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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の七 「足場固め」 その7

手直しに次ぐ手直しで遅くなってしまいました。

今回は毛利家です。

              信長続生記 巻の七 「足場固め」 その7




 小早川隆景は安芸国に帰国し、九州の抑えに回っている吉川元春等を除いた全ての重臣たちに、毛利家の本拠である吉田郡山城へと参集するよう命じた。

 小早川隆景不在の穴を埋めるため、今も九州では実の兄である吉川元春が奮闘しているが、やはり九州戦線は一筋縄ではいかなかった。

 先の沖田綴の戦いにおいて、通称『肥前の熊』とまで言われた竜造寺隆信は、島津家当主・島津義久の弟である島津家久の前に散々に打ち負かされ、その戦で戦死していた。

 さらにはその隆信を支えていた『龍造寺四天王』と言われた四名も、あえなくその戦で全員が戦死したため、もはや龍造寺家の凋落は誰の目にも明らかなものとなった。

 だがそれでも、猛将・吉川元春をしても九州戦線を一挙に制圧、という事は出来なかった。


 九州という土地には、鎌倉時代より続く名門、と呼ばれる代表的な勢力が二つ存在した。

 薩摩国を本拠とする島津家と、豊後国を本拠とする大友家の二つである。

 もちろんその二つ以外の勢力も存在してはいたが、その二つの家は明らかに他の勢力に比べ、抜きん出た存在感を放っていた。

 豊後を中心に勢力を広げた大友家は、大陸への玄関口となる博多を含む、北九州の完全支配を目論んでいた。

 だがそこに待ったをかけたのが、長門国の山口に本拠を置く、同じく名門である大内家だった。


 戦国時代の始まりとなった応仁の乱勃発以後も、中国地方と北九州に勢力圏を持っていた大内家は、本拠である山口館を中心に「西の京都」と呼ばれるに相応しい栄華を誇った。

 大内家第三十代目当主となっていた大内義興の代には、西国一の勢力を誇っていた大内家であったが、その義興の死後には重臣・陶晴賢の謀反や、尼子氏の台頭、毛利元就の躍進などが重なり、三十代を超える長年の名門・大内家は滅亡した。

 これにより大友家にとっては不倶戴天の敵であり、一時は血縁関係や同盟も結んだ大内家がいなくなり、ようやく北九州支配を盤石に出来るかと思えば、ここで新たな敵が現れた。

 肥前国を統一し、新たな国持ち大名として台頭してきた龍造寺家である。

 新興であるが故に、その勢いに押される事が多かった大友家は、ここでまたも北九州支配に手間取る事となった。


 だがその一方で、同じく鎌倉時代から続く盟友、島津家との仲が決定的に割れた。

 領地が近くとも、今まで大きな戦に発展した事が無い両家であったが、戦国の世はそんな生温い関係性を許さなかったのである。

 だがたとえ屈強なる島津家が相手であろうと、新興の勢いある龍造寺家が相手であろうと、大友家は少々の苦難で揺らぐほど軟弱な大名家ではなかった。

 広大にして肥沃な領土を持つ大友家は、名実共に九州随一の実力を持つ大大名であったからだ。

 しかしそんな大友家にも、ついに瓦解の楔を打ち込まれる瞬間がやって来た。


 北からは安芸の毛利、西からは肥前の龍造寺、南からは薩摩の島津、さらには四国の長宗我部までもが東からの包囲網に加わるという、戦国時代の西国における最も過酷な状況に置かれた大友家は、天正六年に起きた耳川の戦いにおいて、島津家を相手に大損害と言える敗北を被った。

 この戦で、大友家は過日の勢いを完全に失った。

 広大にして肥沃な領土、は徐々に奪われ始め、有能な家臣を戦で多く死なせてしまったがために、離反者が後を絶たなくなった。

 だというのに、当主を退き隠居の身となっていた大友宗麟は、家督こそ息子である大友義統に継がせながらも権力を握り続け、外からの敵に備えなければいけない中で、家中に親子の間で溝を作ってしまったのだ。

 さらにその一方で、キリスト教の洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」という洗礼名まで持っていた宗麟は、まるで現実の苦境から目を逸らすかのように、キリスト教へ更なる傾倒を見せていた。


 しかし宗麟とて戦国の世に生きる大名として名を遺した、優秀な当主の一人でもある。

 純粋な武力での大友家生き残りが難しいのならば、と外交手段に頼る事を決めた。

 大友宗麟が頼ったのは、他でもない当時畿内で勢力を誇っていた織田信長である。

 中央で権勢を誇り、朝廷などにも顔が利く織田信長に、南から攻め上がってくる島津家との和睦停戦の調停を願い出たのである。

 この時点の信長はすでに日ノ本全土にその目を向けており、己の影響力で以て遠く九州での戦を止める事も能うのか、を試す意味でも大友家の調停願いを承諾した。


 大友家の生き残りを賭けた思惑は、信長の意向との見事な利害の一致を見た。

 結果として信長の名で、大友家対島津家の戦いは停戦となり、織田信長の持つ影響力は一度として足を踏み入れた事すらない、遠い土地の戦いすら止め得るだけの力を持つ、と公に証明されたのだ。

 戦国の世に「最強」と謳われながらその名を刻んだ、武田信玄や上杉謙信も結果として止める事が出来なかった織田信長の勢いは、この時の日ノ本において、まさに並ぶ者無き存在であった。

 織田家に貸しを作ろうとも、大友家そのものが滅亡するよりもよほどマシだ、という大友宗麟の強かな判断により、大友家は島津家という脅威から逃れる事となった。

 島津家としてもここで大友家に止めを刺すことが出来なくなったため、それ以外の勢力の殲滅、あるいは服従化を進めていき、着々とその力を伸ばしていった。


 そして天正十二年、島津家は大友家との停戦により、新たな標的を定めていた。

 それこそが新興の龍造寺家、そしてその龍造寺家を一代で肥前国統一にまで押し上げた豪傑、龍造寺隆信であった。

 島津家は耳川の合戦で大友家に負わせた損害を超える、まさに壊滅的と言える大損害を龍造寺家に与えた。

 その戦こそが世に言う「沖田綴の戦い」である。

 龍造寺家重臣・鍋島直茂が生き残っていなければ、恐らくここで龍造寺家という家自体が瓦解していたであろう、それほどの大損害であった。


 九州を代表する三大勢力、その内二つの大友家と龍造寺家を相次いで破った残り一つの島津家は、一躍その名を西国全土に轟かせる事となった。

 耳川では大友家に、沖田綴では龍造寺家にそれぞれ散々な敗北を与えた島津家は、その強さを九州一と豪語して憚らなかった。

 実際そのどちらの戦でも、島津家は数の上では明らかに劣り、戦前の予想では島津の勝ちを想定する者はいなかったであろう、という戦いだった。

 だがいざ始まってみれば、島津家の巧みな用兵と指揮官を狙った一気呵成な猛攻撃は、戦った相手を瞬時に壊乱させるだけの恐ろしさを持っていた。

 結果として九州最南端から着実に、そして圧倒的な強さで以て、島津家はその存在感を示した。


 さらに、本能寺の一件により信長がこの世から消えた、となれば信長の名で結ばれた和睦停戦に効力は無く、島津家は大友家と龍造寺家に更なる圧迫を加え続けた。

 龍造寺家は重臣・鍋島直茂を中心とした家中建て直しを余儀なくされ、大友家はもはや島津の勢いに抵抗し切れるだけの力が残っていなかった。

 そんな折であるからこそ、南九州の島津とは領地が接しておらず、弱体化した大友・竜造寺の二家を相手に、毛利は打って出る事を選んだのだ。

 しかしそれでも、九州は一筋縄ではいかない手強さを秘めた土地であった。

 猛将・吉川元春と言えど、僅か一ヶ月やそこらでは、九州に足掛かりを気付くのがやっとであった。


 そんな中、小早川隆景は信長の生存と、織田・徳川・毛利・上杉の四家による大同盟の話と、南蛮からの脅威を伝えるために帰国した。

 小早川隆景は、まず毛利家当主にして実の甥、毛利輝元に事の次第を報告し、二人だけの密談の場にて今後の方針を指示した。

 他の家臣の前ではあくまで毛利本家の当主は輝元であり、血縁上は実の叔父とはいえ、立場としては隆景は家臣の扱いである。

 家臣である隆景が、皆の前で主君・輝元に指示を出す訳にはいかない。

 なので皆が内心では隆景の指示だと分かっている事だとしても、公式的には輝元の口から今回の事についての指示を出させるべきだと、隆景は判断したのだ。


 そのため上杉家とは違い、早馬での手紙などを使わず、隆景はあえて自らの口で輝元に全てを伝えた。

 皆の前で輝元を大国・毛利家の当主として振る舞わせるには、少々の準備が必要となる。

 家臣たちがあらぬ不安や疑念を抱いたりせぬよう、輝元には一挙手一投足に気を付けてもらう必要がある。

 ましてやその場で失言や言い間違えなどをさせぬ様に、隆景は輝元に当主としての威厳を仕込むのだ。

 そのための時間稼ぎとして、隆景が安芸国に帰ってから家臣の召集を行うのである。


 召集され、毛利家の家臣が吉田郡山城に参集してくる頃には、隆景による大国・毛利家当主輝元の出来上がりである。

 大勢の家臣が居並ぶ中、最後に部屋に現れ上座の中央に座る時には、叔父の指示を必死に果たす甥の姿は無く、中国地方の覇者・毛利家当主の名に相応しい佇まいの青年がいた。

 その毛利輝元の名で、毛利家が今後進むべき道は示された。

 毛利家中興の祖・毛利元就公の遺言に従い、毛利は天下を狙うべからず。

 現当主が、その祖父であり毛利家にとって神にも等しき毛利元就の遺言に従い、行動を起こす。


 これで、反対できる者などはいなかった。

 家臣は一様に頭を垂れ、隆景はその様子を眺めて内心でそっと息を吐いた。

 織田信長という人物の器は、有り体に言えば想定していた以上であった。

 「戦国時代最高の謀将」とまで謳われた毛利元就の息子として、その傍らで過ごした経験があったかこそ、小早川隆景にはある種の確信を抱くことが出来た。

 敵に回すにはあまりに危険であり、また信長自身が持つ才覚は、この戦国の世の在り方さえ変革し得るだけのものであると。


 もし毛利が天下を目指すのであれば、信長はこの上ない障害として立ち塞がる事となるだろう。

 純粋な兵力や大将の器で見るならば、どう足掻いても勝ち目は薄い。

 だがむざむざと、信長の軍門に降るという決定を、輝元の口から発させる訳にはいかなかった。

 毛利は織田に屈服した、そう判断されれば瀬戸内の海賊衆を筆頭に、力量差から渋々従っていた豪族などは、こぞってより強い力である織田方に向かいかねない。

 ならばどうするべきか、同盟という単語で覆い隠すことは出来るが、それでも結局は従属じみた同盟であるならば、日和見な勢力は毛利家を見限るかもしれない。


 隆景はここで一計を案じ、最初に輝元にのみ事の次第を報告し、そこであえて元就の遺言を引き合いに出させる事にしたのである。

 毛利家の安泰、日ノ本の安寧、天下万民のために、あえて毛利家は天下を窺わず、真っ先に南蛮の危険性に気付き、それを伝えてきた織田家と志を一つにし、共に戦う。

 今こそ毛利だ織田だという諍いを超え、日ノ本の真の安定と防衛のために、その力を結集させるべきである、それこそが我ら日ノ本に住まう者全ての繁栄に繋がるのだ。

 輝元のその言葉に、表立って反論できる者など誰一人いない。

 小早川隆景があらかじめ用意した脚本を、毛利輝元は見事に演じきった。


 もちろん内心では、多少の不満や不快さを抱く者もいるかもしれない。

 西国一と言って差し支えの無い勢力を誇っておきながら、天下を狙わないという事に疑念や不服の声を上げたい者もいるだろう。

 もしこれが、未だ若い輝元の独断で決められた事ならば、あるいは謀反や寝返りを行う者が出ていたかもしれない。

 だが今この場に居並ぶ毛利家の家臣たちは、輝元の口から出た言葉が隆景の判断による処が大きい事に、薄々ながら感付いている。

 そして家臣たちが感付いている事に、隆景自身もとっくに気付いてはいる。


(毛利両川、とは誰が言い始めた言葉か知らぬが…中々に厄介なものよ…)


 そう内心で呟きながら、隆景は家臣たちを鋭く見回す。

 ある者は真っ直ぐに隆景の目を見返し、またある者はわずかに逸らす。

 吉川元春と小早川隆景という、二人の叔父によって守られた毛利本家に隙はない。

 だが裏を返せば、この両川の叔父がいなくなったその時こそ、毛利本家は窮地に陥るのではないか、という不安がどうしても拭い去れない。

 自分や兄が健在な内は良い、家臣たちも迷わず付いて来るだろうし、兄弟や甥の仲で争い合う気など毛頭ない。


 だが自分や兄がこの世を去った時、果たして毛利本家は現在の様な勢力を誇っていられるだろうか、そしてそれを維持していられるだろうか。

 兄である吉川元春にはすでに複数の男児に恵まれており、さらに吉川家の家督は既に嫡男の元長に受け継がれているため、後継問題というのは存在しない。

 だが小早川隆景自身には未だ子が無く、このままでは毛利本家か吉川家から養子を迎えて、一族の結束を固めるか、他家から養子を迎えて同盟関係を繋ぐかの選択を迫られる事になる。

 名将・小早川隆景の唯一にして絶対の弱点である後継ぎ不在という問題は、既に壮年の年頃となった隆景の胸に、重く圧し掛かっているしこりであった。

 だがそれも、今回の同盟が上手くまとまれば、ゆっくりと考える時間も出来るだろう。


「中央と東国の盟主は織田や徳川に譲ってやることで、我らは西国の盟主の座を揺ぎ無きものとする。 各々方にはこれまでと変わらぬ忠誠と奮闘を期待する」


 最後は隆景のこの言葉で締めくくられた。

 『西国の盟主』という言葉をあえて使い、西国での勢力の強さ、影響力の高さを強調する事で、中央と東国に分けた織田や徳川にすり寄ろうとする者を牽制する。

 たとえ中央に巨大な勢力を持つ織田家でも、所詮は西国とは仕切りのある中央の勢力であり、こちらとは違う勢力なのだ、と思わせておく。

 こうする事で毛利よりも強大な織田に付こうとしても、向こうからすればこちらは余所者だ、と最初から思わせておけば、余計な考えも持ちにくくなる。

 本来であれば当主である輝元自らがやるべきかもしれないが、残念ながら輝元では家臣たちの手前、未だに説得力という点で疑問が残る。


(わしの後継問題もだが、輝元の教育も急がねばなるまいな…)


 隆景の言葉に、再び平伏して承服の声を上げる家臣たちからは見えぬ様に、隆景はそっと息を吐いた。

 家臣たちにはこれで良し、だがもう一つ厄介な問題がある。

 備後国にいる、かつての室町幕府第十五代将軍・足利義昭である。

 義昭はこの時毛利家の領内にあって、未だ幕府の将軍であると息巻いており、本能寺以前には反信長の姿勢を貫き続け、各勢力に盛んに呼びかけていた。

 だが本能寺以後、今度は京都に再び上り室町幕府を再興せん、と毛利家に対して盛んに呼びかけて来ていた。


 だが中央では羽柴秀吉の台頭、それに毛利家は協力する姿勢を見せていたため、毛利家と足利義昭の関係はこの所悪化していた。

 足利義昭にとって、自分以外の勢力が力を持ち、その勢力が自らを敬わない事が許せないのだろう。

 日ノ本の中心にいるべきは、足利家が頂点となる室町幕府を置いて他に無い。

 その妄執に憑り付かれた足利義昭には、世の流れというものが見えていない。

 名家といえど、力を無くせば没落するのが世の常であり、足利家は紛れも無く没落した名家そのものなのだ。


 そして今回信長が生きていた事も、義昭にとってはこの上ない凶事となるだろう。

 しかもかつては敵対していたはずの毛利家が、今度は一転して織田とは同盟を結ぼうというのだから、義昭がどのような反応をしてくるかは想像するに難くない。

 おそらく義昭の説得・懐柔は不可能だろう。

 将軍という地位に固執し、自らを省みることの出来ない、感情のままに行動指針を決める者に、理論的な説得などは功を成さない。

 下手に義昭に同情的な、協力的な態度を見せれば、それこそ無理心中に近い真似をさせられかねない。


(となれば、無視をするのが得策か……下手な関わり方をすれば、藪を突いて蛇を出しかねぬ)


 小早川隆景の頭の中だけで、足利義昭への扱いは決まった。

 すでに時代は、ただお互いの領土を食らい合うものから、まとまりを見せて共同で事に当たる、新たなものへと動き出しているのだ。

 今更旧時代の遺物となった幕府に、これ以上手を入れられてかき回させる訳にはいかない。

 そもそもが戦国時代到来のきっかけとなった「応仁の乱」自体、室町幕府の将軍後継問題に端を発していたのだ。

 ならばここで、室町幕府将軍に余計な茶々を入れられて、新たな問題を生み出させる訳にはいかない。


 こうして、毛利家は足利義昭という存在そのものを無視する事にした。

 天下を狙わぬ毛利家にとって、天下を窺うための御輿は必要ない。

 いっそ殺害してしまえば話は早いかもしれなかったが、それで毛利にいらぬ悪評が立つのは得策ではなかったため、ここはあえて距離を置くだけにした。

 備後国に滞在し続けてもよし、どこか別の場所に居を移したいのなら、引き留めはしない。

 どこでも好きな場所に移動してしまって構わない、その一方的な通達のみをして、毛利家は足利義昭と完全に袂を分かったのだった。




 一方の九州では、吉川元春の元に『信長再臨・四家による大同盟・南蛮国の脅威』といった報告がもたらされていた。

 弟である隆景直筆の文によるその報告を一通り脳内に入れて、じっと目を閉じて反芻する。

 隣に座る長男にして嫡男・元長は、元春の後にその文に目を通し、さらにそれを弟たちに渡しながら瞑目したままの父が口を開くのを、今か今かと待っている。

 文を手渡された次男・元氏や三男・広家なども、その文に目を通しながら元春が口を開くのを待っているが、元氏はじっと黙っているのに対して、広家は読み終わるなり気怠そうに頭を掻き、欠伸を漏らしていた。

 元長がジロリと睨み付けると、広家は肩をすくめて姿勢を改めた。


「あの信長が生きていた、とはな……しかも我ら毛利とは同盟を組み、共に南蛮の脅威に当たる、と来たか……隆景め、してやられたな」


 厳しい言葉とは裏腹に、元春の口元には笑みが浮かんでいた。

 あの頼もしくも小憎らしい、賢しさなら天下一と思っていた隆景から一本取るとは、さすがに天下人に王手をかけた男なだけはある。

 その笑みに訝しげな顔をする元長と元氏であったが、広家だけは違う反応を見せた。


「それで親父殿、あのサルジジイめはどうなったのじゃ? 信長が生きておったとなれば、信長の息子を殺したというサル吉は、やっぱり打ち首にでもなったのかのぅ!?」


「広家! 父上に対してなんたる口のきき方じゃ!」


 どこか楽しげに問いかける広家に対し、元長が声を張り上げる。

 広家はかつて人質という扱いで秀吉の下を訪れていたが、急速にその地位を上げていく秀吉に対してもどこか不遜な態度を取り続け、反りが合わないと判断されたか早々に返還されたという経歴を持つ。

 礼儀作法が覚えられぬ、かしこまった立ち居振る舞いが出来ぬ、という訳ではない。

 ただ面倒なので出来ればやりたくない、というのが広家の基本姿勢である。

 その飄々とした態度を、元春は頭を痛めつつもどこか憎めずにいた。


「それに広家、サル吉とは一体誰の事を言うておる? もし秀吉殿の事を言うておったのなら、誰かに聞かれたら一大事ぞ!?」


「おお、兄上もやはりサル吉が秀吉の事であると気付かれましたか!? わしは良い名と思いますぞ、名は体を表すと言うし、あのサルジジイめにはピッタリじゃ! ははははははッ!」


 広家の隣にいる元氏から言われた言葉の揚げ足を取り、自分の言葉で腹を抱えて笑い出す広家に、兄弟二人が口を揃えて「うつけが…」と苦々しく呟いたが、元春は片手を挙げて広家の笑いを収めさせた。

 秀吉に対しては不遜な物言いを改めない広家であっても、自らの父である元春に対しては一定の敬意は払っている。

 その元春が黙れと言うのなら、従う事に否やは無い。


「隆景が申すには、毛利家は今後織田・徳川連合軍と共に、西国の鎮護に当たる事となろう。 東国や北国は上杉をはじめとする奴らに任せるとの事じゃ。 そして差し当たってはまず、四国に狙いを絞り、長宗我部を屈服させて、後顧の憂いを無くしてから九州を、という方針に決まったそうじゃ」


「せっかく九州に上陸を果たしたというのに、四国ですと!?」


「では我らは陣を引き払って、改めて四国へ向かえと?」


 元春の言葉に、いかにも不満がある顔と声で意思表示をする元長と元氏。

 その二人の言葉を聞いて、元春が口を開く前に広家が言葉を挟んだ。


「別に陣を引き払う事はありますまい、もったいないし四国で片が付くまで、ここを守れば良い話にございましょう? なぁに、鬼吉川と呼ばれた父上であれば、造作も無きことよ」


 兄二人とは違う意見を出したため、兄二人から睨まれたというのに、広家は顔色一つ変えない。

 元春はそんな広家を見ながら口を開く。


「では広家は、吉川の者で九州の橋頭堡は確保しつつ、他の者たちで四国を制圧し、その後で九州に戦力を集中させれば良い、と?」


「出来ぬ話ではないと思いまするが?」


「広家! 軽々に物を言うでない! 我らが九州に釘付けにされておっては、四国へ向かう毛利軍は主力を欠いた状態で向かわねばならなくなろう、もしそこで手痛い反撃を食らったらなんとする!?」


「左様、ここはお主の如き若輩の者が口を出すべき儀にあらず! 黙って父上と兄上の話を聞いて学んでおけ! それが出来ぬのであれば、ここから立ち去れ!」


 広家の言葉に、兄二人が声を荒げて次々に言い募る。

 その連携された叱責の言葉に、さすがの広家も顔をしかめてチラリと元春の顔を見る。

 まるで、それで良いのかと言わんばかりに。

 軽く鼻から息を吐いた元春が片手を上げて、兄弟の言葉を遮る。


「お主たちの言う事はそれぞれに一理ある。 が、広家よ…お主は一つだけ心得違いをしておる」


「されば、ご教授願いたし!」


「…心得違いをしていた者にしては、随分偉そうじゃの」


 言いながらも苦笑する元春に、広家も悪ガキの様な笑みを浮かべた。

 そんな広家の頭を軽く叩いた元氏と、神妙な顔付きになった元長が、元春の次の言葉を待つ。


「わしはそもそも元長に家督を譲り、隠居しておる身の上故、長期の在陣は身体に堪える。 それに長期の在陣となれば、必要となる兵糧も莫大なものとなろう。 ここは陸続きに兵糧を運べる地ではない、たとえ大した事の無い距離でも、間には海峡が存在する。 毛利が今まで幾度となく九州の領地を盤石の物と出来なかった理由はそこよ、まずはそれらを鑑みてから物事を判断せよ」


 政や謀において、毛利元就の次男である吉川元春は、三男である弟の小早川隆景に劣るとされている。

 だがそれは吉川元春が無能である、もしくは単なる猪武者である、という事の証左ではない。

 比べるべき相手が、弟とはいえ小早川隆景であるから劣る、というものでしかないのだ。

 ましてや軍略や武勇においては、吉川元春は毛利家最強の名に恥じない猛将である。

 生涯に二百を超える戦を経験したと言われる毛利元就の息子として、若い頃から勝ち戦も負け戦も経験し続け、今では日ノ本においても指折りの猛将として名高い男である。


 だがその男も既に齢五十を超え、身体に無理が効かなくなっていた。

 家督を息子に譲り、本来であれば隠居して老後を過ごすべき所を、小早川隆景が領国を留守にするという穴を埋めるために、今また戦場に舞い戻ってきたのである。

 家督を譲った嫡男・元長だけでなく、元氏や広家などの息子らも同行させたのは、もってあと数年という身となった自分から、少しでも多くの事を学び取ってもらいたいという親心からであった。

 なので広家の良く言えば勇猛果敢、悪く言えば若さ故の蛮勇を頭ごなしに否定するのではなく、しっかりと自分の頭で考えて行動させるよう促した。

 言われた広家もその態度から「うつけ」呼ばわりされる事はあっても、決して無学無能の男ではない。


 父が自分に何を思って何を伝えたいか、それらが感じ取れたからこそ、神妙に頭を下げて「ははっ!」と言葉を返した。

 広家の返事にうむ、と頷いた元春は隣にいる元長に向き直る。


「大友も龍造寺もすぐには崩れまい。 大友には立花が、龍造寺には鍋島がおる。 彼奴等がおる限りは島津とて、容易に九州全土を手中にする事はあるまい。 我らはここでの戦力の損耗を控え、四国へと向かう」


「御意に、父上!」


 元春の決定に、元長をはじめとする息子三人が揃って頭を下げる。

 家督を譲って隠居したとはいえ、その積み上げた戦歴と威風は健在である。

 元春の決定に息子たちは誰一人異を唱えることなく、撤退の準備が始まった。


「わしは第一陣で帰る、元長は第二陣じゃ。 元氏と広家は殿を務めよ」


「はっ!」


「えぇーっ!?」


 元春の言葉に、元氏は引き締まった顔で、大して広家は露骨に不満げな顔と声で応じた。

 無論、その態度に兄二人が顔をしかめたのは言うまでも無い。

 既に殺気すら籠もっていそうな眼で兄二人から睨まれているというのに、広家はいけしゃあしゃあと父である元春に具申した。


「わしも九州の水が合わんので帰りとうございます! 出来れば父上と同じ第一陣で!」


「貴様、父上の決定に逆らうか!?」


「さては怖気づいたか、この臆病者が!」


 兄二人がいよいよ掴みかからんばかりに詰め寄ったのに対して、元春はからかいの色を眼に浮かべて、広家に返答した。


「そうかそうか。 ならばわしと共に帰り、ご当主様に報告を申し上げるとしよう。 お主は久しく本家の従兄弟と会うておらなんだな、良い機会じゃから親睦を深めるためにも付いて来い」


「殿のお役目、この広家しかと承りましてございます!」


 元春の言葉に、その場でいきなり平伏して殿を申し出る広家。

 そのあまりの心変わり様に兄二人の肩が同時にガックリと落ちるが、顔からは先程の様な怒気が薄れ、代わりに困惑の色合いが強くなった。

 この二人はそうではなかったが、実は広家は毛利本家に顔を出したくない理由があった。

 というのも毛利家現当主・毛利輝元とはどうにも反りが合わない事を、広家自身が自覚しているからだ。

 元春の言う「本家の従兄弟」とは暗に輝元の事を言っているのだが、まさか他の息子二人の前で「本家の当主・輝元とは反りが合わないから会いたくない」などと言わせる訳にもいかない。


 なので広家が輝元を苦手としている事を、唯一知っている元春がからかいを込めてそう呼んだのだ。

 広家もそれを察して、輝元に会いに行くくらいなら、ここで撤退する際の殿の役目を負った方がマシだ、と即断したのである。

 頭の回転の速さと調子の良さ、さらに普段の傾奇者ぶりが同居している広家に苦笑して、元春は悪くない心境のまま九州を後にする。

 元長や元氏は、しっかりとした性格で武勇にも優れ、何の心配も無く後事を託していけるだろう。

 広家は少々クセがあり過ぎる気もするが、ああいう者がどこかで大化けする可能性もあると思うと、自分は息子に恵まれたな、と一人思う元春であった。

気が付けば一万文字を超える過去最長に…

巻の七になってからどうにも長い話が多くなってしまっております、お読み下さっている皆様方には、お時間がある時の暇潰しにでもなさって頂けましたら幸いでございます。

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