで、砕けた顎はなんとかくっつき、口がきけるようになった。
ドクターはあたしにつきっきりで面倒を見てくれる。彼女は患者があたしくらいしかいないから、と言っていた。
ドクターは心優しい女で、話し方や立ち振舞からもそれがわかったが、クーデターの話を持ち出せば、その話題には時が来ればわかる、と言うばかりで何も答えてくれない。歯がゆい思いをしながらも、治療の合間にだべっていると、医務室に赤い女、ジャンヌが現れた。
ジャンヌは細長い箱を脇に抱えていた。ジャンヌはあたしと話しているかのように、どうしましたか?と優しく尋ねた。怒っていたのは一時的なもので、普段はこの両者の関係は良いものらしいと言うことが、ジャンヌの反応からもわかった。
ジャンヌはあたしが寝ているベッドの側の机に、その箱を置いて、「この前は申し訳ないことをしてしまった。こんな物で償えることでは無いのはわかっているが、こいつをこれからの戦いの助けにしてくれれば幸いだ」と言ってきた。
どうすればいいかわからずドクターの方を見ると、やはり優しく微笑んでもらってあげてください、と諭してくる。恐る恐る箱を手に取る。ずっしりとしている。箱はカレキの森の木から切り出した物らしく、独特な香りがする。箱の中に収められていたのは、鎌だった。
そうだ、鎌をどこかに落としてしまっていた。皇子を助けるのに夢中で全く頭に入ってこなかったのだ。この鎌は非常に無骨な作りで、かなり年季の入ったもののようだ。それになぜか懐かしさすら感じる。鎌を手にとった瞬間、なんとはない安心感に包まれた。使い慣れた形状の武器が手元にあるのは最高だ。
ジャンヌに顎を蹴られた件は水に流すと言うと、赤い女は安心したのか、「皇子の様子を見てくる」と言い残して医務室から出ていった。
う~む・・・良い鎌だ・・・
ドクターはうっとりと新しい鎌を眺めているあたしを見て、微笑んだような気がした。
そうだ、霊力を込めてみようー
念じて鎌にエネルギーを集中させると、数えるまもなく刃が薄紫の光に包まれた。そのまま何も考えずに机に向かって振り下ろすと、机は見事に真っ二つに割れた。
《こりゃすげぇ!あの女、良いものくれたじゃないか!》
・・・思わず母語が出てしまった。前に持っていたものは力を集中させるのにそれなりに時間がかかったし、これほどの切れ味を出すのは難しかったが、こいつはそれを瞬時に成してしまった。
『嬉しそうで何よりですが・・・』
横からしずかで優しげだが、明らかな怒りのこもった声が聞こえる。
『備品を壊しては行けない理由をお教えしましょうね・・・』
ドクターの説教が始まってしまった。
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・・・ここはどうなってやがるんだ?同じところを何度もぐるぐると回っている気がする。最初に目が覚めた整ったベッドが複数並んだ部屋、次には薬剤の匂いが鼻に突き刺さってくる瓶だらけの部屋、次には「何か」の入った檻から聞こえるか聞こえないくらいのうめき声のする部屋、その次には説明ができないが嫌な気が充満している物々しい部屋。床には大型の魔法陣が刻まれていて非常に気味が悪い。次には大きな扉の奥から湯気の匂いと水の音が伝わってくる湿った部屋、そして再び最初の部屋に戻ってくるのだ。それに部屋と部屋をつなぐ廊下は皆同じ構造をしている上に長い。特殊な魔法がかかっているのだろうか?
しかしもっと不思議なのは、目が覚める前までは感じなかった匂いや音が聞こえるようになって、かなり長いこと走り続けているのに息の一つも切れないことだ。
五周ほどの意味のないランニングの末に、ようやく廊下の一つに扉があるのがわかった。しかもベッド部屋を出てすぐの廊下だった。
俺はでかいため息を付いて扉に手をかけた。無駄な時間を使ってしまったではないか。扉の先はこれまでの廊下と同じ幅、少し短い長さの通路になっていて、その先は今までと同じ、岩でできた無機質な印象だったが、明らかに違うのは人の気配が感じられることだった。俺はそのかすかな気配を頼りに、ジーナの元に辿り着いた。
ベッドの上で鎌を握りながらうつむいているジーナのすぐ側には、怒っている様子の白衣を纏った爬虫類のような人間と、どういうわけか真っ二つに割れた机だったであろう残骸が転がり、何か異常事態があったということだけはわかった。
・・・どんな状況だよ?
素直な感想が口から漏れた。
しばらく固まっていると突然後ろの扉が勢いよく開き、右側にふっとばされた。
「おい!大変だ!! 皇子がいなくなった!!!」
左側から女の声が聞こえてくる。全く、皇子ならここに居るだろうが・・・。
そう思って何事もなく立ち上がる。痛みにも強くなっているようだ。
俺ならここに居るぞ、と足の毛に付いた埃をぽんぽんと払って・・・
・・・毛?どうなってるんだ?
俺の足は、手は、こんなに毛深くないはずだ。
無意識に鼻に手を触れた。なぜ鼻水が出ているわけでもないのに鼻が湿ってるんだ?俺は人間だよな?
・・・いや、おかしいだろ。
周りにいるジーナを、爬虫類を、そして真っ赤な女を見つめてみる。皆の視線がまっすぐこちらに向かっているのが分かる。
ジーナは何が起きているか全くわかっていないようで、大きな瞳を更に大きくしている。
爬虫類が手鏡を手渡してきた。まさかと思いながら恐る恐る鏡を覗くと、そこに映っていたのは、紛れもない、獣の顔だった。突き出した鼻先、黒っぽい毛に覆われた顔面、頭の横から伸びた大きな耳、開いた口からのぞくギザギザした歯・・・唯一変わっていないのは後継者の証たる銀色の瞳と、ボサボサに乱れた金髪だけだった。
心臓が破裂しそうなほど鼓動が高まり、息がどんどん浅くなっていく。無意識に舌を出してしまっているらしい。
これでは本当に獣ではないか!
視界がグラグラと歪み、突然糸が切れたように意識が遠のいて・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・ふざけるな!!気絶してたまるか!!
舌を思い切り噛んでその痛みで意識を取り戻した。
過呼吸を精神力で抑え、うずくまりながら呼吸を整える。
呼吸が平常に戻り、吸いすぎた空気をすべて吐き出すように大きなため息をつくと、
「・・・マルティス皇子はここにいる。」
と静かに言い放った。どうだ。これが皇族の品格というやつだ。
周囲の人間から敵意のような嫌な空気を感じないあたり、こいつらは俺の味方なのだろう。ほんの少しだけ安堵した。
「・・・突然で悪いが・・・俺に・・・何が起きたのか・・・誰か教えてはくれないか・・・」
しかし言葉を絞り出すたは良いが体力が尽きたらしく、爬虫類が何かを言っているが聞き取れない。
再び視界がグラグラと歪み、今度は意識を取り戻す暇もなく倒れ伏してしまった。




