第二話 部活
翌日の朝、まだ誰もいない教室に入った俺は、照明のスイッチを素通りし、自席に座った。
窓から差し込む、優しい光だけが教室内を包んでいる。その廊下側の列、真ん中あたりの席に座った俺は、何も考えずにただ、黒板の縁あたりを眺めていた。この無駄のような静かな時間が、俺は好きだったりする。
目を閉じると、ふと中学の頃の思い出が浮かんできた。
あの頃の俺は、どうして何もできなかったのだろう。たまに浮かんでくる昔のこと。その度に、感傷的な気持ちが襲ってくる。
それからまた他ごとを考えながらボーッとしていると、教室の入り口の戸が開かれる音が聞こえた。
「おっす涼咲!」
「おっす」
顔を向ければ、一輝が元気良さそうに歯を見せていた。
「相変わらず早えな」
「日課だよ」
「その日課に付き合わされる俺も大概だけどな」
「それは一輝が勝手に始めたんだろ?」
一週間に一回はやりとりする冗談だ。お互いにお約束と分かりきっている分、遠慮もない。それが妙に心地良いのは、一輝の性格のお陰なのかもしれない。
それから数十分も経つと、ほとんどのクラスメイトが教室に集まってきた。ホームルームまでの時間を、各々のグループで集まって、何気ない会話を弾ませる。いつもの光景だ。
その中でも、一際目立つグループがある。一輝を始め、多くの男子が注目している、落合さんが属するグループだ。
そんなグループを横目に見ていると、グループの内の男子が、教室入り口に向かって大声を張った。
「千晴ー! はよーっす!」
「おはよ」
声につられるように教室入り口へ顔を向ける。千晴は、軽く手を挙げながら自席に向かっていった。そして鞄を置くと、彼は華やかなグループへと混ざっていった。
「昨日の今日で、もう馴染むとか凄いな」
まるで新種の生き物を見るような目で、一輝がそう言った。
「さすがだな」
そう、彼は凄いのだ。人の輪に溶け込むのが上手い。飽くまで俺の感覚だが、人によって態度を変えない性格が好印象なのだろう。だから、俺も中学の時は仲良くしてもらっていたのだ。
と、そんな様子を見ていると、千晴と目があった。
その瞬間、俺は気まずさを感じた。しかし、彼は口角を少し上げる。そして、俺と一輝の元へとやってきた。
「モーちゃんおはよ! あと、塩瀬くんも」
「おっす……。ってモーちゃんはやめろよ」
「お、悪い悪い。なかなか抜けなくてさ」
「はあ……。まあ、いいよ。モーちゃんで」
そう言うと、千晴は申し訳なさそうに笑いながら、後頭部をかいた。すると、一輝が腕を組みながら千晴を見上げる。
「もう、みんなの名前覚えてんの?」
「いや! さすがに、まだ全員は覚えてないよ! 塩瀬くんは、モーちゃんの友達だからさ」
「そっか。あ、普通に呼び捨てでいいよ」
「ありがと。俺も千晴とかでいいからさ」
「うい」
照れなのか、まだぎこちのない返事をする一輝。それに対して、千晴は爽やかな笑みを浮かべていた。
さすがは人気者気質といったところだろうか。転入して次の日に、もうある程度の居場所を作り上げ、一輝との距離も縮めている。恐らく数日後には、クラスメイトの全員と、良好な関係を築き上げているだろう。
と、彼に感心している時だった。廊下側の窓が、勢いよく開かれた。バシンっと鳴る音に驚きながら顔を向けると、そこには結月がいた。
「あ、来てた!」
「ビックリしたなー。なに?」
跳ね上がる心臓を隠すように、結月を睨む。しかし、結月は気にする様子もなく、質問を投げてきた。
「ちゃんと体操着持ってきた?」
「持ってきたよ」
疑うような目で見てくる結月に対し、俺は面倒くさそうな態度を取る。
「なら良し」
「それだけのために来たの?」
お節介すぎる結月に呆れてしまった俺は、大きなため息をついてみせる。すると結月は、目を細め、顔を近づけてきた。
「は? たまたま通ったから、ついでに確認しただけだし」
「はいはい。んじゃ、また部活でな」
面倒になった俺は、虫を追い払うように手をひらひらと振る。すると、結月は「ハゲ」と言い捨てて、窓を勢いよく閉めた。
まだ朝だぞと言いたくなる疲労感が襲ってくる。思わず出る大きなため息に、一輝は同情するように苦笑いを浮かべていた。
「さっきの子、モーちゃんの彼女?」
「は?」
千晴の突拍子のない発言に、顎が外れそうになる。
「違うから。ただの部活仲間だわ。見てたろ? あの性格は無理だろ……」
「そうかな。可愛いと思うけど」
「いや……まあ……可愛いか……?」
千晴の言う通り、結月の見た目は可愛い方だとは思う。黒のミディアムヘアに、少し垂れた目、足は長いし、スタイルは良く見える。大人しくしていればいいのにと、一輝と悪口を言ったりもしたものだ。
「いや、俺、ああいう性格の子、良いなって思うよ」
「マジで言ってる?」
「あはは……。なんて言うかさ、ハッキリとものを言うっていうかさ、隠し事とか……なさそうじゃん」
最後は、どこか含みのある言い方だった。
「いや、それは良い風に言いすぎだろ。ただ我が強いだけだから」
「ははは。モーちゃんがそこまで言うなんて、よっぽと仲良いんだな」
「まあ、悪くはないと思うけど」
結月とは、水泳部に入部して、知らないうちに話すようになっていた。俺は、女子に積極的に話しにいくような性格ではない。反対に、結月はお構いなしに話しかけてくる性格だ。そのお陰か、割と早く打ち解けられた気がする。そういう意味では、悪くないというか良い人ではあるに違いない。
千春と話しているうちに、俺は結月との会話を客観的に思い出していた。
さっきは少し言いすぎた。そんな反省していると、華やかグループの男子が千晴を呼んだ。
「千晴ー! めちゃ面白い動画回ってきたわ」
「おう! 見して」
本当に昨日転校してきたのが嘘みたいだ。そんな彼らを見ていると、一輝が俺の机をコンコンと軽く叩いた。
「ちなみに、俺は今日部活行けないから」
「はあ?」
「歯医者の予約があんだよ。だから頑張れっ」
そう言った一輝は、からかうような笑みを浮かべながら自分の席へと戻っていった。
※
放課後がやってきてしまった。一輝はニヤニヤと裏切りの笑みを浮かべながら、一人嬉しそうに帰っていく。
泳げない部活動ほど億劫なものはない。大きなため息がつきながら、重く感じる足を引きずるようにして歩いていく。
すると、階段に差し掛かるあたりで、肩を叩かれた。顔を向ければ千晴が俺の横に並んでいた。
「モーちゃん、部活?」
「まあ。千晴は?」
「俺は今から野球部の見学。多分、野球部に入ると思うけどさ」
「そっか。中学ん時も野球部だったな」
「お! 覚えててくれてたんだ」
「まあ」
そりゃ嫌でも覚える。千晴は何かと目立っていたから、意識しなくても情報は入ってくるのだ。
しかし、千晴は自覚がないのか、嬉しそうに口角を上げている。俺は、変に恥ずかしくて、側頭部をポリポリと人差し指でかきながら目を逸らした。すると、千晴は何かを思い立ったのか、ハッと息を飲む。
「部活、何時くらいに終わる?」
「まあ、六時くらいじゃないかな」
「おっけ! 時間合ったら一緒に帰ろうよ」
「おう」
二つ返事で返すと、千晴は人懐っこい笑顔を浮かべた。これが千晴の良さなのだろう。不思議と、気が緩んでしまう。
それから昇降口前で千晴と別れた俺は、水泳部の部室へと向かった。
※
体操着に着替え部室の外に出ると、既に部員のみんなが集まっていた。
他の運動部とは違って緊張感のない雰囲気が水泳部の特徴だ。それから部員が全員揃うと、雑談をしながら校門へと向かっていく。
すると、その途中で背中を思い切り叩かれた。そのあまりの勢いに、俺はこけそうになりながら振り返る。そこには、してやったりと言わんばかりに、歯を見せる結月がいた。
「何すんだよ」
「え? 何も。てか、似合ってんじゃん」
そう言って結月は、意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「体操着に似合うも何もないだろ」
「確かに」
反論をすると、結月は笑いながら肯定する。しかし俺は、結月の長い足をチラ見してしまった。
似合うとかはあるかもしれない。
「てか、一輝は? サボり?」
「いや、歯医者だってさ」
「ふーん」
結月の顔が少し険しくなる。
「ま、まあ明日から来るだろ」
と、一輝に鉄槌が下る前にフォローを入れると、結月はため息を一つついた。
「ま、別に良いけどさ。朝日来たし」
「何で俺が来て"別に良い"なんだよ」
結月の妥協点が分からず、質問をなげる。すると結月は一瞬固まる。そして目を逸らし、口を尖らせた。
「えー? いや、一年もいるしさ、サボれるみたいな雰囲気嫌じゃん」
「そっか? 春夏だけ頑張れれば良いでしょ。別にうちの部活強いわけじゃないしさ」
「朝日……集団生活向いてないよ」
「今の時代、一人でも生きてけるさ」
「きんもっ。いや、マジで気持ち悪いわ」
自分なりのイケメンボイスで言ってみるが、一刀両断されてしまった。と、ふざけている間に、校門前に着いていた。いよいよ、部活動の始まりだ。
まずはストレッチや筋トレを行い、その後、学校の外周を走るといったメニューだ。果たして、このメニューが良いメニューなのか。それは分からない。俺はただ、部長の考えたメニューをこなすだけだ。
ストレッチと筋トレを終えた俺たちは、校門の外に出る。校門端の辺りには、タオルや水筒が適当に置かれていた。
「三周もすんのか……」
思わず文句を呟いてしまう。すると、結月が横にやってきた。
「私より遅かったらラーメン奢ってね」
「俺が勝ったら?」
「んー、考えとく」
「考えといてよ……」
そして始まったランニング。俺の持久力は人並みだ。先を行く人達に惑わされぬように、自分のペースで走っていく。
結月はというと、前にいない辺り、俺の後ろにいるのだろう。とはいえ、結月の運動神経は俺の上。油断していればすぐに抜かれるだろう。しかし、たとえ結月に抜かされようが焦ってはいけない。最後にスパートをかければ勝てるチャンスはあるはずだ。
走っている間は、ただ心を無にしていた。風を切る音、他の部活の人達の声、セミの声、そして自分の息遣いが耳に入ってくる。
そして、最後の一周となった。まだ結月には抜かされていない。このまま自分のペースで行けば、俺の奢りは回避できるだろう。
そんなことを考えながら、一定の歩幅、一定の呼吸リズムを維持していく。
そしてやっとの思いで、何とか三周を走り切った。校門前で体の力は一気に抜け、膝に手をつく。そして呼吸を整えながら、自分の水筒を手に取った。
頭から滴る汗を手首で拭いながら、水筒を勢いよく傾けると、いつにも増して美味しいお茶が、喉を勢い良く通っていく。
校門前で休憩している部員は半分くらい。取り敢えず結月には勝った。さて、何をしてもらおうかと考えながら、俺は結月の帰りを待つことにした。
しかし、しばらく待っても結月は戻ってこない。走ってきた道をチラチラと見ても、帰ってくるのは他の部員ばかり。
何故か不安がよぎった。結月は、決して足が遅いわけではない。寧ろ早い方で、運動は得意な方だ。
杞憂だといいが。そう思いながら、先程戻ってきた先輩に声をかけてみる。
「空乃、見ました?」
「見たけど、どうかした?」
「いや、遅いなって……」
「確かに。いつもよりは遅いかもね」
彼女は簡単にそう言った。いつもよりは遅いと言っても、遅すぎる気がする。俺の思い違いだといいが、やはり気になってしまった。
「ちょっと見てきます」
そう言って俺は、走ってきた道を、今日一番の速さで戻っていった。
すれ違う部員達は、不思議そうな顔で俺を見ていく。そして、二つめの角に差し掛かる頃には、結月以外の部員を確認できた。
膨らむ不安。俺は走るペースを上げ、角をまがった。すると、直線の真ん中あたりで、人が片膝をついてうずくまっているのが見えた。
結月だ。
加速する足。俺は息を切らしながら、結月の元に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ご、ごめん。ちょっと足捻っちゃって」
俺の言い方が悪かったのか、結月は苦笑いを浮かべながら謝ってきた。
「見して」
俺は結月の言葉を無視して、彼女の足首を見てみる。特に腫れなどはない。しかし、酷さが分からない俺は、あたふたとしてしまった。
「最後まで走れると思ったけど、無理だったわ」
そう言って結月は、また苦笑いをする。どうやら、足が痛いままの状態で走り切ろうとしたらしい。
「アホだろ。ちゃんと誰かに言えよ」
「ごめん……」
いつもの勢いはなく、やけに素直な結月は、しゅんとしてしまう。こういう時、何て声をかければ良いか分からない。ただ、今できることは分かっているつもりだ。
「立てるか?」
そう言うと、結月はコクリと小さく頷いた。俺は結月の片腕を担ぎ、結月と一緒に歩き始める。
「ありがと」
聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。
「まあ……お互い様だよ」
結月からのお礼に慣れない俺は、照れ隠しに突っぱねた言い方をしてしまう。目線だけを向ければ、結月も俺を見ていた。
その頬は、強い日差しを長時間浴びたせいか、熱を出したときのように赤かった。
そして、何とか校門前まで結月を運ぶと、部員全員が、事の重さに慌てて結月の元に集まっていった。