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生きている

作者: 麗琶

ー3月11日 夕方 高原拓弥


『生きる』って何だろう。


目の前の少女はとても、とても虚ろな眼でふっと俺の方を見た。

その眼に映る光。それはどこまでも暗く、夜よりも深い絶望で満たされている。

少女は蚊の鳴くような、小さな声で呟いた。


「死にたい。」


『生きる』って何だろう。



ー3月11日 夕方 夢羽葵


『生きる』って何だろう。


目の前の青年とほんの少し、目があった。

その眼に映る光。それはどこまでも真っ白で、何も映さない。虚ろ。

誰にも言えない本心を聞かれたかもしれない。そう思ったものの青年は去っていく。その瞳がどうにも焼き付いて離れない。


『生きる』って何だろう。



ー3月12日 昼 高原拓弥


「ふわぁー。……なんだ。もう昼か。」


カーテンからは眩しい光が射し込んできている。


(ま、そんなの俺には関係ないけど。)


俺は高原拓弥。現在二十歳。毎日立派に自宅を警備している。要は引きこもりニートである。

高校を卒業しそれなりの職に就いたはものの人間関係がいろいろメンドくなったので退職し、それっきりである。ちなみに新しい職を探す気も滅法ない。今ある金が無くなったらバイトぐらいはやろうかなとは考えているけどそれはそれでメンドいので極力節約して生活をしている。まだ大丈夫そうだし、そのことはその内考えりゃいいだろう。

ベッドに横たわり、ふとこの間俺の元に訪れた友人の顔を思い浮かべる。

やれ仕事だの彼女とデートだのと、相変わらず忙しない奴だ。何かと俺の事を心配して貴重な時間を割いてやって来る。


(まったく、こんな所で時間潰してないで彼女のとこに行ってやれと毎回言ってんのに。)


ふと考える。俺の生活について。

毎日寝て起きてゲームして、飯だって気が向けば食べる程度。ましてや外に出ることなんて滅多にない。


(いつからだったか。)


俺が人と関わることを止めたのは。

俺は友人に貰ったレトルトのパンを食べながら考える。

気がつけば根暗と言われ、人に避けられるようになっていた。俺も自然と人と話すことを止め、家に閉じこもってゲームに没頭するようになっていった。それでもまあ、俺に積極的に関わろうとする物好きな奴もいるのだが。

忙しなく動き回っている友人の存在がたまに眩しく思う。

思えば、最初から全て仕組まれていたのだ。

『正義』には必ず『悪』が存在する。正義は悪を打ち倒してこそ正義なのだから。小さい頃、誰とも偏見なく話をしていたことを思い出す。今はもう、あんな風に人と関わることなんかできない。俺はきっと悪役に選ばれてしまったのだ。正義である皆に蹴落とされていくだけの存在に。そんな正義である皆様にげんなりして今に至る訳だ。

ま、こんなの言い訳に過ぎないって分かっちゃいるんだけどな。


(俺はいったい何をしているんだろうな。)


不意に虚しくなる。こんな毎日が。俺の日常が。

昨日珍しくコンビニへ食料調達へと行った帰り。通りすがった少女の眼が未だに焼き付いて離れない。

こんなことを考えるのもきっと昨日のあの少女のせいだ。


ただ通りすがっただけの五秒も満たないような短い出会い。


ふとした瞬間目があった。とても虚ろな眼。ぽつりと呟いた「死にたい」という言葉。あの後彼女はどうなったのだろう。

見た感じ学生っぽかったから学校帰りだったのだろうか。

それともー


(……まさかな。)


こんなだらけきった生活をしているような俺だって一応息をしているんだ。


(生きる……ねぇ。)


あの時脳裏に浮かんだ疑問。

息をしている。略して「いきる」?


(下らない駄洒落じゃないんだから。)


まあいいや。そんなことどうだっていい。段々と考えるのも面倒になってきた。ゲームでもやろうかと思ったけどもう一眠りするか。



ー3月12日 夕方 高原拓弥


そういえば昨日もこんな時間だっけ。

眠りから覚めた俺は少しだけ、昨日のことが気になってどこへ行くわけでもなく、ただなんとなく外に出ていた。ついでに俺の引きこもり度はというと、外出しているところを友人が見たら号泣するのではないかというレベルである。

とはいえ本当になんとなくって感じだし、どこか行く気があるわけでもない。


(やっぱり家に戻るか。)


何のために家の外に出たんだよと突っ込まれたなら返す言葉がないぞと自分に突っ込む。

これじゃあ玄関に出てきて周りを見渡して家に戻っていくとかいう変人だぞ、俺。

自宅の玄関前でうろうろする不審者になっているとふと視界に見覚えのある姿が映る。そちらに目をやると、昨日の少女が歩いていた。


(そっか、何事もなかったんだな。)


制服を着ている。学校帰りだろうか。時間帯的に部活はやっていないのだろうか。てかこの時期。世間一般はそろそろ春休みなのか?まだ早い?どうなのか?まあいいや。

少女は昨日と同じとても、とても虚ろな眼をしている。

何をそんなに絶望しているのか。

尋ねてみたかったけど流石は伊達に毎日自宅警備を勤しんでいるだけある。そもそも話しかけるどころか少女を直視することができない。少女が家の前を通りがかる。あんまり人をじろじろ見るのも良くないだろうし、だからといって玄関前で突っ立ったままなのも変だ。とりあえずポストの中を探ってみる。……うん。どう見たって不審だ。しかし少女は動じることなくただ真っ直ぐと、その焦点の合わない目の前の道を見て歩いている。


(そもそも少女に目の前の道が見えているのか……?)


また新たな疑問が浮かんだ。その疑問は自分自身に返ってくる。俺には目の前の道が見えているのだろうか?痛い質問だな、と心の中で苦笑する。まあ少女の場合物理的に危うい気がする。

それとなく少女を目で追っていると、少女はすぐ隣の家に入っていった。


(お隣さんだったんだ。)


結局俺は何もせず、ただ不審者になって再び自宅警備をしに戻っていくのであった。



ー3月20日 夕方 夢羽葵


ふらふら、ふわふわと、どこへ行くともなく歩く。ただひたすら歩く。歩いていれば全ての『事実』から目を逸らせる気がするから。

空を見上げる。空も影に覆われて、次第に暗くなっていく。

こうやって空を眺めているとこのまま溶けて、消えてしまうのではないかという錯覚を覚える。

気がつけば歩道橋の上に辿り着いていた。歩道橋から道路を見下ろす。


(ここから落ちれば……)


そんな勇気、私にはない。このまま家に帰って私は現実に戻る。

何事もなく夜が来て眠って、朝が来る。何よりも辛い現実。

眠って、眠って、その度目は覚める。

きっと私は息をしている。今日も、明日も。自分の意思だって知らんぷり。

ふと、あの時見た虚ろな眼を思い出す。どこまでも真っ白で、何も映さない。希望も無いような虚ろな眼。

何も無い。ならいったい何を糧に生きているのか。

米?物理的に生きる糧にはなるんだろうけど。聞いてみたかった。


ただ通りすがっただけの五秒も満たないような短い出会い。


こんなこと、聞けるわけがない。


(あの人に感情はあるのだろうか……?)


私の目に焼き付いて離れないあの虚ろな眼。思い浮かべていると、また新たな疑問が浮かんだ。その疑問は自分自身に返ってくる。私はどうなのだろう。


(……まあいいや。)


そんなことどうだっていい。今日はもう疲れた。家に帰ってとっとと寝よう。できればこのままずっと、眠っていたいのだけれど。そんなこと不可能だ。眠りは必ず覚めるもの。……健康体であれば。残念ながら私の身体は悲しいくらいに健康だ。『健康』であって『元気』な訳ではないけど。

ふっとカレンダーに目をやる。


(もう20日か。)


春休みなんてあっという間なんだろうな。そしたらまた学校が始まる。束の間の休息もただ心の穴を広くしただけ。また辛い日々がやって来るのだ。あぁ、明日なんて来なけりゃ良いのに。



ー3月27日 昼 高原拓弥


「よぉーっす!拓弥!相変わらず湿気た面してんな!」


友人は絡みにくいテンションで喋った。


「しっかしお前の部屋。相変わらず不健康そうなオーラ満載だな。ちゃんと飯食ってるか?」


「まぁぼちぼち。」


「はぁー。お前の事だから下手すりゃ一日中飯食わないなんて平気でやりそう。ほれ、これでも食え。」


「俺のことなんか気にする暇があれば彼女の方に行ってろってんの。まったく。まぁ……ありがとよ。」


正直友人の言葉には返す言葉がない。妙に俺のことを気にかけてくる友人にはいろいろと助けられている。


「そういや最近仕事、どう?」


「ん?普通に楽しいぜ?」


そう言って友人は笑う。仕事は平日土曜となかなか忙しそうだが仕事仲間とも意気が合い、毎日が充実しているそうだ。


「あ、そ。」


だからこそ。友人の事が眩しくて、せっかくの好意も複雑な気分だ。申し訳ないけど、正直鬱陶しい。きっとこいつも『正義』の側にいるんだろうな。


「自分から聞いといて随分冷たい反応だなぁ。ま、拓弥らしいけど。ところで拓弥。お前さぁ、ちょっとはジョギングとかしてみたらどうよ?」


「は?何いきなり。」


「なんかほら、日に日に拓弥が暗くなってくような気がするっていうか、まあ、根暗オーラが増してくっていうか。その内消えちゃうんじゃないかって、なんつーかその、拓弥見てると心配になるんだよ!相変わらず引きこもってるみたいだし。少し運動すればちょっとは気分も明るくなると思うんだ。」


やれやれ。どうしてこいつはこんなに俺のことを心配してるんだか。こいつには他の友達だってたくさんいるんだし、彼女だっているんだ。


(俺が消えたって……)


「とにかく!」


「っ!?いきなり大声出すなよ!!」


「運動すること!良いか!?」


「はいはい。」


まったく、しつこい奴だ。とはいえここまで釘を刺されてしまえば言うことを聞くしかない。とりあえず散歩くらいはするか。


(なるべく人のいない時間が良いな……。)


友人は俺の顔を見て満足気に頷いていた。


(なんか、ムカつく。)


「痛っ!!何すんだよ!!」


とりあえずその得意気な顔はつねっておくとしよう。



ー4月6日 早朝 高原拓弥


「さ、さみぃ……」


友人のごり押しによって外に出る機会を作る羽目になり、なるべく人のいない時間帯を選んだ結果、早朝五時に家を出ることにしたのだがいかんせんまだ4月の上旬。恐ろしいくらい寒い。

でもまあ走るのはかったるいので散歩という形でテキトーに歩きますか。とりあえず近くの自販機で温かい飲み物でも買って手を温めよう。


「あれ?あなた……」


(げっ…………)


こんな時間帯に人と出くわしちゃうなんて、あぁまったく何のためにこんな寒い思いしてんだか。しかもこの声、近所に住むお節介婆さんの声じゃ……!


「拓弥くん……!拓弥くんなの!?」


大袈裟な声を上げて駆け寄ってくるお節介婆さん。


「あぁっ!ようやく外に出る気になったのねっ!?」


「いやいやあのっえっと……ああもうこれだから外なんかに出たくないんだっての!!」


外に出れば何かと面倒事がついてくる。人と関わるなら余計に。

お節介婆さんの小言なんてまっぴら御免だ。結局散歩する予定がお節介婆さんを振り払うために全力疾走。ジョギングを通り越しランニングになった訳だが。


「はぁ……はぁ……つ、疲れたぁ~!!」


こりゃ明日筋肉痛不可避だな。お陰で身体はかなり温まったというか、むしろ熱いくらいだ。


「……ふぅ。」


まぁ、悪くないと思う。こう、思い切り走るのも。

結局友人の思うつぼか。なんか癪に触るけど。

家に帰る時ふと視界の隅に、座ってうずくまっている学生服を着た少女の姿が映る。その人は、そう。何度か見かけたあの、お隣さんの少女。赤の他人でも流石に様子がおかしいことは一目瞭然である。それでもやっぱり声をかけるのは不審なことか?と躊躇ってしまうのは俺が根暗の引きこもりだからか。俺は勇気を振り絞って声をかける。


「あの、どうかしたんですか?」


返答は無い。少女の肩は小刻みに震えている。


(そういえば今日は4月6日だったか。)


世間一般では春休みが明けて入学式やら始業式やらがある日か?


(もしかして、学校に行きたくないのか?)


そんな理由でこの様子は大袈裟すぎない?いやいや学校舐めてはいけないですぜ。学校というものはある種の人にとっては地獄となりかねない。

そうか。この少女も『悪』の側か。いや、自分の例えである『正義』と『悪』の概念をこの少女に押しつけるのは失礼か。言い換えるなら『明』と『暗』。光の当たるところに必ず影は存在する。さしずめ少女はその影たる存在といったところか。少女の気持ち、分からなくもない。だからといって赤の他人にはどうすることもできないのだけど。


「あ……」


勝手な憶測で考えていると少女と目があった。

少女はこちらを見ていたのだ。俺の意識が変な方向に飛んでいる間に。それに気づかず俺は少女の顔をじろじろ見ていた事になる。


「いや、あの、えっと、あははー。す、スイマセン……。」


「……学校、行かなきゃ。」


少女はそう呟いて立ち去る。去り際、ちらりと俺の方を見ていた……ように思えた。


(うわーやっちまった……。)


きっと何あの人。人の顔じろじろ見て。不審者?ヤバい人?とか思われてるんだろうなぁ。


(それにしてもあの絶望に満ちた眼……。)


何をそんなに絶望しているのか。所詮赤の他人。かける言葉なんてないし、気にすることはないのだろうけど。やっぱり気になる。いや、あれは危なっかしい感じがするし気にしておいた方が良いか。

俺はいったい、何につっかかっているんだ?どうしてこんなに、少女のことが、いや、少女のあの虚ろな眼が気になるのだろうか。



ー4月6日 朝 夢羽葵


朝六時。そろそろ登校する時間だ。今日は始業式ということで早く帰れる。そう自分に言い聞かせるものの、気分は憂鬱。

学校が嫌い。それもそうだけど、何より何事もなく無事進級し、4月を迎え、そしてまた三年生として新しい生活に入ってしまった。一歩、また一歩と止めることなく私は歩いている。それが一番辛いことだ。私は疲れたのだ。もういい。これ以上の生活なんて。私に『明日』なんて要らない。それでもこの足は歩みを止めてくれない。

頭の中がぐちゃぐちゃになる。まるで目に見えない何かに侵食されていくような感覚。目眩がする。それに誘導されるように吐き気が私を襲う。

堪えきれず、私はその場にうずくまる。

身体はまるで錘にでもなってしまったかのように重い。視界が徐々に白く霞んでいき、なんだかこのまま眠ってしまいそうだ。


「あ……」


ふと顔を上げるとこちらを見ている青年の姿があった。あの時会った、虚ろな眼をしている青年。その虚ろな眼と目があった瞬間、私の意識は澄んでいき、止まっていた時間が動き出す。


「……学校行かなきゃ。」


(うわぁ……やっちゃった。)


私は恥ずかしさでいっぱいになり、足早にその場を立ち去る。

玄関前で座り込みうずくまっているところを見られるなんて。きっとヤバい奴って思われただろうなぁ。


(それにしてもあの真っ白な眼……。)


希望も絶望も映さないただただ真っ白な眼。じゃあいったい、その眼には何が映っているというのだろうか。気になってつい、振り返る。あの青年の眼にはどこか違和感を覚える。なんだろうか?この違和感。私はいったい、何につっかかっているんだろう。どうしてこんなに、青年のことが、いや、青年のあの虚ろな眼が気になるのだろうか。



ー4月18日 朝 高原拓弥


「ふぅ……。」


お節介婆さんから逃げたあの日以降すっかり朝のジョギングは習慣と化していた。朝の五時から朝の六時の一時間。それが普段の俺の唯一外に出る時間である。そこら辺を軽く走り終え家に帰る頃と登校時間がどうやら被るらしく、よくよくあの少女とは鉢合わせる。

あの危なっかしいオーラ。誰が見たって心配になるんじゃないかなって思うのは俺だけ?それとも俺があの時少女の口から「死にたい」って言葉が放たれるのを聞いてしまったからなのか?もし誰も気にかける人がいないんなら御愁傷様としか言いようがないな。でも案外そんなもんかもね。これは『暗』の側の人間にしか分からないことなのかもしれないしね。世の中思っている以上に残酷で冷たいものさ。とはいえ俺も気にはなっているものの言葉を交わしたことはないのだけど。だって赤の他人がいきなり話しかけられたら怖いでしょうし。それともただ単に俺がいつも人を避けてるような引きこもりだから?

相変わらず変な方向へ進んでいく思考を止めるとこなく自販機へ向かう。走ったから喉がカラカラだ。


「……あの。」


不意に背後から声をかけられる。俺はびくりと肩を震わせ、ぎこちなく振り返った。うん。我ながらコミュニケーション力の足りなさを感じる。目の前にはあの、虚ろな眼をした少女が佇んでいた。


「大丈夫ですか?」


「えっ。」


いつもは何も見ていないような少女の眼は今、確実に俺を映している。


「あの、えっと……すいません……いきなり。えっと、今にも死にそうな顔してたからちょっと……心配、で。」


少女は視線をあちこちに飛ばしながらしどろもどろに喋る。少女の手にはスポーツドリンクが握られている。


「え、俺?俺、が?走ったから、かな。」


少女の突然の言葉にあからさまに変な反応をしてしまう。流石人間を避けてきただけあって、少し声をかけられただけでもこの狼狽えっぷりである。


(てか今にも死にそうな顔してるのはそっちの方な気が……)


「あ、いつも走ってますよね。今日もお疲れ様です。少し、聞きたいことがあるんですが良いですか?あとこれ、どうぞ。」


俺が呼びかけに応えたからか少女は安心したような表情を浮かべ、手に持っていたスポーツドリンクを差し出す。どうやら俺の反応を見て喋りやすくなったようだ。うん。まあ、何事もきっかけが大事。少女にとってもそんな感じだったのだろう。やっぱり同族を感じる。てか俺が走ってるの、見てたのか。てっきりその眼には何も見えてないと思ってた……失礼だったか。


「え……なんか、申し訳ない。えっと、俺に聞きたいことですか?」


「あ、いえ。別に嫌なら良いんです。」


「あ、いやいや、そんなことないですよ。ただちょっと驚いただけですから。」


俺もこの少女には前から気になることがあったし。相手からきっかけを作ってくれたのだからむしろちょっとありがたい。

ふっと少女は俺の顔を見て納得したように頷いた。


「そうか、この違和感……」


「……?」


「そうだ。それだ!あの。年上なのに敬語とか、使わないで下さい。なんか、変なので。うん。そういう事にしよう。」


「え、あ、はい。……う、うん。分かった。」


少女が何を思っているのか全く分からないけど、もし少女が俺と同類なのだとしたら、きっとその違和感は違う。きっと何かの誤魔化しだろう。ただ、何だか見た目的にそう年の差を感じない相手に一方的に敬語を使われるのは何だか変な気分だ。


「じゃあ、そっちもタメで良いよ。なんかむず痒いっていうか。」


「え、あ、わ、分かった。」


「えっと、その、聞きたいことって……?」


「ううん……なんて言えば良いんだろ……」



ー4月18日 昼 高原拓弥


驚いた。まさかあんな質問をされるなんて。 


ーあなたはどうやって生きているの?


少女はかなり躊躇いながら問いかけた。どこまでも深く、暗い絶望を映した虚ろな眼。その光に射ぬかれたかのように俺は動けなくなっていた。周りに置いてかれ、他人を拒み、何にも無い中で生きている。虚ろ。少女はきっとそれを見抜いて、あえて俺に聞いてきたのだろう。決して失礼な意味ではなく、慎重に言葉を選んで。

流石にすぐに答える事はできない。そう告げると少女は頷き、「いきなり変な事聞いてごめんね。」と呟いた。そういえば学校は行かなくて良いのかと聞くと、今日は休むと苦笑いされた。

少女の眼に映る絶望。少女に何があるのかは分からない。でもきっと、今その絶望の上に苦しみ、どうしようもない状況なんだろう。多分これは同じ『虚ろ』を持ち『暗』である、同類の俺だからこそ問うことの出来た質問なのだろう。……あくまでも俺の憶測だけど。


(俺は……)


他人との関わりを断絶し、外へも、ろくに出ないで引きこもって。そんな生活を続けてきた。ただ淡々と、同じような日を送ってきた。何もしないで生きてきた。


(どうやって生きてるの、か。)


真っ白な昨日に真っ白な明日。必要最低限の食事は摂ってるから俺は生きてるのか?寝て、起きて、たまに飯を食ってゲームして。……正直自分でも分からない。ただ息をしている。だから生きてる。そんな感じなのかも。

息をしている。略して「いきる」。前にそんな駄洒落を言ったっけな。今の俺は正にそれなのかもしれないな。



ー4月30日 昼 夢羽葵


ーあなたはどうやって生きているの?


その質問は自分自身に返ってきた。愚問だ。そんなこと分かっている。でも、今がいっぱいいっぱいで、今日でさえも乗り越える事が困難な私は今、どうしても誰かにすがりつきたかったのだ。


(私は、どうやって生きているのだろう。)


明日が見えない。今の私には目の前の道すら見えない。なのに、どうして生きている?昨日はどうやって乗り切ったの?……分からない。こんなにも身体は疲れているのに不思議と今まで、いや、今だって息をしているんだ。答えの無い疑問。そんなものを私は家族、友人でもなく、赤の他人に押し付けたのだ。ううん。家族や友人にはとうてい出来ない質問だからこそ、あの青年に問いかけたんだったっけ。

青年のあの虚ろな眼。私はあの眼に違和感を覚えた。

何も映さない、ただただ真っ白な眼。昨日も明日も、希望も絶望も、何も見ていないようなあの眼。それなのに青年は生きている。確かに生きているのだ。


(私は……生きているのだろうか?)


本当に『生きている』のだろうか?確かに息はしているのだけれど、それだけ?それだけで生きているといえるの?


(『生きる』ってなんだろう。)


考えれば考えるほど分からなくなっていく。


(あ……)


そうか。青年に感じた違和感。それは私と同じ、青年は『生きている』のかと疑問に思う反面、私は確かに青年は『生きている』と確信しているからだ。その矛盾が違和感の原因なんだ。


「君は……」


不意に背後から声をかけられる。振り返るとコンビニの袋を持ち、佇む青年の姿があった。


「まさかこんな時間に会うとはね。ははーん、さては学校早退したな?」


図星だ。えっと、私はなんて言えば良いのだろうか?

生気の無い眼で青年は私を見ている。早退してきた私を咎めたり叱ったりする気は感じられない。


「もう少ししたらゴールデンウィークだね。そしたらしばらくは会わないね。」


「あなたって人と会うの嫌なんだよね?」


「…………。なんでそれ知ってんの?」


「いや、あなたの様子を見て、なんとなく。正直、私のこと、鬱陶しいとか思ってるでしょ?」


そうだ。そうに決まっている。見かける度に青年はいつも人を避けている様子で、その気持ちはなんとなく私にも分かる。誰とも関わりたくない。そんな中一方的に話しかけ、おまけに変な質問までしたんだ。しかも今思い返せばかなり失礼な質問だ。決して悪い意味で聞いた訳ではないんだけど。


「……なるほど。」


「……?」


「君は別に良いんだ。むしろ会わない時間が心配なくらいだ。」


「えっ……。」


「君はこちら側だからね。思っていた以上に周りが見えてるんだね、君。それとも見えるようになったのかな?」


口角を少し上げて喋る青年。


(こちら側……。)


青年はどこまで私を見抜いているのだろうか。そして、どこまで一緒なのだろうか。


「ゴールデンウィークはどうやって乗り過ごすのかな?って、そんな事言われたくないよね。君自身今困ってるんだろう。」


―あなたはどうやって生きているの?


青年はきっと、この質問の意図を掴んで言ったのだろう。

私が今を乗り越えることに苦労し、どうしようもなくてつい、口に出してしまった一つの疑問。


「俺もね。どうするんだろーって思ってるんだ。自分自身のこと。でもきっと生きてはいるさ。それだけは分かるよ。」


「どうやって?……どうしてそう言いきれるの?」


「こりゃまた随分と直球の質問だね。」


青年は焦る私の気持ちを落ち着けるように言う。


「ご、ごめん……。」


「ううん。気にしないで。そういった気持ちはどこかに吐き出さなくちゃいけないんだよ。でも迂闊に喋れないでしょ?だから、俺に言ってよ。『同類』として、きっと誰よりも君の気持ちに寄り添うことができると思うんだ。」


(聞くことぐらいならできるでも、気持ちを理解するでもなく、寄り添う……か。)


なんだかこのまま、私の中にある黒いものが出てしまいそう。怖い。でもどこか安心してしまっている私がいるのは、青年の言っている事が的を射ているからだろうか。


「明日はね、迎えるんじゃなくて、来るんだよ。だから息をしている限り、どうもこうもしなくても明日も生きてるのさ。君も、俺も。多分、ね。今はそれだけ、かな。」


一通り言うと、青年は私の顔を見てふっと笑った。

青年はきっと答えてくれたのだ。彼なりの、あの日の質問の答えを。


「ゴールデンウィーク後、君は学生服着てまた玄関前でうずくまってんのかな?まあ君が学校休まなければの話だよ、ね?」


「う……それは引っ張ってこないで……。」


「ははっ。ごめんごめん。ま、続きが聞きたいんならせいぜい頑張りなよ。君の『明日』と戦う為にさ。」



―4月30日 夜 高原拓弥


―あなたはどうやって生きているの?


少女の切実な質問に今日、答える機会があった。まさかあんな時間に会うなんて思わなかったけど。でも、今日少女に会うことができたのは良かったのだと思う。長い休み。それはあの少女にはとても危険なものだから。……多分。あくまで憶測なんだけど。

結局少女にはちゃんとした答えを言えなかった。俺自身、まだ答えを見つけていないから。だからといって答えない訳にはいかない。少女は真剣なのだから、こちらも真剣に受け止める必要があるだろう。俺なりに考えた『今』を少女には伝えた。随分とださい回答を大袈裟に、恥ずかしいくらいかっこつけて。ギリギリの回答を。それでも少女の心の傷口に応急措置ぐらいはできただろう。

今日話をして分かった。少女は人と向き合うことに臆病なんだ。自分が関われば他人は嫌な思いをする。自分は常に他の人よりも下にいる。そう思い込んでしまう節がある。何かあったのかもしれない。その思い込みが少女を塞いで、黒いものを溜めてしまうのだろう。少女の絶望はそこにあるのかもしれないな。

それでも今日のことは少女にとって意味あるものになっただろう。今にも死んでしまいそうな少女を、少し食い止める。そのくらいはできたと思う。

あの日、少女は「死にたい」と言った。それを聞いてしまったから、俺は食い止めなければいけないだろう。

相変わらず危なっかしい眼。明日にも死んでしまいそうな、そんな感じ。空っぽの俺が……いや、空っぽの俺だからこそきっと、そんな少女と向き合えるんだ。本当のとこ、俺は少女の質問に狼狽しきって、余裕なんて全くないんだけど。それでも少女が俺に必死にすがりつくなら、この問答が少女にとって意味を為すことなら、俺が弱みを見せてはいけないな。

でも葛藤する。今までの自分を振り返ると虚しくて。この先また少女に何か聞かれたとして、俺は答えることができるのか?俺は、少女の眼にどんな風に映っているのだろうか?考えれば考えるほど虚しさばかり浮き彫りになって、分からなくなっていく。

何度も何度も、頭の中で繰り返す質問。浮かび上がる疑問。


(『生きる』ってなんだろう。)


空っぽの俺は今、『生きている』っていえるのだろうか?

あぁ、頭の中にがぐちゃぐちゃだ。また考えが変な方向へ飛んでいってしまっているな。

もう、今日は眠ろう。そうしようか。



―5月7日 朝 高原拓弥


朝六時。いつも通り朝のジョギングを終えて自販機でジュースを買って飲んでいると、学生服を着た少女の姿が目に映った。

少女もこちらに気づいたようで、ぺこりと軽くお辞儀をする。どうやら無事ゴールデンウィークは乗り切ったようだ。まず第一難問突破といったところか。しかし問題はこれからだ。少女の顔は前見た時より沈んでいる。そりゃそうだ。休み明けは誰だってやる気を失うもの。ただでさえ『現実』を嫌う少女はきっとゴールデンウィーク中ずっと『現実』に戻されるまでの時間が減っていくことを意識し、気が休まるどころか疲れただろう。そして、時間は裏切ることなく少女を残酷にも『現実』に戻したのだから。さて少女、君は学校へ行くことができるのか?


「おはよう。お久しぶり。高原さん。」


少女は俺の名を呼んで、歩み寄ってくる。


「ちょ、ちょっと待て。俺、名乗った覚えないぞ?なんで俺の名前知ってんの?」


俺が言うと少女はうっすら口元に笑みを浮かべた。


「なんでも何も、お隣さんでしょ?表札見たんだよ。」


……もしかして今の笑み、呆れられた?


「高原さん。私の名前、分かる?」


「すいません。わかりません……。」


「だろうと思った。さすがだね。まあ……私も人の事言えないか。」


なんだか心なしか少女の顔には感情が見えてきた気がするぞ。ゴールデンウィーク前は死にそうな顔してたし、ただただ虚ろで人間らしさなんて全く見えなかったのにな。


「私も前まで何にも見えてなかった。それこそ高原さんがそこにいたとして、気づかないくらいには。でも最近ちょっとだけ、周りが見えるようになった気がするの。」


そうか。少女は成長したんだな。


「私は夢羽葵。改めて、宜しくね。」


「そっか。それは良かった。宜しく。夢羽さん。」


そういえば少女、夢羽さんの眼も、少し変わったような気がする。虚ろなんだけど、なんだろうか。とても表現しがたいけど、底無しの絶望ではなくなったと言うべきか。


「調子はどうなの?」


「見ての通り。」


「学校行けそう?」


「…………。それ聞いちゃうか。学校って言葉を聞いた瞬間気持ち悪くなってきた。一応着替えるまでは平気なんだけどね。いつも。」


「おっと、それはごめんよ。」


やっぱりまだ休み明けの学校は厳しいか。


「でも行ってみるよ。早退しないって保証はできないけど。」


夢羽さんはそう言って苦笑いをした。

……正直驚いた。彼女がそんなことを言うなんて。


「諦めがついたの。」


俺の心を察してか、夢羽さんはぽつりと呟いた。


「こっちがいくら嫌だろうと明日はくるんだって。それはしょうがないんだって。だから生きる。今はそう思うことにしたよ。」


「うん。そっか。」


まあ彼女が前を向けたというのは良いことだ。


「でもまあ、あんまり無理はするなよ?前も言ったけど、黒いものは構わず、俺に吐き出して良いからな。同類として、それなりの反応はできると思うから。抱え込んじゃ駄目だぞ。」



―6月5日 昼 高原拓弥


「よお!拓弥。久しぶりだな!元気か?最近仕事が忙しくてあんまり会えなかったが、ちゃんと飯食ってるか?」


「まぁ、それなりに。」


日差しが眩しくなってきた頃の昼間一時。もう一眠りしようとしていた俺の安眠は友人によって妨害されていた。


「相変わらずあんたは忙しいのな。まったく。俺なんか気にしなくてもいいっつーの。仕事が忙しいっていって彼女の方疎かにしてないだろうな?」


「大丈夫大丈夫!ちゃんと週に一回、休みの日にデートしてるし!」


「…………相変わらずラブラブだな。」


じゃあ今日は良いのかよ、俺のところにいる場合じゃないんじゃないのか?突っ込みどころ満載だがもはや面倒なのでやめておこう。


「それにしても拓弥……お前、なんか変わった?」


友人が小首を傾げ、俺をじろじろ見てくる。


「なんていうか、芯が出てきたというか……」


「そう?……あんまじろじろ見んなよ。」


「そうか!やっぱり俺の勧めたジョギングの効果があったのか!」


どうやら閃いたらしく、声音を上げて嬉しそうに喋る友人。


(うるせえな……。)


やっぱりこいつのテンションにはついていけないな。


「いや、やっぱり変わってなんかいねぇな。拓弥は拓弥だ。」


友人は俺の顔を見て苦笑した。


「…………?」


こいつは一体、俺の何を見ているんだ?



―7月1日 朝 高原拓弥


久しぶりに少女、夢羽さんを見かけた。

最近はすっかり朝のジョギングもサボっていて、俺自身外へあんまり出ていなかったから人と会うことがあまりなかったのだが。それに関しては最近は暑いからっていう言い訳を使っておこう。

夢羽さんの表情は沈んでいる。以前見かけたときに少しだけ見えた希望は再び底無しの絶望に包まれてしまったようだ。

それを見て、俺の口からとっさに言葉が出ていった。


「君は何がそんなに嫌なの?」


言葉に出してから後悔する。夢羽さんの眼に映る絶望。俺はそれが何か、何も知らない。それなのに、少し話をしただけでそれが彼女の全てと……そんなことは思っていない。でも、無意識にそう思い込んでしまっていた自分がいたのか?だから、こんな質問をしてしまったのか。自分は頼られている。そんな勘違いから彼女が前を向けたと、前を向けた筈だからと決めつけて、自分の思い通りにいっていないのを見てそれを不快に思って聞いた。そんな意はこれっぽっちもないのだけど、そうとも取れる質問。壊れた心はそう簡単には治らない。そんなこと分かりきっていることなのに。


「あ……高原さん。」


夢羽さんは焦点の合わない目でふっとこちらを見た。


「ごめん。いきなり。今のは忘れて。」


「私は、ただ……が嫌で……いや、じゃあどうして……」


どうやら俺の声は彼女には届いていないようだ。やっぱり今の質問は夢羽さんの傷口を抉ってしまうものだったのだろう。


(そもそも俺だって、何が嫌で他人を拒むようになったんだっけ。)


「……分からない。」


答えは簡単なようで、何か違う気がする。きっと夢羽さんだって同じだろう。答えの無い質問。考えれば考えるほど泥沼に嵌まっていくような、そんな残酷な質問を俺は彼女に与えてしまったのだ。



―7月1日 夜 夢羽葵


―君は何がそんなに嫌なの?


頭の中で何度も繰り返す質問。

高原さんがいつまでも前を向かない私に痺れを切らして言った。そんな風には思えない。純粋な問いかけ。そう思えるのは彼がこちら側の人間だからだろうか。


(私が嫌なのは……)


勝手な偏見で私を遠ざける皆が嫌だ。だからたくさんの人がいる学校は嫌い。じゃあ勝手な偏見、『暗い奴』そんな風に思われるのはどうしてだ?それはそもそも自分に原因があるんじゃないか?それを他人のせいにしようとする自分だって嫌だ。いや、でも……。


(全部、全部、私がいなければこんな思いなんてしなかった。)


私なんか、生まれてこなければ良かったのに……!


(…………。)


少し頭が熱くなりすぎたようだ。落ち着け、私。

いつからだったっけ、こんな風に思うようになったのは。


(あ…………。)


―ぐしゃり


ふと視線を落とすとぐしゃぐしゃに丸まった、小さい頃の写真が目に入る。

見つけた。私の心の底にあるもの。

普通の人には到底話せない。でも高原さん、彼になら話せる。なんだかそう思うんだ。



―7月8日 夕方 高原拓弥


夕焼けが辺りを真っ赤に染める今日この頃。俺の家には冷房たるものが存在しないため、夏の暑さにやられた俺はアイスを買いにコンビニへと足を運んでいた。……外界を遮断していても夏の暑さはどうしようもないんだよなぁ。この時期ほんと辛いな。

歩道橋の上、ふと足を止める。

真っ赤な空。こうやって空を眺めているとこのまま溶けて、消えてしまうのではないかという錯覚を覚える。なんだか本当に明日なんて無いような、そんな気がする。まあ、そんな訳ないんだろうけどさ。

何もしないで、毎日をそれなりに有意義なものにしようと努力する気もなくて、そんな俺は今も生きていて、今までだって生きてきた。


「…………。」


たまに、罪悪感を覚える。こんな塵屑のような俺が、今も生きているって事に。


「こんな話、知ってるかな?」


「っ……!?」


唐突に背後から声が聞こえ、つい変な声を出してしまう。


「高原さんはほんとに、人が苦手なんだね。今の反応、ちょっと面白かった。」


学生服を着た少女、夢羽さんの姿がそこにはあった。


「なんだ、君か。驚かせないでよ。」


「ふふ、ごめんごめん。」


「……で、こんな話って、どんな話?」


尋ねると、夢羽さんは真っ直ぐに俺の方を見た。

どこまでも暗く、夜よりも深い絶望を映したとても、とても虚ろな眼。背筋に寒気を感じる。なんだかとても嫌な予感がする。


「とある学校の、怪談話。」


「……怪談話?」


なんでこんな時に怪談話?夏だから?夢羽さんの眼はいたって真剣で、笑い話とか世間話とか、そういったものを持ちかけてきた感じとは到底思えない。むしろその眼は冷たさを帯び、人間らしさが見えない。今の君は幽霊と勘違いされちゃいそうだね。そんな冗談も冗談ですまなくなりそうな雰囲気。


(これが……誰にも見せることのできない一面……?どこも隠していない、『彼女自身』なのか?)


そういえば初めて会った時も、こんな夕暮れ時だったっけ。

それでも俺は、こんな時にもそんな呑気なことを考えている。この脳みそはもう末期なのかもな。あの日も、こんな眼をしていたのだろうか?


「虐められていた人が死んだ。そしたらクラスの人たちはその虐められていた人が復讐しにくるのを見たんだって。心のやましさが、死んだその子の幻覚を作り出した。クラスの人たちのほとんどは発狂して、おかしくなって死んじゃったんだって。そうして虐められていた人は本当の意味で復讐を成し遂げたんだって。」


「…………。」


「だから、私も復讐をするんだ。私は、学校で死ななくちゃいけないの。それ以外に、私の存在は何の意味もないの。そう。死ぬこと以外じゃ私は無駄な存在なの。」


絶望に満ちた虚ろな眼が語っている。彼女の語る言葉にひとつ、質問をする。


「君は虐められているの?」


それはありきたりな質問。夢羽さんはゆっくりと首を横に振った。


「ううん……特に何も。でも………だから。」


彼女はとても苦しそうに、声にならない声を上げて呻く。


「…………あることが原因で、私は強い偏見を持って避けられるようになったの。皆私を軽蔑して、近づかないようにした。ただそれだけ。別に虐められていた訳ではないのだけど。」


原因。それが何だか分からないし、その規模だって俺に分かることじゃない。でもそれがきっと彼女の絶望の根本。コンプレックスなんだろう。


「……でも、もうそれ自体だいぶ前のことで。高校に入ってからは環境も変わった。もう誰も私のことを馬鹿にしてた人はいない。いなんだけど。でも怖いんだ。常に私は皆に見下されているんだ。そんな気がして。」


そうか。夢羽さんは、何かしらの原因によって起きた『正義』が『正義』であるための行為に巻き込まれたんだろう。『正義』が『正義』でいるためには『悪』が必要だろう?だからそれはごく自然な行為。なんだけど、ある一種の人間には人格とか、性格を大きく変えるものとなる。だいたいそれが起きるのは小さい頃。『正義』と『悪』の境界はいずれ無くなる。その境界が無くなった時、『悪』は光に照らされ、『暗』へと変わる。『悪』として、『正義』である人たちに蹴散らされ、嗤われるのが当たり前の毎日で『悪』の側の人間の性格はそれに順応するため、形作られていく。そうして『正義』と『悪』の境界が無くなった時、今まで形を成していたその性格も意味をなさなくなる。『無駄な存在』彼女の言った言葉はその事を表していて、それが彼女の絶望。瞳に映る虚ろは、心の奥底で常に『死にたい』と叫び続ける原因となるだろう。

これはあくまでも、俺が今まで使ってきた言い訳であって、俺の考え方。実際夢羽さんの中に何があるのか、分かりっこしないのだけど。それでも彼女は今まで、いや、今も。彼女の言う原因によって、どうしようもなく苦しんでいたんだって事は分かる。


「例え私が死んだとして、誰もやましい事なんてないんだし、復讐なんてできないんだって分かってる。でも、私をこんな風にした皆が許せない。ううん。こうやって自分自身の性格を、今の状況を、勝手に皆のせいにしようとする私が悪い。それも分かってる。でも……でも……。」


夢羽さんは俺みたいに何もかもを投げ出すことができない強さと弱さを持っている。それ故に苦しんでいるんだろう。それはきっと良いことだ。だって俺みたいに何もかも投げ出したりしないで、絶望の中踏ん張っている。彼女の絶望もそれに立ち向かうための頑張りも、俺には無いものだ。立派な事だろう。


―君は何がそんなに嫌なの?


これが彼女の答えだというなら。わざわざその答えを教えるために、自分自身と向き合って、苦しんで。そんな彼女に俺は何を言える?今まで辛かったね?よく頑張ってきたね?話してくれてありがとう?なんだかカウンセラーの言葉みたいじゃないか。俺はカウンセラーなんかじゃない。話す言葉はどう頑張ったって、今の彼女には全て綺麗事に聞こえるのかもしれない。


(俺は……)


月並みの言葉しか言えないけど、それは全て綺麗事になってしまうかもだけど。『同類』の俺だからこそ話をしてくれたのだろうから、『同類』の俺として、応えない訳にはいかないだろう。


「ようやく、君の事を少しだけ知ることができたよ。」


不思議と心は落ち着いている。


「ねえ、夢羽さん。聞いて?ゴールデンウィーク前、約束したでしょう?ゴールデンウィークを乗り越えたらまた話をするって。」


―続きが聞きたいなら


(何の話の続きだよ。)


心の中で苦笑する。何もない俺が何も考えずに言った無駄に飾っただけのダサい言葉。そんなダサい言葉に同じ様なダサい言葉を重ねるだけの行為が、少しでも意味をなすなら、俺はまた同じ様にダサい言葉を紡ぐ。


「復讐ってのは、痛くて、苦しい思いをするだけなんだよ。相手も自分も。だからよく考えて、よく見てみて。きっと復讐以外にも道がある筈だ。ほら、君、どうせよく学校休んだり早退したりしてるんでしょう?夏休みに入ったら補習とか大変だろ?三年になって退学なんてもったいないじゃん。話ならいくらでも聞くし、聞くだけじゃ退屈って言うんなら俺も話すよ。」


考えてみりゃ可笑しな話だ。この先まだ道がある夢羽さんが無駄に死んで、前も後ろも何にも無いような俺が無意味に生きるなんて。


「…………高原さん。」


夢羽さんは小さな声で俺の名前を呼んだ。


「そうだね。なんだか私ばっかり話をしていて退屈だよ。だから、約束。今度会った時は、あなたの話を聞かせて。」


今の俺は一体、どんな顔をしているのだろうか。



―7月8日 夕方 夢羽葵


どこまでも真っ白で、何も映さない虚ろな眼は語る。

その声は頑なになった私の心に「生きろ」と呼びかけている。


(どうして……?)


今にも消えてしまいそうな、そんな顔で生きろだなんて。

初めて会ったあの日の夕暮れを思い出す。

あの日も確か、こんな顔をしていた……ような気がする。

彼は何度も私に生きろと、そう語りかけてきた。そりゃあ死にたいと言う人を前にしたら生きろと言わない人はいないだろう。でもその言葉はどこか違う。在り来たりな言葉で説得するのとはどのか違うのだけど、それがなんなのかは分からない。それでも私が彼の言葉に何度か支えられたのは確かだ。それなのに、彼の瞳は何も無いなんて言う。どうしようもなく虚ろなんだ。


(なんで……)


私の心を動かす言葉の持ち主が、あんな顔をしているのだろう。

どうして?なんで?と、疑問が膨らむ。


(そういえば私は彼のこと、何も知らない。)


彼に対する違和感とか、疑問。彼を知りたい。単純な私は、ただそれだけで今は生きていける気がする。それを解決するまでは死ねない。


(あぁ、私はまた助けられたんだ。)


膨らみすぎた思考がようやく落ち着いてくる。なんだかもう、復讐とか考えていた自分自身が昔のことのようにすら感じてきた。きっと私はまた『現実』へと戻ったのだろう。……でも、いつもみたいな嫌な後味はない。我ながら忙しない心だと思う。単純なんだ。

高原さんの言った通り、私は学校を休んだり早退してばかりだった。これから夏休みに入る。


(補習、頑張らないと。)


目の前の道なんて分からない。でも答えの無い疑問とか、応えのない矛盾を前に悶々と考えるよりは今ある『現実』に向き合っていくことが、今の私のやるべきことなんだって。今はそれで良いでしょ?前を向けたなんて無責任なことは言えない。私はどこかひねくれていて、何かの拍子にすぐ後ろへと引っ込んでしまうから。でも、少なからず今の私には、私自身の『明日』と戦うだけの力があるような気がするんだ。



―8月5日 昼 高原拓弥


―ピンポーン


扉を開いて驚いた。てっきりいつもの友人がまた来たのかと思っていたから。


「こんにちは。高原さん。」


ふわりと小さく微笑んでお辞儀した少女。扉を開いた先にいたのは友人ではなく夢羽さんだった。何年ぶりだろうか。あいつ以外が俺の家を訪れるのは。


「何で君が……?」


玄関前に立つ姿はいつもの制服姿ではなくて、いつもとは違った雰囲気を放つ夢羽さんを前に俺は戸惑ってしまう。


「えっと、この前のお礼がしたくって。」


「……?何かしたっけ?」


首を傾げる俺を見て、夢羽さんはくすりと笑った。


「恩を与えた人ってほんと、すぐ忘れちゃうんだから。」


「…………?」


「まあ、私もいろいろ忙しくってお礼遅くなっちゃったね。」


夢羽さんはまっすぐと俺の顔を見る。その顔に少しだけ光が見える。


「高原さんのおかげで、少しだけ前を向けた気がするよ。」


「そっか。それは良かった。」


彼女が前を向けたのは、彼女の努力の結果だろう。俺は夢羽さんの苦しみも知らないし、特に何もしてないのにお礼だなんて……ほんと、律儀というか真面目というか。


「これ、あげるよ。」


夢羽さんは手に持っていた袋を俺に渡す。中にはアイスが入っていた。


「よくよく暑そうな顔して外に出てるから、もしかして家に冷房とか無いのかなって思って。」


よく分かっているじゃないか。まさか夢羽さんにこれほどの洞察力があったなんてな。


「ありがとう!助かるよ!」


俺の言葉を聞いて、夢羽さんは照れ臭そうに笑った。そして、再び俺の方を見て言う。


「ねぇ。私って今『いきてる』?」


彼女の純粋な問いかけに俺は少しだけ考えてから応える。


「そりゃあ生きてるさ。いつだって息してる限り人は生きてるんだよ。」


「そっか。」


「でもね。前までの君は『いきていなかった』のかもしれないね。」


「どういうこと?」


夢羽さんは首を傾げた。


「『生きてはいるけど』は『活きてはいない』。ほら、『いきる』って漢字で生活の生で『生きる』ともいうけど、生活の活の方で『活きる』とも言うでしょ?」


「…………。」


「前までの君はね、何て言うか『君自身じゃない』ように見えたの。作られた性格って感じ。でも最近の君は自分自身の問題と向き合って、しっかりとした『本当の君自身』の性格が見えてきた気がするんだ。」


あの日、彼女が気持ちを吐き出した時、夢羽さんは『作られた性格』ではなく『本来の性格』だったのだと思う。


「本来の君は感情豊かで、寂しがり屋で、本当に人間らしい人なんだよね。君はずっと、それを殺しているんだ。だから『活きて』いない。でもほら、俺に見せる君の顔は確実に『活きて』いるんだよ。」


「……私は、別に独りだって平気だよ。慣れてるから。寂しくなんてない。それに……」


「本当に平気だったら俺に話したりなんかしないよ。今だって、本当は寂しいんでしょ?」


俺の言葉に夢羽さんは口ごもる。そして、少しだけ悲しそうに俺を見た。


「じゃあ、あなたは今『いきている』の?」


どうして、そんな悲しそうな顔して俺を見るんだ?何でそんな眼で俺を見るの……?


「俺は…………」


分からない。俺は今、いきているのだろうか?


「現実に悲観するばかりで状況を解決しようとしない人。嫌いなんだ。……私もそんな感じなのかもしれないけどさ。」


「同族嫌悪ってやつ?でも大丈夫だよ。君は戦ってるし努力もしてる。ただ物事に悲観して絶望しているだけじゃないだろ?俺だって何にも悲観しちゃあいないさ。」


夢羽さんは納得いかないといった感じで「ううん……」と唸った。


「ねえどうしてあなたはいつも、私のことを理解したような事言うの?」


「理解してるなんて一言も言った覚えはないさ。ただ、分かる気がするって、共感してるだけだよ。」


「そっか。」


「でも今の君に一番必要なのは励ましの言葉でも、叱咤の言葉でもなくて、ただ共感してほしい、でしょ?」


そう言って夢羽さんの方を見ると夢羽さんは苦笑いを浮かべた。


「やっぱり高原さんは凄いや。」


俺なんかこれっぽっちも凄くないよ。声にならない声で呟く。なんだか複雑な気分だ。



―8月31日 夕方 高原拓弥


「拓弥さぁー。」


目の前にいる友人は携帯を弄りながら呑気な声を上げた。


「この前教えたアプリ。イベントランキング上位にいてびっくりしたよ。」


「あぁ、あれね。」


「これで無課金だもんなー。さすが拓弥。俺なんかあっという間に追い抜かされちゃったもんなぁ。」


「まあ、暇潰しにはなったかな。でもやっぱり携帯でゲームやるよりは普通にゲームする方が俺は好きかも。」


「はあーこれが暇潰し程度かぁ。さすが引きこもり。」


「うるさい。余計なお世話だ。」


「うーん。そろそろ帰るとしようかな。」


友人は携帯から目を離し、軽く背伸びをして立ち上がった。その背中がなんだか近くて遠い。


「なぁ、竜也。」


(あれ……?俺は何を言おうとしたんだ?)


「拓弥、久しぶりに名前呼んでくれたな。」


「あ…………」


振り返った友人の表情はとても温かくて優しくて、穏やかなものだった。


―たくやとたつや。


名前が似てる。きっかけはただそれだけ。竜也はいつも俺と一緒だった。いつもおいてけぼりをくらう俺に歩幅を合わせてくれているんだ。今だって。竜也は『あちら側』、『こちら側』とかじゃない。紛れもない『親友』なんだって。こんな当たり前の事、どうして今まで気づかなかったのだろう。

ずっと鬱陶しいって思っていた。煩わしかった。


(どうしてあんな態度、とり続けていたのだろう。)


去っていく姿。次に会った時には『あちら側』でも『こちら側』でもなく『親友』としてちゃんと向き合うよ。


―ちゃんと向き合いたかったんだ。


真っ赤な夕焼け空がふと脳裏に浮かんだ幼い景色と合わさる。どこか懐かしくて、まるで感傷的な気分にさせる魔法でもかけられたようだ。

ねぇ竜也、褒めてよ。今度会った時。竜也なら気づいてくれるだろう。大切なことに気づいて、少しだけ成長した俺に、さ。



―9月10日 朝 夢羽葵


(あぁ、なんでいつもこうなんだ。)


今日もまた、私は早退をしてしまった。

皆にとって『できて当たり前のこと』が私にはできない。

そう思うこと自体、逃げなのかもしれない。

ぐるぐると考えていると頭が痛くなってくる。


(本当に弱いんだから。)


学校を休んでしまった弱さと罪悪感に潰され、気分はまた沈んでいく。そして脳裏には高原さんが浮かぶ。とにかく会って話がしたかった。

早退してしまった罪悪感を拭うための言い訳を言うため?学校を休んでしまった私を肯定してもらうため?自分でもよく分からないけど。話をすれば明日は頑張れる、そんな気がした。

高原さんの家に着き、インターホンを押す。反応がない。


(あれ…?)


高原さんが家にいない?そんなことある?と心の中で呟く。朝ジョギングしているところすら最近は見かけないというのに。

興味本位でドアノブに手をかけるとどうやら鍵はかかっていないようだった。何を思ったのか、気がつけば私はドアを開いていた。


「……っ!!」


家の中に入り、目に入ったのは力なく倒れる高原さんの姿。


「高原さん……!?」


私は慌てて救急車を呼んだ。



―9月11日 昼 夢羽葵


昨日見た高原さんの姿が頭からずっと離れず、私はずっと落ち着かずにいた。力を失った身体。あのまま高原さんはどうなってしまうのだろうか?


(まさか、そんな。)


妄想はどんどん広がり、最悪の事態にまで達する。

私は怖くなった。

ふと窓に目をやると、隣の家の玄関に人の姿があるのに気づいた。高原さんだ。

私は慌てて家を出た。


「高原さん……!」


虚ろな眼がこちらを見る。確かに私を見ているその眼には誰も、何も映っていない。確かに高原さんの眼は虚ろだったけど、こんなにも、何も映さない眼をしていただろうか?そうだったような気もするけど何か違う。何かあったのだろうか?いろんな疑問が浮かんでくるが、何一つ言葉にできず私は口をつぐんだ。


「昨日はありがとう。栄養失調だって。」


高原さんはぼんやりした様子で言葉を放った。


「俺、ろくに食べてなかったからさ。あのまま誰にも気づかれなかったら俺はー」


死んでたかもしれない。そういう彼の眼は、死んでしまえば良かったのにと言っているようにも見える。本当に死んでしまいそう。私はそう思った。

何があったの?どうしてそんな眼をするの?聞きたいのに、声が出ない。聞くのが怖いと、そう思う自分がいる。

玄関のドアを開き、家へと入ろうとする高原さんを見て、ようやく声を出すことができた。


「……高原さん。」


震える声で名前を呼ぶことしかできなかった。それでも高原さんは私の顔を見て察したようだ。いったい私はどんな顔をしているのだろうか。


「親友が、亡くなったんだ。」


その言葉を聞いて私は理解した。

私はずっと、高原さんが何を糧に生きているのか、どうやって生きているのかが気になっていた。その眼は何も映さない。虚ろで、今にも消えてしまいそうな不安定さを持っているから。きっと、その親友の支えがあって生きてきていたのだろう。そしてその存在を失った今、高原さんはこんなにも危なっかしい眼をしている。目の前の道すら映さない、存在するだけで何も意味を持たない眼。


「俺、当たり前だと思ってた。あいつが飯とか持ってきて俺にしつこく喋りかけるの。鬱陶しいって思ってた。一人にしてってさ、思ってたんだ。」


高原さんは感情を持たない声で言葉を続ける。


「実際一人になるとこんなにも、さぁ。こんなに……。」


私はどうすればいい?どうやったら高原さんの支えになれる?高原さんが何度も私を救ってくれたように、私も高原さんを救いたい。でも言葉が全く思い浮かばない。高原さんは私に何て言ったんだっけ?


(私は……)


「ようやく高原さんのこと、ほんの少し知れた気がするよ。」


「えっ……?」


高原さんの眼が、ようやく私を映す。こんな時だというのに私は小さく微笑んでいた。


「だって、高原さん、自分のこと全然話さないんだもん。いつも私ばっかりでさ。」


「……そうだっけ?」


私につられるように、高原さんの顔にも小さな笑みが浮かぶ。


「ねぇ、高原さん。」


こんな時には励ましの言葉なんかいらない。それは逆効果なんだって、私が一番知っているんだ。それでも私は何かを言わないと気がすまなくて、全く的外れな言葉だけが宙に浮かぶ。


「寂しいね。」


「……うん。寂しい。」


そう言って高原さんは俯いた。その眼は、ようやく感情を映したように私には見えた。



―10月21日 夕方 高原拓弥


親友が亡くなって一ヶ月ちょっと。あの日からぽっかりと心に穴が開いて、その穴は埋まる様子を見せない。それでも俺は少しだけ前を向くことができていた。


(夢羽さんのお陰かな。)


夢羽さんはただただ、俺の気持ちに寄り添ってくれた。下手な励ましの言葉をくれるわけでもなく、共感してくれた。それがなんだか妙に俺を落ち着かせてくれた。正直あのままだったら俺はいつ死んでもおかしくなかったと思う。俺はまだ生きていたい。そう思うのも夢羽さんのお陰だろうか。何にもない俺が生きていたいなんて思うなんてな、と自分でも驚いている。


―ピンポーン


不意にインターホンが鳴る。玄関のドアを開くと夢羽さんがいた。


「高原さんちゃんと食べてる?はい、これちゃんと食べてね。」


夢羽さんは手に持っていた包みを俺に渡してきた。中を見ると美味しそうなカレーが入ったタッパーがあった。

俺が倒れたあの日から夢羽さんはこうやってちょくちょく食べ物をわけに俺の元へ来る。その様子がまるで亡くなった親友みたいで、なんだかおかしくてついつい笑ってしまう。


「余計なお世話だよ。まったく、夢羽さんもお節介だなぁ。」


「お隣さんが餓死したとかいったら居心地悪いでしょう。」


「大丈夫だよ。そう簡単に死なないって。」


夢羽さんは俺の方を見て安心したように笑った。


「それもそうだね。」


「最近学校はどう?」


俺の言葉を聞いた夢羽さんは苦笑いをした。


「ぼちぼち、かな。」


最近は変な時間に会うことが少なくなってきた気がする。夢羽さんにとってちゃんと学校に行くことが言葉にできないくらい大変なのは、今までの様子を見て分かることだ。きっと、大変なんだろうけど、努力してるんだろうな。


(夢羽さん、強くなったな。)


最初会った頃の絶望に満ちた危なっかしい眼を思い出すと、本当に変わったなと思う。


「明日から、修学旅行なんだ。」


夢羽さんは声のトーンを落として言った。だいたい察しはつくけど一応夢羽さんに質問する。


「楽しみ?」


「全然?」


「だと思った。」


こちら側の人間にとって、あちら側の人間と一緒にいるのはとても苦痛なものだ。例えるなら太陽の光を直視しているようなもの。ただでさえ学校という空間であちら側の人間に照らされあぶり出された陰は、とてつもない孤独感と居場所の無さに襲われるというのに。修学旅行とは『明』の人間と『暗』の人間を強制的に一緒にし、何日も過ごさなくてはいけないという、こちら側の人間にとっては地獄のようなイベントだ。


「修学旅行終わったら、また話聞いてくれる?」


「いいよ。分かった。頑張っておいで。」


それで少しでも楽になるなら、俺は協力するつもりでいる。夢羽さんの気持ちに寄り添えるのは、同類である俺だけだと思うから。



―10月22日 昼 夢羽葵


見慣れない土地でぽつり、今私は独りだ。

仲の良い友だち同士で作られた班の中に一人、異質感を放つ私は確実に要らない人だ。皆心の中で私のことを邪魔に思っているのは痛いくらい理解している。私だって私の存在が邪魔で仕方がないのに。ここにいたくているわけじゃないのに。皆も私のことを邪魔に思っていて、私も私のことを邪魔に思っているのに、どうしてこんなことしなきゃいけないのだろうか。今すぐ消えていなくなってしまいたい。


(落ち着いて、私。)


深呼吸をするもどうにも息苦しい。考えはどんどん悪い方向へ向かっていく。周りの人が皆私を馬鹿にしてくるような、そんな感覚。通りすがりの人さえも私を蔑むような感覚。どこまでが本当でどこまでが妄想なのかは分からない。クラスの人が笑っている。


(私のことについて笑ってるの……?)


お願いだ。馬鹿にしないでくれ。私だってここにいたくている訳じゃないんだ。不様なのは分かってる。分かっているからもうやめて。馬鹿にしないで……。


(苦しいよ……。)



―10月24日 夕方 高原拓弥


ふと窓の外を眺めると制服姿の少女が目に入る。


(あ……夢羽さんが帰ってきたんだ。)


目で追っていると夢羽さんは家に入る訳でもなく、そのままふらふらとどこかへ歩いていってしまう。その危なっかしい足取りを見ていたらいてもたってもいられなくなり、俺は急いで外へ出た。


「夢羽さん!」


夢羽さんは振り返った。安心した。俺の声がちゃんと聞こえるようだ。


「おかえり。」


酷く暗く、絶望を映した眼は前に会ったときよりも濃くなっているように見える。それでもその眼は俺を見ると安堵の色を見せた。


「ただいま。最悪だったよ。」


そう言って夢羽さんは乾いた笑みを浮かべる。


「ねえ、高原さんは私のことどう思ってる?」


ふと夢羽さんが質問をする。


「どう思ってるって、どういうこと?」


質問を質問で返すと、夢羽さんはその暗い闇を映した眼をこちらに向けた。


「私のことを面倒くさいって思ってない?皆そう思ってるんだ。高原さんも……」


夢羽さんはとても不安そうな表情をして言う。修学旅行の間、きっとずっと不安だったのだろう。今すぐ安心させてあげたいけど何て言えば良いのだろうか。


「ごめん、こうやって聞くこと自体面倒くさいよね。でも私……高原さんにまでそう言われたら……高原さんににまで嫌われたら…………」


「大丈夫ー」


言いかけた言葉を夢羽さんが遮る。


「私、高原さんのこと、好きだから。」


(えっ……?)



―10月27日 夕方 夢羽葵


学校帰り。私は俯き、早足に歩く。なんであんなこと言ってしまったのだろう。今まで築いてきた関係がめちゃくちゃになりかねない発言を思い出しては自分に腹が立つ。


(今頃困ってるんだろうな……高原さん。)


昨日はあのまま高原さんの反応も見ずに、逃げるように帰ってしまった。それからは気まずくて高原さんの家すら直視できずにいる現状である。


(はぁ……どうしよう。)


高原さんに言った言葉は紛れもない本音だった。私は高原さんのことが好きだ。でもいきなりすぎてドン引きされたかもしれない。それとも私なんかに好かれてしまって嘆いてるのかも。それか唐突過ぎる告白に嗤っているかもしれない。どのみちとんでもなく気まずいことには変わりない。私の発言が無かったことになってくれればと願うばかりだ。


「あ……夢羽さん。」


不意に背後から声がかけられる。振り返るとコンビニの袋を手に持った高原さんが立っていた。


「この前のあれは……その……告白的な意味?」


高原さんは気まずそうに言った。どうやら私の発言は無かったことにはなっていなかったようだ。恥ずかしすぎて穴があったら埋まりたい。


「私みたいな奴に好かれるなんて嫌だよね……見た目も可愛くないし……面倒くさいし……その、うん、ごめんね。」


居心地が悪くなって俯く。今すぐ逃げ出したい気分だ。


「あのね夢羽さん、聞いて。」


私は高原さんの方を見れずにいた。だから高原さんが今、どんな顔をしているのか分からない。


「正直、驚いたよ。でも、嬉しかった。」


「えっ……」


高原さんの口から出た言葉に驚き、顔を上げる。高原さんは真剣な表情で私を見ていた。


「夢羽さんが辛いときに寄り添えるのは俺だけでありたいとか……思っちゃってるし、夢羽さんが独りだって感じるなら俺がその不安をぬぐってあげたい。俺はいつでも夢羽さんの味方だよ。だから、そんなこと言わないで。」


そう言って高原さんは照れたように笑う。


「なんて、かっこつけすぎだね、俺。偉そうに言ってるけど、俺もけっこう夢羽さんに支えられてるしこれからも支えられると思う。」


高原さんは再び私を真っ直ぐ見つめた。


「こんな俺で良ければ、付き合ってください。」


心臓が早鐘を打つ。夢でも見ているような感覚。これは現実なのだろうか。言葉が出ないでいると高原さんは悪戯っぽく笑って言った。


「駄目だった……?」


その様子を見て私も自然に微笑んでいた。緊張がほどけてようやく声が出る。


「断るわけ、ないじゃん。」


よくよく考えればおかしな話だ。私から告白したのに断るわけがない。


「そういえば、下の名前なんていうの?その、下の名前で呼んでもいいかな?」


私の言葉を聞いて、高原さんは恥ずかしそうに笑った。


「いいよ。俺は拓弥。」


(拓弥、拓弥。)


心の中で繰り返す。自分から言っておいて下の名前を呼ぶのはなんだか恥ずかしいなと思う。でも私から言ったんだからちゃんとしなきゃ。


「君は確か葵っていったよね?」


突然下の名前を呼ばれて驚く。なんだか今日は拓弥の言葉に驚かされてばかりな気がするな。


「なんで下の名前知ってるの?」


「なんでって……最初名前聞いた時に教えてくれたじゃん。」


「え……覚えてたんだ……。人の名前覚えるの得意なの?」


「んー、得意って訳じゃないけど。」


私は人の名前を覚えるのがめっぽう苦手なので、人の名前を覚えていられる人って尊敬する。拓弥はやっぱり凄いな。そんなことを思ったり。


「よろしくね。拓弥。」


「うん。よろしく、葵。」



―11月4日 昼 高原拓弥


ふとカレンダーを見る。


(もう11月か……。)


秋の心地良さもなくなり、最近はすっかり冷えていて寒い。外へ出たくないレベルで寒い。まぁ、元から滅多に外に出ないけど。

この時期は布団にこもっていると温かくて外に出る気力が奪われるのだと言い訳を言っておこう。実際ゲームとかやる気も起きず、布団の中でただひたすらに寝るというだらけきった生活をしているわけだが。うん、この時期はよく眠れる。


―ピンポーン


家のインターホンが鳴り、遠く霞かけた意識が元に戻ってくる。


(葵かな。)


ドアを開くと予想通りの人物がそこに立っていた。


「どうも、拓弥。はい、これ。夕飯にでも食べてね。」


そういって葵は俺に袋を差し出す。葵がくれた袋の中を見ると、ハンバーグの入ったタッパーがあった。


「夕飯?お昼じゃなくて?」


率直な疑問を口にすると葵は口元にうっすらと笑みを浮かべた。


「今からどこか出かけない?」


これっていわゆるデートだろうか?葵は機嫌良さそうに笑っている。


「随分と突然だね……。」


「たまには外の空気吸わなきゃでしょ。」


「お気遣いどうも。」


こんなムードのないデートがあって良いのだろうか。まあ、葵が楽しそうだからいっか。


「……で、どこ行く?」


流石は引きこもり。こういう時にどこに行けばいいかどころか、ここら辺にあるお店が分からないという根本的な所からの問題がある。情けなく思いながらも葵の方を見ると葵はどこか思い当たるところがあるようだった。


「えっとね、前に家族と行って美味しかったカフェがあるの。そこに行かない?」


葵の表情が若干曇る。これは何か話したいことがある時の表情だ。今回食べに誘ったのもきっと聞いて欲しいことがあるからなんだろう。とにかく俺には断る理由がないので、カフェへと向かうこととなった。

そこは随分とこぢんまりとしていて物静かな雰囲気のカフェで、どこか葵に似合うとそんなことを思う。葵はパンケーキを頼み俺はパスタを頼む。そこまできて葵はようやく一息ついて俺の方を見た。


「拓弥はさ、いじめっこのこと……どう思う?」


なんでそんなことを聞くのだろう。確か前にいじめられてるのか聞いたときはいじめられてはいないと言っていたはずだ。学校で何かあったのだろうか。


「『正義』が『正義』であるための行為が行きすぎたものとなった結果だと思う。『正義』の側の人間は『悪』を作って自分を守ろうとする。そしてその立場が当たり前になってきて、『正義』が『悪』を潰す行為が『ストレス発散』へと変わっていく。でもそれは『正義』だから悪いことじゃない。正しいことなんだって。そうやって生まれるのがいじめだと思う。」


俺は言葉を慎重に選んで言う。葵はパンケーキを一片食べてから真っ直ぐに俺を見て言った。


「私の姉さ、いじめやってたんだ。」


あることが原因で強い偏見を持たれるようになった。いつだったか葵が言っていた言葉を思い出す。俺は静かに言葉の続きを待った。


「中学の頃、その事が噂で広まっちゃってさ。それで避けられるようになったの。散々馬鹿にされたし、ひとりぼっちだった。」


きっと葵はそこで『悪』の側の人間へと追いやられ、『暗』の人間になったのだろう。葵は言葉を続けた。


「私は学校が嫌いだった。何で避けられなきゃいけないのか。何で馬鹿にされなきゃいけないのか。嫌で嫌で仕方がなくて、皆が嫌いだったし、私自身のことも嫌いになった。」


語る葵の眼は憂いを帯び、俺はかける言葉を失う。下手な言葉は偽善的な言葉になるだけだ。何を言えばその眼に移る絶望を取り払えるのだろうか。どうすれば葵を安心させられるのか。


「高校に行けば環境が変わるって信じてた。確かに変わった。でもそれがかえって私には怖く感じた。皆言わないだけで心の中で私のことを馬鹿にしてるんじゃないのかって。変だよね。環境が変わって喜ぶべきなのにさ。」


それは仕方のないことなのだと思う。今までずっと『悪』として扱われたものがいきなり優しくされたって戸惑うだけだ。『正義』のいない環境に順応できずに戸惑う内にいつの間にか『暗いやつ』と言われるようになり、『明』の側の人間と『暗』の側の人間とに分かれるようになる。そういうもんだろう。だいたい『正義』のために作られた人格がいきなり『正義』のいなくなった環境に馴染めるはずがない。


「私さ、私をこんなんにした姉が大嫌いだよ。顔を思い出しただけでイライラするの。でもさ、こんなにイライラしてるのに姉には何一つ伝わらないの。余計にイライラしちゃって。姉のことは絶対に許せない。どうしても許せないの。……ねぇ拓弥。私って心が狭いのかなぁ。」


葵はすがるように俺を見た。葵のことだからきっと姉を許せない自分を許せず、ずっと悩んできたのだろう。葵は優しすぎるんだ。


「大丈夫だよ。葵が心配することは何もないよ。葵は優しいからさ。自分を許すのは難しいかもしれないけど、どうか自分のことを認めてあげて。」


俺の言葉を聞いて葵は安堵の表情を浮かべた。


「うん。ありがと。」


残り一片となったパンケーキを眺めていた葵は、ふと俺の方を見て苦笑する。


「なんか、ごめんね。こんな話しちゃって。」


「ううん。良いんだよ。気にしないで。こうやって葵のこと知れるの、嬉しいから。それにパスタも美味しかったし。」


「そっか、それなら良かった。」


俺は、葵がこうやって話してくれることがとても嬉しかった。葵の気持ちは痛いくらい分かる。だから安心させたい。葵は独りじゃないんだって。


「あのさ拓弥。今私、いきてる?」


「うん。いきてるよ。少なからず俺の目にはそう見える。」


「そう。拓弥もいきてるよ。」


そう言って葵は笑った。今まで見たことのないような、とても優しい笑みだった。



―12月25日 昼 高原拓弥


ふとテレビを見ていると、テレビはクリスマス特集みたいなものをやっていて、俺は今日がクリスマスだということを思い出す。


(あぁ、そういえば今日クリスマスだっけ。)


普段は全く気にしないのだけど、俺は葵の顔を思い浮かべた。


(ケーキぐらいは買ってやるか。)


寒いし外へは出たくないのだけど、そうも言ってられない。

窓の外を見ると人が歩いているのが見えた。


(あれは……)


葵だ。補習があるとか言っていたけどその帰りだろうか。どうにも様子がおかしい。とても体調が悪そうだ。


(大丈夫かな……?)



―12月25日 昼 夢羽葵


辺りがすっかり寒くなったこの時期は学校はもう冬休みに入っている。しかし私は今日も学校へ行ってきていた。普段散々学校を休んでいたから補習があるのだ。とても面倒臭いけど人があまりいない学校は普段よりは居場所の無さを感じない。人がいなくても学校は学校なので早く帰りたいけど。

家に帰り、私は溜め息を吐く。どうにも全身が重い。それに頭も痛くて寒気もする。どうやら私は風邪を引いてしまったようだ。

学校がある時に風邪を引くなら学校を休む口実になるから良いんだけど、学校がない日に風邪を引くなんて最悪だ。補習は休むわけにはいかないし。

全身の重みに任せて布団に横になっていると不意にインターホンが鳴った。


(誰……?)


居留守を使おうかと思ったけどなんとなく出なくてはいけない気がして、重い体をなんとか持ち上げ玄関のドアを開く。そこには拓弥の姿があった。


「拓弥?珍しいね、拓弥が私の家に来るなんて。」


「窓の外見てたらさ、葵が見えて。葵、凄く体調悪そうだったから心配でさ。」


あまりに唐突な訪問に家の中が片付いていないままだ。私は呑気にそんなことを考える。


「親は?」


「仕事でいないよ。」


「そうなんだ。お昼はどうするつもり?」


「……食べないつもり。」


「言うと思った。」


私が悪戯っぽく笑うと拓弥は呆れたような笑みを浮かべた。


「今お粥作ってあげる。葵は横になっててね。」


拓弥は私の髪を優しく撫でてから台所の方へ行く。私はその様子をぼんやり眺めていて、ふと泣きそうになってしまう。


(私……無理してたみたい。)


周りに迷惑かけたくないというか……拓弥を不安な気持ちにさせたくない。拓弥のお陰でせっかく元気が出てきたけど、こうやって体調が悪くなったりすると気持ちも沈んできて、どうしてもマイナス思考になってしまう。何度も辛い気持ちが戻ってきては暗いことばかり言う自分に逆戻りしてしまうことが申し訳なくなってしまう。


(やっぱり私は私のこと、許せないよ……。)


ー自分を許すのは難しいかもしれないけど、どうか自分のことを認めてあげて。


前に拓弥が私に言ってくれた言葉を頭の中で繰り返す。

どう頑張ったって私は自分のことを好きになることができないし、許すことができない。せっかく元気付けてくれたのに、いまだにこんなことを思ってしまっているのを拓弥が知ったら、拓弥もうんざりしちゃうだろう。私がまた暗いことを言えば、そろそろ拓弥も嫌気がさして私から離れてしまうんじゃないかって、そんな気がしてしまって辛い。私はそんな自分が本当に嫌いだ。


「葵。」


拓弥に名前を呼ばれ、ハッと我に返る。


「無理をしないで。辛いときは吐き出して良いんだよ。俺はそう簡単に葵を嫌いになったりなんかしないから、さ。」


優しい笑みを浮かべた拓弥は、まるで私の心の中を読み取ったかのように言う。


「自分のことを認めるのってやっぱり難しいよね。葵が自分のことを肯定できないなら、俺が葵の分も、葵のこと肯定してあげるから。だから、安心して。」


そう言って拓弥は私を抱きしめ、背中をぽんぽんと叩く。安心したのか、はたまた溜め込んでいた辛い気持ちが溢れてきたのか、涙が溢れてきて止まらなくなってしまう。

そんな私を拓弥は泣き止むまで抱きしめてくれていた。


「ありがとう、拓弥。」


「どういたしまして。お粥、できてるよ。食べる?」


「うん。食べたいな。」


お粥を持ってきた拓弥がこちらの様子を窺うように見てくる。私はお粥を口に入れると、自然と笑顔になっていた。


「ふふっ。美味しくない、ね。」


「えぇ!?」


私の素直な感想に拓弥はすっとんきょうな声を上げる。


「でも……凄く美味しいよ。」


「えっ?どういうこと!?」


私の言葉に困惑する拓弥。その様子が可笑しくて私は声を上げて笑う。


「拓弥といると元気が出てくるよ。いつも元気をくれて本当にありがとう。なんか拓弥から貰ってばかりで、私、返せてないなぁ。」


いつも元気を貰ってばかりで私もお返しをしたいと思うけど、拓弥が弱音を吐くことなんてあんまりないからな……。


「そんなことないよ。俺だって、葵からいっぱい貰った。葵は分からないかもしれないけどさ。」


拓弥は優しい表情で私を見る。


(あぁ、敵わないなぁ。)


「あ、そういえば葵。これ、あげるよ。」


ふと思い出したように拓弥が箱を私に手渡す。


「えっ、何だろう。」


唐突に渡された箱を不思議に思いつつそれを開けてみると、中にはとても美味しそうなショートケーキが入っていた。


「わぁ……!凄く美味しそう……!」


「ほら、今日クリスマスだからさ。ごめんね。こんな体調悪いときにケーキなんか持ってきちゃって。他にプレゼント思い浮かばなくて……。明日にでも食べて!」


拓弥に言われて初めて今日がクリスマスということに気がつく。いつもクリスマスに何か特別なことをすることがなかったから意識したことなんか無かったな。拓弥がわざわざプレゼントをくれたことに嬉しくなって、私は首を横に振って言った。


「ううん。今食べる。一緒に食べよ!」


ショートケーキの隣にあったチョコレートケーキを拓弥に渡し拓弥の顔を見ると、拓弥と目が合った。

ふと以前の拓弥の眼を思い出す。何も映さないとても、とても虚ろな眼。


(拓弥の眼、随分と変わったな。)


拓弥の眼は今、確実に私を映している。私はそのことがとても嬉しかった。



ー1月10日 昼 夢羽葵


「……!!」


目の前に書かれた数字に私は泣きそうになる。

今日は大学受験の合格発表がある日で、私はこの日のために頑張って勉強をしてきた。

正直大学なんてどうでもよかった。きっと一人じゃ受からなかっただろう。でも拓弥の喜ぶ顔が見たくて、拓弥に褒めてもらいたくて、いつの間にか私は一生懸命になっていた。


「受かった……受かったよ……!!」


私は急いでその場を後にし、拓弥の家へと向かった。

少し浮わついた気持ちでインターホンを押すも、返事がない。


「拓弥……?」


いくら待ってもドアが開かないことに不安を覚え、ドアノブを回してみる。扉は鍵がかかっているようだ。

私はいてもたってもいられなくなり、駆け出した。


「拓弥を捜さなきゃ……!」



ー1月10日 夕方 高原拓弥


歩道橋の真ん中、俺はふと足を止めて景色を眺める。

冷たい風が俺の心の隙間をなぞっていくようだ。

ぼうっと歩道橋からの景色を眺めていると、ふと脳裏に葵の姿が浮かぶ。


(最初に会った時は、底無しの絶望を映すような、そんな眼をしてたよな。)


凍えるような虚ろな眼は鮮明に脳裏に焼き付いている。あの眼を忘れることはないだろう。


(葵は変わった。)


笑顔が増えた。感情が豊かになった。明るくなった。

ただただ絶望を映していた眼は、未来を見据えるようになった。

葵には未来がある。

小さい頃から作られてきた呪いのような人格を捨て、徐々に本当の自分を表現し始めている葵にはいろいろな可能性があるだろう。葵はきっと、幸せになれる。なって欲しい。

絶望しか映さなかった葵が前を向くきっかけになれたこと、辛くてどうしようもなくてもがいていた葵に寄り添えたこと、俺は誇らしく思う。


(俺がいなくても、前を見続けてくれるだろうか?)


葵は強いから、きっと前に進める。だってここまで変わってこれただろう?俺がしたことと言えば葵に共感して、気持ちに寄り添って、死んでしまいそうな葵の心が死なないようにほんの少し支えてあげただけだ。葵が変われたのは、それだけ葵が強いからだろう。


(なんだかかっこつけてばかりいたな。)


本当は、何にもない空っぽな人間なのにさ。


(俺には……何にもないんだ……。)


例えるなら映画が終わった余韻のような、終わったものをただずるずると引きずって今を生きているだけだ。俺の話は多分とっくに終わっているのだろう。もう、何もないんだ。

だから、もうそろそろ終わらせなくてはいけない。


(あぁ、本当に酷い話だったな。)


いつも生きるべき人が死んで、死ぬべき人が死ぬ。そんな話。


(こんなにも生き延びてしまって……ごめんなさい。)


「拓弥!!」


歩道橋の柵に置く手に力を入れた時、不意に名前を呼ばれる。

振り返ると走っていたのか肩で息をする葵の姿があった。

葵は俺の顔を見ると泣き出し、か細い声で言った。


「お願い……死なないで……。」


その声を聞いてふっと我に返る。


(俺は、馬鹿だ。)


目の前にある幸せに気づかないで、また過ちを繰り返すところだった。


「ごめん……ごめんね。」


目の前で泣きじゃくる葵の頭を撫でて、俺は優しく呟く。


「帰ろっか。」



ー1月10日 夜 高原拓弥


家に着くと葵は料理を作ってくれた。


「ありがとね。わざわざごめん。」


「ううん。気にしないで。私がしたくてやってることだから。」


できたてのオムライスとスープを二人分テーブルに置き、葵は俺の隣に座る。


「いつも気にかけてくれてありがと。葵の料理本当に美味しくて、俺、好きだよ。」


素直な感想を口にすると、葵は恥ずかしそうに笑った。


「あのね、拓弥。私、拓弥の話が聞きたい。」


不意に葵が呟く。葵はとても真剣な眼差しで俺を見ていた。


「いつも私ばっかり話してたから……。私、拓弥のことあんまり知らないなって……思って。」


「そうだっけ?それはごめん。うーん……でも俺のことって、何を話せば良いんだろ。」


俺が考えていると、葵が口を開く。


「拓弥はどうして、そんな顔をするの?何ていうか、その……まるで明日が無いかのような……真っ白で何にもない眼……。」


「あはは。そんな変な顔してたのか、俺。それって、うーん……多分、大事なものを無くしすぎたんだと思う。」


「大事なもの……。」


俺は天井を見上げ、呟く。


「そ。大事なもの。」


「それって……。」


「何年か前にさ、母が亡くなったんだ。俺、ずっと母のこと、うるさいなって、鬱陶しいって思ってた。それで……母が亡くなった時本当に後悔した。父は俺が物心つく前に亡くなってて、母は女手一つで俺を育ててくれてて……今思うと本当に立派な母だったと思う。それなのに俺、何となく母が嫌で、ろくに話もしないまま家を出て、それでも母は俺を気遣ってたまに何か贈ってきてくれたりしてた。俺にとって母がしてくれた親切が当たり前になってたんだろうね。母が亡くなってようやくその当たり前に気づいてさ……もう遅いのに。」


「うん。」


まるでせき止められていたものが溢れるように喋り出す俺に、葵はただ頷いて聞いていた。


「本当に俺は馬鹿だ。母が亡くなったことで塞ぎ込んで、ひねくれて、また同じ事を繰り返したんだ。竜也はずっと、俺のことを心配してたのに。ほんと……救いようのない馬鹿だよ……。」


喉までせぐり上がってきた感情を吐き出すのが怖くて、俺は俯いた。痕がつきそうなくらい固く握りしめた手の上に葵がそっと手を乗せてくる。


「自分のことを許すのって、難しいね。」


そう言って葵は俺の体を抱きしめた。前に俺がしたように。


「自分のことを好きになるのって難しいよね。ずっと自分を責めてたんでしょう?ずっと、ずっと……。」


葵は優しい声音で言った。


「吐き出して良いよ。堪えなくて良いんだよ。」


その言葉を聞いた途端、とうとう堪えていたものが溢れ出す。


「寂しい……寂しいよ……。凄く、辛い。何度も何度も何度も、自分のことを責めて、それでも足りないんだ。本当に、辛い。本当に……。」


「うん、うん。辛いね。寂しいね。よく頑張ったね。」


何もかも受け止めてくれるような葵の言葉に安心したのか、それとも止めどなく溢れてくる感情のせいか、俺の視界がじわりと歪む。

そのまま俺はしばらく泣き続けた。

その間葵はずっと、俺に寄り添ってくれていた。


(泣いたの……いつぶりだろうか……。)


「取り乱しちゃってごめんね。ありがとう。」


だいぶ落ち着いてきた俺はなんだか恥ずかしくなってきて葵を見れないでいた。


「ううん。謝らないで。私、拓弥のこと、知れて嬉しかった。」


そう言って葵が優しく笑う。


「ごめんね。私は拓弥がいないと駄目だから、もうちょっと頑張っててくれないかな?」


葵の言葉に俺は頷く。

もうきっと間違えない。葵が俺を必要としてくれている。

俺はそのことがとても嬉しかった。


「あ、そうだ。あのね、拓弥。」


葵が改まって俺の方を見て言う。


「大学、受かったよ。」


「本当!?」


つい大きな声を出してしまうと、葵は嬉しそうに笑った。


「葵、凄く頑張ってたもんね。俺も嬉しい……!」


「うん。ありがとう。」


(前まで高校を卒業するために出席日数と戦ってた葵が大学に行くなんて、本当に成長したなぁ。)


「本当に葵は、強くなったな。」


なんだか感慨深くなって葵の頭を撫でると、葵は満面の笑みを俺に見せて言った。


「拓弥のお陰だよ。」



ー2月10日 昼 高原拓弥


(時間ってあっという間に過ぎるよな……。)


気がつけば1月が終わってもう2月だ。まだまだ寒くて春になるという実感が湧かないななんて思いつつ、俺はテーブルを陣取っている人物を眺める。

ようやく補習も終わり、春休みに突入した葵は毎日のように俺の家に訪ねて来ては大学に向けて勉強をしている。


「随分と気合いが入ってるようだけど……あんまり無茶しちゃ駄目だぞ?」


俺が言うと葵はこちらに顔を向け、にこりと笑った。


「大丈夫だよ。息抜きもけっこうしてるから!」


「そう?なら良いけど。」


大きく伸びをする葵をぼんやりと眺め、俺は独り言のように呟く。


「葵はさ、そろそろ卒業だけど……寂しい?」


「全然。」


「言うと思った。」


答えなんて分かりきっていたけど、葵の即答っぷりについつい笑ってしまう。


「大学は?楽しみ?」


「え、そうでもない。」


「そうでもないんかい!」


「でも頑張るよ?将来のためだもん。」


葵が口に出した言葉に俺は驚き、葵の顔をまじまじと見てしまう。


「えっ、どうしたの?私、変なこと言った?」


「いや?葵、将来のこと考えられるくらい成長したんだなって。」


俺が言うと、葵は照れたのか顔を背け、恥ずかしそうに「まあね。」と呟いた。


「初めて会ったのって、去年の3月くらいだっけ?あの頃の葵からは想像もつかないというか……ほんと、成長したよな。」


あの頃は目の前の道すら見えてるのか怪しい感じで、凄く危なっかしかったよな。なんだか凄く懐かしい。


「出会ってからそろそろ一年経つんだ……ほんと、あっという間だったな……。」


「そうだね……私もまさか卒業できるなんて思ってもいなかったよ。拓弥も、けっこう変わったよね。」


「そう?」


俺が首を傾げると、葵は可笑しそうにくすくすと笑った。


「変わったよ。何ていうか……安定したと思う。」


「安定……?」


「うん。前の拓弥は凄く不安定というか……ちょっとしたことで消えていなくなっちゃいそうな、そんな感じがしてたから。」


「俺、葵の目にそんな風に映ってたのか……。」


自覚はなかったけど、俺も成長してるってことなんだろうな。


「お互い、よく頑張ったよな。」


「うん。そうだね。」


互いに顔を見合せ、笑う。これからも決して楽な道ではないし、辛い、苦しいって気持ちが戻ってきてはせっかく成長したものも逆戻りしたりするだろう。

そんな時に俺は葵を支えてあげる存在になりたいし、きっと葵も俺のことを支えてくれるだろう。

だから……なんとかなる気がするんだ。俺も葵も、もう独りじゃないから。


ー3月1日 昼 夢羽葵


今日は卒業式があった。

クラスの人の中には泣いてる人とかもけっこういたけど、私は演技でも泣くことはないだろうななんて、そんなことを考えていた。

卒業式が終わって、物凄く清々しい気持ちになった。やっと、辛かった学校生活が終わるんだって。まるで自分の心を縛りつけていた呪縛から解放されたような、そんな感覚。

心がとても軽くなった気がする。

学校を出ると私はすぐに拓弥の家へと向かう。

インターホンを押すと拓弥はすぐに出てきてくれた。


「葵、卒業おめでとう!本当によく頑張ったな。」


「うん!ありがとう!」


満面の笑みで答えると、拓弥は私の頭をわしゃわしゃと撫でた。


「私が卒業できたのは、拓弥のお陰だよ。本当にありがとう。」


私は拓弥に改めてお礼を言う。拓弥はとても穏やかで優しい眼を私に向けて、言った。


「ここまで成長したのは、葵自身が頑張ったからだよ。俺はほんのちょっと支えただけ。」


「うん。その支えがあったから私は頑張れたの。」


拓弥には本当にいっぱい支えて貰った。正直、拓弥がいなかったら私はとっくに死んでいたかもしれない。拓弥が私に『いきる力』を与えてくれたから、私は今こうしてここにいるのだろう。


「そっか。」


拓弥は照れたように笑う。それから「あのさ。」と言葉を繋げた。


「俺、仕事始めることにしたんだ。」


「えっ?」


突然の耳を疑うような台詞に驚き、つい変な声が出てしまう。


「ほら、将来葵を養うにはそれなりの収入が必要でしょ?それに、恋人がニートってなんか、嫌じゃん。」


「や、養っ……!」


拓弥の言葉に顔の温度が一気に上がるのを感じ、私は恥ずかしく思いながら拓弥の表情を窺う。

拓弥は真剣な表情で私を見つめていた。


「俺、頑張るから。葵も、頑張りすぎない程度に頑張ってよ。応援してるから。」


拓弥の言葉に私はどうしようもないくらい嬉しくなる。


「ありがとう。ねぇ、拓弥。」


「ん?」


私は拓弥に飛びっきりの笑顔を見せて、言う。


「大好き。」


これから私たちはそれぞれ新しいスタート地点に経って、0からの道を歩み始める。それはきっととても大変なことだ。

きっと何度も何度も辛くなってはより自分が嫌になったりするだろう。

生きていくことはとても簡単で、とても難しい。

これから先、多くの困難と想像できないくらいの苦痛が待ち受けてるだろう。

それでもきっと、私たちは生きていける。

だって私たちは、独りじゃないから。

『生きる』って、そういうことでしょ?


ー今日も、明日も、その先も。


ー俺は。


ー私は。


『生きていく』

ここまで読んでくださった方に心から感謝します。

この小説は生きることの難しさをテーマに書きました。何度慰められてもなかなか前を向けなかったり、前を向いたと思ったらまた逆戻りしちゃったり。すぐには元気になれないことって、本人が一番辛いんですよね。

この小説、三年くらいかけて書いたもので、最初と最後がちぐはぐであったするかもしれません。

私も三年の間にいろいろ変わって、おんなじように書けなくなってしまって……本当に、お見苦しい文章を見せてしまって申し訳ないです。

私はこの小説でなろうでの投稿は最後にしようかなと考えていて、最後に相応しいボリュームになったかなと思います。

私の作品を読んでくださった方に、心から感謝します。

ありがとうございました!

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