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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の七 「足場固め」 その10

公家衆の口調を色々考えた結果、無駄な時間がかかり過ぎてしまったため、無難な話し方にする事に致しました。



            信長続生記 巻の七 「足場固め」 その10




 そこは御所内でも特に広く造られており、百を優に超える人間が座すことの出来る広間であった。

 その最上段中央、御簾の向こうにはまだ誰も座してはおらず、だがそれ以外の公家衆たちは皆それぞれその地位に応じた場所へと腰を下ろしている。

 その場所へ、信長は足を踏み入れた。

 瞬間的に、その場にいる者たち全ての視線が集中する。

 並の胆力しか持たぬ者では、その集まった視線の多さにたじろぐか、緊張で動けなくなるであろうその圧力を、信長さも当然の如く受け止めながら突き進む。


 俯いて誰とも目を合わさぬ様に受け流すか、身を縮めて逃げるように歩を進めるでもなく、顔を上げて自分を見ろとばかりに胸を張り、堂々と居並ぶ公家衆の中央を歩み進んでいく。

 それに続く明智光秀、羽柴秀吉、堀秀政もまた、主君のその背中を追いかけるかの様に胸を張って進んでいく。

 三人は下段に横一列に並び、一斉にその場へ腰を下ろした。

 三人の持つ位はいずれも従五位下、この場に列席する事が許される最低条件の地位であるため、たとえ信長の従者とあっても、下段までしか進む事は許されない。

 そしてただ一人信長のみが、最上段の御簾の少し手前まで進んでからようやく立ち止まり、その場へと腰を下ろして手にしていた細長い桐箱を自らの傍らに置く。


 その桐箱に皆の視線が集まるが、信長は平然と着座したまま微動だにしない。

 その場にいる公家衆の中で、信長のすぐ近くに座する事になっていた前久のみがその箱の中身を知っているが、内心は今でも苦々しい気持ちで一杯だった。

 信長は話の演出上必要な物だと頑として譲らず、前久の必死の説得も結局功を成さなかった。

 結局その箱の中身については、絶対にこの場所でその物品の本来の使い方をしない、という約束の下で前久が折れる事となった。

 その際信長は「いくらわしでも御所内でそのような振る舞いに及ぶと思うか?」と苦笑交じりに言ったが、前久は即座に「やるんやったら日ノ本広しといえど、信長はんしかおらんやろな」と、皮肉交じりに返したほどだった。


 ともあれ信長は本当にアレをこの場に持ち込んできた。

 この後に起きるであろう公家衆の反応を考えると、早くも気疲れしてくる前久であり、人知れず溜め息を止められずにいた。

 広間のあちらこちらからひそひそと、近くの者達と囁き合う公家たちは、一様に信長と光秀、そして秀吉や前久に視線を向けている。

 信長や光秀には「本当に生きているとは」という苦々しい視線が多い。

 秀吉や前久には「一体どういうつもりだ」という訝しげな視線が多い。


 様々な視線・意見・思惑が絡み合う中で、御簾の向こうに人影が現れる。

 御簾の向こうに帝が来られたという事に気付いた者たちが、一斉にその頭を垂れる。

 侍従の声が響き、御簾の向こうで帝が着座したのを確認し、帝の「苦しうない、皆の者、面を上げよ」の声に、それぞれが頭を上げる。

 御簾を介して、信長と帝が向かい合う。

 誰もが信長が何を言うのか、一体何を語るのかに耳目を集中させた。


 この時の帝は、第百六代目にあたる正親町天皇である。

 信長に「右大臣」という位を与え、また信長の有形無形の支援により、朝廷の権威を高めることに成功したという帝でもある。

 だがその一方で、信長に求められるがままに、様々な形で支援をせざるを得なかったという立場の帝でもあった。

 敵対勢力へ戦を仕掛けるための大義名分、または和睦停戦の勅命、さらには国宝であった『蘭奢待』の切り取りを許可するという、朝廷側からすれば屈辱とも言える行動を取らされてもいた。

 だが時の実力者には擦り寄り、相互関係を築くのが朝廷と公家衆の処世術でもあったため、これも一時の事と従い続けていた。


 そして信長が中心となっていた時期は、本能寺の一件で終わりを迎えた。

 明智光秀が織田信長を討ち、その光秀を羽柴秀吉が討つという時代の実力者の移り変わりが行われ、そろそろ次の実力者が決まりそうだと思ったその時、時計の針は突如逆に回りはじめた。

 信長と光秀の再臨、羽柴秀吉の失脚、そして信長主導の下、徳川・毛利・上杉という大勢力との大同盟締結に向けた一連の動き。

 さらに近衛前久による音頭で、信長が御所にて帝まで含めて公家衆を相手に重大な話をするという。

 再び、世の流れは信長を中心に回り始めていたのだ。


「まずはそなたの無事を言祝ぐとしよう、よくぞ戻られた…織田前右府よ」


 御簾の向こうから声がかけられ、それに合わせて信長が再度頭を下げる。


「およそ二年もの間、身を隠せし仕儀に相成るは、全てこの身の不徳の致す処にて。 本日は急な願いにも拘らず、御前にまかり出る事を御許し頂ましたること、この織田前右府、心より御礼申し上げ奉りまする」


 信長の言葉に、口元を隠しながら内心で多くの公家が舌打ちをする中、信長はゆっくりと顔を上げた。


「本来であれば帝に対し奉り、時候の挨拶や身を隠していた折の御話なども致しとう御座いますが、急な願いを聞いて頂いた身の上で、長々と御時間を頂戴する訳にも参りませぬ故、早速本題に入らせて頂きとうございます」


 信長の言葉に、御簾の向こうからも「うむ」と肯定の頷きが返された。

 その頷きを受けて、信長はそれまでの優雅な公家流の所作から、背筋を伸ばして空気を張り詰めさせる、武士としての威風を纏わせ始める。

 それをとっさに信長が発し始めたものだと感じ取れるのは、信長との付き合いが深い前久と、直接その気配を当てられる御簾越しの帝、さらに下座に黙して座する、三人の家臣達だけであった。

 あとの者たちは、突如として感じ始めた緊張感や息苦しさ、あるいはじっとりと汗をかく不快さに、ただただ戸惑うばかりであった。

 御簾越しに帝が気圧されている、という気配を見て取った前久が、視線だけで信長を諌めようとはしたものの、信長はそれを無視して口を開く。


「まずこの日ノ本が現在どのような状況で、さらにこの日ノ本以外の国々はどのような状況か、正確に把握出来ている者はどれほどいるか、帝は存じておられますか?」


 信長の試すような物言いに、帝に対し不敬だと感じた周りの公家衆の空気が、瞬時に悪くなる。

 突如として感じ始めた様々な不快感と合わせて、その視線や空気はより一層険悪なものとして信長に向けられている。

 だがそれに頓着するような信長ではない。

 そもそも公家衆の放つ視線の圧力など、信長にとってはそよ風以下にしか感じられない。

 御簾越しの帝から明確な返答が帰ってこない事に、信長は一つ息を吐いてさらに続けた。


「誰一人として分かってはおりませぬ。 某とて全てを知っているなどとは申せませぬ。 ただこの日ノ本には未だ大小様々な勢力が跋扈し、一つにまとまる気配すら無く、無駄な戦を続けておりまする」


 信長のその言葉に、公家衆の大半が「それを貴様が言うのか!」と、心の中だけで叫んだ。

 彼らの眼からすれば、信長の今までの数々の戦も『無駄な戦』にしか映らない。

 彼らにとって有益な戦というのは、戦で得た物を全て朝廷に帰する、つまりは献上するという扱いでもない限りは、自分たちに一片の利の無い『無駄な戦』であるという認識だ。

 無論その『無駄な戦』を続け、やがて頭角を現した者が自分たちに有益な存在であったのなら、そこで初めてこれまでの『無駄な戦』は、『必要な戦』であったという認識に変わるのだ。

 結局の処、自ら血を流して傷付く事をしない公家衆にとって、『戦国の世』と言えど戦というのは遠い場所で行われている野蛮な行為という認識でしかないのだ。


「この戦国の乱世となって既に百年を数えるも、未だ一つに纏まろうともしないこの国は、やがて外からの力によって滅ぶ事と相成りましょう」


 『国が滅ぶ』という言葉に、広間にいた誰もが身体を硬直させる。

 あらかじめその話の根幹を聞いていた信長の家臣や前久でさえも、今の言葉を聞いた後だけは、その拳を強く握り締めてしまっている。

 公家衆の大半も一度は驚くも「何を大げさな」「国が滅ぶなどと、帝の前でよくも言えたものよ」と、嫌悪感を露わにしながら、口々に囁き合っている。


「大陸の明国や天竺を超えたその先、遥かな海を越えてこの国を訪れた南蛮人たちは、この国に新たな神、新たな人種、そして新たな武器と脅威をもたらしました」


 「そんな事は今更言われずとも分かっている」と、多くの公家衆が信長の真意に気付かぬまま、あるいは鼻を鳴らして小馬鹿にしたような眼で信長を見た。


「彼奴等はこの国には無かった新たな教えを説いて回り、我等が知らぬ技術でもってこの国に新たな価値観をもたらしました。 それは同時にこの国に新たな混乱を呼び、そして新たな戦術を生み出させ、戦の根底を覆させるものとしました」


 そこまで言って、信長は傍らに置いたままだった細長い桐箱を自らの正面へと移動させ、素早く左右に目をやって自分の行動を阻害させるような存在がいない事を確認した。

 そして下座にいる三人はわずかに足に力を入れ、いざともなればすぐさま信長の下に駆け付けられるよう、ほとんど分からない位に腰を浮かせた。

 信長の持って来た箱に、一体何が入っているのかと興味が尽きなかった公家衆は、一斉にその視線を桐箱へと集中させる。

 公家の中でただ一人、その桐箱に何が入っているかを知っている前久だけが、苦々しく思いながらもいざという時には自分が捕捉をして話をしてやらないといけないか、と覚悟を決めた。

 広間にいる者たち全ての注目が充分に集まったことを確認し、少し焦らすようにしてゆっくりと桐箱を開ける信長。


 誰かが唾を飲み込む音が響く広間で、桐箱の中身はその正体を晒した。

 その結果、御簾越しの帝が最も見やすい位置であったため、中身を知らぬ者達の中で最も早く驚きの声を上げた。

 帝の驚きの声が御簾越しに届き、広間の端の方に座していた公家などは、思わず立ち上がって桐箱から信長が持ち上げたものの正体を見た。

 ある者は声を上げて驚き、あるいは絶句して腰を抜かし、または信長とその手に持つ物を指差してこう叫んだ。


「そ、それは火縄銃ではないか!」


「ち、血迷うたか!? 御所に、帝の御前にそのようなものを!」


 絶叫にも似た詰問の声を、信長は平然と受け流してその銃口を詰問の声を上げた公家へと向けた。

 その途端に「ひぃっ!」と悲鳴を上げてその場に倒れ込み、その後ろにいた者達も、なんとか銃口から逃れようと恐慌状態へと陥る。

 すると今度は火縄銃を持ち替えて、反対側の公家衆へとその銃口を向けた信長は、やはりそちらでも上がった悲鳴と混乱の声に、少しだけ口角を上げた。

 このままでは混乱が大きくなり過ぎる、と思った前久が立ち上がり「静まりなされ! 帝の御前であらしゃりますぞ!」と一喝した。

 しかし、その前久の声に方々から反発の声が上がった。


「な、何を言っておられる近衛卿!」


「さ、左様左様! あ、あの者はよりにもよってあのような…」


「この御所にかような血生臭き物を持ち込むとは、帝に対する不敬極まりない!」


「だ、誰ぞ! 誰ぞあの乱心者をひっ捕らえよ、帝の危機じゃ!」


「黙れぇいッ!!」


 次々に腰を抜かしながら、あるいは立ち上がって声を上げる公家衆に、信長の大音響が突き刺さる。

 そこに形としてある訳でも無いはずの声が、まるで巨大な質量を持っているかのように錯覚させるほど、その声はとてつもない圧力を持っていた。

 ビリビリという音すら感じそうな声を上げた信長は、持っていた火縄銃の銃口を下に向け、軽く振って何も出てこない事を見せ付けた。


「見ての通り、この火縄銃は使えるようになってはおらぬ。 本来であればこのように下に向ければ、それだけで敵を倒すための弾が落ち、使えなくなるのが火縄銃じゃ。 そしてその名の通り、火縄が無ければ弾を飛ばす事すらまかりならん。 これはただの飾りじゃ、いいから黙って座っておれ」


 信長の言う通り、火縄銃とはまさにその名の通り火縄が無ければどうにもならない。

 鉄砲は火縄を備え付けてその火が消えないようにしながら、さらに飛ばす弾丸や爆発するための火薬が落ちない様に銃口を下に向けず、最後に引き金を引いて弾を飛ばして敵を殺傷する。

 だが信長が持っていた火縄銃には、火を付けるための火縄すら備え付けておらず、ましてや弾丸も火薬も入れていない、正真正銘ただの飾りも同然であった。

 だがそれでもあえて信長は銃口を周囲の公家衆に向けてみせた。

 その理由は二つある、一つは自分を殺そうとした公家衆への意趣返しであり、意趣返しがてらに仕込む悪戯としては上々の成果を上げた。


「戦を知る者、火縄銃を知る者であれば、先程銃口を向けられても決して撃たれはせぬと確信出来たであろう。 だが貴様らは恐れ慄くばかりで、誰一人火縄が備え付けられておらぬ事を見抜けなかった。 それが貴様らだ、京の都で惰眠を貪るばかりで、この乱れた世を正そうともせず、そのくせ権威に執着してこの世の全てを知ったような気でいる、それが貴様ら公家というものの正体だ!」


 もう一つの理由は、公家の無知を曝け出させる、というものであった。

 過去に謳われた名句を知っていれば、腹は膨れるのか。

 源氏物語を諳んじるだけで、戦が止まるのか。

 貧窮を嘆くだけで、銭が降って湧くのか。

 戦国という時代の中で、そんな都合の良い話が罷り通ると思っているのか。


 信長は、生まれたその瞬間から公家という立場にあぐらをかいて、その存在と行動全てが肯定されると、根拠も無しに信じている者達が何より嫌いだった。

 他者からの「施し」は「献上」であり、その思考はあくまで傲慢そのものでありながら、それが許されるだけの努力も責務も負わぬ者達が大嫌いだ。

 先程の様に、信長が手に持つ火縄銃を血生臭いものと嫌悪しておきながら、その嫌悪したもので勝ち取ったものを献上されれば、笑顔で受け取るという性根に腹が立った。

 自分たちがこの世の中心にいるのが当然であり、自分たち以外の全てが租であり野であり卑であると、何の疑いも無く見下すその思考を叩き壊してやりたかった。

 そして自分たちが知らぬ物は総じて野蛮なものであり、自分たちの価値観全てがこの世の全ての常識であると、上からの物言いで言い切る舌を引き抜いてやりたかった。


「この火縄銃は、遠き薩摩国にある種子島に漂着せし南蛮人が伝えた、と聞いた。 それまではこの火縄銃という武器は、この国に存在しなかった。 つまり、南蛮人がこの国に漂着して火縄銃を持ち込まなければ、この国には火縄銃が伝わらなかった……だが今火縄銃はここにこうして存在する、そして貴様らもこれが人を殺めるに足る武器であるという事を知っている、だからこそこの火縄銃で撃たれる事を恐れ、貴様らは逃げ惑った……無知であったなら、これが何かも分からずに撃たれて死んでいたかもしれぬ、という事は貴様らの様な無知無能でも分かるであろう?」


 信長の言葉に、誰も何も反論することは出来なくなっていた。

 帝は只々気圧され、前久は場の空気を探り、光秀たちは混乱して愚挙に及ぶような者が現れないように、周囲に視線を走らせていた。


「知らぬ、という事はそれだけで危ういのだ。 そしてこの日ノ本の外、南蛮の国々は一体どのような国で、何を考え、どのような行動を起こしているのか、それを誰も知らぬ。 この火縄銃を遥かに凌駕する武器が存在するやもしれぬ、巨大な船を擁しているかもしれぬ、あるいはこの日ノ本を制圧し、全てを奪い取ろうとする企みが進行しておるやもしれぬ! そのような事が絶対に無いと言い切れるなら、今この場でその根拠を申してみよ、直接南蛮人と顔を会わせたことも無い貴様らに、それが出来るのならな!」


 信長の放つ威風、そして言葉に公家衆の誰もが俯き、言葉を失った。

 ここでただ単に、感情に任せて信長に反論するだけなら容易い。

 だがそれは己の無知無能さを曝け出すだけの行為で、むしろ容易く信長に論破されて、却って己の尊厳を傷付けるだけだ。

 ある者は愕然としたまま顔色を変え、ある者は噛み締めた唇から血を流して悔しがる。

 公家衆の反応を見て満足そうに頷いた信長は、手にしていた火縄銃を桐箱の中に納め、蓋をして脇にどかした。


「御前において、数々のご無礼を働きましたる段、平にご容赦を。 性急かつ過分なる振舞いとは存じておりまするが、早急なる対応が求められる案件にて、些か強引では御座いますが、朝廷の御了解を得させて頂きました」


 信長がそう言いながら帝に向かって平伏する。

 その言葉を聞いても、相変わらず誰も何も言えなかったが、唯一前久だけは内心で舌を巻いた。

 今の一連のやり取りで、信長は南蛮国への対応は自分が全て行うと、半ば強引に既成事実化させたのだ。

 だが前久も本心ではこれに否と言う気は無い。

 むしろこの日ノ本において、誰よりも早く南蛮国の脅威というものに気付き、即応が取れるであろう人物はこの信長を置いて他に無いと思っているからだ。


 火縄銃という現物を持ち込み、その恐ろしさを目の前に突き付ける事で意趣返しを行いつつも、さらに納得せざるを得ない状況に持っていく、完全に信長の作戦勝ちと言える結果だった。

 その行動自体は決して褒められたものはないが、徹底的な合理主義者である信長には、無駄な議論に割く時間も惜しかった。

 そのため分かり易い危険物でもって否が応にも納得させ、周囲の反対を完全に封殺する。

 さらに火縄銃以外に関しては、信長は帝に対して丁寧に接していたため、こちらの方での文句は出難いだろう。

 なにせ今回の会談を行うために信長が朝廷に献上した金額は、過去最大級の物であった。


 いくら秀吉から莫大な資産を召し上げたばかりとはいえ、これほどの物を一体どうやって用意したのか、と前久が問えば「堺にいくらでもある」と、信長は事も無げに言い放った。

 もしこの時の会話を堺の会合衆が聞いていれば、怒り狂うか苦悶の声を上げていただろう。

 前久は生涯初めて商人という存在に同情と憐みを感じたが、信長らしいといえばこの上なく信長らしいので、あえて聞き流す事にした。

 ともあれ今現在の信長の持つ資産と武力は、やはり日ノ本において並ぶ者無きものであると証明されたも同然であり、朝廷と言えど信長に真っ向から対立する事は憚られる事態となっていた。

 そこに信長からの多額の献金と会談の場を設けて欲しい、という申し出だったので朝廷側もこれを了承する以外の選択肢は取れなかった。


 前久の根回しと信長の財力の合わせ技、これに対抗できる存在など公家はおろか、帝でさえも首を横に振る事など出来はしない。

 そして今、この場で信長はその最大の目的を果たした。

 朝廷に自らの健在を誇示し、その上で本能寺以前よりもさらに鋭く、朝廷に対して楔を打ち込もうとしていたのである。

 広間内の公家衆が正面から反論も出来ずに座り込む中、場の空気が一旦落ち着いたのを見て取った信長は、次なる一手を口に出した。


「続きましてこの場にて、帝におかれましては御認め頂きたき儀がございます。 あちらに控えております羽柴筑前守を、そちらにおります前関白・近衛前久殿の猶子として、御認め頂きたく存じます」


 その言葉に、先程と違った意味で公家衆がざわめく。

 突如として名の上がった羽柴秀吉に、周囲の視線が集中するが当の秀吉自身は平身低頭の状態のまま、顔を上げようとはしない。

 そして言われた帝も明らかに戸惑い、御簾越しになんの言葉も返しては来ない。

 近衛家と秀吉の問題に、帝がわざわざ介入するだけの、認めなければいけないという必要性が見出せないのだ。

 だがその後に信長が発した言葉に、広間の中は先程を上回るざわめきが満ちた。


「そして近衛家の一員となりし羽柴秀吉に、関白宣下を行って頂きたい」


 その言葉には、さすがの秀吉も眼を剥いて思わず顔を上げた。

 公家衆は「何を馬鹿な事を!」と声を荒げ、思わず立ち上がって唾を飛ばしながら信長に掴みかからんとする者までいた。

 だがそれらも信長の一睨みでその場に凍り付き、せめてもの抵抗でその場から信長を睨み付けるのがやっとだった。

 涼しい顔をしているのは信長と前久、そして光秀くらいのもので、秀政も極力平静を装ってはいるが、少しだけ見開いた眼で秀吉をチラチラと横目で見ていた。

 そして場の混乱をどこ吹く風とばかりに、信長はさらに続けた。


「かつて某は朝廷から関白・征夷大将軍・太政大臣のいずれかに就くことを求められておりました。 長らく答えを返せぬまま保留となっており、某としても大変心苦しく思っておりました。 しかし今、帝の御前にて嘘偽りなく、己が真に望む答えでもって返答させて頂きとう御座います」


 いけしゃあしゃあと、言葉こそ丁寧ではあったが有無を言わせぬ迫力で信長は言葉を続ける。

 秀吉への関白宣下を願ったかと思えば、突然の話題転換に周囲の公家衆は困惑の色合いを深める。

 さらに今度は一体何を言い出す気だ、と公家衆は驚愕と混乱を顔に張り付かせたまま、信長の次の言葉を待っていた。

 あらかじめ信長の言わんとする所が分かっているためか、前久と光秀は表情一つ変えていない。

 焦らすように一拍置いて、信長ゆっくりとその言葉を紡ぎ出した。


「三職全て、頂きとうございます」


 驚愕と混乱、嫌悪と恐怖が渦巻く御所の一角で、その空気が完全に凍り付いた瞬間であった。

最初は火縄銃の詳しい経緯や構造まで描こうと思いましたが、さすがに余分だと思い、ある程度省きました。

年内にせめてもう一話、と思っておりますが…難しいかもしれません。

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