第五話 小雨と桜の木
「ごめんなさい」
静かな教室内に、突然響いた声。振り返れば、落合さんがこちらを見ていた。
初めて目があった気がする。いや、さっき言葉を返した時に合っていたような気もするが、しっかりと目を捉えた感覚は初だ。
少し釣り上がった大きな目。まつ毛が長いせいなのか、目元の輪郭はくっきりと力強く感じる。
そんな作り物のような目に、我を失っていた俺は、ハッと息を呑む。
「え? ああ……いや、大丈夫だよ。ああいう奴だから」
「そう……。でも、入るタイミングが悪かったみたいだから」
そう言って視線を落とした落合さんは、少し悲しそうな顔をする。
「いや、タイミングも何も……。俺らだけの教室とかじゃないし……」
上手い言葉が見つからなかった。落合さんは、先ほどから謝ってばかりで、気まずい空気が漂っている気がする。
どんな言葉をかければ良いのか。はたまたどんな話題に切り替えれば良いのか。俺は必死に頭の引き出しを探っていた。
「落合さんも、雨止むの待ってるの?」
考えて考えて、やっと出てきた言葉はこれだった。すると、落合さんはゆっくりとこちらに顔を向ける。
「ううん、そういうわけじゃないの。勉強するの、日課だから」
「え、いつも残ってるの?」
そう問うと、落合さんはコクリと頷く。
「凄いなー。受験勉強?」
「うん」
「マジか……。凄いね。俺も始めないとなーって思ってはいるんだけどさ」
つい自嘲的な笑みを浮かべてしまう。すると、落合さんは困ったような笑みを浮かべた。
「それはまだ、涼咲くんに余裕があるからだと思うよ」
「い、いや、余裕とかは……ないと思う……けど」
結局は問題の後回し。今、目の前にある問題から目を背けて、他のもので気を紛らわせているだけなのだ。
「落合さんにはないの? その……余裕」
「分からない。ただ、私は後悔したくないの。というより、後悔するようなことはできないの。だから、今頑張れることは頑張ろうと思ってる」
そう言って微笑んだ落合さんは、そっと参考書を閉じた。
後悔できないという言葉に、どういう意味が込められているのか。聞いていいのかは分からないが、意志の強さのようなものはひしひしと感じ取れた。
「後悔……か。俺も勉強……頑張ろうかな」
独り言にしては大きな声だった。すると、落合さんはそっと微笑んでくれた。
俺は聞いて欲しかったのかもしれない。頑張ることを人に宣言することで、逃げ道を防げるかもしれないと、安直な考えに至ったのだ。
「俺もこれから残って勉強していいかな? あ、邪魔はしないからさ」
と、最後の方は必死になって言うと、落合さんは人差し指の付け根を下唇に当てる。
「ふふ。さっき涼咲くん言ったじゃない。"俺らだけの教室じゃない"って」
「そ、そうだね。うん……ありがと」
自分の言った言葉をそのまま返され、少し恥ずかしくなってしまう。思わず照れ笑いを浮かべながら、俺は視線を逸らした。
目に映る窓越しの景色。雨は弱まっていて窓に当たる雨は小さくなっていた。
「雨弱くなってきたね。今日は帰るよ」
「うん。気を付けて」
そう言って落合さんは、小さく手を振った。
窓の外の暗さと、教室の明かりのコントラストが少し不気味に感じられる。教室内は、まるで切り取られたかのような空間のようで、そこで静かに勉強をする彼女の姿は、とても絵になっている気がした。
教室を出て、廊下を歩きながら先ほどのことをぼんやりと思い出す。
初めて落合さんと会話をしたという事実に気付いた俺は、胸の奥が熱くなっていく感覚を噛み締めていた。
別に落合さんのことが好きというわけではない。ただ、普段関わりのない落合さんと話してみて、意外と普通に会話ができる。それが嬉しかったのだ。
そして、今までの自分より、一歩踏み出せたような気がした。
思い上がりかもしれないけど、自分を変えられそうな、そんな気がした。
結月の教室前を通った俺は、何気なく入口から中を覗き込む。すると、イヤホンをつけ、机に突っ伏している結月を見つけた。
暗く静かな教室内に入り、俺は結月の名前を呼ぶ。
すると、結月はピクリと肩を動かす。そして、むくりと顔を上げた。
明らかに機嫌の悪そうな、むくれた顔だ。
「何をそんな怒ってるんだよ」
そう聞くと、結月は眉間に少ししわを寄せて、また顔を伏せる。
「悪かったって」
会話の途中で気が逸れてしまった俺が悪いのだ。
「結月……?」
話しかけても無視。恐らく、聞こえないフリをしているのだろう。
「はあ……」
思わずため息をついてしまう。困り果てた俺は、結月の前の席に座り、椅子の背もたれに頬杖をついた。
すると、結月は下を向いたまま、ゆっくりと頭を起こす。
「ごめん……」
「うん。俺も悪かった。ごめんな、話、途中で切るようなことしてさ」
「ううん、違うよ。あたしが悪いからさ。ごめんね、情緒不安定で」
そう言って結月は、冗談ぽく笑う。いつもの結月だ。
「もう慣れたよ。んじゃ、帰るわ。明日、部活できるといいな」
そう言って歯を見せると、結月は小さく笑ってくれた。それを確認した俺は、教室を出ようと席を立ち上がる。
「あっ、そうだ」
教室入口で、俺は足を止め、振り返る。
「明日さ、ラーメン食いに行くか。結月、替え玉無料券あったよね? 俺の勝ちの褒美、それでいいよ」
そう言うと、結月は目を見開く。そして、勢い良く椅子を引いて立ち上がると、俺の元に走ってきた。
「今日行こうよ!」
「今日? いや、結月、迎え来るんだろ?」
「いいよ。雨止んできたし……。ねえ、行こうよ!」
「んー……そうだな! 行くかっ!」
先ほどまでの不機嫌が嘘のように、晴れやかな顔を見せた結月は、自席に戻る。そして、雑に鞄を背負うと、俺を横切って教室を出ていった。
結月を追いかけるように廊下を歩いていく。階段を降りていく途中、結月は何度も振り返りながら、俺が追いかける様を楽しむように見ていた。
下駄箱に着いた俺は、靴を取り出しながら顔を横に向ける。昇降口から見える雨は小雨になっていた。
「あ! お母さんに連絡すんの忘れとった。ちょっと待ってて」
「おう」
返事をすると、結月は下駄箱の裏に消える。先に靴を履いた俺は傘を広げながら外に出た。
空が灰色なだけなのに、周りの建物が暗く見える。それが妙に寂しさと似て非なる感情を沸かせる。
目を凝らさないと見えない細い雨。どこから匂ってくるのか分からない雨と土の混ざった匂い。そして、後ろから聞こえる、ローファーがタイルを踏みつける音。
振り返れば、口角を上げた結月が俺を見ていた。
「いこっ!」
「おう!」
二人肩を並べて歩いていく。すると正門手前で結月の足が止まった。
「ねえ朝日」
「ん?」
「桜の木って花が咲いてないと、桜って感じがしないよね」
「確かに。それがどした?」
結月の視線の先にある一本の大きな桜の木。まだまだ青い葉をつけた大きな木だ。
「え? 桜って花がないと見てもらえないからさ、なんか大変だなーって」
「はは、確かに。でもさ、見てもらえない時期があるからこそ、見えたときの感動とかも大きくなるんじゃないかな」
そんな何となく思ったことを言うと、結月はパチパチと瞬きをする。八の字にした眉で見つめるその顔は、何か言いたげだった。
「そうだよね。満開になるその時を待つことにするよ」
「うん。半年後が楽しみだな」
そう同意を求めると、結月はコクリと小さく頷く。そして傘を傾けて、顔を隠してしまった。