信長続生記 巻の七 「足場固め」 その6
信長続生記 巻の七 「足場固め」 その6
直江兼続は越後国に帰国し、そのまま主君である上杉景勝のいる春日山城へと向かった。
自らの治める領地に戻ることなくそちらに向かったのは、一刻も早く主君である景勝に自らの口から報告を行うためである。
なにせ現在の上杉家は、先代である軍神・上杉謙信の頃に比べ、明らかに弱体化した状態が続いている。
上杉謙信の急逝に伴い、謙信の実の甥である上杉景勝と、北条家からの人質であったが、後に養子として迎えられた上杉景虎は、世に言う「御舘の乱」でぶつかった。
辛くも勝利した景勝側であったが、その後の上杉家の有様は悲惨、の一言に尽きるものだった。
国土が東西南北に長く、海も山も豊富であり、雪深くもあるが金が採れるといった自然の恩恵も多い越後国は、内乱に次ぐ内乱で一向に国全体がまとまる気配が無かった。
それを先代・上杉謙信はわずか一代で纏め上げるという偉業を成したのだ。
かつての関東管領・上杉憲政はその強さを頼りに、当時長尾景虎と名乗っていた謙信を養子とし、その職を譲ることで関東鎮護の役目を託した。
北条家の台頭に危機感と嫌悪感を募らせていた関東の諸勢力は、「関東管領」という職の正当性と、謙信率いる越後勢の強さに、雪崩を打つように謙信に恭順を示した。
謙信による関東遠征の際には北条家の本拠である小田原城に到着までに、関東各地から続々と小大名や有力豪族などが集結し、上杉軍の総勢は十万を超える大軍に膨れ上がり、その威光はまさに関東管領の職に相応しく、誰もが北条家の滅亡を予感した。
だが結局、謙信は北条を滅ぼすまでには至らず、さらには自らに従う事を誓った諸勢力すらも置き去りにして、越後へと帰っていってしまった。
いざ戦となった時の強さ、その神懸かり的な軍略、数多の諸将をひれ伏させるその威容。
それらを併せ持った当代随一の軍神は、あろうことか「統治」をしなかった。
自らに付き従う者達を指揮し、敵対勢力を平らげ、さらなる領土を手に入れ国を富ませる。
戦国武将にとって最も大切な「強さ」を持ちながら、戦国大名にとって最も重要な「発展」をさせなかったのである。
自らが生まれた家の後を継ぎ、名族の名と職を受け、戦ではほぼ無敗。
寒さに強く精強なる兵を従え、「義」の旗を掲げたその名声はまさに天を衝く龍が如し。
寝返った者すら許す度量を持ち、乞われて援軍として向かった戦では戦わずして敵が逃げ出すほど。
だがその実、謙信という人物は己の為そうとすることを家臣に邪魔立てされた事で、その地位も何もかもを捨てて当主自ら出奔をしてしまうという、前代未聞な事すらやってのける破天荒な人物でもあった。
そういう意味では、この男ほど戦国大名に向かない人物もいない、とも言えた。
なまじ圧倒的なほど強く、「義」を掲げて神仏を篤く信仰しているというのに、領土的野心も天下への道筋も示さず、悪戯に時と金を浪費する戦に生涯を捧げ、最後には跡継ぎすら決めずに世を去る。
織田信長・武田信玄・北条氏康といった後世にまで名を遺す名将たちに、恐れを抱かせ辛酸を舐めさせ苦渋の決断を迫らせた男。
考え様によっては、これほど性質の悪い男もいなかったのではないだろうか。
彼にその血を受け継ぐ息子がいたならば、領土的野心を持ち得ていたならば、武田信玄と川中島で競り合い続けなければ。
いくつもの「こうであれば」という要素を持ち合わせておきながら、その強さだけでもって後世まで「軍神」と謳われた男、それこそが上杉家先代当主・上杉謙信であった。
では先代当主・謙信の姉の子であり、実の甥に当たる当代・上杉景勝はどうか。
少なくとも謙信のような「統治」をしない君主ではなく、むしろ「御舘の乱」によって乱れた国情を一刻も早く回復させようと心を砕く、「治世の君主」であった。
自らの腹心・直江兼続を中心とした家臣団に「責任は自分が持つからお主たちが良いと思うやり方を実践せよ」という、極めて異例の形を取った越後国の立て直し政策は、上々の成果を上げた。
自分一人でやれる事などたかが知れている、それぞれが専門的な分野を受け持ち、分業して事に当たり、一つ一つ問題を解決していく。
先代・謙信の様な神懸かり的な強さは無くとも、堅実かつ己の分を弁えた、ある意味でこの上無い戦国大名としての君主がそこにいた。
良く言えば常人離れした天才、悪く言えば身勝手な戦至上主義者であった謙信には、その強さに付き従う者も多く、後を継いだ景勝には「先代・謙信ほどの軍才は無い」と判断し、従おうとしない者もいた。
その筆頭が北越後に領地を持つ新発田重家である。
彼には奥州の諸勢力が後援を行い、上杉家の奥州進出を阻むための壁としての役割を担わせていた。
この存在によって上杉景勝は、「謙信の頃は統一出来ていた越後は、景勝の代になり再び乱れた」という風聞に晒されることとなり、彼の為した「御舘の乱」後の国内立て直しの功績は、ほとんどの者に評価されること無く、その対外評価は高くないままであった。
だがそれでも、上杉景勝という男が腐ることはない。
自分が先代・謙信に比べて軍才で劣る事など、最初から分かっている事であった。
また国内建て直しの陣頭指揮も、自分が行なうより腹心である直江兼続が行った方が、より効率的で手早く進められるという事も理解していた。
自らの為す事は「当主」という絶対的な司令塔として指揮を出す事ではなく、「上杉家」という戦国大名家を上手く回して行くための、いわば「当主」という名の歯車で良い。
「己」を知るが故の冷徹とも言える決断、表に出ずとも良い、名を上げずとも良い、無能と誹られようと、先代に比べて戦下手と嘲られようと構わない。
それで「上杉」の名が上がるのなら、自分がいくらでも泥を被ろう。
信長とはその在り方は違っても、景勝もまた良い意味での合理主義者であった。
己が為せることを冷徹に見定め、家臣に任せた方が良い場合は何の迷いも無く家臣に一任し、それを恥辱とも思わず、ただただ効率的に上杉家を回していく事のみに心を砕く。
謙信が纏め上げ、そして死後に乱れさせた越後国。
謙信がその名跡を受け継ぎ、そして死後に割れさせた上杉という家名。
結果として上杉家は謙信時代に比べ弱体化はしたかもしれない、だがそれらを挽回し、いつか謙信時代を超えるだけの国を作り上げる算段が、景勝と腹心である兼続の頭にはあった。
たとえ何年、何十年かかろうともいつの日か、この家が無くならぬ限りは立て直してみせる。
そう心には決めていたものの、かつて押し寄せていた織田家の影響力は、二人の男の覚悟すら呑み込もうとしていた。
だが本能寺の一件でそれらは霧散し、即座に二人は上杉家の態勢立て直しと、空白地となった甲斐・信濃への出兵を決断。
だがこれらも北条との戦いを経て北信濃四郡を得るに留まり、甲斐一国と信濃の大半は徳川が領有する事となった。
それから一年半ほどが経過し、未だ新発田重家は下せず、領内の立て直しも完了してはいない。
そんな中で、羽柴秀吉から大国が互いに背を預け合う、四ヵ国の大同盟締結に向けた話し合いを持とうという提案が告げられた。
上杉にしてみれば渡りに船と言えるこの提案に、景勝も兼続も即座に積極的な参加を決めた。
無論これを罠ではないかと見る向きもあったが、現在の上杉にとって、悔しいが羽柴家と真っ向から敵対出来るだけの戦力的な余裕は無かった。
ただでさえ北の新発田重家を抑え切れずにいるというのに、西から羽柴家が正面切って攻め上がって来ようものなら、かつての織田からの脅威の二の舞である。
罠なら罠で、その時はその時だという一種の諦めの境地にも達していた景勝と兼続であり、他の重臣たちも表立って反対を出せなかった。
だが実際には、むしろ罠であった方が対応は簡単であった、とすら思うほどの衝撃を伴った事実が判明した。
信長の生存と南蛮の脅威、いくら上杉の全権大使という立場で会議に出席していた兼続であろうと、主君である景勝の許しも無しに全てに頷く訳にはいかなくなった。
結果として兼続は、国許に幾度も早馬を飛ばし、一日ごとに報告をまとめた書簡を送り続けた。
その為兼続が春日山城に戻った時には、既に上杉家の重臣たちは一堂に会し、兼続の帰還を待ちわびていたのだった。
休む間もなく兼続は上座に景勝、左右に重臣がズラリと並ぶ城主の間で、帰還の挨拶もそこそこに本題に入る事となった。
「まず、すでに早馬でご報告したとおり織田前右府信長殿は、生きておいででした」
そう言い放った兼続の言葉に、重臣たちの中でもざわめきが起きる。
既に事のあらましは景勝から聞かされているのか、ざわめきこそ起こるものの兼続を嘘吐き呼ばわりする者はいない。
むしろ「やはりか…」、「不死身とでも言うのか」、「やはり真に恐るべきは信長か」といった、信長が生きていたことに対する、苦い顔をしながらの呟きが部屋の中に満ちた。
現在の上杉家で、信長に好意的な感情を持つ者などはいない。
本能寺で姿を消さなければ、むしろこの世から消されていたのは上杉家の方であったからだ。
かくいう兼続も、信長という人物の持つ才覚は理解出来たものの、では尊敬に値するかと言われれば首を横に振るだろう。
敵として戦うなら最も恐ろしく、味方と思っても心から気を許すことの出来ない存在。
個人的感情で物を言ってしまえば、信長の意見を易々と受け入れるのは気が進まない、というのが本音である。
だが兼続とて戦国武将に名を連ねる一人であり、上杉の屋台骨を支える重鎮でもある。
個人的な感情などは二の次、まずは主君兼続の意向を窺い、さらに上杉のためになるか否かで判断をする事こそが肝要だ。
「また、先の本能寺の一件の首謀者と目されていた明智日向守も同じく生存。 さらに羽柴筑前守殿の所領その他は、全て織田殿が掌握し現在再編成中とのこと。 早馬でもお知らせいたしましたが、ここに改めてご報告させて頂きまする」
兼続が続けた言葉に、重臣たちはさらにざわめきを大きくする。
無論その情報も知ってはいる、知ってはいるが改めてその場にいた兼続の口からそれが報じられると、やはり思う所があるのか、それぞれが頭を抱えたり舌打ちをするなど、何かしらの反応を見せる。
そんな家臣たちの中でも、唯一主君・景勝だけは泰然自若としている。
今この場で騒いだところで、事実が変わる訳でもない。
ならばこれからどう動くか、それを決める事こそが最重要なのだから。
「重ねて大儀であった。 兼続も京・大坂をその眼で見て、彼の地の動向を見定めながらの帰還であったのだろう? 早馬では報せることの出来なかった各地の反応を申してみよ」
上座から景勝の声が響く。
居並ぶ重臣も私語を慎み、その視線を兼続に向ける。
景勝の言わんとする事は、つまりは民の反応である。
信長の再臨・秀吉の凋落は、市井の民にはどう見えていたのか、という事だ。
特に京や大坂などは、信長が直轄地にするであろうことは想像に難くない、ならばその地に住む民の反応こそが、信長に対する世の中の反応を代弁しているとも言える。
「は……民の多くは驚き、誰も彼もが織田殿に関わる話で持ち切りにございました。 此度の事に関してもやれ『信長様は物の怪だ』『いや、よく似た影武者だ』『あるいは仙人様か』など、様々な憶測が飛び交っておりました。 されどその中に、織田殿が生きていた事で悲嘆に暮れる者はおらず、嘆いたり逃散を考える者も見当たらず……民の多くはこれからどうなるか、を論じている様子にて」
兼続の報告に、景勝はじっと目を閉じて聞き入り、その眉間に大きなしわを寄せた。
民の反応は概ね良好、という事は景勝にとって無視できぬ要素であった。
上杉は信長から直接大同盟に参加するよう求められた、数少ない大名家である。
民に信長を受け入れる下地が出来ているのなら、これに上杉が異を唱えるのは具合が悪い。
信長が生きているのなら、とこちらが敵対姿勢を取れば、民はまたも戦が続くのだと辟易し、この戦国の世の終わりが見えぬ日々を過ごし続ける事になるだろう。
だがもし、上杉が信長に積極的に協力を表明したならば、北陸から京・大坂にかけての民たちはどのように思うだろう。
少なくとも自分たちの住んでいる地域が戦場になる事は無い、と胸を撫で下ろす事だろう。
兼続の報告にあった、民の「これからどうなるか」は、明日への希望へと変わる。
戦に巻き込まれる事が無い、それが今この世に生きる民にとって、どれほど心休まることか。
景勝は上杉家の当主となって以来、民の生活と国の立て直しは、切っても切り離せぬ関係があると身を以って知った。
たとえ結果的に信長に従属する事になろうとも、これは戦を行っている最中の「和睦の体裁を取った降伏」ではない。
ならば上杉の領国に付いてとやかく言われる筋合いはなく、今現在も進めている領内の立て直しと、越後国統一のための新発田重家討伐にも、横槍を入れさせなくする事も出来るはずだ。
上杉が今回の同盟話に乗る利点は、かなり大きなものとなるだろう。
有り体に言ってしまえば、現在の上杉は天下統一を目指せる大名家ではない。
それだけの将兵もいなければ、財力も領土も無いのだ。
加えて中央に復活・再臨した信長が君臨し、東国の抑えに徳川、西国の抑えに毛利がいるとなれば、ここで上杉が無理に我を通そうとすれば、待っている結末は容易に想像が付く。
かねてから長い内乱が続き、越後国は疲弊し続けた。
謙信の代で一時はまとまったものの、現在は変わらず内乱状態が続き、民も疲弊し続けている。
名家の誉れ、武士の意地、それらが果たして民を慰撫出来るものであるかなど、子供でも分かる。
答えは否だ、自分たちの勝手な自己満足によりこれ以上民を虐める事は己の心の、いや上杉の、いや日ノ本という国全体のためにならぬ。
もし信長が本能寺以前の敵対関係を継続するというのなら、上杉としても受けて立たざるを得ない。
もし信長の再臨という事実に、民は嘆き、世が戦々恐々となるなら、上杉の名に於いて一戦も辞さない覚悟もあったが、民の多くは信長の存在を受け入れているとのことだ。
上杉の進む道は、本能寺以前の敵対関係を継続するか、一転して今回の同盟話に乗るか。
もはや景勝の中で答えは出ていた。
自分が天下を担う存在でなくとも、天下を支える存在になれるのならば、それもまた誇らしいだろう。
「民が望む治世を行えるのであれば、我ら上杉に織田と敵対する理由は無し」
景勝の言葉に、重臣たちは難しい顔をしながらも表立った反論をしなかった。
感情では素直に頷き難いものはあっても、現状の把握が出来ている者達には、この話がいかに上杉にとって利のある話かを理解出来ていたからだ。
むしろここで感情論を振りかざすだけの者であれば、その者は遠からずこのような場から姿を消す事になるだろう。
国と民、その二つを決して打ち捨てぬ決意を固めた景勝に、この話を呑む以外の選択肢は無かった。
重臣たちも、そして腹心である兼続も皆、景勝が重々しく首を縦に振ると、それを見るなり平伏して頭を垂れた。
ここに上杉の意見は固まった。
細かな同盟条件の擦り合わせは、兼続を通じて行われる事となった。
この決定に当初は、兼続の領内の仕事量も考えると負担が多すぎるという意見も出ていたが、兼続自身が了承したため結果としてそれで決まった。
というのも「では私以外の誰かが、かの織田殿との接見に臨みますか?」という兼続の言葉に、誰も彼もが視線を逸らして何も言わなくなったからである。
現在の上杉家の最重鎮と言ってもよい直江兼続をして、早馬で「その威圧感は胆と胃の腑を同時に握り潰さんばかり」と報せてあったため、それを聞いた重臣たちも直接信長に謁見する事に二の足を踏んだのだ。
「それと兼続には一つ伝えておく事がある」
「は、如何なる用件に御座いましょう?」
景勝の言葉に、兼続がいつもと同じ生真面目な眼で内容を問う。
「軒猿より今朝方報告が上がってきた。 お主が早馬で知らせてきた『徳川の兵力でもって、四国の長宗我部への抑えと成す』についてだが、早速にも徳川の領内で兵力の移動が見られるそうだ」
「行動が早いですな、さすがは徳川と言った所に」
軒猿とは、上杉家の持つ忍び集団の事である。
彼らは甲斐や信濃、越中や北越後、さらに上野などの隣国や敵対勢力の領土に多く潜伏しており、今朝も最新の情報の報告を行っていた。
そこで知れたのが徳川の兵力の移動という事だったが、景勝の言葉にはまだ続きがあった。
「ただその数が軽く一万を超える規模だそうだ。 それだけの兵力が移動するとなれば、北条にもその動きは筒抜けとなろう。 あちらにも風魔という忍びがおる、我らと同じように徳川の領内から多くの兵がいなくなったと知れば」
「北条が空き巣狙いを? しかし現当主・氏直の正室は確か家康の娘では?」
「可能性はあると見ている。 北条は先年、甲斐にも信濃にも新たな領土を得る事が叶わず、関東の上野も完全支配には遠い。 なればこそ徳川領を何らかの形で掠め取るやもしれず」
この景勝の言葉に、居並ぶ重臣たちもあるいは頷き、あるいは顎の髭を撫でながら思案に耽る。
戦国の世において、婚姻による同盟が必ずしも絶対ではない事を、彼らも知っているのである。
ましてや妻の実家を攻める、という事は確かに褒められた行動ではないかもしれないが、さして珍しい話でもないのが戦国のというものである。
「軒猿には北条と徳川の国境を密かに監視させましょう。 動きがあればこちらも即応出来る様、信濃領内にある城にいくばくかの兵を向かわせておきましょう。 そして後背を突かれる恐れを無くし、今度こそ北の新発田重家を誅すべく、今一度某を大坂へ向かわせて頂きたく!」
兼続が次々と方針を打ち出し、言葉を聞いた重臣の中には「ならば某は新発田の抑えに」、「さればわしが信濃に向かいましょうぞ!」とまで発言する者が出てきた。
ここからが正念場である。
上杉にとって、眼前の脅威こそなくなっても、未だ問題は山積みだ。
領内の立て直しも不十分、織田・徳川連合軍という強大な勢力との同盟は、これまでの上杉の対外政策を一変させる可能性すらある。
内外の問題は確かに山積みではあるが、逆にここを上手く乗り切れば、先代・謙信が死して以来覚束なかった「上杉家」という大名家の地盤を、しっかりと安定した状態で統治出来る様になるだろう。
「皆の者、我ら上杉はこれより天下安定と日ノ本防衛のため、一丸となって突き進む事とする!」
『おおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!』
景勝の宣言に、その場にいた全員が決意と覚悟を宿した雄叫びを挙げる。
勇ましく、誇らしく、彼らは拳を握り天へと突き上げる。
戦国の世において、他に類を見ない『義』の旗を掲げる上杉が、心から信長と歩調を合わせる決意をした瞬間である。
兼続はそっと息を吐き、とりあえず上杉の意見がまとまった事を大坂に伝えよう、と頭の中で算段を整えていた。
景勝の言い回しは『信長との同盟』ではなく、あくまで『天下の安定と外国からの防衛』であったたため、重臣たちも反対意見は出せなかった。
上手い言い回しをされましたな、と兼続は心の中で景勝に拍手喝采を送っていた。
それが僅かに顔に出ていたのか、兼続と目が合った景勝は、その口角を微かに上げたのだった。




