第六話 居残り勉強
休みを挟んでやってきた月曜の朝。いつものように早めの登校をすると、千晴と結月は、もう来ていた。
「お、三番手が来た」
勝ち誇ったかのように、意地の悪い笑みを浮かべる結月。その横では、千晴が挨拶代わりに手を挙げていた。
「俺のアイデンティティーが一個死んだよ」
トホホと言わんばかりに、脱力した顔を見せながら俺は自席につく。すると、千晴は俺の隣に、結月は俺の前に席に着いた。
椅子に逆座りしながら俺を見る結月は、頬を緩ませ、口角を上げている。何かいいことでもあったのだろうと思えるほど、浮かれた顔だ。
「なに?」
「え? なにも」
わざとらしく口を尖らせ、視線を斜め上に飛ばす結月。そんな、露骨な聞いてほしいアピールに、呆れてしまう。
「あっそ。俺の勘違いだわ」
「えー、ちゃんと聞いてよ」
そう言って結月は頬を膨らます。すると千晴は可笑しそうに笑った。
「結月、モーちゃんが来る前からこんな感じでさ。俺も聞いてんだけど、中々言ってくれないんだよ」
「そんな勿体ぶるってことは、余程のことなんだろうな」
睨みを利かしながら、結月にプレッシャーをかける。すると結月は、弾けるような笑みを見せた。
「先週のラーメン美味しかったなーって!」
「はあ? そんだけかよ」
あまりにアホらしいというか、しょうもない理由にため息が出てしまう。
「えー美味しかったじゃん! 新作の魚粉ラーメンは大当たりだったし」
「いや、あそこは味噌一択だろ」
そう言い切ると、結月は眉間にシワを寄せて顔をグイッと近づけてくる。すると、千晴が話に割って入ってきた。
「金曜、ラーメン行ったの?」
「え? あぁ」
顔を向けた先にある優しい笑み。俺はその目を見て、罪悪感のような感情を覚えた。
金曜は三人で帰る予定だった。俺は千晴に、結月を誘ってやるみたいな偉そうなことを言っていたのに、二人でご飯を食べに行ったのだ。
雨が止むまで待ったのだ。千晴が部活を終えるのも待てば良かったのに。
俺はそんな簡単なことすら、考えもしなかった。
「そっかー! 今度、俺も連れてってよ」
しかし、俺の不安とは裏腹に、千晴は歯を見せて笑う。すると結月は、それに応えるように親指を立てた。
「まだ替え玉無料券あるから、みんなで行こうよ!」
「お! 結月は頼りになるな」
ニッと歯を見せて笑顔を向け合う二人。普通こういう時、俺も一緒になって笑うべき……いや勝手に笑ってしまうとこなんだろうけど、全く笑えなかった。
「ねえ、いつ行く?」
「え? ああ……今日にでも行けばいいんじゃない?」
急に話を振られ、考えもせずに返す。すると結月は、冗談ぽく笑った。
「あはは、金曜からの今日で行ったらデブ真っしぐらじゃん。お小遣いもヤバいって」
「だ、だよな」
結月の明るさが余計に心に刺さる。視線を移せば、千晴は優しい眼差しを結月に向けていた。
「チーちゃんはさ、今日、部活後空いてる?」
「ん? ああ、空いてるよ」
「お! じゃあさ三人でカラオケ行こうよ。今日、歌いたい気分」
そう言って結月はニンマリと笑う。それに応えるように、千晴は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
「悪い。俺は部活後やることあるからさ……! 二人で行きなよ!」
出来る限りの笑顔でそう言うと、場は一瞬静まる。すると千晴は、様子をうかがうように結月の方へ顔を向けた。
「チーちゃんがいいならいいけど」
「そっか。んじゃ……行こうか!」
※
部活を終えた俺は、結月と一輝に別れを告げ、昇降口の方へ向かっていた。
吹く風は緩く、運動で火照った顔には、焼け石に水といった具合だ。
思わず空を仰いでしまう。空は薄いオレンジ色がだんだんと紺色にグラデーションしている。
先週、自分から残って勉強をすると宣言しておきながら、少し逃げ出したい気持ちが湧いて出てきた。
明日から始めればいい。そんな考えがふと浮かんでしまうのだ。しかし、ここで逃げたら、もう変われない。そう自分に言い聞かせて、俺は教室へと向かっていった。
教師前に着くと、明かりが付いていることが分かった。つまりは誰かがいる。
大体の検討はついている為、俺はゆっくりと戸を開ける。すると、音に気づいたのか、中にいた女子が顔だけを振り向かせた。
さらりと流れる黒髪。鼻筋が通っている綺麗な横顔。落合さんは俺を一瞥すると、何事もなかったかのように前を向いた。
俺も俺で、落合さんを気にしないように自分の席に着く。そして、鞄から半年以上前に買った参考書とノート、そして筆記用具を取り出した。
買うだけ買って満足した物理の参考書。それに初めて折り目を付けて、俺は自分の勉強を始めた。
静かな教室内に響く、二人分のシャープペンシルが擦れる音。最初は、普段し慣れない勉強に集中できなかったものの、いつの間にか周りの音が聞こえないほど集中していた。
気が付けば、ノートはびっしりと埋まっていた。その達成感も相まって、やる気が再チャージされた俺は、ページをめくろうとする。
その時だった。机の角っこをトントンと人差し指で叩かれた。
顔を上げれば、眉を八の字にした落合さんが俺を見ていた。
「もうすぐで最終下校時間だよ」
「え、マジで?」
ハッと黒板上にある時計に目を向ける。時間はもう十九時四十五分になっていた。後、十五分で最終下校時間だ。
窓に目をやれば、真っ暗な空が広がっていた。
「ありがとう。全然、気が付かなかった」
「ふふ、どういたしまして。それじゃ、また明日」
そう言って落合さんは、手を小さく振ると、教室を出て行こうとする。
この暗い中、一人で帰るのか。ふと、そんな心配が浮かんできた。落合さんからすれば、慣れたものかもしれない。しかし、この先も何も起こらないとは言えない。
俺だって腐っても男だ。声をかけるのに若干の抵抗はあるが、何かあって後悔だけはしたくない。
決意を固めた俺は、雑に勉強用具を鞄に仕舞い込むと、走って教室を出て行った。
「落合さん!」
名前を呼びながら落合さんの横に並ぶ。すると彼女は、表情一つ変えることなく、小首を傾げた。
「その……送ってくよ。暗いし」
「ふふ、優しいね。じゃあ途中まで帰ろっか」
とても緊張した。口の中は急にカラカラになるし、声もワントーン高かったような気がする。
それから、落合さんの家の近くまでの道のりを、俺達は大した会話を交えることなく、歩いていった。