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花子(神々のいない三角地帯)

作者: 田中 直也

少年時代は冒険にあこがれる。特に夏休みは、一年で一番胸が躍るとき。怖いけど、怖いものをやっつけたい。ゲームの中の勇者のように、悪の魔王を、あるいは怪物を退治したい。そんな気持ちから、空き家を探検したり、裏山の洞窟に入ったり、そんな経験は、あるいは思いはありませんでしたか?

おもちゃの刀を携えたり、ポケット一杯に石を詰め込みパチンコを握りしめたりして、未知なる冒険をした記憶はありませんか?

すでに忘れてしまった、そんな冒険の世界にご招待します。

(1)

 ―平成五年七月―

ちょうど木陰になっているベンチに座り、石原美智子はうつらうつらしていた。

 七月の午後の暑い日差しも、木陰にいるとさほどでもなく、快い風にふかれながら本を読んでいるうちに、ついうとうとと眠ってしまったらしい。  膝の上から本が地面に落ちた音で美智子は目をさました。

 本をひろいあげると、手の甲で額にうっすらかいた汗をぬぐいながら、娘の真美に目をやった。真美はあいかわらず砂場の中であそんでいた。

 小さな麦わら帽子をかぶり、スコップでお気に入りの赤いバケツに砂を入れては、上からたたき、かためて、さかさまにして小さな山をつくっていた。

 そのあいだじゅう、誰かとおしゃべりをするかのようにひとりごとをいっている。

近所の同い年のお友達は真美より一年早く保育園へ入ってしまい、みんなが帰って来るまでは一人で遊ばなければならなかった。

 しかしあと十日もすれば夏休みになるはずで、そうしたら朝からお友達とあそぶこともできる。それまでは私が相手をしてあげなくては、などと考えながら美智子は真美を見つめていた。

美智子の視線にきづいたのか、真美はスコップを軽く振り上げた。

 美智子も手を振ってこたえたが、その手を口にもってくるとあくびをした。まだ少し眠気が残っていたので、静かに目をとじると、またうとうとしはじめた。

「真美ちゃん」

 すぐそばで呼ぶ声がしたので、真美は顔をあげた。周りを見回したが誰もいない。お母さんはベンチで眠っていた。

この公園は団地の裏手にあった。荒川と隅田川のあいだがせばまってできた三角地帯にあり、団地側からテニスコート、グラウンド、公園と並んでいた。団地の建物のむこうに荒川が流れ、公園の脇には隅田川の高いコンクリートの壁が続いていた。

真美は鈴の音を聞いた。鈴の音は公園とグラウンドの間にある公衆トイレの建物のほうから響いていた。

 真美がそちらの方を見ていると、建物の陰から風船が三つ現れた。風船に続いて長い白い糸が見えて、風にゆらゆら搖れていた。

「真美ちゃん」

とまた聞こえて、鈴の音とともに浴衣を着た小柄なおばあさんが建物の陰から現れた。

 風船の白い糸を握って、微笑みながら真美に手招きをした。

真美はスコップとバケツを持ったまま立ち上がった。

 お母さんの方をちらっと見たが、ベンチに座って居眠りをしていた。

 真美はおばあさんの方に視線をもどした。

「真美ちゃんおいで。真美ちゃんは風船が好きでしょ。どれか一つあげるから、こちらへおいでよ」

 お手洗いの建物までは少しはなれていたが、真美にはその声がすぐそばに聞こえた。

午後の光をあびてその風船はきらきら輝いていた。赤と青と黄色の風船が風に揺られて、手招いているようにもみえた。

 お母さんをもう一度見たが眠っていた。

真美はその風船がどうしても欲しくなってしまった。あの風船をもらってお母さんに見せたら、きっとお母さんも大喜びするとおもった。だってとってもきれいな風船なんだもの。真美はゆっくりおばあさんの方へ歩き始めた。

鈴の音を聞いたような気がして美智子はゆっくり目をあけた。真美がゆらゆら搖れる陽炎の中を、スコップとバケツを持って、お手洗いの方へ歩いてゆくのが見えた。

 水道の水をくみに行くのかなと思いながらも、美智子はどうしようもない眠気に勝てず、水道の栓はちゃんとしめるのよ、と夢の中で真美に言いながら眠りに入ってしまった。

真美が近づくと、微笑みながらおばあさんはいった。

「真美ちゃんはどの色が好き。赤かな、青かな、それとも黄色かしら」

 近くでみる風船は、さっきよりももっときれいで、きらきら輝く大きな宝石のようだった。

 真美が赤色と答えると、おばあさんが赤色の風船の糸をさしだした。

 真美が受け取ろうとしたときに、風船はおばあさんの手を離れ空へのぼって行った。

真美はおもわず空にのぼって行く風船をみつめた。青い空にきらきら輝く赤い風船がとてもきれいだった。

いつの間にか手首をにぎられていた。手首が強くにぎられて痛いと思った真美が視線を下ろすと、毛むくじゃらで長い爪を持った大きな手がそこにあった。

 真美が小さな悲鳴をあげながらおばあさんをみると、赤頭巾ちゃんの絵本でみたことのあるこわい狼が、大きな赤い口を開けてそこに立っていた。

悲鳴を聞いて美智子は目をさました。

おもわず砂場を見たが真美はいなかった。

 真美はどこにいったの。ああ、そうだ。水をくみにいったんだわ。

 美智子はベンチから立ち上がると、ゆっくりお手洗いへ向かった。蜘蛛か何かを見つけてびっくりしたのかしら。

 洗面所のところにはいなかった。

 建物の陰になるところに、真美の麦わら帽子が落ちていた。急いで建物の横へ回った美智子は、不思議なものを見たように、首をかしげて立ち止まった。

 小さな血の池の淵で、女の子がうずくまって頭を血の池の中にいれている。

 その女の子を、池の中に首までつかり、頭だけを出した真美が、目を見開き大きな口を開けて、いまにもかみつきそうにしているのが見えた。

「真美、そんな所へ入って何をしているの」

美智子はつぶやくように言った。

 違う、こんな所に深い池などなかったわ。

それにうずくまっている子は真美よ。しかも池の中に頭を入れているのじゃないわ。

首から先がないのよ。

 美智子はあたりの空気が急にうすくなったかのように、肩で二ー三回大きく息をすうと、口に手をあてて悲鳴をあげながら意識を失った。






(2)


 「明日から夏休みです。始業式の日には元気な姿を見せられるように、夏休みの間病気とか事故のないように注意してくださいね。 それから最近変わった事故が多いですから、一人で遊ばないで必ずお友達と一緒に遊ぶようにしてください。それでは、さようなら」

「さようなら」

と大きな声で挨拶をすると、五年二組の子供達は帰り始めた。

 どの子の頭の中も夏休みの事でいっぱいで、先生の注意など全然頭に入っていない様子だった。

クラスの大半は帰ってしまったのに、田中智洋はまだ荷物の整理をしていた。家に持ち帰る品物をいつも何か忘れてしまい、よく母にしかられるのだった。

 今日は通信簿の件もあり、忘れ物をして母にしかられるわけにはいかなかった。

 今回の成績はちょっと良かったので、このまえから欲しかったエアガンをごほうびに買ってもらえるかもしれなかった。あのBB弾を発射できるやつだ。

 そのためにも忘れ物をして、母のごきげんをそこねるわけにはいかないのだ。

「早くしろよ。智」

智洋の頭をこづきながら後ろで声がした。

 智洋がふりむくと、兄の雄亮が後ろに立っていた。

「待って、いますぐ終わるから」

智洋はあわてて荷物をつめはじめた。

「なにニヤニヤしてんだよ。成績があがったのか」

「うん」

と短く答えたが、智洋の顔はうれしさでいっぱいだった。

「お兄ちゃんはどうだった」

「まあまあさ、それより早く帰ろう」

雄亮はうかない顔をしていた。

予想していた成績よりちょっと悪かったのだ。それでも一般からみればとても良い成績だった。でも五年生までがとても良かったので、この六年生最初の成績がちょっと不満だった。

 でも智洋よりは、格段によかった。

智洋がごほうびをもらえるのなら、僕も何かごほうびがもらえるかもしれない。

と考えたら、なんとなく心がうきうきしてきた。

「用意ができたよ。帰ろう」

智洋はランドセルを背負った。

「どうしたのお兄ちゃん。何かうれしそうだね」

「何でもないよ。早く帰るぞ」

雄亮はかけだして教室を出た。


ちょっとまえに、公園で真美ちゃんという女の子の事件があってから、雄亮と智洋は一緒に学校から帰るようになっていた。

 その公園はこの小学校のすぐ近くだった。

この小学校も隅田川ぞいににあり、校庭の向こうには高いコンクリートの壁が続いていた。

そのコンクリートの堤防ぞいに二百メートルも行けば、その事件のあった公園に着く。

 その公園でも、隣のグラウンドでも遊んだ事はあったが、今は母に止められていた。

雄亮も智洋も事件の内容を詳しくは知らなかったが、何でも大きな犬みたいなものに、かみ殺されたらしい、と聞いていた。

 警察で調べても確かなことは分からなかったらしい。都会のまん中で大きな動物といえば、動物園から逃げだした猛獣か犬ぐらいしか考えられないからだ。

 警察では一応この付近をたくさんの人で探索した。飼っていた猛獣が逃げ出した事件や、それらしい大きな犬はみつからずでいた。

それでも雄亮はズボンのポケットを石でいっぱいにしていた。智洋は雄亮よりも体は一回り大きかったが弱虫だった。いざとなったら自分が守ってあげなくてはと思っていたからだ。

それとは別に雄亮は智洋に相談があったのだ。学校の校門をでたところで雄亮は言った。

「智、おまえ花子の話はしっているか」

「知ってるよ。三階のお便所に出るやつでしょ」

「そう、そしてなに色が好きかって聞くやつさ」

「でも、僕は恐いからそんな話はきらいだ」

雄亮はちょっと困ってしまった。

実はこの夏休みの間に、花子の探検をしようと考えていた。でも一人では恐いので智洋を誘おうと考えていたのだ。

「智は成績があがったごほうびは何をおねだりするの」

雄亮は智洋がエアガンをほしがっていたのは知っていた。

「エアガンさ」

智洋はすでに手に入ったかのように、うれしそうに言った。

「あの銃はすげえ威力があるからな。あれがあれば智でも恐いものなしさ」

「お兄ちゃんは」

「ほしいものはあるけど。でもちょと成績がさがっちゃったからな」

「何がほしかったの」

「無線機さ、あの離れていても連絡できるやつさ」

「すごい。あれがあったらかっこいいよ」

雄亮は歩きながらポケットから石を一つ取り出すと、通学路の脇に立ち並ぶ木の下に落ちていた空かんめがけて投げつけた。

石が当たった空かんは、音をたててむこうに転がっていった。

「お兄ちゃんは、コントロールがいいね」

智洋はちょっとうらやましそうに言った。

「なあ智。お兄ちゃんが石、智洋がエアガンを持って、そして二人で無線機を一台づつもって探検にいったら、おもしろいと思わないか」

「おもしろそう。でも何処へ行くの」

智洋はちょっと不安そうに言った。

「それは探検だから、ちょっと恐いところさ。でも石とあの銃さえあれば恐いものなしさ」

と雄亮は勇気づけるように言った。

二人は歩道橋を登り始めていた。

足腰の強い雄亮の方が先に登りきった。

歩道橋の上は眺めがよく、この上から下を見おろしていると、なんだか偉くなったような気分になる。

 智洋も登りきって雄亮の横に並んだ。

「智、ここから見ていると、なんだか偉くなった気がしないか」

「うん、そうだね」

と智洋も遠くを眺めた。

「お兄ちゃんは、夏休みの間に花子を探検しようと考えているんだ」

「花子を」

智洋は恐ろしそうに言った。

「そうさ。でも二人で一緒なら平気さ。それに本当は、花子は作り話なのさ。だから実際には何もいないのさ。でも、誰もいない学校に、銃と無線機を持って探検に行ったら、スリルがあっておもしろいと思わないか」

雄亮は少し興奮しながら言った。

智洋も花子の話は作り話だと思っていたが、雄亮に何もいないよ、とはっきり言われて少し安心になり、銃と無線機を持っての探検に、興味がわいてきていた。

「探検も、おもしろそうだね」

と智洋が賛成すると、雄亮もほっと安心した。

「よし、お母さんにはないしょだぞ。そうと決まったら早く帰って、何かお手伝いでもしよう。銃と無線機がないと、どうしようもないからな」

「よし、がんばるぞ」

と智洋も言うと、二人で家までかけだしていた




(3)


それからの五日目の日曜日には、二人ともエアガンと無線機をしっかり手にいれていた。  あの日はすぐに帰ってから、お手伝いを頑張り、喧嘩もしないで一日中よい子にしていた。

そして夜には、成績表を見せながら父にお願いしたが、すぐにはよい返事はもらえなかった。

「お父さん、二人ともお勉強を頑張ったし、しかもお手伝いもよくしてくれて、とても良い子なのよ」

昼間のよい子ぶりがきいたのか、母が助け船を出してくれて、どうにか買ってもらえることになった。

そのエアガンと無線機は素晴らしかった。

二人とも朝早くすでに荒川の土手に行って、その性能を試していた。

 エアガンはかなり離れたところからも標的に楽々当たった。近くの物にはかなりの破壊力をしめした。これとお兄ちゃんの石があれば、恐いものはないぞ、と智洋は興奮した。

無線機もかなり離れたところから、相手の声がはっきり聞こえた。お互いに草むらに隠れて交信していると、もう探検している気分になってしまった。

雄亮は探検を、その日曜日の午後に計画していた。その日の午後、雄亮達の母は学校の体育館でバレーボールの練習を予定していた。何人かの母親達が体育館にいると思うと、とても安心があったからだ。

昼食を終えると、雄亮と智洋と母の千春の三人は、父に留守番をまかせて学校にむかった。

 空は青く澄み渡り、夏の暑い日差しが照りつけていた。

「あなたたち、むこうで喧嘩なんかしないで、静かに見ていてよ」

肩にかけたスポーツバッグからタオルをだし、汗を拭きながら千春が言った。

「平気、平気、いい子にしているよ」

雄亮も千春のタオルのはじで汗を拭きながら答えた。

「あら、あなたたち、無線機を持ってきたの」

雄亮が隠すように持っていたのを千春は見つけて聞いた。

「うん、これで遊ぼうとおもって」

ばつが悪そうに雄亮は答えた。

「そしたら二人は離ればなれになってしまうじゃないの。だめよ、だめ。二人がいっしょにいなくてはだめでしょ」

千春は語気荒く言った。怒っているのではなく、心配と恐怖がいりまじった言い方だった。

夏休みに入っても事件があったからだ、と雄亮はおもった。





(4)


 雄亮達の通う学校の校門を出たところの道路は、右に曲がると五十メーター足らずで墨田川の堤防につきあたり行き止まりになっていた。  道路の向こう側は小さなアスレチック場で、まわりを高い金網の柵で囲まれていた。その向こう側はどこかのビルの裏手で、高い塀で区切られている。

 校門を出て左に曲がると、三百メーターぐらい先でバス通りにぶつかる。それまでの右側には、アスレチック場の終りから桜の木が立ち並び、その下には奥まで背丈の低い潅木が植えられていて薄暗くなっていた。

左側は学校の横にバッティング場の駐車場があり、その先は倉庫が並んでいる。そのため、この道路は一般の人の通行はほとんどなく、小学校の生徒が登校、下校の時に通るぐらいだった。

その日、夏休みの二日目の午後、小学校四年生の吉田博と山下信二の二人は、教室を出ると校門へ急いでいた。プールの着替えに手間取ってしまい、見たいテレビの番組の時間がせまっていた。

「博君、信二君、ちょっと待って。一緒に帰ろう」

博と信二が立ち止まって振り向くと、二階の教室から同じクラスの石山弘子が手を振っていた。

「もう、誰もいないのよ。一人じゃ恐いから待っててよ」

「急がないとテレビがはじまっちゃうよ」

博は怒鳴って答えた。

「そんなこと言わないでよ。それなら信二君だけでも待っててね」

と言うと弘子は教室の奥に消えた。

「しょうがねえな。信二、おまえどうする」

博は石をけりながら言った。

「僕は待っててあげるよ。弘子一人じゃかわいそうだもん」

信二はちょっとはにかみながら言った。

「ははん、そうだよな。信二は弘子が好きなんだもな」

博はからかいながら信二の顔をのぞき込んだ。

「そんなことはないよ。ただこの前、公園で恐い事件があっただろ。弘子は女だから一人じゃ恐いだろうとおもってさ」

信二は恥ずかしさをごまかすように、ちょっと怒りながら言った。

「いいって、いいって。俺、テレビみたいからさきに帰るから」

博は後向きに手を振りながら校門へ歩いていった。

校門を抜けるとき、博は地面が搖れるように軽いめまいをかんじた。地震かなと思ったけど、そうでもないらしい。プールで遊びすぎて、お腹がすいているせいかもしれない。

ありもしない焼きソバやお好み焼きのにおいまでがした。 

校門を出て左に曲がったが、ふと気になって博は後ろを振り返った。

 アスレチック場の金網のとびらが開いていて、縁日みたいなちょうちんが金網の奥に見えた。焼きソバやお好み焼きのにおいも、そこから漂ってくるようだった。

 鈴の音が聞こえたと思ったら、博の耳もとで誰か女の人の声がした。

「博君、こっちへおいでよ。冷たいかき氷もあるよ」

 かき氷か、冷たくて美味しそうだな。

博は夢の中で歩くように、ふわふわした気持ちで歩き始めた。

校舎の玄関口のところで、鈴の音を聞いたような気がして信二は振り返った。博がアスレチック場の開いたとびらへ向かって歩いていくのが見えた。

博のやつ、どうしたのかな。と見ていたら、「信二君、待たせちゃってごめんね」

階段を下りて来た弘子が後ろから声をかけてきた。

 信二は博のことが気になったが、弘子の方に振り返って手をふった。

博はアスレチック場の中へ入っていった。

浴衣を着たおばあさんが、かき氷の屋台の前にいた。焼きソバやお好み焼きの屋台もあったかもしれないが、かき氷の屋台が一番目をひいた。

「博君は何色のかき氷が好きかい。赤色、青色、それとも黄色かな」

屋台の上にはガラスで出来た優勝カップみたいな容器にもられた、いろとりどりのかき氷が並べてあった。

 そのガラスの容器は小さい頃に絵本でみた、ガラスの金魚鉢にそっくりだった。それは太陽の光を浴びて、氷といっしょにきらきら輝いていた。

きれいだな、と博は見とれてしまった。赤色、青色、黄色の氷が・・・。

あれっ、シロップではなくて、氷に色がついているんだ。海賊の宝の箱を開けたときのように、台の上に、宝石が山積みになっているように見えた。

「さあ、なに色がすきかい。赤色、青色、それとも黄色かな」

今度は氷の宝石の中から聞こえたような気がした。

博は氷のグラスに顔を近づけるようにしてつぶやいた。

「青色がすてきだな」

「そうかい、青色がすきかい」

 背後でうすきみの悪い甲高い声がうれしそうに響いた。博は夢から覚めるように、はっとして後ろをふりかえった。

 太陽を背にして黒い大きな陰があった。

真っ黒い陰があっただけだが、なぜか博はそれがゾンビだと思った。あの映画でみたゾンビだ。墓の中からぞろぞろはいだして来た、体のあちこちが腐ってくずれだした死人の生き返りのゾンビ。 

とつぜん、博は頭の後ろを大きな力強い手でつかまれた。博は頭を振ってのがれようとした。しかし、その手の力は強く、かき氷のあった屋台のほうに向き直された。

 さきほどまであった屋台や宝石のような氷は消えていた。そこには以前からアスレチック場にある粗末な石のベンチがあった。しかもベンチの上は、大小様々の、びんやガラスの破片が散らばっていた。

ぬるぬるして気持ち悪い手に徐々に力がこめられ、割れたびんの底の尖った破片が目の前に迫ってきた。博は頭を上げようとしてベンチに手をついてふんばった。

 手のひらにガラスの破片が突き刺さり、鋭い痛みが襲った。痛さのために悲鳴をあげようとしたが声がでなかった。

手が痛くてとてもこれ以上ふんばれない、とおもったとき、信二と弘子の話す声が聞こえた。

 その時、気持ち悪いゾンビの手の力が少し弱まって、博の頭が少し浮いた。博は助かると思った。声も出そうだった。博は大きく口を開けて息を吸い込んだ。

その時、急にゾンビの手に力が加わり、口を大きく開いた博の顔は、びんやガラスの破片のうえに勢いよく叩きつけられた。


信二は弘子と話ながら校門をくぐると、アスレチック場の方を振り向いた。

「どうしたの」

弘子も振り返りながら聞いた。

「さっき、アスレチックのとびらが開いていて、博がそっちへ歩いていったんだ」

「閉まっているわよ。開いているのに博君が気づいて、きっと閉めたんだわ」

「そうだな」

と言うと二人はバス通りの方へ歩き始めた。

弘子は桜の木を避けるようにして歩きながら言った。

「桜の花の頃はいいけど、今ごろはけむしがいるからいやね」

「けむしは僕も嫌いだな。あれを見るとぞくぞくするよ」

「あら、信二君って男の子のくせに弱虫なんだ」

「そんなことはないよ」

信二はちょっと顔を赤らめた。弘子はそんな信二を見ながらくすっと笑った。

その時、うしろで鈴の音が聞こえて信二は振り返った。さっきと同じ鈴の音だ。

 アスレチック場の前に、浴衣を着た小柄なおばあさんが立っていた。こちらにおいでをするように手を振っている。

振り向いた弘子が言った。

「信二君の知合いの人」

「いや、知らないよ」

「私も知らないわ」

弘子は信二の後ろに隠れるように動いた。

おばあさんが背後に手を回し、前に出したときには三つの綿あめがその手に握られていた。赤色と青色と黄色の美味しそうな綿あめだ。甘い香りが漂ってきた。

「美味しそうなにおい」

と思わず弘子がつぶやいた。

「信二君も弘子ちゃんも、綿あめは大好きでしょ。どれか一つあげるからこちらへおいで」

と言いながらまた手をふった。

信二はその声を頭の中で聞いた気がした。

こんなに離れているのに、綿あめの甘いにおいがしたり、声が近くで聞こえたり、不思議な気がした。

弘子が信二の後ろから出て、おばあさんの方へ歩き始めようとした。

 信二は思わず弘子の手を握って言った。

「だめだよ、行ってはだめだよ」

「どうして。とても美味しそうなにおいじゃない」

「そうよ、早くいらしゃい。とても美味しいわよ」

また頭の中で声がした。

「二人とも何色が好きなの。赤色、青色、それとも黄色かな」

おばあさんはこちらに向かって歩き始めていた。

 その時、信二の頭の中に<答えるな>という言葉がうかんだ。弘子を見ると、目を輝かせながら答えそうに口をあけかけていた。

 思わず信二は弘子の口を手で覆って怒鳴った。

「答えちゃだめ」

「なぜおまえはじゃまする。なぜだ」

声がさっきよりいやったらしくなって、耳の近くで聞こえた。おばあさんはゆっくりだがこちらへ近づいてきている。

信二は弘子の手を握りながら少しづつあとずさりした。

「さあ、何色が好きなのさ。早くお答え」

声がさっきよりいやったらしく、うす気味悪くなって、耳から少し離れたところで聞こえた。

おばあさんの持っている綿あめの色がくすんできていた。さっきはあんなに美味しそうだったのが、いまはとてもまずそうに見える。

浴衣もなんだか薄汚れて見えてきた。

 信二はなんだか恐くなってきて、おもわず弘子の手を強く握りしめた。弘子もそれでやっとおばあさんの変化にきづいたように、はっとしたように握りかえしてきた。

 おばあさんはもうそこまで近づいてきていた。

 信二は弘子を引っ張るようにして、バス通りに向かって走りだした。

「待て、答えろ。何色が好きか早く答えるんだ」

 いまは完全にうす気味悪いだけの声が後ろから追ってきていた。

 信二は遅れそうになる弘子の手を引きながら一生懸命に走った。でも何処まで逃げればいいんだろう。もうじき苦しくなって走れなくなってしまう、と信二は思った。

 先ほどまでは聞こえなかった、ぺたぺたという裸足で走っているような音がすぐ後ろに聞こえてきた。それはおばあさんの足音でなく、怪物か化物の足音のように思えた。

 いまにも首筋に冷たい手がさわってくるような気がして、信二は悲鳴をあげそうになった。

「もうだめ、走れない」

弘子が苦しそうに言った。

 その時また頭の中に、<バス通りのむこうがわ>という言葉がうかんだ気がした。

「バス通りのむこう側までだ。がんばれ」

信二も苦しい息の中からやっと言うと、重たくなった弘子をけんめいに引っ張って走った。

足音がすぐ後ろに聞こえ、荒い息遣いも聞こえてきたときに、信二達はバス通りにたどりついた。

 そのまま止まらずにバス通りを二人してつきぬけた。けたたましいクラクションの音や、急ブレーキの音が鳴り響いた。

二人は道路の向こう側で立ち止まった。肩で大きく息をしながら後ろを振り返った。急ブレーキをかけて止まった運転手が、窓ガラスを下げて怒鳴っていた。

 二人は黙っていま駆け出してきた通学路を見つめた。ずっと向こうに見える墨田川の堤防まで、誰一人いなかった。

 二人を追いかけてきたものはすでに消えていた。

あれは一体なんだったんだろう。

とにかくいまは安全だ。

そう思うと信二は涙がでて足がふるえてきた。

となりを見ると、弘子も泣いていた。

二人はお互いの泣き顔を見ていたが、どちらともなく笑いだしてしまった。

「さっきは弱虫なんていってごめんね。信二君はちっとも弱虫なんかじゃない」

弘子は手を強く握りしめながら言った。

信二はまだ手を握っていたことに気づいて、あわてて手を離すと、顔を赤くしてうつむいた。





(5)


「二人がずっと一緒にいると約束できないなら、いますぐ家へかえりなさい」

千春は雄亮と智洋を交互にみながら言った。

智洋は困ったようにうつむきながら、横目で雄亮をのぞきみた。

雄亮もちょっと考えるようにしていたが、顔を上げると言った。

「智と一緒にいて離れないから、校庭で遊んでもいいでしょ」

千春はいいわよ、と言いながら手をさしだした。雄亮もちょっと照れるようにしながら、千春の手をにぎった。

千春は笑いだすのをこらえながら言った。

「握手じゃないわよ。無線機を渡しなさい」

「無線機を」

「そうよ。持っていればどうしても使いたくなってしまうでしょ。だからお母さんが預かるわ」

「智とお互いが見えるところで使うならいいでしょ」

「だめよ。そうは言ってもどうせ遠くへ離れてしまうから」

 雄亮と智洋は困ったように、お互いを見つめ会った。

「それではこうしましょ。お母さんに一台、あなた達も一台持っていなさい。そして何かあったらお互いに連絡をとりあうの。スウィッチはいつも入れっぱなしにしておくのよ」

雄亮もこの案はいいとおもった。どうせ恐いから智洋とは離れないし、お母さんといつも連絡がとれると思うと安心もあった。

「いいよ。智洋、おまえの持っているのをお母さんに渡せ」

智洋はうなずくと、むこうを向いた。

Tシャツの下に隠してあるエアガンが見つからないように、無線機を取り出した。

バス通りをわたりながら、智洋はお母さんに無線機の使いかたを説明していた。雄亮は学校まで続く通学路を眺めながら、お母さんの新しい心配の種になっている先日の事件を思い出していた。

 プールからの帰宅が遅いので、心配しだした博の家族と信二達が、アスレチック場の中で倒れている博を見つけた。

 失明は免れたが、顔中にガラスの破片が突き刺さり、ひどい傷だったらしい。大人達は事故だと言っていたが、それ以来、プールのある日は先生や大人達が交代で校門の前や通学路に立っていた。一人の外出や夕方の帰宅時間はくどいくらいに注意された。

博は真美ちゃんを襲った大きな動物に襲われたのだと、雄亮は思っていた。多分その動物に追われて逃げているときに、つまずいて倒れて怪我をしたのだ。だから大人達が見張っているのに違いないと考えた。ガラスの傷だけではなく、きっとかまれた傷もあるに違いない。今度信二にあって詳しくきてみようと考えた。

小学校の校門をくぐるときに、三人はなにげなくアスレチック場のほうを見た。入口の扉はしっかり閉ざされていた。そこで事故があったと思うと、なんとなく薄気味悪かった。

千春はスポーツバッグを肩からおろしながら、体育館の前で子供達に言った。

「あなた達はどうするの。体育館、それとも校庭」

「校庭で遊んでる」

智洋は言うとすぐ遊びに行こうとした。

「智洋、ちょっと待って」

千春は二人の肩に手をおきながら言った。

「いいこと二人とも、これだけは守ってね。必ず二人一緒にお互いが見えるところにいること。それから知らない人や犬を見かけたら、近よっちゃだめよ。すぐお母さんのいる体育館へ戻って来ること。その時もまず無線機で連絡をしながら戻って来るのよ。それ以外でも何かおかしいと思ったら、とりあえず体育館へ来ること。約束できるわね」

「はい」

二人は声をそろえて返事をした。千春はちょっと微笑むと、スポーツバッグを持って体育館の中へ入って行った。

二人はどちらともなく、花壇の縁の石に腰をおろすと、校舎と校庭を眺めた。

 体育館からはボールの音や、母親達の声が聞こえてきてはいたが、これからの冒険の事をかんがえると、誰もいない校舎や校庭はちょっと薄気味悪い気がした。

校庭のむこうに見える隅田川のコンクリートの堤防の上に、白くもくもくとした入道雲が見えた。太陽はいまが一番日差しが強いかのように、肌を焦がすように照りつけていた。

「こんな昼間から、お化けはでないよな」

雄亮は智洋に言った。

「そうだよ。お化けは夜と決まってるさ。太陽の光を浴びると体が崩れるんだよ」

「それはドラキュラだろ」

雄亮は少し笑いながらいった。

「なんでもいいよ。とにかく昼間はお化けはでないのさ」

智洋は自分に言い聞かせるように言った。

「よし、行くか」

雄亮は石を拾い集め、ポケットに詰め込み始めた。



(6)


二人は校舎の中央あたりにある、唯一開いている玄関より校舎の中へ入った。警備室には警備の人がいるはずなので、音を立てないように階段へむかった。 二階の廊下はなんとなくひんやりとしていた。

「智、エアガンをだして、いつでも撃てるようにしておけよ」

と雄亮は言うと、ポケットから石を取り出してにぎりしめた。智洋はTシャツの下からエアガンを取り出し、スライドをひいて、いつでも撃てるようにして身構えた。

外の暑いところからきたので、よけいに涼しく感じるだけでなく、実際に汗がひいていくのが分かった。

「お兄ちゃん、二階は涼しいね」

智洋がささやくように言った。

「うん、気持ちいいよな」

と雄亮は言ったが、その声はわずかにふるえていた。

「何処から調べるの」

智洋は廊下の先の方にエアガンをむけながら聞いた。

「まず二階の男子便所だ。そこでおしっこをしよう」

「僕もおしっこがしたかったんだ」

智洋はほっとしたように言った。

智洋は男子便所にはいるとすぐ便器にむかった。雄亮は入口のところで立ち止まっていた。

 智洋はおしっこをしながら横をむいて言った。

「お兄ちゃんはしないの」

「智が終わるまでここで見張ってるよ。お兄ちゃんがするときは智が見張れよ」

と雄亮は言いながら智洋の背後に並んでいる個室のトイレのドアを見つめていた。

智洋が終わると雄亮と交替した。

雄亮はしている間も、後ろのドアの方が気になって仕方がなかった。

雄亮も終えると、二人はいったん廊下に出た。

「智、まず右側から三番目のドアを調べるからな。ドアを三回たたけ。もし、中から声がしても絶対に答えちゃだめだぞ」

「僕が叩くの」

智洋の声は緊張していた。

「いやだよ。お兄ちゃんが叩いてよ」

 雄亮は恐くてやめようかなと考えたが、試してみたい気持の方が強かった。

「よし、お兄ちゃんが叩く。智はエアガンを構えて、いつでも撃てるようにしておけよ」 雄亮はおそるおそる便所の中へ戻った。

智洋は入口のところでエアガンを構えていた。

「もっとこっちへ来いよ」

雄亮がささやきながら智を手招きした。智もおそるおそる二番目のドアの前まで来た。

雄亮は右手にしっかりと石を握った。左手をあげてドアを叩こうとしたが、思い直したようにいったん左手を下ろした。

あたりはあまりにも静かで、自分の心臓の音が聞こえるようだった。一つ大きく深呼吸をして、智洋に目で合図を送ってから左手でドアを叩いた。

 雄亮も智洋も息をつめて耳をすました。何も聞こえない。智洋がほっとしたように息を吐き出した。雄亮も同じように息を吐き出していた。

「何にもないね。よかったね」

智洋が安心したように言った。

「な、智、言った通りだろう。本当はいやしないのさ」

と言う雄亮の声にも安堵感があった。

「ドアを開けてみようか」

と雄亮が言うと、智洋の顔がさっと緊張した。

「やめよう、やめようよ。もう帰ろう」

智洋は雄亮の手を引っ張った。

「平気だよ」

雄亮は智洋の手を振りほどいた。

 トイレのドアを勢いよく開けると、後ろにとびのいた。智洋も思わず、入口の方へ後ずさりした。

勢いよく開けたドアが、隣のドアへぶつかり、大きな音をたてた。二人はびっくりして小さな悲鳴をあげた。

「ああ、びっくりした。お兄ちゃん驚かせないでよ」

智洋は胸をなでながら言った。

「ごめん、ごめん。でもびっくりしたな」

雄亮は、悲鳴をあげたときに落としてしまった石を拾い上げた。

トイレの中は白い便器があるだけで、何も変わったことはなかった。雄亮がドアを閉め、二人は廊下に出た。

その時上の階の方で、先ほどのドアがぶつかったときのような音がした。二人は思わず立ち止まり、耳をすました。

音はもうやんでいた。

「いま上で音がしたな」

雄亮がささやいた。

「さっきと同じような音だったね」

智洋の声はふるえていた。

「上に誰かいるのかな」

雄亮は天井を見上げながら言った。

「警備の人かもしれないよ、お兄ちゃん」

「警備の人なら、さっきの俺達がたてた音を聞いて、もう下へおりてきてると思わないか」

「そうだよね。すごい音がしたから」

 智洋は雄亮が肩から斜めに掛けている無線機を指さして続けた。

「お母さんに無線機で連絡しようか」

「馬鹿だな。そんなことをしたら、校舎の中に無断で入っているのがばれちゃうよ。それより早く外に出よう」

雄亮も恐いので、智洋の手を握ると階段へ急いだ。

階段を降りようとした時、その付近の空気が余りにも冷たいので、二人は立ち止まった。

「この冷たさはなんだろう」

「お兄ちゃん、冷蔵庫の中みたいだね」

雄亮はは何気なく階段の上の方を見て、あっと声をあげた。

「どうしたの、お兄ちゃん」

と智洋が言うと、雄亮は階段の上の方を指さした。

 智洋がそちらを見ると、階段の踊り場の壁に白くきらきら輝くものがあった。

「あれはもしかしたら氷じゃないの」

「氷だよ。何で氷が張っているんだ」

二人は恐ろしさと寒さでふるえてきた。体育館へ行ってお母さんに知らせなくてはと思ったが、雄亮は階段を上り始めていた。手をつないだまま智洋も後をついてきた。

踊り場まで上り、さらに上を見て驚いた。三階は天井も壁もびっしり厚い氷におおわれていた。まるで冷凍室の中のように見えた。

二人はさらに階段を上り、三階の廊下に立った。階段も途中から氷が張っていて、足元が滑りやすくなっていた。

 廊下を見渡すと、ずっとむこうまで氷におおわれ、窓や教室のドアも厚い氷におおわれ、開けるのは無理だなと、雄亮は思った。

三階のお便所のあたりが、一番氷が厚く、天井からつららも下がっていた。

智洋は両腕で、体を抱きかかえるようにして、ふるえながら言った。

「寒いね。凍えそうだよ」

息も白くなっていた。

 雄亮も手をこすりあわせながら、両手に息をふきつけた。

その時鈴の音が響いた。

雄亮はびくっとして背筋をのばし、智洋も後ろから雄亮にしがみついてきた。

「聞こえた、お兄ちゃん」

「うん、聞いた。鈴の音だ。お便所のあたりだったぞ」

雄亮はこわごわお便所に近づいて行った。

智洋はさらにしっかりしがみついてきた。

「智、エアガンはいつでも撃てるよな」

雄亮自信は手がかじかんで、石がうまくにぎれていなかった。

「手がかじかんで、力がはいらないよ」

智洋の声は、恐怖か寒さのせいか分からないが、かなりふるえていた。

「智、こうしよう。エアガンはいつでも抜けるようにズボンにさして、おまえはここで手をこすって暖めていろ。お兄ちゃんも手がかじかんで、うまく石を投げられそうにないから、何かあったらエアガンで助けてくれ。いいな」

智洋はうなずくと、エアガンをズボンの腹のところにさして、一生懸命手をこすりあわせ始めた。

雄亮も寒さだけではなく、恐ろしくて体がふるえていた。

 頭では早く戻った方がいいと思うのだが、なぜか好奇心の方が強く、どうしても鈴の音の正体を見てみたかった。

お便所の前に来た時、氷で足元がつるつる滑り、雄亮は尻もちをついてしまった。

「お兄ちゃん、大丈夫」

うしろから智洋が声をかけた。

 痛てて、と言いながら雄亮は智洋の方に頭ををむけて大丈夫だよ、と答えた。智洋は一生懸命手をこすりあわせていた。

頭を戻して、お便所の中を見た雄亮は、ひっと息をつまらせた。

 お便所の中は廊下よりさらに厚く氷が張り、右から三番目のドアが開いていて、その前に浴衣を着たおばあさんが立っていた。

鈴の音がなった。

おばあさんのあたりから確かに聞こえた。

おばあさんが両の手のひらを上にむけると、テニスボール大のスーパーボールが三個現れた。

いつのまにかお便所の中の氷は、窓から差し込む光で虹のように色々な光で輝いていた。

おばあさんの手のひらの上のスーパーボールも、赤、青、黄色と、玉の中心から光をはなって輝いていた。

「は、花子だ」

雄亮は言いながら、右手に握っていた石を投げつけた。手が凍えていたために、石は男子の便器の方に飛び、そこに張っていた氷が、いろいろな色に輝きながら、四方八方に飛び散った。

 雄亮は尻もちをついた格好のまま、両手、両足を使いながら、後ずさりをした。

 尻もちをついた雄亮を見ていた智洋は、お便所の中から、急に光がもれだして驚いていた。お便所の中で花火が上がったように思えた。

雄亮が花子だ、と言うのが聞こえた。

智洋は慌ててエアガンをズボンから引き抜いた。手のかじかみはすでにうすらいでいた。

雄亮のそばへ行こうとしたが、足が震えて動けなかった。お便所の方にむけてエアガンを構えた両手も震えだしていた。

「お兄ちゃん、どうしたの」

ふるえる声で智洋はやっと言った。

花子だ、と言いながら雄亮は両手、両足をばたつかせているが、思うように後ずさりしていなかった。

「早くこっちへおいでよ」

と言う智洋の声で、雄亮は体のむきをかえ、よつんばいになるとこちらへ進み始めたが、慌てているので氷の上で滑ってうまく行かなかった。

そうしているうちにも、鈴の音と一緒に、お便所の中の光が廊下の方にあふれ出してきた。

 光の中から小柄なおばあさんが現れた。

廊下全体の氷がひかり輝き始め、目もくらむばかりになった。 

智洋はお兄ちゃん早く、と言いながらも、おばあさんの手のひらの上の三つのスーパーボールに見とれていた。

玉の中心あたりからひかり輝いているその赤、青、黄色の色は、何とも言えないほど素晴らしかった。

 こんな美しいものがこの世にあるのかと信じられないほどだった。

その時、二人の耳もとで声が聞こえた。

「ほら、スーパーボールだよ。雄亮君も智洋君も大好きなスーパーボールだよ。とてもきれいでしょ。一つあげるからこちらへおいでよ」

おばあさんは、微笑みながらこちらに近づいてきた。

「何色が好きかな。赤色、青色、それとも黄色かな」

雄亮が氷の上を滑りながらも、何とか智洋の足元まではってきて、智洋の足を揺さぶりながら叫んだ。

「智、撃て、撃つんだ。花子を撃つんだ」

智洋は、はっと目覚めたように、体の脇にたらしていた腕を持ち上げると、エアガンを構えた。

それよりも早く、ポケットから石を取り出していた雄亮が花子にむけて、膝をついた状態から石を投げつけた。慌てていたため、石は花子を大きくそれて天井にぶつかった。色々な色に輝く氷の破片があたりに飛び散った。

智洋も慌ててBB弾を発射した。

BB弾はおばあさんの持っていた青いボールに当たり、それは四方八方に砕け散った。

おばあさんは立ち止まり、顔から微笑みが消えた。気のせいか、まわりの輝きがすこし少なくなったよう気がした。

すでに智洋の横に立ち上がっていた雄亮が、石を投げつけながら言った。

「そんなもの、いるものか」

石はおばあさんの手に当たり、残っていた二つのスーパーボールが下に落ちた。スーパーボールがおばあさんの足元で砕け散ると、いままで光り輝いていた氷が、すっと輝きを失った。

おばあさんは立ち止まったまま、憎しみのこもった顔で、二人を見つめながら言った。

「よくも、三つとも壊したね」

その声はしゃがれ声に変わっていた。

雄亮と智洋は少しづつあとずさりしていた。

 おばあさんがこちらに歩き始めた。

雄亮がまず石を投げつけた。

石はおばあさんの膝に当たった。

うっとうなると、膝を抱えるようにして、おばあさんはうずくまった。

続いて智洋がエアガンを撃った。

BB弾はおばあさんの左目に当たった。

ぎゃっと叫び声をあげると、左手で目をおさえた。

うつむいたおばあさんの左手の間から、血がしたたりおち、白い氷の上に、赤い血がひろがりはじめた。

 雄亮と智洋はすでに階段のところまであとずさりしていた。

おばあさんが頭を振りながら顔を上げた。

いつの間にか頭は白髪の長い髪になり、しわだらけの顔の中で残った右目が赤くつり上がり、口は耳まで裂けて、汚く並んだとがった歯の間から、よだれを垂れ流していた。

雄亮と智洋はひっと息をつめると、足ががくがく震えてきた

「山姥だ」

「鬼ばばだ」

二人は同時につぶやいていた。

鬼ばばは左目をおさえながら、膝を痛そうにして立ち上がった。浴衣はすでに、灰色の汚い着物に変わっており、右手には大きな出刃包丁を握りしめていた。

いつの間にか氷は消え、校舎の中は蒸し暑くなっていた。

鬼ばばは右足を引きずりながら、右手で出刃包丁をかざしながら、ゆっくりこちらに近づいてきた。

蛇ににらまれた蛙のように、雄亮も智洋も足が震えて動けなかった。額と背中を汗が流れ落ちた。背中がぞくぞくしはじめて、心臓の音が耳の中でこだました。

その時、雄亮の掛けている無線機から、呼び出し音がなった。鬼ばばは、はっとしたように立ち止まった。

呼び出し音に続いて、母の声がした。

「お母さんより、雄亮どうぞ」

その声は静かな廊下に響きわたった。

ボリュームが最大になっていたらしい。

一瞬魔法が解けたように、足の震えが止まった。

「逃げるぞ」

雄亮は叫ぶと、智洋の手をつかんで階段を駆け下りた。智洋も足をもつれさせながらも、なんとか雄亮について駆け下りた。

踊り場のところをまわるときに、階段の上まで来ている鬼ばばの姿がちらりと見えた。

無線機からは、雄亮と智洋を呼ぶ千春の少し笑いを含んだ声が響いていた。

「雄亮君、智洋君、どちらか返事をして下さい。どうぞ」

その柔らかい声は、雄亮と智洋に勇気を与えた。一階までいっきに駆け下りると、そのまま走り、玄関より校庭に飛び出した。

強い日差しに一瞬目がくらんだが、二人は後ろを振り返らずに、一目散に体育館へ走った。 



(7)


体育館の前では、真っ赤に上気した顔をスポーツタオルで拭きながら、無線機を持った千春が立っていた。

二人は千春の足元で、倒れ込むように座り込むと、肩で息をしながら、いま飛び出してきた玄関の方を見つめた。二人とも千春の足にそれぞれしっかりしがみついていた。

「どうしたのよ、二人とも」

千春は笑いながら二人の手を足からふりほどくと、二人の間に座った。

「お母さんはさっきから、あなた達を無線機で呼んでたのよ。聞こえなかった」

千春は二人の子供の汗をかわるがわる拭いてあげた

「校舎の中から飛び出してきたけど、こんなに汗をかいて、何をしていたの」

笑いながら二人の顔をそれぞれのぞき込んだ。

雄亮も智洋も、母の問いに答えず、ただ黙って玄関を見つめていた。

 千春は二人の顔に血の気がないのに気づき、ちょっと心配になり強く言った。

「どうしたの二人とも。校舎の中で何かいたずらをしていたの」

その強い口調に、はっとした智洋が、千春の顔を見上げると、エアガンを持った手で玄関の方を差しながら何か言おうとした。

それに気づいた雄亮が慌てて言った。

「何でもないんだ。実は・・・」

「どうしたの、雄亮」

と千春が言ったとき、智洋がお兄ちゃん、と叫んで校舎の玄関の方を指さした。

千春も玄関の方を見たが何もなかった。

雄亮と智洋は千春の両腕にしがみついてきた。

「どうしたのよ、二人とも」

と千春はけげんそうに言った。二人の子供はしがみつきながら震えていた。

雄亮は母にしがみつきながら、校舎の玄関から右足を引きずりながら出て来る鬼ばばを見つめていた。

その時母がまたどうしたの、とくりかえした。今度は雄亮と智洋が、豆でっぽうを食らった鳩のように千春を見つめた。

「お母さんには、あの鬼ばばが見えないの」

雄亮が玄関の方を指さしながら言った。

千春は玄関の方をまた見たが、その顔にはなんの驚きも現れなかった。

「鬼ばばって、何の事なの」

千春は子供達をおちつかせようと、二人の肩に手をまわしながら静かに笑いながら言った。

その時雄亮と智洋の耳元で、あのしゃがれた声のうす笑いが聞こえた。

「ヒヒヒ、無理さ。大人達には見えないのさ」

鬼ばばは言いながら、大きな出刃包丁の研ぎ具合いを調べるように、左手の親指で刃の上をこすりながらゆっくり近づいてきた。

「おまえ達は、私の大事な玉を三つとも壊してしまった。生かしちゃおかないよ。この包丁で真美ちゃんみたいに、頭と胴を切り離してあげるよ」

左目からしたたり落ちる血を舌でぺろりとなめながら言った。

「智、逃げよう。ここにいたら捕まってしまうよ」

と雄亮は言うと立ち上がった。

 智洋はためらっていた。あの鬼ばばが母に見えないと言うのが信じられなかった。ここにいれば母が助けてくれると信じたかった。

「智、お兄ちゃんは行くぞ」

雄亮は校門にむかって走りだした。

智洋もあわてて立ち上がると、雄亮の後を追って走り出しだした。

「ちょっと、あんた達。どうしたのよ。何をふざけているの」

千春も立ち上がり二人に向かって怒鳴った。

二人は立ち止まって振り返った。母の前をあの鬼ばばが、足を引きずりながら歩いていた。母には全然見えていないのが、二人にははっきり分かった。

雄亮は大人達に見えないのが、悔しくなった。ちくしょう、と言いながら雄亮は鬼ばばに向かって石を投げつけた。

石は鬼ばばの胸に当たった。

智洋もエアガンを撃った。


雄亮の投げた石が、千春の前の空中で何かに当たったように一瞬止まると、そのまま校庭に落ちた。続いてエアガンで撃った智洋のBB弾も、雄亮の投げた石のあたりにポトリと落ちた。

 千春は不思議なものを見るように、校庭に落ちたその石とBB弾を見つめた。その間にも雄亮と智洋は校門を走り抜けて行った。

千春の見つめていた石が、ふいに校門の方へ飛んだ。あたかも校門の方へ走りだした者に、けられたような飛び方だった。

千春の頭の中に先ほど雄亮が言った言葉がよみがえった。

「お母さんには、あの鬼ばばが見えないの」

二人のあの震え方といい、今の不思議な石の落ち方といい、何か目に見えないものに、あの二人は追われているんだわと気づいた。

千春は慌てて、タオルと無線機を握りしめたまま、校門に向かってかけだした。




(8)


雄亮と智洋は校門を抜けると、バス通りに向かって走った。 雄亮はなぜか涙が出てきた。

横を見ると智洋も泣いていた。

大人達に見えないのなら、助けてもらうことはできない。これからどうしたら良いのか雄亮には分からなかった。

 後ろをちょっと振り向くと、鬼ばばが校門を走り出て来るのが見えた。足はもう直ってしまったらしい。

雄亮は智洋に頑張れよ、と声をかけながら走った。智洋も泣きながらも、うなづいたように見えた。

智洋も不安でいっぱいなのが、雄亮にも感じられた。

雄亮は智洋の手を握って走った。

智洋の走りが遅くなってきていた。

バス通りに近づいていた。

雄亮は智洋がこれ以上走るのは無理だと感じると、智洋の手を離しながら言った。

「智、おまえは先に行け」

 雄亮は立ち止まって後ろを振り返った。

 鬼ばばが、ものすごい形相で汚い着物の裾を乱しながら追ってきていた。右手に大きな出刃包丁を持ち、大きく裂けた口からは、だらしなくよだれを垂れ流し、左目から流れる血は顔や胸元を血だらけにしていた。

雄亮はぶるっとふるえた。鬼ばばのうしろに、校門を走り出てきた母の姿が見えた。雄亮は一瞬母に助けてもらえるような気がした。しかし大人には助けてもらえないのだと気づき、気を取りなおすとポケットから石を取り出し、ちくしょうと言いながら鬼ばばに投げつけた。

 石は鬼ばばに当たり、足が止まった。

 雄亮はポケットから次々に石を取り出すと鬼ばばに投げ続けたが、鬼ばばは左手で顔を守るようにしながら、少しづつ近づいてきていた。

 鬼ばばの後ろの方で、母が立ち止まってこちらを見ていた。

ポケットを探ったが、石がなくなっていた。

鬼ばばがそれに気づき、薄気味悪く笑いながら近づいてきた。

後ずさりしながら、足元に石がないか探していた雄亮は、何かにつまずいて、尻もちをついてしまった。つまずいたのは大きめの石だった。

 雄亮がその石に手を伸ばした時、鬼ばばは出刃包丁を振り上げて雄亮の目の前にいた。

その時、空気を切り裂く音が雄亮の頭の上でしたと思うと、気持ち悪い悲鳴をあげながら、鬼ばばが顔をおさえて後ずさりした。

 もう一度空気を切り裂く音がすると、鬼ばばは、またもや悲鳴を上げながら包丁を落として、両手で顔をおおうとうずくまった。

雄亮が後ろを振り向くと、智洋が肩で息をしながら、すぐ後ろにいた。至近距離からエアガンを撃ったのだった。

 「お兄ちゃん、早く起きて」、智洋がふるえる声で言った。雄亮はうなずくと、先ほどの石を両手で拾い上げて、鬼ばばの背中におもいっきり投げつけた。

 鬼ばばは背中をそり返しながら、悲鳴を上げた。

雄亮は智洋の手を握ると、バス通りに向かって走った。

 鬼ばばはすぐに立ち上がり、追いかけてきた。今度は捕まってしまう、と雄亮は感じた。

あれだけ痛めつけても、すぐ回復してしまうのでは、どうしようもないと思った。

二人はバス通りに出た。

車の往来は激しく、横切るのは無理だった。

 雄亮は右に曲がって横断歩道橋を渡ろうと思ったが、智洋が疲れすぎていて駆け登るのは無理だと思い、そのまま歩道橋の横をすり抜けようとした。

智洋と並んで走っていたので、雄亮は歩道橋の一部で足のすねをいやというほどぶつけてしまい、歩道にうつ伏せに倒れこんだ。

智洋があわてて抱き起こそうとしたが、雄亮は足を抱え込んで痛がり、立ち上がらせるのは無理だった。

鬼ばばが、バス通りに現れた。

 倒れて痛がっている雄亮と、その側にひざまずく智洋を見つけると、勝ち誇ったように薄気味悪く笑いながらゆっくり近づいてくる。

智洋は雄亮の脇の下に、後ろ側から両手を差し込み、引きずるようにしながら後ずさった。思うようには進まなかった。

鬼ばばは、すぐそこまで来ていた。

右手に持った包丁が、太陽の光を反射して鈍く光った。

智洋は雄亮を抱くときに、エアガンを置いてきてしまった事に気づいた。もう智洋から攻撃する手段はなくなった。ただ逃げるだけだった。

昼間にお化けがでないなんて嘘っぱちじゃないか。ちゃんと太陽の光を浴びて生きているじゃないか。大人の話なんて嘘ばっかしだ。

と智洋は口の中で毒づきながら、雄亮を引っ張った。

 鬼ばばは、猫が捕まえた鼠をいたぶるかのように、ゆっくり近づいてきていた。だらしなく開けられた口の中で、長い舌がうごめいていた。

 智洋の顔から汗がしたたり落ちた。汗で手が滑りそうになる。靴の裏も滑って思うように力が入らなかった。

智洋は、雄亮を歩道橋の少し先にある稲荷神社の側まで引きずってきていた。

 鬼ばばが手を伸ばし、雄亮の足を捕まえようとかがみこんだ。

 智洋はもう逃げられないと感じた。

お兄ちゃんは動けないし、僕も疲れてしまって走って逃げることもできない。

 智洋は慌てて雄亮を強く引っ張った。

その拍子に手が滑り、雄亮から手が外れ、智洋は後ろに倒れ込みながら、そこら辺に散らばっていた神社の石の塀のかけらで、手のひらを切ってしまった。

雄亮の足を捕まえようとしていた鬼ばばの手が止まり、不思議そうに顔を上げた。

そしてすぐに左右に顔を動かし、何かを探すような仕草をした。

智洋は泣き、そしてくやしがっていた。

大人に助けてもらえないのも、鬼ばばに攻撃できないのも、今また石のかけらで手を切ってしまったことも。

智洋は泣きじゃくりながら、そこら辺に散らばっている石のかけらの幾つかをつかむと、目の前にいる鬼ばばに投げつけた。石のかけらはぱらぱらと鬼ばばに当たった。

突然ものすごい叫び声があがった。

智洋があわてて涙をぬぐいながら見ると、鬼ばばが歩道の上でころげまわって苦しんでいた。

智洋には何が起きたのか一瞬分からなかった。智洋の投げた石は、小さなかけらばかりで、それも軽く当たっただけのはずだった。

ともかくいまのうちに逃げようと思った。

 雄亮を見ると、雄亮も足の痛みがいくらか楽になったのか、体を起こしかけていた。智洋は雄亮に肩をかして、とりあえず苦しがっている鬼ばばから離れた。

しかし何歩もいかないうちに、雄亮の足はまた痛みだし、神社の石の塀につかまって立っているのがやっとだった。

鬼ばばを見ると、歩道によつんばいになり、苦しみも治まりかけた様子で肩で大きく息をしていた。

 その鬼ばばが顔を上げた。

雄亮と智洋はびくっとして体をかたくした。

二人とも、もうこれ以上は逃げられないのは分かっていたからだ。

しかし鬼ばばの様子が変だった。

二人の方を見ているのだが、何か焦点があっていないように思えた。

 鬼ばばが顔を左右に振り、何かを探しているような仕草をした。

 「さっきと同じだ」

と智洋がつぶやいた。

 雄亮が痛みをこらえながら、何が、と言う顔をした。

「お兄ちゃんを引っ張ろうとして、尻もちをついた時さ。僕の姿を探すように、いまと同じ事をしていたよ」

鬼ばばは二人を探すようにこちらに向かってきたが、先ほど雄亮がいたあたりで立ち止まり、それよりこちらへは来ないで、そこであたりを見まわしていた。

「あいつには俺達が見えないんだ」

雄亮が痛みをこらえながら小さな声でつぶやいた。

智洋もそうかもしれないね、と言ったあと、急に何か思いだしたようにかがみこむと、石のかけらを拾い、鬼ばばに投げつけた。

石のかけらは鬼ばばの肩のあたりに当たった。

今度は悲鳴を上げなかったが、石のかけらが当たった部分に痛みがはしったように、片手でおさえると顔をしかめた。

 鬼ばばは二三歩後ずさり、あたりをうかがうと、その姿を消した。

雄亮と智洋は鬼ばばの消えた後をしばらく見ていたが、そのむこうに、通学路からバス通りへ出てきた千春の姿が見えたとたん、二人は泣きながら歩道に座り込んでしまった。


 その夜、雄亮と智洋は、母と父に昼間の出来事の説明をした。

 千春は何か恐ろしいことが起こったらしいと、おぼろげに感じてはいたが、雄亮と智洋の話を聞いていても、そんなことが現実に起こったとは、とても信じられなかった。

 二人が同時に幻覚を見たのではないかと疑ぐりたくもなった。しかし千春自身も校庭で不思議なものを見ていた。校庭で見たことは実際に起きたことで、幻覚なんかではないと確信があった。

 千春は静かに頭を振ると、自分自身に心の中で言い聞かせた。

 子供達の言うことはすべて現実なのだ。私は子供達を信じ、そして手助けをしてあげなくてはいけない、と。





(9)


図書館の児童室の隅の机に、田中雄亮、智洋の兄弟と、山下信二、石山弘子の四人が集まっていた。 信二が、アスレチック場の前でおばあさんに声をかけられてから、バス通りのむこう側まで逃げきった時の話をしていた。隣で時々あいづちをしていた弘子は、あの日の恐ろしさを思い出したのか、顔が少し青ざめていた。

「僕達が会った花子と同じだ」

信二の話が終わると雄亮は言った。

「花子ですって。あのおばあさんが」

弘子は声をひそめて聞いた。

「私達が見たのは、お手洗いじゃないわよ」

「しかし僕達の場合は、三階のトイレから現れた。それにどの色が好き、とも聞いてきた。花子に間違いないとおもうよ。みんなの噂ではおトイレに出るお化けとなっているけど、本当は何処にでも現れることが出来るのだと思うな」

と雄亮は答えた。

「智ちゃん達は本当にあのお化けと戦ったの」、信二がおそるおそる智洋に聞いた。

「そうさ。僕がエアガンで、お兄ちゃんが石を投げてさ。最後はだめかと思ったけど、歩道橋の先の稲荷神社のところで助かったのさ」

「すごいな。僕なんか恐くて逃げるのが精一杯だったよ。バス通りの向こう側に着いて、あのお化けの姿が見えなくなったときでも、恐くて泣いちゃったもん」

と言いながら信二は弘子を見た。

「そうよ。私も泣いちゃった。でも信二君は、私を引っ張って逃げてくれたのよ。とても勇気があったわよ」

「本当は僕達だって恐くて泣きながら逃げたのさ」

雄亮が照れながら言うと、四人の間に少し笑いがもれた。

「信二はバス通りの反対側まで逃げたら、あのお化けは消えていたと言ったよね」と雄亮が聞いた。

「バス通りを渡って振り返ったら、もういなかったわ」

弘子が答えた。

「じつは頭の中で、あのおばあさんの声とは違う声が聞こえたんだ」、と信二が言った。

「違う声ってなに」

雄亮が、机から体をのりだして聞いた。

「最初はあのおばあさんが、どの色が好き、と聞いてきた時に、<答えるな>と、別の声が頭の中でして、その次は走って逃げている時に、<バス通りのむこうがわ>と、聞こえたんだ。それでバス通りの向こう側は安全なんだな、と感じたんだ」

「その声は前にも聞いたことがあるの」

と智洋が聞いた。

「ううん、初めて聞いた。聞こえたのはあの時だけさ」

信二も不思議そうに答えた。

雄亮は昨夜の父の話を思い出していた。

「その鬼ばばは、神社のそばにいる雄亮と智洋が見えないようだと言っていたね。それに智洋が投げた石のかけらは、神社の石の塀のかけらだ。たぶんその鬼ばばは神様に弱いのだと思うよ」、と父は言いながら、引出しの奥から町内の地図を出してきてみんなの前に広げた。

「ほら、ここを見てごらん」

と雄亮達が助かった神社の所を指さした。

「歩道橋の少しこっちから、町名が変わって、ここには稲荷神社があるだろう。雄亮が最後に倒れていたのは、ここ、つまり神社のある町と小学校のある町との境目の所ではなかったかな」

と父は雄亮に聞いた。

雄亮と智洋は同時にうなずいた。

「智洋が最初にこの稲荷神社のある町の内側に倒れ込んだときに、鬼ばばが智洋を探すような仕草をしたと言ったね。次に雄亮もこちら側へはいると、鬼ばばは二人を探しながらも、それ以上はこちらへ、つまり雄亮達には近寄れなかったのだろう。つまり神様のいる町には、あの鬼ばばは入れないし、そこに逃げ込んだ者を見ることもできないのさ」

「それじゃ、ここは安全なわけだ」

と智洋がうれしそうに言った。

「それに智洋が投げた石のかけらに、大げさに痛がったのも、それが神社の物だからではないかな」

智洋はちょっと思い出すようにしていた。

「そういえば、あそこの石の塀はぼろぼろだったよ」

「地図を良くみてごらん。いままでに事件のあった公園、アスレチック場、小学校とも同じ町内で、この町には神社がないだろう。だからあの鬼ばばはこの町内の中は動き回ることが出来る。たぶん、このバス通りのこちら側も来れないと思うよ。ここには元宿神社があるからね。だからこの荒川と墨田川にはさまれた、この三角形の部分は、こちら側は元宿神社、こちら側は稲荷神社で囲まれ、あとはこの部分だ」

と言いながら荒川と墨田川のもっともせまばった部分を指さした。

「ここには地図には載っていないが、小さな馬頭観音のほこらがある。それで鬼ばばはこの三角形の中に閉じ込められているのだと思うな」







(10)


信二がバス通りを渡って助かったのは、父の言うとうりなのかもしれない、と雄亮は思っていた。 でもあの不思議な声は何なのだろうか。

「僕はあの鬼ばばを・・・」

と雄亮が言ったときに弘子がさえぎって言った。

「鬼ばばってなあに」

「花子の本当の姿は、鬼ばばなんだ」

「私達を追ってきたときは、ぺたぺたと変な足音がして、私は大きな動物だと思ったわ」

「僕もあの時に、そんな足音を聞いたよ。あれは鬼ばばというより、動物の足音に似ていたな。でも僕がお母さんと一緒に博のお見舞いに行ったときに、博には会えなかったけど、お母さん達が話しているのを聞いていたら、博はゾンビに襲われたと、お母さんに話したらしいよ」

信二が少し興奮しながら言った。

「ゾンビなの」

と智洋が気持ち悪そうに言った。

「鬼ばばも気持ち悪かったけど、ゾンビはもっと嫌だな。俺、ゾンビだったら気絶しちゃうよ」

と少しおどけながら言った。

「私もゾンビは嫌いだわ。逃げるときに振り返って見なくて良かった。もしゾンビだったら私も気絶していたかもしれないわ」

弘子も笑いながら言った。

「あいつは色々なものに化けられるのかな」

と信二がぽつりと言った。

「あいつが化けられるのではなくて、こっちで恐いものを想像するのかも知れないよ。前に読んだ本で、恐い恐いと思っていると、枯草が人によっては幽霊に見えたり、別の人には鬼に見えたり、それぞれ違うらしいよ。たぶんあいつもそうじゃないかな」

と雄亮が答えた。

「今度会ったときに、ピンクの豚だ、と思ったらピンクの豚に見えるかな」

智洋がふざけて聞いた。

「見えるかもね」

雄亮が笑いながら言った。

「とにかく、あの鬼ばばを、俺にとっては鬼ばばだけど、あいつをやっつけようと思うんだ」

「退治するの」

と弘子が驚いたように聞いた。

「うん」

雄亮がちょっと恥ずかしそうに言った。

「出来るかどうか分からないけど、このままにしておいて、別の子供が襲われたら大変だと思うんだ」

「警察に頼んでみたら」

信二が心配そうに言った。

「だめなんだよ。大人達にはあいつが見えないのさ」

智洋が両方の手のひらを上にむけ、肩をすくめながら答えた。

「大人には見えないなんて、嘘よ」

弘子が信じられないというように言った。

「でも本当さ。あいつ自身も言ったし、俺達のお母さんも、あいつが目の前を歩いていても気づかなかった。だから子供の俺達で退治するしかないのさ」

「僕達四人だけで」

信二は心細そうに言った。

「とりあえず、いまは四人だけだ」

雄亮は、机の上で両手を握りしめながら言った。

「他の誰に言っても信じてもらえないよ。うちの親は信じてくれているけど、でもあいつを見ることはできないから、戦うことが出来ない。手助けはしてもらえても、実際、戦うのは四人しかいないのさ」

「私は戦うわ。博君も友達だったし、真美ちゃんみたいな小さな子が、これ以上殺されたら悲しいもの。ねえ、智君のお兄ちゃん、私でも戦えるでしょ」

弘子は雄亮を見つめながら言った。

「もちろん戦えるさ。弱虫の智だって戦ったもん」

「弱虫じゃないよ。最後にお兄ちゃんを助けたのは僕だからね」

智洋が少しふてくされながら言った。

「そうだよな。智が助けてくれなかったら、鬼ばばの出刃包丁で殺されていたものな。弱虫なんて言ってごめんな、智」

「いいって、いいって。兄弟じゃないか。助け合うのはあたりまえさ」

と智洋は照れくさそうに言った。

 ちょっと考えていた信二が口をひらいた。

「僕にも手伝わせて。本当は恐いけど、智ちゃんや、智のお兄ちゃんと一緒なら戦えそうな気がするんだ」

「よし、決まった。これで四人の戦士が集まった。みんなで力を合わせて、大魔王をやっつけよう」

雄亮が笑いながら手を差し出すと、残りの三人も手を出して握りあった。

「まるでロールプレイングゲームみたいだね」

智洋がうれしそうに言った。







(11)


その日の夕方、雄亮と智洋は二人でテレビゲームをしていた。  鬼ばばを退治するといっても、どのようにしたら良いのか分からなかったので、夜になったら父と母に相談するつもりでいた。

智洋がロールプレイングゲームで最後の大魔王と戦っていた。昼間、戦士と言われたことに気をよくしていた智洋は、実際に自分が戦っている気分で調子よく最終場面まで進んでいた。

 しかし、大魔王はどんなに攻撃しても、なかなか倒せないでいた。隣では雄亮が攻略本をのぞき込んでいた。

戦いの途中で、画面に大魔王のメッセージが現れた。

「お兄ちゃん見て。こんなところでメッセージが出たよ」

雄亮も画面を見た。

「僕がやったときはメッセージなんかなかったよ」

と雄亮は言いながら、そのメッセージを読んだ。

<ソンナコウゲキデハ ワシヲタオセンゾ>

「あれ、お兄ちゃん。どのキーを押しても画面が動かないよ」

「貸してみな」

雄亮が智洋よりコントローラーを取り上げて、キーを押してみたが、画面は変わらなかった。

「バグったのかな」

と雄亮が言ったとき、メッセージが変わった。

<ハヤク タタカイニコイ オマエラヲ ミナゴロシニシテヤル>

「なに、このメッセージ、気持ち悪いね」

と智洋が言った。

その時突然、大魔王の顔が画面に大写しになったと思うと、その顔が少しづつ変化して、あの鬼ばばの薄気味悪い顔に変わった。

長い白髪にしわだらけの顔。

赤い両方の目がつり上がり、左目はつぶれていなかった。

耳まで裂けた口からは、汚れた醜いとがった歯が見えていた。

雄亮と智洋はびっくりして画面から離れた。

メッセージがまた変わった。

<ワシノ ダイジナタマヲ コワシタオマエラヲ ゼッタイニユルサン>

<ソノクビヲ ドウタイカラ キリハナシテヤル>

画面の鬼ばばが、かみつくように歯をむき出しにして、口を大きくあけた。

<コロシテヤル ミナゴロシダ ミナゴロシダ>

雄亮が手を伸ばして、リセットボタンを押した。

 画面が変わり、ゲームのオープニングが写った。

 雄亮も智洋も青ざめていた。心臓もどきどきして、三階で初めて鬼ばばを見たときの恐怖がよみがえっていた。

こんなところに鬼ばばが現れるとは思ってもみなかった。もしかしたら雄亮達が考えているより、鬼ばばはとてつもない力を持っているのかもしれなかった。



(12)


夜に父が帰宅すると、雄亮と智洋は信二から聞いた話と、テレビゲームの画面に現れたことを話した。

「信二君の頭の中に別の声が聞こえて、助けてくれたと言うのは興味深いね。たぶん信二君はお守りか何かを持っているのかも知れないね」

父は雄亮が話し終えると静かに言った。

「お守りか。お守りなら神様に関係あるものね」

と雄亮が考え込むように言った。

「でもテレビゲームに現れるなんて、思ってもみなかったよ。どうしてなの」

智洋が父に質問した。

父はちょっと考えるように、ゆっくり煙草に火をつけた。

「どの様な方法かは、はっきり分からない。でも昼間四人で大魔王をやっつけようと誓ったのに関係があって、それでその大魔王の画面に現れたのだと思うな」

「鬼ばばは、僕達が話したことを知っていると言うの」

智洋が驚いたように言った。

「たぶん、知っていると思う。さっき鬼ばばが、信二君達は大きな動物で博君はゾンビだと思っていた、と言ったね。それは鬼ばばが相手の心の中を読んで、その人が恐がっているものに姿を変えて現れるためだと思うな。それに鬼ばばの声が、いつも耳もとで聞こえるのも、テレパシーみたいに直接意識の中に話しかけてくるためだよ。だから鬼ばばが、おまえ達の心の中を知っていても、不思議はないとおもうな」

「この話しも、全部鬼ばばは知ってしまうのかな」、雄亮が恐ろしそうに言った。

「たぶん、知ってしまうだろう」

父は煙草をけしながら言った。

「それじゃ、勝てっこないよ」

と智洋がふてくされて言った。

「それじゃずるいよ。こっちの作戦が全部ばれちゃったら、不公平だよ」

「でも、こっちは相手の弱点が少しづつ分かってきているし、考え方によっては、それほどでもないかもしれないよ」

「なにかいい考えがあるの。お父さん」

雄亮が期待のこもった聞き方をした。

「今はなにもなし。これから考えよう」

と父は笑いながら言った。

 雄亮と智洋は、がっくりしたように首をうなだれた。

「でも大人に見えないと言うのは困ったな。おまえ達だけで戦うのは危険が大きすぎるぞ」

「私も一緒に戦うわ」

と千春が力強く言った。

「子供達だけを危険な目にあわせられないわ。私が子供達を守ってあげる」

千春は二人の子供をかわるがわる見ながら言った。

「お母さんが手伝ってくれれば、子供達も心強いだろうし、案外お母さんは子供みたいなところがあるから、ちょうどいいかもな」

「それはどういう事なの」

千春はちょっと怒ったように言った。

「誤解しないでくれよ。変な意味で言ったのではない」、と父は手で母を制しながら言った。

「おまえ達も聞いとけよ」

父は二人の子供を見ながら言った。

「このお化けは、大人に見えないと言ったね」

雄亮と智洋は同時にうなずき、雄亮が言った。

「自分でもそう言ったし、お母さんにも見えなかった」

「大人になってしまうと、誰もサンタクロースや魔女の話など信じなくなってしまうけど、子供の間は信じている子もいるだろう。花子の話も、小学校では信じて恐がっている子が多くないか」

「うん。口では言わないけど、恐がっている子は多いと思うよ。僕だって恐くて、お兄ちゃんが一緒にやろうと言わなかったら、絶対にやらなかったと思うよ」

「その恐いという気持ち。お化けなどの存在を信じて恐がる気持ちがあると、鬼ばばが見える。しかし大人は、はじめからお化けなどを信じない。恐いという気持ちはあっても信じる気持ちがないから、この鬼ばばを見る事は出来ない。だがお母さんには、純粋な気持ちがあるから見ることも可能だとおもうよ」

「それは幼稚だと言うこと」

千春は父をにらむように言った。

「違うよ。母親は子供に対する母性本能が男親より強い。子供を守りたいという気持ちは、とても強い純粋な意志だ。その強い純粋な意志で、鬼ばばが見えると信じれば、見ることが可能だろう、と言うことさ」

「うまくごまかしたわね」

と千春は言いながらも、まんざらでもない気分のようだった。

「だけど、お母さんが手伝ってくれると言っても、いったいどうやって、あの鬼ばばを退治するの」

雄亮がいらだたしそうに言った。

「お父さんが思うには、刃物や鉄砲で撃っても死なないと思う。あの鬼ばばの体は、あくまでも想像上のもので、つまり意識の中で生まれた姿で、現実には存在してなくて、実体はないと思うな」

「でも実際に、女の子が殺されたり、博が怪我をしたよ」

雄亮が不満そうに言った。

「鯖でじんましんになる人に、別の魚を食べさせて鯖だと言うと、本当にじんましんがでたり、強度のノイローゼの人で、実際には何もされていないのに、ある人が自分の腕を引っかいた、などと言っているうちに、腕にみみずばりの傷がうかびあがったりするように、この鬼ばばも相手の意識を操作して、自分で自分自身を傷つけさせているのだと思うよ」

「むずかしすぎて、よく分からないよ」

智洋がふてくされながら言った。

「ごめん、ごめん。簡単にいうと、鬼ばばに会ったとき、智洋は自分をスーパーマンだと信じていれば、殺されることも傷つけられることもないってことさ」

父は千春に向かって、苦笑いをした。

「なんだ、そんな簡単なことなの。でも僕はスーパーマンでなくて、勇者になるんだよ」

智洋はほこらしげに言った。

「実体がないのに、どうやってやっつけるの」

と雄亮は困ったように聞いた。

「とてつもなく強い意志があれば、死ね。と思うだけで死ぬはずさ」

「そんなことが出来るの」

智洋が身を乗り出して聞いた。

「でもそんな強い意志は、実際にはないから無理だろうな」

「なんだ、だめなのか」

智洋はがっかりした。

「だから、そのように自分達が信じ込むために過程が必要なのさ」

「過程というと」

千春が言った。

「鬼ばばと戦って、だんだんと鬼ばばが弱まっていく。ああ、もうすぐこの鬼ばばを退治できるぞ。と、戦っている全員が思い込みはじめる。もっと攻撃する。ますます鬼ばばが弱まってくる。あともうちょっとだ、と思い込みがますます強くなる。そうやって全員の気持ちが高まれば、鬼ばばをやっつけられると思うんだ」

「そうか、その役なら私にもできるわね。みんなのそばにいて、絶えず私が励ましていれば全員の気持ちが高まるわ」

千春はうれしそうに言った。

「そうだ、そうすれば全員の意志の集中も、はかりやすいだろうな」

父はうなずきながら言った。

「よし、お父さんとお母さんで、戦う材料をそろえるから、あとは頼むぞ」

父は雄亮と智洋に手を差し出した。

 雄亮と智洋は、父と母の態度を見ていて、なんとなく自信がわいてきた。二人は父の手を力強くにぎりしめた。

「僕達頑張るよ」

雄亮は言った。

「あら、私も一緒よ」

と千春が両手で、三人の手を包み込んだ。




(13)


それから二日後の朝、雄亮と智洋の家に、信二と弘子が訪ねてきた。  信二も弘子も、あの図書館での話合いの後で変なことが起きていた。


弘子はその日、夏休みの宿題を終え、何をしようか迷っていた。

 電話のベルがさっきから鳴っていた。

母がいるはずだが、いつまでたっても電話は鳴りやまなかった。

弘子は、お母さんいないの、と言いながら電話を取った。母がベランダで、洗濯物を干しているのが見えた。

「もしもし、弘子。私、良美よ」

電話は友達の良美からだった。

「暇だったら遊びにおいでよ」と一方的に言うと、電話は切れた。

「良美はいつもこうなんだから」

と弘子はつぶやきながら考えた。

宿題も終わって、何をしようか迷っていたことだし、ちょうどいいから遊びに行こう。

 弘子は母にむかって言った。

「良美から電話があったから、遊んでくるね」

「なに言っているの。電話なんかかかってこなかったでしょ」と、母が振り返りながら言った時、すでに弘子は玄関を出ていた。


良美は荒川沿いに建っている団地に住んでいた。

 弘子は交差点をわたり、団地の方へ向かいながら思いだした。

そういえば、良美の団地の裏側が、あの公園だわ。それにここは雄亮君の言っていた、三角地帯の中だわ。

弘子は、急に背筋が寒くなる気がした。

やめようか、どうしようか迷った。

 あたりを見回したが、誰もいなかった。

もう少しで団地に着く。

「団地に着けば誰かいるわね」

と気休めを言いながら、先を急いだ。


団地の一階は広い自転車置き場になっていて、エレベーター乗り場は、その薄暗くなった奥にあった。

自転車が乱雑に置かれていた。壊れたまま、置き去りにされたものもある。

弘子はいつもここを通るとき、薄気味悪く感じた。特に今日は、誰かが隠れているように思えてしかたなかった。

エレベーター乗り場に着いて、弘子はボタンを押した。表示ランプは、エレベーターが十四階にあることを示していた。

その時、後ろの方で自転車の倒れる音が響いた。弘子は、その音にびっくりして、エレベーターを背にして振り返った。

あたりに目を配ったが、誰もいなかった。

確かに音がしたわ。

どの自転車が倒れたのかしら。

エレベーターは十階まで下りてきていた。

<早くしてよ、何でこんなにのろいの>

と弘子は心の中でののしった。

また自転車が倒れた。

弘子がそちらを見ると、一匹の猫が現れた。

「なんだ、猫なの。驚かさないでよ」

と弘子は思わず、口に出して言った。


エレベーターが八階に着いた。

弘子はドアが開くと、走るようにして、良美の所へ急いだ。

ドアを叩いて待っていると、良美の母親が顔を出した。

「あら、良美は出かけてるわよ」

「さっき、電話をもらって、遊びにおいで、って」

「へんね。昨日から田舎へ行ってるわよ。まさか田舎からいたずら電話するわけないしね」


弘子はエレベーターにもどりながら考えていた。

 さっきの電話は誰だったんだろう。

確かに、良美と言ったし、声も間違いなかったわ。

エレベーターに乗ると、ボタンを押す前にドアが閉まった。

エレベーターは上に昇って行った。

上で誰かが呼んでいるのね。

でもあの電話は誰だろ。

「もしもし、弘子。私、良美よ」

突然、良美の声が聞こえた。

「暇だったら遊びにおいでよ」

弘子は心臓が止まるかと思うほど、びっくりした。

 さっきの、電話の声だ。

<誰なの。エレベーターの中は私一人よ>

中を見回したが、もちろん誰もいなかった。

弘子は、てあたり次第に、ボタンを押した。

一番近い階で降りようと思った。

エレベーターは止まらず、どんどん昇って行く。

表示パネルはすでに十四階を示している。

どうしたの。

何が起きたの。

「どうだい、楽しいかい」

今度は、良美の声ではなかった。

しゃがれた気味悪い声だった。

弘子は恐ろしくなり、隅によると座り込んだ。

膝を両腕で抱きしめるようにして震えた。

エレベーターは、まだ昇り続けていた。

「このまま、天国まで昇っていくかい」

弘子は耳をふさいで、その声を聞くまいとした。

エレベーターを叩く音が聞こえた。

弘子は顔を上げた。

エレベーターのドアの窓の外に、顔が見えた。

エレベーターと壁との間には、人間が入れる隙間はない。

白髪で、耳まで裂けた口を持った顔だ。

赤い目が、うれしそうに見つめていた。

<鬼ばばだ>

弘子は悲鳴を上げた。

「やめて。降ろして、降ろしてよ」

「そうか。天国は嫌いか。ならば地獄だ」

エレベーターが止まった。

鬼ばばの姿も消えていた。

弘子は立ち上がって、ドアへ近づいた。

その時、エレベーターのひもが切れた。と思った。

エレベーターが、ものすごい勢いで落ちはじめた。

 このままでは地面にたたきつけられて死んでしまう。

「たすけて、たすけて」

弘子は泣きながら、ドアを叩いた。

 鬼ばばの声が、エレベーターの中で響いた。

「やめろ。仲間にくわわるな」

「俺様に逆らうと、おまえら全員、皆殺しだ」

ふっとめまいに襲われ、弘子はしゃがみ込んだ。

 エレベーターは止まっていた。

弘子は顔を上げた。

どこかの階に止まっていた。

表示パネルを見ると、八階を示していた。

エレベーターは動いていなかったのだ。

すべては鬼ばばのまぼろしだったのだ。


信二は寝転がって漫画を読んでいた。

「信ちゃん、漫画を読んでるのなら、広美を公園にでも連れてって」

母に言われて、信二は起き上がった。

食器を洗っている母の横で、妹の広美も流しの中に手を入れていた。

「広美ちゃん、ありがとね。あとはお母さんがやるわ」

母は信二を見ながら言った。

「お兄ちゃんが、公園へ連れてってくれるって。良かったわね」

信二はしぶしぶ立ち上がった。

広美は手を洗うと言った。

「石の滑り台の公園ね」

「あそこはだめだよ」

「いや、あそこがいい」

「信ちゃん、広美はあの滑り台が気に入っているのよ」

「お母さん、あそこは事件のあったとろだよ」

「それは知っているけど。広美が泣くとうるさいから、お願い」

と言って、母はお金を出した。

「これでジュースでも飲んでね」


自転車の後ろに広美を乗せると、信二は公園に向かった。

 交差点で止まったときに信二は言った。

「広美、ジュース二つあげるから、別の公園にしないか」

「いや、広美はあそこがいいの」

信二は困ったな、と思いながら自転車をこぎだした。

 バス通りをわたると、胸騒ぎをおぼえた。

事件のあったお便所は公園の奥の方だった。

滑り台は入口の近くにあった。

絶対奥の方には行かないぞ。

と信二は心の中で思った。


滑り台で広美は楽しそうに遊んでいた。

信二は横に立ってジュースを飲んでいた。

公園に入ってから、まだ一度もお便所の方は見ていなかった。

なんとなく、恐ろしいものが見えそうだった。

ここは、あの鬼ばばの行動範囲内なのだ。

「広美にもジュースちょうだい」

「だめだよ。広美も自分の分は飲んだだろ」

「もっと、飲みたいの。ちょうだい」

広美に缶を渡しながら、早く飲まなかったことを後悔した。


「お兄ちゃん、おしっこ」

信二は困ったと思った。

こんなことなら、ジュースをあげるのではなかったと、また後悔した。

「急いで、おうちに帰ろう」

「もっちゃうよ」

と言うと広美はお便所の方へ走って行った。

「広美、待ちなよ」

信二は急いで後を追った。


「広美、終わったか」

信二は、女子便所の前で気がきでなかった。

「お兄ちゃん、紙ちょうだい」

「そんなもん、持ってないよ」

「おばあちゃん、ありがとう」

と言う広美の声がした。

「広美、どうした」

「おばあちゃんに、紙、もらった」

信二はびっくりして、女子便所をのぞき込んだ。

白髪で、薄汚い灰色のきものを着た人の背中が見えた。

広美が、その人に、頭を下げて御礼をしていた。

「広美、こっちへこい」

信二は震えながら言った。

広美がこちらへ来た。

それにつれて、おばあさんも振り返った。

最初に、耳まで裂けた口から、だらしなくよだれを垂らしているのが見えた。

続いて、赤く濁った目が信二をにらみつけていた。

信二は短い悲鳴を上げた。

広美の手を握ると走った。

後ろから、しゃがれた声が聞こえてきた。

「やめろ。仲間にくわわるな」

「俺様に逆らうと、おまえら全員、皆殺しだ」

信二は広美を自転車に乗せた。

広美は訳が分からず、泣いていた。

信二は必死に自転車をこいだ。

「おまえら全員、皆殺しだ」

その声は、バス通りをわたるまで聞こえていた。




(14)


そんなこともあったので、信二と弘子は恐がり、この戦いに参加できないと辞退してきていた。 奥の部屋で、布団に横になっていた父が、二人はまだ四年生だし、おびえているのなら、無理強いをしてはだめだよ、と声をかけてきた。

雄亮は仲間が減るのは残念だったが、おびえてしまっていては、危険が大きすぎるわ、と千春からも言われ、納得した。

千春もできる事なら、他人の子を危険にさらしたくなかったので、ほっとした。雄亮達が戦おうとしている鬼ばばは、自分が思っているより、手ごわい相手かも知れないと、千春は感じ始めていた。

千春は奥の部屋で横になっている夫を見た。

 昨夜、いつもどうりにバスで帰宅してきた夫は、バス停で降りたあと、バス通りを横断するために、信号が変わるのを待っていた。

 その時不意に、誰かに後ろからぶつかれた様な衝撃をうけ、車道に飛び出してしまった。

 信号が変わる直前で、車がスピードを落としていたので、事故は免れたが、倒れた拍子に、足首を捻挫し、腰を強く打ってしまった。

 夫は自分の周りには誰もいなかったと確信していた。

 バス停は、鬼ばばの領域内だった。


(15)


千春と雄亮と智洋の三人は、戦いの支度をしていた。支度といっても千春の用意した袋を肩から斜めに掛けただけだった。

布団の中から父が声をかけた。

「みんな、済まないな。お父さんも手伝えなくて」

「平気だよ。お母さんもいるし僕達で頑張ってくるよ」

雄亮は元気強く言った。

「勇者と戦士と魔法使いの三人組さ。僕はこの組合せで、大魔王をやっつけたもの。三人の方が縁起がいいんだよ」

智洋は今もロールプレイングゲームの気分でいた。

「おまえ達の袋の中には、昨日お母さんが神社でおはらいをしてもらったBB弾と石が入っている。多分この前の神社の石と同じ効果があるはずだ」

父は腰の痛みを我慢しながら布団の上に体を起こしながら言った。

「だけど、それだけでは、あの鬼ばばを倒すことは出来ないと思う。最終的に鬼ばばを倒すことが出来る武器は、おまえ達の心の中にある。三人が心を合わせ、恐怖にうち勝ち、鬼ばばを倒せると信じることだ。お母さんと協力して頑張ってくれ」

父は母を見てさらにいった。

「無理はするな。危ないと思ったらすぐ引き返せ。今日がだめでも、機会はまたあるよ」

父は言いながら微笑んだ。


三人は父を残して、小学校へ向かった。

日差しは今日も強く照りつけていた。

 千春は額の汗を拭いながら、青い空を見上げ、<帽子を持って来るのだったわ>とぼんやり考えていた。バス通りの向こうには入道雲が見えていた。

 「この前の日曜日と同じだね」

智洋が言いながら母を見た。

 母はスポーツバッグのかわりに、智洋達と同じように、袋を肩からかけて、無線機もぶら下げていた。

 智洋は雄亮を見たが、無線機は下げていなかった。

「お母さん、無線機を一つだけ持ってきてどうするの」

「もう一つはお父さんが持っているのよ」、

千春は微笑みながら無線機にむかって言った。

「お父さん、聞こえてますか、どうぞ」

「感度良好。さっきから聞こえているよ」

無線機からは父の声が流れた。

「わあ、すげえな。お父さんも一緒と同じだね」

智洋がうれしそうに言った。

「そうよ。四人で協力して頑張ろうね」

明るく言う千春の声を聞いて、雄亮も智洋も心の片隅にあった不安が消し飛んだ。


小学校の校門に着くと、千春は袋からお札を出して校門に貼った。裏に特殊な糊をつけてあって、すぐ貼れるようになっていた。

「さあ、校門にお札を一枚貼ったわ」

千春は声に出して言った。

「お母さん、いちいち声に出して言わなくても、見えているから分かっているよ」

「雄亮、おまえのために言ったのではなく、お父さんのためにだよ」

と千春が下げている無線機から父の声が聞こえた。

「そうよ。お父さんに、私達がいま何をしているか知らせるために、声に出して言っているのよ」

 千春は腰をおって雄亮と顔を近づけるようにして言うと、そのまま少し雄亮の顔を見つめていたが、にこっと笑うと言った。

「雄亮。頑張ろうね」

 千春は体を起こすと、そばに立っていた智洋の頭を自分の胸に抱え込んだ。

「智洋、恐くても泣くんじゃないよ。智洋が泣いたら、お母さんも泣いちゃうからね」

「お母さん、痛いよ。無線機があたってるよ」

智洋は照れるように千春を押し退けて離れ、顔をこすりながら、にらむような仕草をした。

「痛いな、お母さん気を付けてよね」

そして急にすました顔をして、手をひらひらさせながら続けた。

「お母さん、僕は泣いたりしないの。でもお母さんは女の人だから、恐かったら泣いてもいいよ。背中ぐらいはさすってあげるよ」

「まあ、憎たらしい子」

千春が智洋をぶつ真似をして、そして声をあげて笑った。

雄亮と智洋もつられて笑ってしまった。

三人は校舎に向かって歩き出した。

「お母さん」

「なあに、雄亮」

「僕達が、いまここまで来ていることは、鬼ばばもすでに知っているんだろうね」

「たぶんね。三階の廊下にテーブルを並べて、ご馳走を用意しているかも知れないわよ」

「そんなことは、ないでしょう」

雄亮は笑いながら言ったものの、その瞳は校舎の方を、心配そうに見つめていた。





(16)


「どうしました」

警備室の窓から警備員の小松が顔を出して、笑いながら声をかけてきた。  千春も雄亮達も、小松さんとは以前から顔見知りだった。

「こんにちわ」

千春が軽く会釈をしながら警備室の方へ近づいて行った。雄亮と智洋は、はにかみながらちょこんと頭を下げた。

「実は、校舎の中をちょと探検させていただけないかと、おうかがいしたのですけど」

 千春は言いながら、雄亮達の方にちょっと振り向いて、ウインクした。

 定年退職をした後、小学校の警備員になった小松は、いつも笑顔を浮かべ、温厚な人柄で生徒や母親達にも好かれていた。

「ほう、校内の探検ですか。それはおもしろそうですな」

「子供達が、夏休みの観察日記に、誰もいない校舎の探検日記を書きたい、と言うので困ってしまって」

「なになに、子供の好奇心とはそんなものですよ」

「それで、校舎の中を一回りさせてもらいたいのですが、よろしいですか」

「それは、かまいませんがね」

小松は言うと、雄亮達の方に手招きしながら言った。

「君達は校舎の中で何を探検したいのかね」

近づいてきた雄亮が言った。

「別に決ってません。ただ探検してみたらおもしろそうだな、と思ったから」

「君もかね」

「はい、そうです」

智洋は真面目くさって答えた。

「何も決まっていないなら、おじさんがいいことを教えてあげるよ」

と言うと、小松は窓から顔を引っ込め、部屋の奥に下がった。

子供達からは、部屋の奥に下がった小松が見えたが、千春からは死角になってしまった。

ちょっと待ったが、小松がすぐに顔を出しそうにもないので、千春はなにげなく子供達の方を見た。

「どうしたの」

千春は思わず声にだした。

子供達が二人とも、目を見開き、青ざめながら、警備室の中を見つめていた。

 千春はすぐ子供達のそばにより、警備室の中をのぞき込んだが、誰もいなかった。


「おじさんがいいことを教えてあげるよ」

と言いながら、部屋の奥に下がった小松を、雄亮と智洋は見ていた。

 いつも優しいおじさんであるので、雄亮と智洋は、ちょっと期待していた。

小松は部屋の中央あたりまで下がると、両手で顔を撫でた。撫でた後から、鬼ばばの顔が現れた。

鬼ばばは手招きしながら、うれしそうに言った。

「早く三階へおいでよ。おまえらのご馳走は用意していないけど、代わりに私がおまえらを食らってやるよ」

 鬼ばばは、口から垂れるよだれを右手の甲で拭うと、肩を震わせて笑いながら消えた。

千春は雄亮の両肩をつかまえると、前後に揺すりながら聞いた。

「どうしたの、何があったの」

「鬼ばばが三階で待ってるって。そして僕達を食べると言っていた」

雄亮は放心したようにつぶやいた。

「何処に鬼ばばがいたの」

「鬼ばばが小松さんに化けていたんだ」

智洋は泣きそうな声で言った。

「千春、二人を落ちつかせろ」

無線機から、落ちついた父の声が流れた。

千春が二人の肩を抱きかかえようとしたら、二人から千春にしがみついてきた。彼らの体は小刻みに震えていた。

「あなた、どうしたら良いかしら」

ちょっとの間があってから、夫の声が聞こえた。

「今回の主役は子供達だ。どうするかは彼ら次第だな」

と言うと、夫は黙り込んでしまった。

千春は子供達の体を抱きかかえるようにして、しばらく待っていた。

最初に雄亮が千春を押し退けるようにして離れた。そして千春を見上げて言った。

「お母さん。僕、正直に言ってものすごく恐いよ。でもあいつと戦えるのは、僕と智しかいないから、お父さんが言ったように、あいつを倒せると信じて戦うよ」

智洋は千春に抱きついたまま、雄亮の話を聞いていたが、雄亮の話が終わると頭を動かし、下から千春を見上げた。

千春と目が合い、しばらく見つめていたが、決心したように千春から離れた。

「お兄ちゃん一人ではだめなんだよ。いざとなったら僕がいないとね」

智洋は強がって言いながら、胸を張った。

千春は胸にこみ上げるものがあったが、ここで泣いてはいけないとこらえた。

「あなた、私たちの二人の息子は、立派に成長していますね」

と無線機に語りかけたが、無線機から応答はなかった。

あの人、最近涙もろくなっているから、たぶん泣いてしまっていて、答えられないのね。と千春は思いながら、二人の息子を抱くようにして、校舎の玄関に向かった。

「せっかくのご招待だから、三階のパーティーに出席しようか」

「でも、お母さんは招待されてないよ」

雄亮が真面目くさって言った。

「あっ、そうか。私には招待状がきていないわね」

「でもかまわないよ。僕達の楽しみを、お母さんにも少しは分けてあげるよ」

三人は笑いながら、玄関の中へ入って行った。




(17)


「校舎の中に入りました。玄関口にお札を貼り、これから階段へ向かいます」 千春がいちいち言葉に出しながら行動した。

「お守りはかけたか」

父の声がした。

「あら、忘れていたわ」

千春は笑いながら、袋の中からお守り袋を取り出し、子供達と自分の首にかけた。

「さあ、あなた達も用意してね」

千春が言うと、雄亮は石を、智洋はエアガンを取り出し、しっかり手に握った。

「お母さん、袋の中に砂も入っているよ。これはなんのため」

雄亮が、砂をいじりながら聞いた。

「それは神社の境内の砂よ。一応念のために持ってきたの」

千春は軽くウインクしながら答えた。

三人は階段を上り始めた。

「校舎の中は涼しいわね」

千春が思わずつぶやいた。

「上へ行くと、もっと涼しくなるよ」

雄亮が言うと、智洋がすぐ続けた。

「涼しいどころじゃないよ。寒くてがたがた震えちゃうよ」

「おまえの場合は恐くて震えるんだろ」

「お兄ちゃんみたいに、小便をちびったりはしないけどね」

「あなた達、こんな所で喧嘩しないでよ。相手が違うでしょ」


二階の廊下に着くと、さすがに雄亮も智洋も緊張しはじめた。

 三階に上がる階段を見つめながら、二人は立ち止まった。

「ほら、上は氷が張っているでしょ。この前と同じだ」

雄亮が階段の上の方を指さしながら言った。

雄亮が指さした方を見たが、千春には氷など見えなかった。

「何処に氷が張っているの」

千春は雄亮の肩に手をおきながら聞いた。

雄亮は千春の顔を見て、そしてまた階段に視線を戻した。

「踊り場のあたりから、壁や床に薄く氷が張っているよ。やはりお母さんには見えないのか」

残念そうに、雄亮は言った。

千春は、空気がさっきより冷たくなっているのには気づいていたが、氷などは全く見えなかった。

「千春、あせるな。子供達の側にいるだけでも構わないと思って、もっと気楽にしていろ」

夫の声が聞こえた。

「そうね。成るようにしか、ならないものね」

千春はつとめて明るく言った。

「雄亮、智洋。二人とも自分達の見えるものを、お母さんに教えてね」

千春は階段を上がり始めた。

二人はうるさいぐらいに、氷の張り具合いを千春に話し始めた。

 なんとなく、話すことで恐さを紛らわしているようにも思えた。

二人は氷に滑らないように、へっぴり腰になったり、てすりにつかまったりしながら階段を上がって行った。

千春から見ていると、ふざけているようにも思えたが、不思議と笑う気持ちはおきなかった。

 <神様お願いです。私にも鬼ばばが見えるようにして下さい>と心の中で祈った。

三階の廊下に立つと、子供達は立ち止まって、お便所の方をにらみつけた。

「ここは天井も壁も床も、氷が厚く張っている。特にお便所のところは、ものすごく厚くなっている」

 雄亮は言いながら、体をふるわせていた。

智洋を見ると、智洋も両腕で体を抱きかかえるようにして、ふるえていた。

千春には、さっきより少し冷たく感じるだけで、ふるえるほどではなかった。

「鬼ばばは何処にいるのかしら」

「この前は、あのお便所の中から、輝く光と一緒に現れたよ」

智洋が答えた。

「僕達が、鬼ばばの持っていた玉を三つとも壊しちゃったから、光はでてこないと思うよ」

雄亮が言ったとき、鈴の音が聞こえた。

「鈴の音だ。お母さん鬼ばばだよ」

鈴の音は千春にも聞こえたような気がした。

「どこにいるの」

「まだ現れてはいないよ。この前はあの鈴の音を聞いた後、お便所の中を見たらいたんだよ」

「お母さんが、お便所の中を見てこようか」

「いや、行かないでお母さん」

智洋が千春の手をつかまえた。

「こっちから行かなくても、むこうから出て来るよ」

智洋の声は少しふるえていた。

「ほら、お母さん、光だ」

千春の手を離して、智洋がお便所の方を指さした。





(18)


お便所の中が光り輝きはじめると、廊下の氷も色々な色に輝きはじめた。 「きれいだな」

と思わず雄亮はもらしてしまった。

 この前は、鬼ばばから逃げ出そうと必死にもがいていたので、周りの氷が輝いていたのは知っていたが、記憶に残っていなかった。

「玉などなくても、これぐらいの事はできるさ」

あの鬼ばばの声が、雄亮と智洋の耳の側で聞こえた。

「お母さん、鬼ばばが出て来るよ」

雄亮が叫んだ。智洋もすでにエアガンを構えていた。

「お母さん、そっちへ行っちゃだめだよ」

智洋が怒鳴った。

千春は氷の上を滑らずに、すたすたとお便所の方へ歩いて行った。

 お便所の入口ではちょっと立ち止まったが、中をのぞきこむと、何も気にせずに入って行った。

「お母さん」

と雄亮が叫びながら前に出ようとしたとき、お便所の中から光が洪水のようにあふれ出し、鬼ばばが姿を現した。

「お母さん、だいじょうぶなの」

智洋が叫んだ。

「お母さんは何ともないわ。それより鬼ばばは現れたの」

と、お便所の中から千春の声が聞こえた。

「おまえ達の母親には、やっぱり私が見えないらしい。今日は母親の目の前でおまえ達を殺してやるよ」

鬼ばばがうれしそうに笑い、右手を持ち上げると、そこにはあの出刃包丁が握られていた。

「お母さん、鬼ばばはお便所の入口の外に立っているよ」

 雄亮は、いつでも石を投げられるように構えた。

お便所の中から、千春が現れて、入口の外に立った。

 すぐ隣に鬼ばばが立っているのに、千春は全く気づかず、雄亮達を見るとにっこり笑うほどだった。

雄亮と智洋は気が気でなかった。

鬼ばばは、すぐ側で千春をにらみつけていた。

千春は袋の中に手を入れると、お札を取り出し、お便所の入口に貼ると、すたすたと雄亮達の方へ歩きだした。

お便所の入口に、お札を貼られたことに気づいた鬼ばばは、目をつり上げ、歯をむき出しにして怒りをあらわにすると、包丁を振り上げ、千春の後にせまった。

「お母さん、危ない」

「逃げて」

雄亮と智洋は叫ぶと、それぞれ鬼ばばに攻撃を開始した。

千春は二人の声に驚いたように、こちらへかけだしたが、鬼ばばの振り下ろした包丁で、左腕を切りつけられてしまった。

千春に切りつけた直後、雄亮と智洋の攻撃をうけた鬼ばばは、叫び声を上げると二三歩退き、右手の包丁を構えたまま恐ろしい形相で二人をにらみつけた。

千春は傷ついた左腕を右手でおさえながら、雄亮達の横にうずくまった。

 すでに千春の右手の指の間から、床に血がしたたり落ちていた。

 智洋が千春のそばにより、背中にそっと手をかけた。

「お母さん、だいじょうぶ」

と智洋は心配そうに言った。

 雄亮は石を投げる構えをしたまま、鬼ばばと対じしていた。


「大丈夫よ。たいした傷ではないわ」

と千春は言いながらも、固く目をつぶり、うずくまりながら震えていた。

お便所の中から出てきたときも、まだ鬼ばばが現実にいるとは実感していなかったし、恐怖も感じてはいなかった。

 それよりはむしろ、お便所の中で、雄亮達から聞いていた右から三番目のトイレの中にお札を貼った後は、鬼ばばに対して優越感さえ感じていたし、鬼ばばの逃げ帰る所を封じてしまったことで、もう勝利した気分になっていた。

それらが、雄亮達の危険を知らせる叫び声とともに、左腕を切りつけられたときに、たとえようのない恐怖といれかわった。

千春は切りつけられる直前に、背後で何かが動いたのを感じていた。

 鬼ばばは本当にいるんだ。それは空想ではなく、現実にここに存在している。

鬼ばばがもう一歩深く踏み込んでいたら、私は死んでいたかも知れない。

<無理よ。戦うなんて無理だわ。

逃げるのよ。そう逃げなきゃだめだわ>




(19)


その時、誰かの手で、傷口をおさえていた千春の手がどけられると、きずついた辺りに何かを押しあてられた。 千春はゆっくり目をあけた。

智洋が千春の傷口にハンカチを押しあてていた。

千春と目が合うと、にっこり笑い、

「お母さん、もう大丈夫だよ」

と言いながら、慣れない手付きでハンカチをしばりつけた。

ありがとう、と言いながら、千春は逃げようとしていた自分を恥じた。

 智洋でさえ逃げずに戦っているのに、自分が弱気になってどうするのだ。

千春は足の下が妙に冷たいのに気づいた。

氷だ。氷が張っている。

あたりを見回してもっと驚いた。

雄亮達が言っていたように、氷が光り輝いていた。

千春は振り返った。

すぐ後ろで、千春を守るように雄亮が石を持って構えていた。

 そのむこうに、白髪で歯をむき出しにして怒っている顔の鬼ばばが見えた。

右手には出刃包丁を持って構えていた。

鬼ばばが見えるという事は、私にも攻撃が出来る。

そう思うと千春は少しづつ勇気が湧いてきた。

千春は足もとの氷で滑らないように気をつけながら立ち上がった。

左腕の傷が痛んだ。

雄亮は、背後に千春の立ち上がった気配を感じると、鬼ばばを見つめながら言った。

「お母さん、もう平気なの」

その声には、ほっとする安堵の響きがあった。

「もう、平気よ。それにお母さんにも鬼ばばが見えるようになったわ」

千春は雄亮と並んで立った。

雄亮は千春の方に一瞬顔を向けると、うれしそうに言った。

「本当、良かったね、お母さん。これで三人で戦えるね」

「嘘だ。その女は嘘をついているだけだ。大人に私が見えるはずがない」

 千春の耳元で鬼ばばの声がした。初めて聞く声だが、しゃがれた気持ちの悪い声だった。

「本当だよ。うちのお母さんは嘘をつかないよ」

智洋がやり返した。

「鬼ばばさんとやら、あなたの逃げ道はもうないのよ」

 千春はお便所の方を指さした。

「三番目のおトイレの中にもお札を貼ってきたわ。もう観念したらどうかしら」

 千春の声は自信に満ちていて、雄亮も智洋も勇気が湧いてきた。

「よくもこざかしいことを。こうなったら三人とも殺してやる」

鬼ばばはこちらに向かってきた。

智洋がさきに撃った。続いて雄亮も石を投げた。

 鬼ばばは叫び声をあげて、痛がった。

「続けて。どんどん攻撃して」

千春が二人を応援した。

雄亮は石を何個も投げつけた。智洋もBB弾を何発も撃ち込んだ。

 鬼ばばは床に転がり、顔や身体をかきむしりながら苦しんだ。

「やめて、攻撃をやめて」

 千春は二人に攻撃をやめさせると、鬼ばばの様子を見た。

しばらくすると、鬼ばばは床によつんばいになり、肩で息をしながら、三人をにらみつけた。

鬼ばばの顔や身体のいたるところが、焼けただれたように肉がくずれ、髪も抜け落ち、とてつもなく気持ち悪く恐ろしい姿になっていた。

「よくもやったな」

と鬼ばばが口を動かしたとき、あごの肉がずるりと下にたれ、あごの骨がむき出しになった。

三人は悲鳴を上げると、抱きついて後ろに下がり始めた。

 鬼ばばはゆっくり立ち上がった。

身体が動くたびに、肉片が床に滑り落ち、ぺちゃ、ぺちゃ、と薄気味悪い音が廊下に響いた。

鬼ばばが、足を引きずりながら近づいて来た。

 何処からともなく風が吹き始め、氷の破片が宙を舞い始めた。

風は徐々に強くなった。

それにともない氷の破片がちくちく顔や身体に刺さり始めた。

 三人は抱き合うようにして、体を丸め、少しづつうしろへさがった。

 ますます風は強くなった。

吹雪のように氷の破片が宙を舞い、もはや視界は見えなくなり、身体に激しく破片がぶつかった。

「あなた、どうしましょう」

と千春は無線機に呼びかけたが、応答は何もなかった。

「あなた、聞こえないの」

千春は無線機に怒鳴った。

「ふふふ、無線機は使えないさ。諦めな。殺してやる。三人とも皆殺しだ」

白い氷の吹雪のむこうから、声が響いてきた。

千春は袋から砂をつかみ出すと、めくらめっぽうに投げつけた。

「これは幻よ。あなた達も信じて。実際には吹雪なんてないのよ」

千春は大きな声で怒鳴りながら、砂を投げつけた。





(20)


ぎゃっと悲鳴が上がった。 急に風がやみ、氷の吹雪は消え、周りの氷も消えていた。

 三人の少しむこうに鬼ばばがうずくまっていた。

姿は元どうりになっていた。

雄亮と智洋がゆっくり千春から離れた。

「鬼ばばの身体が直っているよ」

「さっきのは幻だったんだ。鬼ばばが僕達を恐がらせようとして、あんなふうに見せたんだ」

「そうよ。こっちが恐がるからいけないのよ」

 千春は鬼ばばを指さして怒鳴った。

「あんたなんか、恐くないわ。あんたなんか、恐くない」

「そうだ。おまえなんか恐くない。おまえは弱虫だ」

雄亮も続けて怒鳴った。

「なんだと、恐くない、だと」

鬼ばばは立ち上がり、前に進もうとしたが、床に散らばっていた砂に触れると、熱そうに足を引っ込めた。

 それを見た千春が、鬼ばばとの間に砂をまきはじめ、雄亮も智洋もそれに習った。

「さあ、これで私達には近寄れないわよ」

千春は自慢げに言った。

「これでもくらえ、弱虫」

と雄亮が石を投げた。

「弱虫だと」

鬼ばばは雄亮の投げた石を手で払ってよけた。

「もう許さん。俺様の本当の恐ろしさを見せてやる」

「あっそう」

智洋もエアガンを撃った。

 しかし鬼ばばはBB弾も手で払ってよけてしまった。

「おまえ達の攻撃など、かわそうと思えばかわせるのだ」

 鬼ばばは三人をにらみつけながら、歯をむき出しにして口を大きくあけた。

「おまえら三人とも食らってやる」

鬼ばばは肩でおおきく息を吸うと、床に散らばっている砂めがけて息を吐き出し、砂を全部吹き飛ばしてしまうと、こちらに歩きだした。

雄亮と智洋は恐ろしくなって思わず、後ずさりした。

 千春は落ち着いた様子で、袋の中からパチンコを取り出した。

袋の別のポケットから、小さな玉を取ると、ゴムの先に付いた皮の部分に、その玉をはさんだ。

「お母さん、それはなに」

雄亮が母の後ろに隠れるようにしながら聞いた。

「この玉は、昨日の夜、お父さんと作ったのよ。パチンコ玉のまわりにお札が巻き付けてあるのよ」

 千春は鬼ばばに狙いを定めた。

「これであなたも、おしまいね」

「そんなもの、たたき落としてやる」

鬼ばばは立ち止まって構えた。

「さあ、あなた達もこの玉で鬼ばばを倒せると信じて」

と千春は言うと、倒す、倒す、と口の中でつぶやき始めた。

 雄亮も智洋も千春の後ろに隠れながら、倒す、倒す、とつぶやいた。

千春がさらにゴムを引き、手を離した。

パチンコから放たれた玉は、鬼ばばが払おうとした右手の手首を砕き、そのまま右肩に当り、右手を肩からもぎ取った。

鬼ばばは、鋭い悲鳴を上げた。

腕をもぎ取られた右肩を左手でおさえ、よろめきながらも立っていた。

 足元では、もぎ取られた右腕がまだ動いていた。

鬼ばばはうなり声を上げた。

そのうなり声が大きくなるにつれて、赤い目がつり上がり、唇がまくれ上がると歯もむき出しになり、あの長い白髪も陽炎のように逆さだって、ゆらゆら揺れた。

「おのれ、おまえら。本当に俺を怒らせたな」

鬼ばばの姿全体が、陽炎に包まれたように搖れ始めた。

「おまえらの冥土の土産に、俺様の本当の姿を見せてやる」

 鬼ばばが床に手を着くように、姿勢を低くすると、姿が段々ぼやけて、濃い灰色になっていった。

「そして、その姿を見たときがおまえ達の最後だ」

 濃い灰色は徐々に黒い影になり、前後左右に少しづつ大きくなっていった。

「お母さん、どうなるんだろう」

雄亮が千春の後ろからこわごわ言った。

「さあ、分からないわ」

千春は新しい玉を出して、パチンコを構えていた。

黒い影はかなりの大きさになり、徐々にその姿を現し始めていた。

「狼かな」

「熊のようにも見えるわね」

と雄亮と千春はいいながら、少しづつさがりはじめた。

「違うよ、違うよ」

智洋が急に叫び出した。

「あいつはそんなに強い奴じゃないよ」

と智洋は叫びながら一歩前に進むと、黒い影を指さして叫んだ。





(21)


「おまえはピンクの豚だ。 そうだ、ピンクの仔豚なんだ。誰がなんと言おうと、おまえはピンクの仔豚だ。ピンクの仔豚。ピンクの仔豚」

と叫び続けた。

ちょとおびえてさがり始めていた千春と雄亮は、智洋の叫びで立ち止まった。

「そうだよ。そうだったんだ」

と、つぶやく雄亮の顔には微笑みがこぼれていた。

「ピンクの仔豚だ。ピンクの仔豚」

雄亮は手を打って拍子を取りながら前に進んだ。

「そうね。そうだったわ。信じなきゃいけなかったのよ」

千春も手を打って拍子を取りながら、ピンクの仔豚と叫んだ。

 三人は手を打ち鳴らしながら、黒い影に向かってピンクの仔豚とはやし立てた。

姿を現しつつあった黒い影の動きが、いったん止まった。

「うう、やめろ」

黒い影の中から、苦しげな絞り出すような声が聞こえたと思うと、その影は少しづつ小さくなりながら、濃い灰色にもどりはじめた。

三人はまえにもまして、大きな声で叫んだ。

「ピンクの仔豚、ピンクの仔豚。ピンクの仔豚」

「やめろ、やめるんだ」

と苦しげな声が続いたが、灰色からピンクになり始めたその影は、仔豚の様な姿に成りつつあった。

千春と雄亮が、手を打ってはやし立てる中を、智洋はそのピンク色の影に近づいた。

まだうごいている影の側で立ち止まると、両手をたかだかと上げて叫んだ。


「ピンクの仔豚よ、現れろ」

ピンクの影が動きを止めると、床の上に一匹のピンクの仔豚が現れた。

 ピンクの仔豚は、短い足を床の上でふんばり、三人の方をにらんでいた。

「俺様を、こんな姿にしやがって」

歯をむき出しにしてうなった。

「お母さん、いまだ」

雄亮が千春をあせってつっついた。

千春は、ぱちんこのゴムを引いて、ピンクの仔豚に狙いを定めた。

 ピンクの仔豚の姿を見ていると、ちょっとためらう気持ちがあらわれたが、真美ちゃんや博君の事を思い出し<あなたが悪いのよ>と心の中でいうと、右手を離した。

お札を巻き付けた玉は、ピンクの仔豚の眉間から、音もなく吸い込まれるように体の中へ入っていった。


ピンクの仔豚は体が硬直したかのように、四本の足を突っ張った。

 その体が揺らめいたと思うと灰色の影になって広がり、床にはいつくばる鬼ばばが現れた。

 鬼ばばは顔を少し起こすと、上目使いに寂しそうに千春達を見た。

その目はどんよりくもり、何も見えていないようだった。

 鬼ばばの体がぶるっと震えた。

鬼ばばは力つきたように顔を床につけた。

 千春達の見ているまえで、その姿は徐々に薄くなり、灰色の煙のようになって消えた。


(22)


三人は立ったまま、その鬼ばばが消えた後を見つめていた。

「終わったね」

雄亮が静かに言った。

「あいつは死んじゃったの」

智洋が千春の手を握りながら聞いた。

「よく分からないけど、もう現れることはないと思うわ」

千春は智洋の手を握り返しながら言った。

「でも二人とも本当に勇気があったわね。お母さんはあなた達がいなかったら、逃げていたわ」

千春は二人を見ながら言った。

二人とも照れくさそうではあったが、うれしそうな顔をして千春を見上げた。


階段の方から足音がした。

三人はびっくりして階段を見つめた。

階段を恐る恐る上がってきた警備員の小松が、千春達の姿を階段の途中で確認すると、ほっとしたように胸をなでおろした。

「あなた達ですか。警備室にいたら、上の階からピンクの仔豚、ピンクの仔豚と叫ぶ声が聞こえたので、びっくりしましたよ」

小松はゆっくり階段を上がってきた。

「いったい、何があったんです」

小松はあたりを見回しながら聞いた。

千春達は小松の前を通って階段を下りながら言った。

「ピンクの仔豚を消したんですよ」

「ほう、ピンクの仔豚を消したんですか」

小松は廊下の壁や床を見ながらつぶやいた。

「誰かが、いたずら書きでもしたんですかね」

 その言葉に三人は笑いながら、階段を下りて行った。


ドラえもんの中で、ノビ太が冒険をします。色々な危険な目に遭いながらも、敵を倒し、悪を成敗します。でもノビ太一人の力ではありません、仲間の助けや、保護者的なドラえもんのおかげです。

この小説も兄弟の助け合い、家族の愛で、悪を倒しています。

この世で生きてゆくためには、仲間との助け合い、家族の愛が大切だということを、わかってもらえれば幸せです。


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