信長続生記 巻の七 「足場固め」 その12
新年あけましておめでとうございます。
このフレーズを使うのに随分時間がかかってしまい、申し訳ありません。
信長続生記 巻の七 「足場固め」 その12
『天下護武』という言葉を耳にして、一旦は静まり返ったその部屋にざわめきが満ちる。
居並ぶ公家衆たちは、近くにいる者達と視線や言葉を交わし、信長の真意を計りかねていた。
それら全てを黙殺し、信長は御簾越しの帝を真っ直ぐに見ながら口を開く。
「そも武士という存在は、戈を止める士と書きまする。 我ら武家は、元を正せば天下国家、この日ノ本を護るべくして生まれた存在に御座います。 この乱れた世を糺し、天下を一つに纏め上げた上で、海の果てより来たる脅威に備える事こそ、武士の本懐と考えました」
信長の言葉に、前久、光秀、秀吉、秀政らが僅かに頷いている。
だがその一方で、苦々しい顔を隠しもせず、信長を見る視線に敵意すら滲ませた多くの公家衆がいた。
その公家衆の視線などもものともしないまま、信長はさらに続けた。
「今の朝廷にこの乱れた天下を即座に正せるだけの力が御有りなら、この前右府もこれ以上出しゃばる様な真似は致しませぬ。 ですが恐れながらそれは敵わぬ事と存じます、ならば帝に成り代わり某が成し遂げてみせましょう。 武を以て天下を護る、帝にはそのお墨付きを頂きとう御座います」
「えぇい、黙れ慮外者がッ!」
信長の言葉が終わるや否や、下座に座っていた一人の公家が立ち上がって、信長を指差しながら糾弾の声を挙げた。
「乱れた世だと!? よくもそのような戯言を口に出来たものよ! この世を乱しておるのは貴様ら武家に他ならぬではないか! 我らは古式に則り正しく世を導いておった所に、貴様ら武家が野蛮極まりない方法で、全てを奪い取ったのだ! それが日ノ本を護るべくして生まれた存在とは片腹痛いわッ! 貴様が帝にお墨付きを頂くのではない! 貴様が全ての権限を朝廷に返上し、我らの指図に従って日ノ本平定の尖兵として働くのが、正しい武家の姿というものであろうが! はき違えるな、愚か者がッ!」
一気にまくし立てたため、その公家は言い終わるなり「ふーっふーっ」と、肩を上下させながら鼻息を荒くして呼吸を整えている。
光秀たち三人はその公家を思わず睨み、前久は呆れと若干の嫌悪感を混ぜた溜め息を吐いた。
ああ、この期に及んでまたいらぬ横槍が、と言わんばかりな溜め息である。
周囲の公家衆から「いいぞ、もっと言え!」などと、内心の喝采を浴びせられていた公家に、信長はゆっくりと向き直り、表情の消えた顔で「誰だ、貴様は?」と言い放った。
「だ…誰だ、だと…? 一体何を――」
「わしを織田前右府と知りながら、そのような口を利いたのであろう? ならば貴様の名を、就いておる役職を言え。 正二位、前右府を超える地位にある者でなくば、かような無分別な物言いは出来ぬはずであろう、それが己の地位に固執する、貴様ら公家というものであろうが。 それとも、わしが姿を隠しておる間に、帝の御前での作法は変わったのか? 身分の上下関係なく、好きな様に振る舞って良いというものになったのか? のう、近衛殿?」
信長は最後に前久の方を向いて問いかけたが、問われた前久の方はとんだ迷惑顔であった。
無論、帝の御前で身分の上下無しでの発言など許されるものではない。
信長はそれを分かった上で、先程の様に自分に噛み付いてきた公家を黙らせる気であった。
前久も、この場は既に信長に支配されていたのだと、何故気付かないのかと頭を抱えたくなった。
だが問われたままで応じない訳にもいかず、前久は先程の公家を見捨てる覚悟を決めた。
「その様なことは一切ありまへんな、完全にあちらさんの不作法やさかい、追って沙汰を出しますわ」
前久の物言いに、信長は軽く頷いて帝へと向き直りその公家には一瞥すらしなかった。
まるで先程の発言も、その公家の存在も完全に無かった事にするかのような扱いに、その公家は歯噛みしたまま信長を睨み付けようとしたが、それを制するかのように前久から鋭い視線が送られた。
公家にとって位の高さがどれほど重要か、仮にもこの場にいる「従五位下」以上のいわゆる「公卿」に列せられる者であれば、否応なく理解している話だ。
たとえ飢えようと、娘を身売り同然で地方の大名に嫁がせようと、その位だけは決して捨てる訳にはいかぬ。
その地位を捨てたが最後、公家であるという誇りすら捨てた野良犬同然の者に成り下がる、というのが公家の感覚なのだ。
その位が遥か上である信長が、自らの地位を笠に来た物言いをしてきたならば、それより下の位階にある者が太刀打ち出来るものではない。
現関白である一条内基ならばまだ信長に物も言えるだろうが、所詮下座に座する位しかもたぬ一公家では、信長にその存在すら認められない、まさに野良犬が自分に吠えかかって来た、程度の感覚でしかなかった。
何かを言い返したくても、前久の視線がそれを許さない。
結局信長を指差し伸ばしていた腕を折り曲げ、それと同時に心も折られた公家は、その場に力なく座り込む以外成す術は無かった。
その程度で折れる気概しか持たぬ者など、懐柔する価値すらないと判断し、歯牙にもかけずに信長は黙殺した。
帝も御簾越しからなんら口を挟む事すら出来ず、ただ黙って事の趨勢を見守った。
これにより完全に信長の独壇場となった空間で、信長は改めて帝に頭を下げた。
「状況は予断を許しませぬ。 今こうしておる間にも、南蛮国はこの国に向けて兵を差し向けておるやもしれず、我らが知る由もない新たな武器でもって、この国を蹂躙せんと企んでおるやもしれませぬ。 何卒某に、日ノ本の統治を御任せ頂きとう存じます」
「…前右府よ、そなたの申し様は理解した。 されどそなたがこの国を治めるために、また新たな戦が起こり、国が疲弊するということはないのか? さらに南蛮の脅威を説いてはいたが、そなたの言うその南蛮の脅威とはどれほど確かな話であるのか、朕には分からぬ……思う所を申してみよ」
この問いが帝なりの抵抗である、というのは信長にも、そして前久たちにも分かった。
今ここで信長の望む答え全てを返してしまえば、実質的な日ノ本の支配者は信長になる。
ならばせめて答えにくい問いをぶつけ、その答えに窮すれば信長の思惑通りに事は運ばせぬ格好の材料となる。
それを理解出来た公家は「おお…」と感嘆の息を漏らし、秀吉や秀政はわずかに眉根を寄せた。
だがこの場において信長・前久・光秀のみが、思わず口角を上げていた。
「しからば順にお答え申し上げまする。 新たな戦が起こり、国が疲弊する…それを防ぐための帝のお墨付きに御座います。 帝の勅許で以て日ノ本全てに号令をかけ、これに従わぬ者は国賊と見なし成敗いたしましょう。 そのための『征夷大将軍』の職を我が盟友、徳川殿にお与え頂きたく…また、南蛮の脅威は我が家臣、弥助の存在が確かな証拠と言えましょう」
一遍の淀み無く、立て板に水の様にスラスラと答えを返す信長に、御簾越しの帝が狼狽えた。
帝の必死の反撃と言える問いかけすら、若き頃より俊英の呼び名が高い前関白には、既に予想の範疇であった。
前久と光秀の編纂した質疑応答の事前予想に隙は無かった。
結果として返す刀で、徳川家康への征夷大将軍就任の正当性すら手に入れ、信長はさらに弥助の名前を出した。
帝は聞き覚えのない名前に「その、弥助というものは何者ぞ?」とさらに踏み込んでしまった。
「元々は遥か遠き海の果てにある国の民に御座います、その地を征服せし南蛮国の商人より某が買い取った、黒き肌と強き膂力を持つ屈強な奴隷に御座います」
獲物が網にかかった、とばかりに信長が内心で笑みを浮かべた。
弥助の存在は、南蛮商人たちが国から国へ、人身売買を行っている何よりの生き証人となる。
事実、「買い取った奴隷」という言葉に、その場にいた何人かの公家が露骨に顔をしかめる。
「卑しい奴隷の名前などを、帝の御耳に入れるとは」という理由で大半の公家が顔をしかめる一方で、信長の言葉の意味する所に気付いた一条内基などは、持っていた扇子を握り締めて驚きを露わにした。
「南蛮商人は海を渡り、国から国へ様々な物を運び、商いを行いまする。 それは武器や希少な品だけでなく、征服した土地の人間をも奴隷として他国へ売り払うので御座います。 南蛮で信仰を集める神とやらを信仰せぬ他国の者は、すべからく卑しき者と決め付け、全てを奪い取る事が正しいと断じ、今この時もどこかで略奪を繰り返しておる事に御座いましょう……その様な者らが、この日ノ本だけは見逃すとは到底思えませぬ、『デウスの教え』の布教を某が許可した事で、即座に略奪に移らなかったという事は僥倖では御座いましたが、かといってこのまま日ノ本が『デウスの教え』に席巻されるを良しとは致しませぬ。 ましてや帝をはじめとする朝廷としましても、仏法を卑しき教えと断じる『デウスの教え』は相容れぬものに御座いましょう? さればこそ、日ノ本は早急に一つにまとまり、また強くあらねばなりませぬ。 さもなくば日ノ本の民は海の向こうの国に売り飛ばされ、老若男女も都鄙貴賤も、領地も金銀もありとあらゆる物が南蛮の者らに奪い取られる事となりましょう」
信長が一気にまくし立て、御簾越しの帝が僅かに喉を鳴らす。
異国の者がこの国の民を奴隷として捕らえ、それをまた別の国に売り飛ばす。
そのような真似をする者達が、今既にこの国にいる、その事実に驚愕と怒り、そして恐怖を覚えたのだ。
また信長も、布教の許可を出したのは事実であったが、そう言った目論見があっての事だというのは完全に後付けであった。
だが結果としてそれが功を奏した、という事にしておけば説得もし易かったため、あえてそう思わせる言い回しを選んでおいた。
「某はこの日ノ本で生まれ育ち、帝に対する敬いの気持ちも持ち合わせてはおりまするが、他国の者らはその限りでは御座いませぬ。 南蛮国の者たちにとっては官位も権威も成り立ちも、この朝廷が敬うに値する要素全てが、『奪う価値のある物』にしか映らぬやもしれませぬ」
さらに付け加えられた言葉に、今度はそこかしこの公家衆から狼狽えた声が上がり始めた。
「馬鹿な…」「そ、そのような事になれば…」「い、いや、そうとは限らぬではないか」など、近くの者たちと話し合う公家たちの姿は、どう見てもそうなった場合の危機に対処出来るとは思えぬ狼狽ぶりだった。
場の空気が完全に「南蛮国恐るべし」というものとなっていくのを感じた信長の攻撃はまだ続く。
「かの名門・甲斐武田家の、名将と名高き武田法性院信玄はかつて諏訪家を討ち、その姫を自らの妾とし、産ませた子に後を継がせました。 戦国の世とはいえ戦に敗れた家の姫を手籠めにする、これだけならばよくある話、それでもその姫を妾として迎え、子には跡目を継がせたは同じ日ノ本の中であればこそ。 ですが果たして南蛮国がこの国を攻め滅ぼした後、身分ある家の姫君を手籠めにして産ませた子を、かように扱ってくれましょうや? ましてや身分卑しき者よりも、よほど辛い責め苦を浴びせられる事もあるやもしれませぬ。 肌の色も眼の色も髪の色も、使う言葉も全てが違う者らの慰み者として、ただ無体に耐えるだけの生涯を送らせる様な事にもなりかねませぬ」
実際に日ノ本の中で起こった話を例えに出し、その上で言葉を続けると、幼い娘でもいるのか、既に何人かの公家はすがるような視線を信長に向け始めた。
もはや公家にとって、南蛮人というのは御伽噺に出てくる鬼や妖怪の様にすら思え始めてきたのかもしれない。
だがそれこそ信長の狙い通りである。
いかに南蛮の者らが恐ろしいか、それを理解させる為ならば鬼でも妖怪でも、勝手に恐ろしいものと連想してもらえた方が手っ取り早いというものだ。
信長の言葉は些か脅しが過ぎるとは前久も気付いてはいたが、だからと言って話の腰を折る様な真似はせず、信長の言葉をじっと聞いている。
「お選び頂きたい……帝を敬い、朝廷の権威を必要とする我ら武家をお認め頂き、南蛮の脅威からこの国を護るために働こうとする某らを後押しするか、それともあくまで朝廷は、武家を頼らず自らの力のみで違う道を往かれるか……我らを、武士を信頼して頂けるのならば今この場にて、改めて帝への忠誠をお誓い申し上げ奉りまする。 されど朝廷は独立して動くと言われるのであれば、その時は敵対は致しませぬが、万が一の場合は御身は自らの力のみで御守り下さりませ」
信長の最後通告とも言える言葉に、御簾越しの帝は全身にびっしりと汗をかき、またしても唾を飲み込んだ。
それでも何の返答もしない訳にはいかず、努めて声を冷静に保ちながら問いかけた。
「朕がそなたを後押ししたならば、南蛮の脅威は排せるのだな?」
「率直に申し上げまして、お約束は出来かねまする」
「…朝廷を護るべき武士が、帝を護らぬと?」
信長の返答に驚き、声の震えを隠せぬままに帝は再度問いかける。
ここで威勢の良い言葉を吐くだけならば容易い事である。
だが信長はあえてここでそれをしなかった。
「無論全霊の力で以て成し遂げるよう相努めまする。 されど敵はどれほどの数で、如何様な手段を用いるかが一切不明なれば、お約束が出来ませぬという事に御座います」
信長の言葉に、シン、とその部屋の一切のざわめきが消え失せる。
それまで散々自信満々に振る舞っていた信長が、初めて断言が出来ぬという事実があるという事に、公家衆も帝も言葉を失った。
これも「それほどまでに南蛮の脅威、というものは恐ろしいものなのか?」とさらに印象付けるための方策である。
その場にいる者たち全てが自分の次の発言に注目している、という事を肌で感じ、その上で少し焦らした所で、信長は口を開いた。
「先程も申しました通り、『知らぬ』という事はそれだけ恐ろしきことに御座います。 彼奴らはこの国の在り方も、金銀の有無も、武器の程度も、どのような教えがあるかも『知って』おりまする。 されど我らは彼奴らが自ら語る部分でしか、彼奴らの事を『知らぬ』のです。 故に我らは、彼奴らの事を調べ上げ、そして備えなければなりませぬ。 もはや日ノ本の中で狭き争いを続けている場合では御座いませぬ、何卒帝にはご英断を賜りたく、本日は参上仕った次第に御座います」
言い終えると同時に、信長は深々と頭を垂れた。
それに合わせて下座の三人も深々と首を垂れる。
その場に於いて、もはや信長を声高に罵倒する者も、不愉快そうに見る者もいなくなっていた事に、前久だけが気付いていた。
内心の感情では嫌悪感を持つ者もいただろう、不満が全く無いという者はまずいないだろう。
だがそれでも、この場にいる者達が共通で認識した事がある。
国の存亡に関わる重大事が、気付かぬ内にすぐそこまで迫ってきている。
南蛮の国に蹂躙され、朝廷の歴史も在り方も全てを踏み潰して、ありとあらゆる権威も金銀も奪い去られ、娘を慰み者にされた挙句に売り飛ばされる、そのような未来だけは絶対に御免だ。
公家衆のそんな感情を読み取ったのか、帝は深々と息を吐いてから口を開いた。
「大儀であった、織田前右府よ。 そなたの言う全てを認める訳ではないが、国を護るための方策には熟考の価値がある事は心より認めよう。 今この場にてそなたの望み全てを実行に移す事は出来まいが、遠からぬ内に色良き返事を返すであろう。 そなたの国を想う気概と知恵に朕も敬意を表し、この場での不作法などには一切の目を瞑ろう。 改めて、そなたの無事を言祝ぐぞ……織田前右府よ」
御簾越しの言葉を受けて、信長と家臣達だけでなく、近衛前久や一条内基、さらには他の公家衆も一斉に頭を垂れて、この会見の実質的な締めとなった。
「帝におかれましては貴重な御時間を頂き恐悦至極に存じ奉りまする。 帝へ御献上仕ります『天領』につきましては、後日堀左衛門督より目録を届けさせて頂きまする。 本日は重ね重ねの御無礼にも拘らず、恩情篤き御言葉を賜りましたること、末代までの誇りとさせて頂きまする」
信長も言葉を返し、朝廷での作法『有職故実』に則った所作で悠然と立ち去っていく。
光秀たち三人もそれに追従して部屋を退出していったが、入って来た時と出ていく時では、公家衆の視線の質は明らかに変わっていた。
入室の際には敵意が大半を占めていたにも拘らず、退室の際には敵意は鳴りを潜め、代わって何かを期待するように眺める者、すがる様な目で見上げる者、内心の驚きを必死に隠そうとする者などが大半を占めていた。
御簾越しの帝は、本来であれば真っ先に退出しているはずであったが、そこを前久に引き留められていた。
信長に最も近しい前久が、わざわざ引き留めるというのだから余程の事があるのだろうと、帝も御簾越しに座したまま、前久が口を開くのを待っていた。
「本日の織田前右府殿との会見、誠に実りあるものと成りましたること、近衛前久望外の喜びに存じ奉りまする」
「前置きは良い、朕をこの場に留めたる訳を聞かせよ」
「されば言上仕ります。 我ら朝廷は、今こそ過日の栄華を取り戻す絶好の機会に直面しております」
前久の言葉に、先程までと違った意味合いで公家衆がざわついた。
「絶好の機会、とな?」
「はい、我ら朝廷の公家衆は全国に散らばる荘園から上がって来る収入こそが、元々の富の源泉。 それが世は乱れ、武家の台頭を許し続けた結果荘園は強奪され、朝廷の権威の失墜に繋がってしまったのですわ。 もはや力ある武家の援助無くして、朝廷の台所は立ち行きまへん。 されど前右府殿は現在この日ノ本で最も力ある武家と言うてもよろしい、その上堺の町衆からぎょうさん運上金を絞れるほどの御仁。 その御仁が自ら朝廷に協力を願うて来ております。 前右府殿は日ノ本を平らにし、世の乱れを治め、朝廷に富をもたらし、国を護らんとしております。 絶対にこの機を逃してはなりまへん」
前久の言葉に、公家の間から反論は出なかった。
だがそれでも、感情的に信長を認めたくは無かったのか、賛成や称賛の声も上がらなかった。
なので前久は周囲の公家衆を見回して言い放った。
「お気持ちは分かりますわ、この身を利用して消そうとすら思った御仁やさかい、素直に受け入れるには抵抗はありますやろ。 しかし武家を下に見て『位を餌に手綱が取れないから恐ろしい、恐ろしいなら消してまえ』いう考えやから、一度は敵対の道を選んでしもうた。 織田前右府殿を下に見ずに、対等な相手として手ぇを組む、という気持ちでおれば話はもっと単純であったはずなんですわ。 実力で以てのし上がってきた武家に対し、成り上がりと蔑む一方で、その成り上がりの援助で食わせてもらっとる我らが、気位ばかり高うしてはまとまる話もまとまりまへん。 今こそ公家と武家が協力し合う時ですわ、むしろ国難に際してそれすら出来んようなら、滅ぶのはいっそ自明の利とは思いまへんか?」
「い、いくらなんでも口が過ぎまするぞ、近衛卿!」
「さ、左様左様! 結局は織田に迎合するだけではないか! それで行き付き先は、武家の者共に良い様にされるだけで――」
「さればこそ、我ら公家がしっかりせんで、誰が朝廷を立て直しますのや!」
前久の弁舌に思わず反論した者達を睨み付け、立ち上がった前久が上から言葉を叩きつけた。
その勢いに何度目かの静寂が部屋に満ちる。
「家名に胡坐をかいたままで朝廷の権威の立て直しが出来ると、本気で考えておるのやったら笑い話にもなりまへんな。 武家からの援助頼みのくせして武家に良い様にされるだけ? 冗談は休み休み言いなはれ! 武家に良い様にされないようにするための頭も働かさんで、何が変わりますのや! そないに日ノ本の武家が嫌や言うんやったら件の南蛮商人にでも縋りなはれ、人が良ぇ南蛮商人やったら娘でも差し出せば、当座の生活くらいは面倒見てくれるかもしれまへんぞ!」
その姿は、周囲を敵対する公家に囲まれて、委縮していたかつての前久ではなかった。
何十人、何百人の公家の敵意など、信長の本気の殺意に比べればそよ風程度だったと思い知ったからだ。
堂々たる態度で周囲を見下ろし、先の信長程ではないにしろ、そこらの公家などとは比べ物にならない程の圧倒的な存在感で、前久はそこに仁王立ちしていた。
信長という稀代の人物の側で、人間的な成長を果たした前久に対し、京からほとんど出た事の無い者達では相手にならないのは当然である。
だが数少ない気概を持っている公家の一人、一条内基はそんな前久を真っ直ぐに見ながら問いかけた。
「近衛卿の申される事は分かりました。 我ら朝廷は織田前右府殿を認め、公にその後押しをすれば良い、という意見で間違いありませんな?」
「少し違いますな……後押し止まりでは結局の所、今までと同じようなものやさかい、武家の台頭に歯止めをかけられまへんやろ。 前右府殿はそれで良いと言うやろうけどな、この身はむしろ積極的な共闘をする所まで進めた方がよろしい。 そう思いますわ」
「共闘、とな?」
一条内基の問いに、さらに踏み込んだ答えで返す前久に帝が声を挙げた。
「朝廷の公家衆は戦には長けておりまへん、せやから弓矢を使う戦に向かうのではなく、大義名分作り、停戦調停、降伏勧告という分野で、前右府殿に協力しますのや。 我ら京の朝廷を預かる公家衆が、公然と前右府殿を指示している、という何よりの証拠になりますやろ。 前右府殿は手っ取り早い話の方が好きな御仁や、我らの積極的な手助けの効果が大きいいう事が分かれば、公家の出しゃばりとは言わぬはずですわ。 その功績で以て、朝廷の地位と領地を確固たるものとし、かつての荘園を復活させますのや」
信長はあくまで朝廷を利用する、という一点で物を考えている。
効果が高いからこそ利用する価値がある、逆に手放しておいた際には不利益を被る可能性が高いため、手元に置いておく必要もあるのが朝廷という『権威』だ。
だがそれを逆に利用し、前久は信長に積極的に手を貸し、朝廷が利用されるばかりではなく、朝廷もある種の戦力として役に立つという所を見せる事で、よりその価値を高めようとしたのだ。
「しかしそれでは、朝廷は前右府殿の指揮下に置かれ、家臣として酷使される様な扱いになるのではないですか? あの者は家臣に対して苛烈を極める扱いをするともっぱらの評判ですぞ?」
「あくまで我らは同盟の勢力、として振る舞えばよろしい。 そして朝廷の公家衆全てがあちらに出向く必要はありまへんやろ。 強いて言えば朝廷から出向してきた友軍として扱うようこの身が説得しますわ、さらに前右府殿の勢力内で、どのような動きがあるのかを逐一探り、朝廷に細かく報告する仕事も出来れば、日ノ本各地の情勢が素早く耳に入って一石二鳥な話になりますわ。 ここまでで、反対意見のある方はおりますやろか? おるのやったら今の内に頼みますわ、ただし反対する以上は今の話以上に価値のある、代案を出してもらわなあきまへん。 さあ、言うておくんなはれ」
そう言って前久は立ち上がったまま両腕を開き、まるで全てを受け止めるかのように振る舞った。
その姿は絶対の自信に満ちており、どこからでもかかって来い、と言わんばかりな顔付きをしている。
そしてそんな前久の言葉と態度に、誰もが眉間にしわを寄せながらも、ある者は俯いて視線を避け、ある者は歯噛みしながらもわずかに頷き、明確に前久の意見への反論を出す事が出来なかった。
一条内基もわずかに息を吐き、瞑目して何も語らない。
御簾越しの帝も黙したまま、周囲の反応を見守った。
「では、よろしいですな? 今この時を以て、我ら朝廷の公家衆は武家の頂点に立つ織田前右府殿を支持し、一丸となって未曾有の国難に立ち向かう事を決定しますわ。 これを『公武一和』と名付け、今この場に参列を許されん、末端の公家衆にまでお伝えなされ。 我らが真に護りたいものを護るため、武家と対等な立場で手を組む。 その意味を各々方は胸に刻まれませ!」
前久の号令に、その場にいた者達の中で、御簾越しの帝を除く全ての公家が頭を垂れた。
意地や感情、保身や見栄だけで守れるものなど、もはやどこにも無いのかもしれない。
全ての公家衆がそれを痛感した。
必要なのは自らも考え、動き、認め、時には傷付く事なのだと、この中の何人がそこに至ったかは定かではない。
だがその場にいた者たち全ての意識が、少しだけとはいえ確実に変わった事に、前久は気付いていた。
そして今後、少なくとも信長を排そうという動きが公家衆主導で行われる事だけは、決して無いであろうという事を確信した。
今、前久の総身には言い様の無い達成感と充足感が満ちていた。
信長のために動く事が、同時に朝廷と帝のためになる、それを成し遂げた瞬間だった。
この後、信長への返答などを含めた詳細は、後日話を詰めて決定する事とし、まずは前久の唱えた『公武一和』を全ての公家衆へ伝播する事が最優先とされ、この場は解散となった。
そして前久は自分と繋がりを持ちたいと願ったり、さらに細かな話をしたいという公家衆から逃れ、足早に自らの屋敷へと帰っていった。
そうして辿り着いた自らの屋敷で、前久は家族への二言三言話をして、すぐに寝室へと向かった。
今日一日に起きた出来事ですでに疲労困憊となっていた前久は、まるで気絶する様に意識を手放した。
よほど疲れていたのだと察した妻や息子たちは、前久の眠りを妨げないようにそっと寝かせておいた。
半日以上もの間眠り続けた前久は、眠りが浅くなった所で家人からの急な報せと聞いて、眠り足りないという欲求を無理やり手放し、強引に意識を引き上げた。
まだぼんやりとする頭を軽く振って意識を取り戻し、上体を起こしてふすまの向こうで声をかけてきた家人に報せの内容を問い質した。
「織田様から火急の御呼び出しに御座います。 急ぎ我が宿所に参れ、との事ですが…」
昨日あれだけの大立ち回りを演じたというのに、一日の休みもくれないのかあの男は。
そんな感想を顔に出し、心底嫌そうな顔で「ご苦労はん」と家人に声をかける。
その声は自分でも驚くほど感情が乗っておらず、思わず大仰な溜息を吐いた。
首や肩を回し、ゴキゴキと鳴っている身体に鞭打ち、前久は思わず愚痴をこぼした。
「信長はんとの共闘……早まったかもしれまへんな…」
未だに眠気は残っているというのに、変に意識だけはハッキリしているという妙な感触の中、前久は着替えのために気怠そうに立ち上がった。
途中まで書いてどうにもしっくり来なくて書き直したり、言葉遣いに悩んだりでひたすら時間がかかりまして、前回の投稿からかれこれ二週間以上かかってしまいました。
大変お待たせいたしました、そして今までで一番「それはおかしい」という指摘が来るかもしれないと内心ビクビクしております。
『公武一和』は幕末の「公武合体」を300年近く先取りした、と認識して下さい。
皇族から嫁をもらったり、幕府がある訳ではありませんが、なんとなくイメージとしてそう受け止めて頂ければ幸いです。




