生と死
そして戦闘が終わった。
先ほどまでの狂乱は嘘のように辺りは静寂と血と硝煙の匂いに包まれた。漂う肉の焼ける匂いと糞尿の匂いはアンドレイに強い不快感を与えた。
すでに、敵の部隊のほとんどは逃げだし、逃げ遅れたものはアンドレイ達の小隊の捕虜になった。その周りをアンドレイ達、小隊の面々が囲んでいた。
捕虜達は横一列に並んで、両手を挙げてひざまずいて服従の意を示している。
「彼らの処遇はどうするのですか?」
アンドレイがバートラム少尉にたずねた。
「決まりきったことを聞くな。我々には捕虜を連れ歩く余裕はないし、必要もない」
余裕がないというバートラムの言葉は正しかった。バートラム少尉率いる小隊は最前線の真っ只中にいるのだ。それも混戦のせいで自分たちの位置すら見失いかけている。本隊からの支援は受けられないし、いつ本隊と合流できるかわからない。そんな状況で捕虜を連れ歩く余裕はなかった。
バートラムはアンドレイの方を向くと、顎をしゃくって捕虜達の方を指し示した。
「奴らを始末しろ」
バートラムの無情な命令をアンドレイは確かに聞いていた。しかし、アンドレイは動かなかった。ただ、じっと立って表情の無い顔で捕虜を眺めているだけだった。
傍目には見えずとも、アンドレイは内心では激しく葛藤していた。少尉に命令された以上はアンドレイは捕虜達を殺さなければならない。上官に従うのは兵士の義務だ。けれども、アンドレイの良心は激しくのたうち、義務の遂行を邪魔するのだ。アンドレイはどうすることもできず、ただ捕虜を見つめることしかできなかった。
捕虜達の態度は様々だった。怯えた様子を見せる者、なにもかも諦めたかのように虚空を見つめる者、必死に彼の帰りを待つ家族がいることを訴え命乞いをする者、一人として同じ反応を示してはいなかった。けれども、アンドレイにはあることがはっきりとわかった。捕虜達の見かけの振る舞いはそれぞれ異なっていてはいるが、忍び寄る死に恐怖を抱いていることだけはみな同じなのだ。
アンドレイはなにもできなかった。小隊の面々も何も言わなかった。そして、何も動かないまま一分程たった。誰も何もしようともしなかった。バートラムもアンドレイが処刑を始めるのをただ待っていた。しばしの間、静謐が訪れた。荘厳で神聖な儀式の前のような静けさであった。その場に居る全ての者にそのひとときは永遠のように感じられた。
長く引き伸ばされた時間を終わらせたのはアンドレイだった。彼は俯きながら消極的な抗議を発した。
「彼らは降伏しています。無抵抗なんです。僕には殺すなんてとてもできないです」
それを聞いたバートラムは心の柔らかい所を一突きされたかのように感じ、激しい苛立ちにかられた。
「解放してやれと言いたいのか?それはできない。断言しよう。彼らを解放したら、敵の本隊に合流するだろう。そして、我々に慈悲を受けたその身で我々の同胞を、我々自身を、果てには故郷で帰りを待つ我々の家族を手にかけるのだ」
バートラムの言葉は自分に言い聞かせるかのようだった。彼は自らを奮い立たせるように激しい口調で話した。アンドレイにはバートラムの内でもまた良心が暴れていることが感じられた。バートラムは怒りによって良心を塗り潰そうと必死に努力しているのだ。
バートラムの言葉を受けても、アンドレイは動こうとしなかった。彼は何もしないことで、暗黙のうちに不服従を表明していた。
しびれをきらしたバートラムはアンドレイに背中を向けると、内心の葛藤の激しさを表すように荒々しい歩調で捕虜の方に歩いていく。
彼は一番右端にいた捕虜の前で立ち止まると、アンドレイの方を振り返った。
「お前がやらないのなら、俺がやってやる」
バートラムは腰のホルダーからナイフを引き抜いた。その刃は太陽の光を反射して輝いていた。ナイフの刃渡りは二十センチほどだ。喉に突き刺せば容易にその命を奪えるだろう。
アンドレイは、じっと立ったまま捕虜のことを見つめていた。そのとき、アンドレイと、ほんの数秒後には喉に刃を突き立てられるであろう捕虜の目があった。死の運命に囚われた彼の瞳には、それに反して生の煌めきがあった。消えゆく時を前にしていっそう激しくなる煌めきを目にしたアンドレイは、前にも同じ煌めきを見たことを思い出した。
それは、二年前の冬のことだった。彼がバートラムの小隊に配属される前のことである。
その年の冬は厳しく、まるでこの世の全てを凍りつかせるかのようだった。
アンドレイは冬の寒さと雪の白さに覆われた北方の海岸で、ある任務についていた。
彼がついている任務は海岸から上陸してくる敵の部隊を迎撃することだった。
迎撃にはアンドレイが所属している隊の他にも多くの隊が参加していた。同じように敵の数もまた多かった。
アンドレイ達は海岸に前線を築いて激しい攻撃を加えたが、敵の上陸を完全に防ぐことは出来なかった。上陸に成功した敵は塹壕を掘り、そこに立て篭もった。そのせいで、この時の戦闘は長引いた。戦闘はおよそ七日に渡って続けられた。
アンドレイが捕虜の目に見た生命の煌めきを目のあたりにしたのはちょうど戦闘が終わる七日目のことだった。
その日の朝、顔に当たる爽快な朝の日射しにアンドレイは目を覚ました。しかし、彼の気分は爽快とはほど遠かった。むしろ最悪に近かった。散発的に発生する戦闘は彼の睡眠を不規則で短いものしたし、耳元を通り過ぎる銃弾は彼の心に死の恐怖をまざまざと刻みつけた。厳しい寒さと降り積もる雪は彼から体力を奪った。溶けた雪で濡れた寝袋の中で眠り、撃ち合いをするために目覚めるのは、アンドレイをひどく惨めな気分にさせた。
故郷から遠く離れた地で満足に休息も取れず、彼を殺そうとする敵と向かい合い、いつ死ぬかもわからない状況に身を置くのは1人の人間を急速に磨耗させる。
そんな過酷さの中でアンドレイを支えていたのは栄光と義務であった。故郷を守るために戦う者達に与えられる栄光。より多くの敵を倒す栄光。アンドレイはそれらの栄光を求めるのは、健全な男性の義務だと考えていた。
そして、アンドレイはもうすぐ栄光が手に入るのを知っていた。
長く続いた戦闘は両軍の物資を欠乏させた。やがて、銃弾が切れるだろう。そうなれば、銃剣を装着して、まるで古代に逆戻りしたかのような近接戦になる。それが終われば戦闘は終わる。アンドレイの手には栄光が手に入るのだ。
アンドレイは息を潜めてその時を待った。
太陽が中天に差しかかった頃に、遂にアンドレイの待ちわびた時が訪れた。
両軍とも銃弾が切れたのはほぼ同時だった。彼らは素早く銃剣を装着し、意味の不明瞭な雄叫びを上げながら突撃していった。アンドレイも当然その中に混じっていた。
戦場を混沌が支配した。マシラのようや叫び声を上げやたらめったら銃剣を振り回す。敵味方の区別なく、皆狂騒に取り憑かれていた。アンドレイも例外ではなかった。彼も興奮に我を忘れて暴れまわった。
混沌の中から一人の兵士がアンドレイにうちかかって来た。アンドレイは咄嗟にかわすと、その兵士の胸に銃剣を突き立てた。
嫌な感触がアンドレイの手に伝わった。肉を突き刺すなんとも言えない感触は根源的な嫌悪感を呼び起こした。
アンドレイには自分がたったいま、刺し貫いた相手の顔をはっきりと見ることができた。彼は苦痛に顔を歪ませ、はっきりとした憎悪をアンドレイに向けていた。
熱い血がアンドレイの頬にかかった。その瞬間、どういう精神の働きかは分からないが、アンドレイは戦闘の興奮から解放され我に返った。
その兵士はうめき声をあげながらよろよろと後ずさりすると、信じられないといった表情で胸の傷口を抑えた。抑えた手の隙間から血がとめどなく流れた。彼は血を留めようと努力を重ねた。しかし、その努力が身を結ぶことはなかった。
やがて、その兵士は死が逃れられないことを悟ったのか傷口を抑えることをやめた。彼は震える手で懐から古びた銅のロケットを取り出した。簡素な装飾と所々錆びているロケットは、彼があまり裕福ではないことを示していた。彼はロケットを開いて中を見ようとしたが、手が震えて上手くいかなかった。
そうこうしているうちに彼の足から力が抜けていき、仰向けに倒れた。倒れた拍子に彼の手からロケットがこぼれ落ち、アンドレイの足元に転がってきた。
アンドレイはそれを拾い上げた。そのロケットが狂騒の中に放置されるのは、冒涜のようにさえ思えたからだ。
アンドレイの手の中にあるロケットは日射しを反射して鈍く輝いていた。
何気なくアンドレイはそのロケットを開こうとした。その時、ロケットの表面に小さく刻印されていたJ.Lという文字が彼の目に止まった。おそらくはこのロケットの持ち主の兵士のイニシャルであろう。Jは何の略だろうか。ジェームズ、それともジョンソン、はたまた、ジョナサンかもしれない。Lは何の略だろうかルーカスかそれともロイドか。
その時、アンドレイは気付いた。アンドレイは自らがたった今殺した人間の名前さえ知りはしないのだ。アンドレイは彼に何の恨みもなく、何の関わりもないにも関わらず。
アンドレイは取り返しもつかないことをしたような気分になった。彼はなにかに急かされたかのようにロケットの蓋を開けた。
ロケットの中に収まっていたのは一枚の写真であった。おそらくは兵士の妻であろう女性が赤ん坊を抱いているのが写っている。その女性は際立って美しい顔立ちをしているわけではない。彼女は生活の苦労が伺えるようなシワやシミやあかぎれた手をしていた。だが、彼女は確かな愛情に満ちた瞳をしていた。慈愛の眼差しを赤ん坊に注いでいた。
その写真を見た瞬間に、アンドレイは自分が何をしたのかを、今まで何をしてきたのかを知った。
この写真の女性は夫の帰りを今か今かと待ちわびているのだろう。しかし、彼女の待つ家に夫が帰ることはない。
彼女は何をしている時でも、頭の片隅で夫の無事を祈っているのだろう。しかし、その祈りはアンドレイが踏みにじった。
やがて、彼女の家に軍から一通の手紙が届くであろう。夫の死亡をしらせる、薄っぺらな紙切れが。
そして、彼女は知るのであろう、彼女の夫はもうこの世にはいないことを。夫はもう二度と彼女に笑いかけることはないと。
彼女は一人で、亡き夫との子供を育てていくのであろう。しかし、その子供は他の子のように父の愛情を受けることはない。アンドレイがそれを奪ったのだ。
兵士の妻とその息子あるいは娘がこれから耐え忍ばなければならない苦難がアンドレイの脳裏に鮮やかに浮かんだ。彼は耐えきれなくなり、赦しをこうように倒れている兵士の顔を見た。
まだ兵士の生命の灯火は消えてはいなかった。消えかけの小さな炎だが、確かにそこにあった。
アンドレイは彼のそばにひざまずくと、彼の顔の前にロケットを持ってきて中を見せた。兵士は震える手でロケットをなぜた。兵士の目からはアンドレイへの憎しみは消えていた。奇妙な友情のようなものが二人の間にあった。
白い息が兵士の口から今にも途切れてしまいそうなほどかすかに漏れ出していた。
アンドレイと兵士の目があった。兵士は出血により朦朧としていて、瞳は焦点があっていなかった。しかし、アンドレイはその瞳に眩い生命の光を感じた。決して犯すべきではない貴い光がそこにはあった。その光は、蝋燭の最後のひと揺らぎのように、消えゆく時にこそいっそう眩く輝くのであろう。
アンドレイはこの瞬間、心の底からこの兵士を助けたいと願った。彼の人生が、その歓び、哀しみ、苦しみ、光り輝くその全てが消えていくのを止めたかった。しかし、兵士の胸からは無情に血が溢れ続けた。瞳からは光が失われていった。そして、かすかに彼の口から漏れていた白い息が途絶えた。アンドレイはそれを呆然と見ていることしかできなかった。
アンドレイが我に返った時、戦闘の狂騒は未ださめてはいなかった。周りでは彼の戦友たちが忘我の中で戦っていた。彼はそれに加わる気にはなれなかった。手持ち無沙汰になった彼は、所在なさげにあたりを見回した。
辺りの景色は地獄そのものだった。宝石のように美しい緑をたたえていたはずの海は変わり果て、今やその面影はどこにも残っていなかった。海には兵士達の血と肉が漂い、海面を赤黒く染め上げていた。地面を覆う純潔の白雪は兵士達に踏み荒らされて溶け出し、彼らの流した血と混ざり合って赤茶色の汚水のようだった。そして、それらの真ん中で、狂奔に駆られた兵士達が殺し合いを続けていた。
アンドレイは栄光などはどこにもなかったことを悟った。深い虚無感のなか空を見上げた。
たとえ地獄の中にあっても、空だけは曇りない深い青色を失うことはなかった。空の天辺では太陽がその暖かい光を狂奔にうごめく兵士達に投げかけていた。
バートラムが捕虜にナイフを振り下ろした。だが、その刃は捕虜には届かなかった。アンドレイがバートラムの腕を掴んで止めていたからだ。
「なんのつもりだ」
バートラムのたずねられてはじめてアンドレイは自分のしていることに気付いた。捕虜の目にある光を目にした瞬間、考えるよりも早く体が動いていたのであった。
「僕は......その......」
アンドレイはしどろもどろだった。
バートラムが腕を掴むアンドレイの手を乱暴に振り払った。アンドレイはたたらを踏んで後ずさる。
バートラムは事の成り行きを見守っていた小隊員達にアンドレイを抑えるように命令した。しかし、彼らは遠巻きに見つめるだけで動こうとはしない。
「隊長、捕虜たちをどうか殺さないでください」
アンドレイの懇願をバートラムは無視した。
「早くそいつを抑えろ」
バートラムは再び小隊員達に命令した。しかし、その命令を実行に移した者はいなかった。皆物言わぬ石像のようにその場に立ったままだった。彼らはアンドレイを支持するわけでもなく、バートラムの命令に従うわけでもない。無言のうちに、この場の全ての決断を委ねるという意思表示をしていた。
アンドレイも懇願をやめた。全てはバートラムに託されていた。
バートラムはそのことに気付いた。その気付きは彼の心に迷いを生んだ。彼の目の前に跪いているのは殺される謂れなど何もないであろう男。聖人のように曇りなく善良とは言えぬまでも、祖国のために立ち上がり、その命を危険に晒すことを選んだ高貴さを持つ男。恐らくはバートラムと同じように妻と子を持ち、彼らのもとに帰ることを夢見ている男。その男の命はバートラムの手のひらの上にあり、それの扱いに対する責任は全てバートラムに属するのだ。
バートラムに突きつけられた選択は彼に迷いを芽生えさせた。
バートラムは迷いを振り払うように首を左右に振った。
(俺が男を殺したところで責めるものはいない。これは戦争中に起きる数ある出来事の一つに過ぎない。さらには、男を見逃すことは俺だけでなく小隊の皆までもをのっぴきならない危険に陥れる可能性がある)
バートラムは男を殺すように自分に言い聞かせた。
彼は男を殺す決意を固めると、赦しを乞うように天を仰いだ。
空には雲一つなかった。明るい青がどこまでも広がっていた。
不意にバートラムはその空に既視感を覚えた。強烈な懐かしさ、郷愁のようなものが彼を襲った。
彼はその既視感の根源を手繰り寄せようと記憶の底をひっくり返す。そして、ある夏の日を思い出した。
その夏の日は暑かった。空には雲一つなく太陽の光を遮るものは何もなかった。戦場には天上の光がさんさんと降り注いでいた。
まだ、新兵だったバートラムは太陽の光を浴びながら、敵が近づいてくるのを塹壕越しに見ていた。
バートラムが隠れている塹壕からは幾つもの銃口が敵に向かって伸びていた。一度その射程の中に敵が踏み込んだなら、銃火は瞬く間に彼らを焼き尽くすだろう。
暑い日差しの中でバートラムは震えていた。死の恐怖にではない。彼がその身に浴びている憎しみにだ。自分に敵意を持つ男たちが、自分を殺そうと迫ってきているその事実に震えていた。
俺がいつ殺される程のことをしたっていうんだ!バートラムはそう叫んで走り出したかった。だが、もしそんなことをしたら後ろに控えている指揮官がバートラムを射殺するだろう。だから、バートラムにはただ震えながら戦闘が始まるのを待つしかなかった。
敵の一隊が近づいてくるにつれて、バートラムの目に彼らの姿が細かい所まで見えるようになった。
バートラムは敵の中のある一人の兵士に目を止めた。彼はバートラムと同じように震えていた。バートラムと同じように恐怖に囚われている。それでも彼は自分を奮い立たせるために雄叫びをあげ、バートラムの方に突撃してきている。決死の姿は悲壮な美しさをはらんでいた。
兵士を見たときに、彼の中にバートラム達に対する憎しみなどはないことがバートラムにはわかった。彼も自分が殺されなければならないようなことはしていないと嘆いている。彼もバートラムと同じように上官に命令されてこの場にいるだけなのだ。
その兵士とバートラムとは人種も国籍も何もかもが異なる。しかし、彼はバートラムやその他大勢の兵士と同じように兵士の義務に身を捧げる忠誠心を持っている。それ故にバートラムはこれからその兵士と殺しあうのだ。
バートラムは奇妙な共感をその兵士に感じた。
だが、バートラムの共感をよそに、その兵士と彼の属する一団はバートラム達の方へ近づいてくる。
彼らがまだ射程距離に入る前に銃声が鳴った。誰かが先走ったのだ。
それを追うように銃声が戦場に響き渡る。緊張に耐えきれなくなった者たちが撃ち始めたのだ。
そして戦闘が始まった。
銃声のなかでバートラムは震えていた。死の恐怖にではない。一人の人間を殺さなくてはいけないという恐怖にだ。バートラムにはどうしても銃を撃つことはできなかった。
銃声はいやというほど鳴っているのに当たって倒れた敵はいなかった。同じく味方にも倒れた者はいなかった。
敵は少しずつ迫ってきていた。敵の一群がほんの目と鼻の先に見えても、バートラムは発砲しなかった。マスケット銃に弾を込めた後は撃っているマネをするだけだった。彼の戦友達はそのことに気づいていた。しかし、咎めることはしなかった。彼らもまたマネをするだけだったからだ。部隊のほとんどの人間は銃を撃たなかった。発砲している人間も、わざと的を外して空を撃っていた。ことは彼の部隊だけではない。敵も同じだった。バートラムの頭上のはるか上を弾丸が通り過ぎていった。
敵にも味方にも犠牲者は一人も出なかった。しばらくすると銃声は尻すぼみに消えていき、戦いは小康状態になった。
バートラムは死体が一つもない戦場に尊いきらめきを感じた。神聖で決して犯さざるべきものを。人の奥底にある輝きを。口を開いて語ることはせずとも兵士達はみな、それを分かち合っていた。
煙草をふかしながら バートラムは空を見上げた。相変わらず雲一つない空からは太陽の光が降り注いでいた。
意を決したバートラムは捕虜に向かってナイフを振り上げた。だが、ナイフは捕虜の喉に突き立てられることはなかった。
バートラムはナイフを振り上げたまま数秒のあいだ震えていた。そして、気力が萎えたかのようにナイフをおろした。
「捕虜どもを解放しろ」
静かな声でバートラムはそう告げた。
それを聞いた小隊の面々は捕虜を解放する作業を始めた。
その間、バートラムはしきりに悪態をついていた。
「くそっ、なんで俺はこんな命令をしちまったんだ。くそっ、マズイことになるのは分かりきってるのに」
言葉とは裏腹にバートラムの表情は爽やかだった。
解放された捕虜たちが去っていくのを見ながらバートラムは煙草に火をつけ、軽くふかしながら空を見上げた。バートラムの目には明るい青がどこまでも広がっていた。その真ん中には太陽が輝いていた。