第四話 雨
静かな廊下を歩いていく。他の教室もまだ一人か二人しか登校しておらず、人の声はあまり聞こえてこない。
ふと、さっきまでのことを思い出す。楽しそうに笑顔を向け合う千晴と結月は、とても楽しそうだった。
いいことじゃないか。
そう自分に言い聞かせる。すると、手を振りながらこちらに駆け寄ってくる一輝が視界に入った。
「おーっす!」
「おう」
「今日も一番乗りか?」
「いや、今日は二番だったわ」
「お、誰?」
「千晴」
「ああ、何か早く行くみたいなこと言ってたわ。で、どこ行くの?」
「トイレ」
「おう、いっトイレつって」
楽しそうに笑顔を咲かせる一輝。俺は目を細め、一輝の言葉を無視して、トイレへと足を早めた。
※
用を足した俺は、「ふう」とため息をつきながらトイレを出る。すると出てすぐの所に、何故か結月がいた。彼女は壁に背を預け、長い足を軽く交差していた。
不意打ちだった。完全に気が抜けていた俺は、急いで真顔を作る。
「何してんの?」
「待ち伏せ」
「伏せてはないだろ」
と、結月の訳の分からない冗談にツッコミを入れると、彼女は満足そうに笑った。
「今日、部活行くよね?」
「まあ。結月は休み?」
「いや! 見学するつもりだけど」
「それ……暇すぎるだろ」
「いいじゃん別に。帰っても暇だしさ」
そう言って、いじけるように口を尖らせた結月は、軽く上目遣いをする。
「まあ……俺がとやかく言うことじゃないけどさ……。あっ……」
昨日、千晴とした約束を思い出す。部活終わりに、三人で帰ろうと俺が提案していたのだ。危うく下手なことを言って結月を帰らせたら、問題だった。
「でしょ? ふふ、あたしがしっかり見張ってやるから、ちゃんとやれよ」
そう言って結月は、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「結月も最後までちゃんといろよな」
俺もお返しにとからかう。すると結月は、何故か少し嬉しそうにコクリと頷いた。
教室に戻る途中、結月はご機嫌なのか一人で喋っていた。昨日見たテレビ番組の内容、SNSで回ってきた画像や動画の内容について、一方的に話していた。
「それでさ、やっぱ東京のラーメンっておいしそうだなーって」
ラーメン。俺はその単語に、昨日のことを思い出す。
「あ、そうだ。昨日の外周、俺の勝ちだよな?」
「は? あれはノーカンだし」
仕方ないと言えば仕方ない。しかし、引き下がるのも悔しく、俺は結月を睨んで立ち止まる。
「いやいや、あれは……!」
そう言いかけた時だった。俺の視線は、結月から、結月の横を通り過ぎた女子へと移った。
見ただけで分かるサラサラとした艶やかな長い黒髪。真っ直ぐに前を捉える凛々しい横顔。俺は言葉を失い、彼女に目を奪われていた。
ほんの一瞬のことだったと思う。しかし、その瞬間だけ、時間がゆっくりと流れる錯覚に陥ってしまった。
「おーい」
「お、おう」
結月の顔が視界いっぱいに映り込み、俺は我に返った。すると結月は、鑑定するように細めた目を、落合さんの背に向けた。そして、彼女が教室の中へと姿を消すと、ため息をつく。
「はあ……じゃ、教室戻るわ」
「おう。また部活でな」
去り際、どこかつまらなさそうな顔をした結月を横目で見送り、俺は教室に戻った。
教室内には、もうほとんどの生徒が来ていた。先程教室に入っていった落合さんの周りには、既に人が集まっている。千晴もその輪の中で、楽しそうに笑顔を咲かせていた。
※
昼過ぎまでは晴れていたことが嘘だったかのように、空は濃い灰色に覆われている。窓を打つ大粒の雨の音は激しく、クラス内はざわついていた。
親に迎えに来てもらおうと悩む人。濡れるのを覚悟している人。そんなクラスメイトの声を聞き流しながら、俺は窓の外を眺めていた。
「モーちゃん!」
「ん? どした?」
顔を向けると、千晴は俺の隣の席に座った。
「雨、凄いな」
「だな。野球部はあるの?」
「あるよ。校舎内でやるメニューがあるらしくてさ。みんな嫌そうな顔してたよ」
そう言って歯を見せた千晴は、どこか楽しそうだった。みんなが嫌がる練習とやらも、千晴にとっては新鮮なのだろう。
「水泳部は休み?」
「あー休みかな。さすがに」
「そっか」
休みと聞いて、千晴は少し残念そうな顔をした。
「それじゃ、部活行くよ。また明日な」
「おう」
大きく手を振る千晴に対して、俺は小さく手を挙げた。
さて、俺はどうしようかな。
うちは、ばあちゃんと妹の三人暮らし。みんなのように、親に迎えに来てもらうといったことはできない。かといって、濡れたくもない。そんな俺が取れる行動は、雨が弱まるのを待つだけだった。
窓の外を見ながら、雨の当たる音を聞く。この音は嫌いじゃない。寧ろ、落ち着きさえ感じる。そんなゆったりとした時間を過ごしていると、目の前の椅子が引かれる音がした。顔を向けると、椅子の背もたれを抱くように座った結月が、俺を見ていた。
「よ!」
「なんだよ。あ、今日部活ないよな?」
「え? RINEきてると思うけど」
「あ、そうなの?」
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面を点けると、確かに部活のグループRINEから通知が来ていた。
「で、何してんだよ」
スマートフォンをポケットに入れながら、目を細める。すると、俺の突き放すような言い方にいじけたのか、結月は口を尖らせた。
「別にー。なんかお母さん迎えに来てくれるっぽいけど、時間かかるからーって。だから朝日で暇つぶししようと思ってさ」
「なるほど……じゃないから。最後おかしいだろ」
と突っ込むと、結月は何か言い返す素振りもなく俯いてしまった。それを不思議に思っていると、今度は周りをキョロキョロと見回し始めた結月。それにつられるように、俺も周りを見回す。
気が付けば、教室内は俺と結月だけになっていた。顔を前に向けると、結月は唇を真っ直ぐに結んで、俺の目を見ていた。
雨音だけが響く、静かな教室内。急に襲ってくる気まずい沈黙に、俺は結月から目を逸らす。すると、結月が沈黙を破った。
「あのさ……昨日の外周……朝日の勝ちでいいよ」
「は? いや、朝はノーカンって言ってたじゃん」
そう指摘すると、結月はまた唇を真っ直ぐに結ぶ。そして、顔を少し下に向けた。
「でもルール的には……朝日の勝ちだし」
「ん……。ようやく分かったか」
普段とは違う、らしくない結月に戸惑いを感じる。俺はそれを隠すように、結月を茶化した。
またも黙ってしまう結月。その様子を不思議に思い、目を合わせようとするが、結月は下を向いたままだ。
そしてまた流れる沈黙。雨音だけが教室内に響く。
さすがにからかいすぎたか。そう思った時だった。
「だからさ……その……ラーメン……一緒に行――」
と結月が何かを言いかけた時だった。後方から、戸が開く音が響いてきた。その音に過剰に反応するように、結月は戸の方へ顔を向ける。俺もつられるように振り返った。
そこには落合さんがいた。彼女はこちらを一瞥すると、自席へと向かっていった。そして席に座ると、鞄から分厚い参考書とノート、そしてシンプルな布製の筆箱を取り出した。
何だ落合さんか。と安堵した俺は、視線を前に戻す。すると結月は、気まずそうな顔をしながら握り拳を作っていた。
「あ、ごめん。ラーメンが何だっけ?」
「いい……」
「はあ? いや……なんだよ」
「何でもない……!」
何故か不機嫌な口ぶりでそう言った結月は、勢いよく椅子を引いて立ち上がる。すると、落合さんがこちらに話しかけてきた。
「私、いないほうがいい?」
「いや、そ、そんなことない!」
慌てふためきながら言葉を返すと、落合さんは無表情のまま、視線を参考書へと落とした。
「そう。余計なお世話だったらごめんなさい」
淡々とした口調で、落合さんはそう言った。そして、何事もなかったかのように、参考書を見ながらノートを書き始めた。
再び結月に視線を移すと、彼女は鞄を雑に背負っていた。そして、早足で教室を出て行ってしまった。
静まり返った教室内。俺は、結月の出て行った入り口をぼんやりと見つめていた。
なんだよあいつ。