信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その5
信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その5
織田家の現在の頭領は実質的には信長であるが、公的には信長より正式に家督を譲られた嫡男・信忠である。
なので信長には全くあてはまる印象が無いが、現代の世間一般的に言う「前当主の御隠居様」の様な立場が、今の信長の立ち位置なのである。
しかし当時は血で血を洗う戦国時代であり、後継者で揉めるお家騒動など日常茶飯事で起こり得るもので、さらには戦場以外でも暗殺や事故死などの不確定要素も考慮に入れなければならない。
そのため前当主が健在な内に後継者と決めた者に家督を継がせ、前当主は若い後継者の補佐をしながら当主自身の成長を促し、同時に家臣にも若い当主を支えていこうという自覚を芽生えさせ、次代の家の形を作らせていくのである。
信長自身は父である信秀の突然の病死により、後継者と目されていたものの家の内外に正式に家督相続の連絡などをする間が無く、当主着任早々様々な混乱を収める羽目になった。
これは当時どこの大名家であっても極めて現実的、かつ重大な問題でありその行動には細心の注意を払って行われていくものであった。
しかしかの有名な武田信玄は、かつて暴君と称された父・信虎を追放し、その一方で嫡男・義信とは妻の実家を攻める事に反対されたため、幽閉してその後切腹という末路を辿らせた。
そして諏訪家の姫に産ませた四男・諏訪四郎勝頼を遺言で武田家の当主代理とした。
生まれた時から「武田」ではなく「諏訪」を名乗っていた者に「武田家の当主」を継がせたくなかったのである。
そして勝頼の息子が元服した後に、その子に正式な「武田家の当主」になるよう命じて信玄は没した。
ここが、名将と謳われた武田信玄の、生涯最後にして最大の失敗であった。
「諏訪四郎勝頼」から「武田四郎勝頼」に名が変わった所で、信玄と共に武田を支えてきた自負と誇りを持つ家臣団はそう簡単には従わず、また勝頼も頑なになっていた。
生まれが「諏訪」であるが故に、まぎれもない信玄の息子であっても、「当主」ではなくあくまで息子が成長するまでの「当主代理」、という意味の「陣代」に据え置かれたのである。
己の能力を誇示するための無茶な戦をくり返し、気が付けば武田家は数年の内に弱体化、信玄没後十年を数える前に、甲斐武田家は信長の手によって滅ぼされた。
正式な手段に則って家督を相続することが無かった信玄は、己の家督を継がせる際にも、結果として手段を誤ってしまったのである。
武田信玄全盛期には「戦国最強」、「無敵の騎馬軍団」などの未だに残る数々の武名を誇っていた武田家が、家督相続のやり方を見誤り、没落どころか滅亡の憂き目に遭った。
家督相続、というものがいかに重要で恐ろしいものかを表す例えと言えるだろう。
一方の信長は当主就任後まずやった事は、父・信秀の遺領を狙ってきた同じ織田一族の者たちを打ち破っていく事だった。
信秀の領地であった商業都市・津島は莫大な税収を上げており、その旨味を知る者は次々信長に挑みかかっては敗れていったのだ。
そして今信長が持つ直轄地はそれとは比べ物にならないほど、広大かつ莫大な者であり、信長の遺領全てを受け継ぐとなれば、それこそ当時の日ノ本で最も裕福な者、にすらなれたであろう。
信長の父・信秀には息子が多く、また信長自身にもそれなりに子供がいる。
信長の弟たち、息子たちに自らの持つ領地・権力の相続を何も伝えぬまま、万が一にも信長が死んでしまった場合、そこで起こる混乱はとてつもない事になるだろう。
それこそ信長の『天下布武』の継承どころではない、下手をすればそこから織田家は分裂し、内部崩壊を引き起こす可能性も充分にあった。
なので信長はまだ二十歳を超えたばかりの信忠に早々に家督を継がせ、自分に万が一があった場合なども含めた行動をすでに取っていたのである。
それなのに信長と信忠の二人が、わずか一日でこの世を去ったというのは、歴史の皮肉としか言えない部分でもあった。
その信長と信忠は、それぞれ京都に出向いた際の宿泊場所、というのが基本的には決まっていた。
信忠は以前まで信長が京都での宿所として利用していた妙覚寺に入り、天正十年六月一日の夜はその地で過ごした。
信長は最近では妙覚寺よりも、新造した『本能寺砦』とも言うべき要塞化された本能寺を宿所と定め、自らがかつて宿所とした妙覚寺を嫡男・信忠に譲り、この日もそれぞれがその地で夜を過ごしたのだ。
これには万が一の時、防衛などを考えた上で守りやすい所にいた方が安全、という認識で宿泊場所を決めていたのだが、それ故にその防衛設備を楽々乗り越えることが出来る軍勢には、目標とする相手がどこにいるのかが分かっている、という弱点も併せ持っていた。
史実に言う「本能寺の変」という名の事件の通り、信長は本能寺にいたことは間違いがない。
そしてここで一つの疑問がもち上がる、『なぜ信長は本能寺にいたのか?』
一説には「明智がまとめてきた近畿地方の全軍を、本能寺で閲兵してその後中国地方の秀吉の援軍に向かうため」とするものがある。
また別の説には「公家からの招待を受け、朝廷の方に顔を出す用事があったので、普通に京都に滞在するためいつもの本能寺に泊まっていただけ、この際秀吉の援軍などは関係なし」というものもある。
実はどちらも納得できる一方で、わずかに矛盾が生じる。
信長の本能寺滞在理由・それは間違いなく京都で用事があったからに他ならない。
例えばそれが明智がまとめてきた軍を受け取りそのまま中国地方へ、ならば安土城よりも京都の方が確かに中国地方に近い、だが本能寺と言えば京都の町中に存在し、軍勢を連れてくる場としてはおかしい。
ましてや信長は以前にも「馬揃え」という催し物を京都で行い、荒れ果てた時代を過ごし、暗い雰囲気も漂っていた京都に住む町衆からは、久々の活気に満ちた催しだと称賛され、その名声を高めた。
しかしその一方、その「馬揃え」開催に絡む様々な諸問題を押し付けられたのが光秀でもある。
何より一番迷惑が掛かって文句を言ってきたのは、他ならぬ朝廷だった。
馬揃えに参加した武将たちは最後に京都御所へと進み、信長の財力と武力はこれほどのモノなのだと、京の町衆・朝廷の公家衆全てに思い知らせることが出来た。
しかしその時に問題があった。
街を練り歩く分には良いが、最後に京都御所まで進んできて、京都御所の庭の一角を占拠するばかりかその外まで軍勢で埋め尽くして、挙句軍勢が入り切らないためという理由で、庭の木々などを勝手に剪定してしまったりと、朝廷側は怒りを露わにして抗議を入れてきた。
さらに信長は以前にも戦術上必要な事として、京都の町を戦場にして焼いた事もある。
「馬揃え」時の朝廷からの抗議を身に沁みて理解している光秀。
さらに明らかに「馬揃え」とは違う軍装に身を固めた織田軍が、万を超える数で京都に迫った時、町衆を余計な不安と混乱に包む可能性もある。
そしてもう一点が信忠の存在である。
もし信長が畿内の軍勢を召集した上で毛利攻めに向かうならば、なぜ信忠まで京にいるのか。
信長が毛利攻めに行くのなら、むしろ信忠こそ代わって安土にいなければならないのではないか。
既に三ヶ月前に、信忠を総司令官として武田攻めを行ったばかりだというのに、今また親子が揃って毛利攻めに向かう必要性はあまりないのではないだろうか。
毛利が手強いという事を差し引いても、それなら信忠を安土に残して信長を総大将・光秀を副将という構成で、援軍を指揮すれば良いとも思える。
そういった事を加味すると、いくら信長の宿所であり要塞化されたとはいえ、あの明智光秀という男が本能寺という寺を、一万を超える軍勢の集結場所として選ぶのは無理があるのではないだろうか。
しかしそうなると、もう一方の説はすでに朝廷に煩わしさを感じている信長が、なぜ朝廷から呼ばれたからと言ってわざわざ行く必要があるのか。
信長の性格を考えると、使者を安土に寄越せ、くらいの事を言いかねない。
考えられる可能性としては「使者で済ませられる要件ではなく、是非とも信長殿ご自身と直接お話しされたい」などという形で、信長に京都まで来させたというもの。
信長の勢力下では治安の維持が最重要課題とされており、小銭一枚盗んでも死罪、というほどの厳しい罰則制度も設け、街中では家の戸締りをしなくとも大丈夫、というほどの安全ぶりだった。
それもあって東海を治める大大名となった家康が、二十人ほどの供しか連れずに、三河の地から安土、堺までの道程を旅できたのである。
そして信長も戦に関係のない事だからこそ、わずか100名程度の手勢しか連れずに安土城から京都まで来たのではないだろうか。
さらに織田家の重要案件に関わるものであれば、すでに家督を継がせた嫡男・信忠も同席させた方が良い、という判断で織田家の中枢二人が、揃って同時に京都にいたのではないだろうか。
明智光秀に密命を帯びさせ、同時に信長を本能寺に泊まらせることが出来る勢力、それはただ一つ。
そうせざるを得ない理由・その状況を仕込めるだけの影響力、自らが表に出ないでも済む様に出来るその権力。
全ての要素を兼ね備えているその存在が、大きく動いたその時、歴史の歯車が回る。
新しい時代へと回っていくその歯車が、もしわずかな人間のわずかな動き、その一挙手一投足でその回る角度を変えたなら、人は知らない内に違う方向へと流れていく事になる。
変えた本人も知らぬまま、本来回るべき方向へと回らず、違う歴史へと―――
光秀の前まで報告に来た兵は、頭を垂れたまま報告する。
「現在火の回りが激しく、本堂正面、奥の間及び書院に立ち入ること叶わず! また、火は変わらず燃え続けているため、焼け落ちるのも時間の問題かと!」
本能寺で奮戦した兵を討ち果たし、また近隣の宿で寝泊まりしていた別の兵が異変に気付き、本能寺までやって来た所を捕縛し、本能寺の門も京都の入口も見張りを置いて警戒している。
逃げ切れる訳が無い、一万を超える軍勢で囲んでいて逃げる術があるはずがない。
天に昇るか地に潜るか、そんな奇想天外な真似でもしない限り、この場からは逃れられない。
だが念のため、地に潜ることは出来なくとも井戸の中や建物の軒下などは捜索させるべきだろう。
「そして先程、突入していた足軽どもが奥の間にて、信長らしき男ともう一人が炎の中で横たわっているのを見た、と言っております!」
その言葉に、家老の斉藤利三が「おお!」と声を上げる。
馬上の光秀の表情は変わらない。
ただじっと燃え盛る本能寺を見つめ、黙して何も語らない。
それを横で見上げた秀満は、少しばかりの寂しさを味わっていた。
そんな顔をして黙るくらいなら、なぜもっと周りに本音を曝け出してくれないのか。
秀満は光秀の娘を娶ったいわば娘婿であり、身内である。
その身内にすら本当の事を明かしてくれるわけでも無く、ただ先日「上様を討つことと相成った、各々この事は絶対に口外してはならぬ、当日その時までに話題に挙げることも許さぬ、左様心得よ」とだけ通達してきた。
てっきり中国の毛利攻めのための、わずかな重臣たちのみの軍議かと思えばいきなり光秀の切り出してきた言葉がそれである。
あっけに取られ、誰も何も発することが出来ぬまま、光秀は淡々と語り続ける。
「思えば、我らは織田家の家臣として過分な褒賞に与かり、上様に対し奉り、粉骨砕身の努力を重ねてきたように思う…されどそれが織田家のため、ひいては朝廷・日ノ本のためと思い働いてきても、上様ご自身はすでに朝廷に、帝に尊崇の念を抱くことなく、軽んじておられる…なればこそ、今こそ我らは誤った道に進みし上様を誅し、真に忠義を全うすべき存在にこの命を捧げんと願う、異存ある者は名乗り出よ」
その言葉に、感情は籠っていなかった。
言っていることは確かに分かった、だからあの場では自分も含めた全員が頭を垂れ、光秀の意に従うという返事をした。
だが何であの時、自分はもう少し注意深く光秀を見ていなかったのか。
自らの義父にして主君である光秀を、こんな生ける屍のようなものに変えてしまったものに、秀満は怒りを覚えていた。
人知れず握りしめた拳から、血が滲みだして地面にポタリと落ちた。
すると別の兵がまた新たな報告を持ってきた。
先程の兵と入れ替わりに光秀の馬前の正面で頭を垂れ、声を張り上げる。
「先程本能寺より逃げ延びようとした女たちを捕らえておきましたが、いかがいたしましょう?」
「女? もしや乱暴などは」
「無論してはおりませぬ、見張らせている兵にも厳命しております! して、如何様になさいますか?」
報告に利三が口を挟むが、どうやら武士として恥ずべき行為はしていないようだ。
光秀は変わらず黙して、何の言葉も返しはしない。
色々と思う所もあるのだろう、と利三なりに気を利かせ、代わって兵に命じる。
「その者たちも巻き込まれただけであろう。 我らの狙いであった信長が死んだのなら、親元に送ってやるなり、金子を与えてやるなりして放してやれ」
その言葉を聞いて、兵はさらに深く頭を垂れて「はっ!」と言って立ち上がる。
その時、さも世間話のような口調で秀満は口を開いた。
「信長公と言えば。 お若い頃は女子のような衣装を着て、皆の前でおどけて踊っていた、などという話を聞いた事がありますな…つくづく変わった御仁だったようで」
その言葉に、それまで何の反応も示さなかった光秀の眼に、光が灯る。
「左馬助殿? 一体何の話を」
「待て!」
利三が訝しげに問いかけようとした言葉を、光秀の突然の声が遮る。
その突然の声にその場にいた全員がビクッと体を震わせる。
唯一の例外が側で立ったままの秀満だ。
光秀の馬前を辞し、利三から受けた命に従おうとした兵が驚いた顔で振り返る。
「念のためだ、女どもを一人ずつ連れてまいれ。 放してやるのは検分した後だ」
先程までと全く違い、光秀の眼には強い意志が宿っていた。
光秀の言葉に、慌てて兵は返事をして走り去る。
その様を見て、秀満はそっと息を吐いたのだった。
独自解釈の歴史観ですので、読んで頂いた上で納得の出来なかった方も当然いらっしゃったかと思います。
史実通りな部分はなるべく歪めずに行こうとは思いますが、自説展開部分に関しましては「こういうのもアリか」と思って頂けましたら幸いです。
今後は二日に一話、以上のペースでやっていきたいと思っております。
仕事の都合や自己編集の手間などが少なければ連日投稿も視野に入れておりますが、基本は二日に一話、を出来るだけ守ろうと思います。
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