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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の七 「足場固め」 その3

今回は家康です。

信長による織田家の話が終わりましたので、家康と徳川家の方に話を、という書き方にしてしまっておりますので、若干時間軸が前後いたします。

             信長続生記 巻の七 「足場固め」 その3




 信長が大坂城で織田家一門の今後を考えた人事を断行している頃、家康は船で淡路島へと向かっていた。

 四国の長宗我部家という脅威は、天正十年の本能寺の一件が起こる前よりも、さらに強大なものとなっている。

 本能寺の一件が起こる直前には、信長の今は亡き三男・信孝率いる四国遠征軍が、副将・丹羽長秀の指揮の下、長宗我部討伐に向かうはずであった。

 しかし明智光秀の謀反により、四国遠征軍を解体せざるを得なかった信孝たちは、それ以後は四国勢に対してなんら有効な手を打つことが出来なかった。

 さらに現在の織田家は再編成の真っ只中であり、とても軍勢を派遣できる余裕は無かったので、その間の代行戦力として徳川家康が自ら、防衛拠点としている淡路島の洲本城へと向かう事とした。


 信長は当初、家康が防衛用の戦力を向かわせると言った際には「忝い」と言いつつも、そこまで本格的な戦力を送り込むとは思っていなかった。

 四国と大坂を結ぶ淡路島、新たに本拠とした大坂城のいわば喉元に当たるその場所が、敵対勢力に奪取されたとなれば一大事である。

 だがそれでも、現在も淡路島には多少の防衛戦力は残っているため、家康自らが淡路島に渡海するとまでは思っていなかったのである。

 現在淡路島の防衛戦力を率いているのは、天正十年までは織田家家臣であり、羽柴家の与力として名を連ねていた仙石権兵衛秀久である。

 彼は本能寺の一件後は独立した羽柴家の家臣の一人として、淡路島を領する事を許され、対長宗我部への備えとして淡路島に留まり続けている。


 長宗我部家現当主・長宗我部元親は、土佐国を本拠とし、既に他の三国の大半を領するまでにその勢力を伸ばしている。

 対長宗我部で共闘する事となった三好家の残党など、反長宗我部勢力に合流する形で、仙石秀久は長宗我部元親の完全なる四国統一と、本州への進出を水際で食い止めている状況であった。

 それもなんとか持ち堪えている、という言葉がこれ以上なく似合うほど、反長宗我部勢力と長宗我部元親の軍勢とでは、その兵力と大将の器に差があった。

 『土佐の出来人』と言わしめる長宗我部元親は、初陣こそ遅かったものの、父を戦で亡くして家督を相続した後には、それまでの茫洋とした態度から一変、八面六臂の活躍を見せた。

 かつてはその容姿と態度から『姫若子』と揶揄された青年は、戦での目を見張る活躍ぶりから自然と誰もが『鬼若子』と言い換え、侮るような言い回しを改めたという。


 かつては信長と従属的な同盟を結び、四国制覇に突き進んでいた元親であったが、その勢力伸長具合は信長の当初の想定を超えており、信長はある種の危惧を抱いた。

 四国で彼と覇を競うに足る相手、治め切れる土地、家臣たちへの褒賞など、それらを総合的に鑑みた場合、果たして長宗我部元親という男は、四国を収めるだけで満足し切れる男であろうか、と。

 信長は独断で長宗我部の頭を押さえる事を決断、本領となる土佐国と隣国の阿波国南半分だけで満足して、以後は自分の指示に従え、と迫った。

 しかし元親はこれを拒否、従属する事で四国の四ヵ国内は切り取り自由、とされていた元親はこの約定違反に猛然と反発し、敵対姿勢を取った。

 だがそれこそ、信長の思う壺でもあった。


 元親がこちらの要求通り、一ヵ国半だけで満足して臣従するならば当然良し。

 もし敵対しても、こちらは極力戦力は温存しつつ、四国に残る反長宗我部勢力の後ろ盾となり、元親の四国制覇を少しでも遅らせるための足枷にする。

 これを判断する時期は非常に難しく、四国に残る反長宗我部勢力が、ある程度健在でなければ足枷としての役割を果たせない。

 だがその一方で長宗我部にあまり早い時期から従属を迫っても、みすみす一ヵ国半をくれてやるには惜しい器しか無ければ、却って自分にとって損となる。

 なので畿内を中心に敵対勢力をあらかた片付け、多方面同時侵略戦を行う際にも、四国はかなり後回しの扱いであった。


 元親は四国制覇の野望を貫こうと躍起になり、対する反対勢力は自らの領土奪回と、長宗我部氏による四国制覇を断固として阻止しようとする。

 そこが信長の付け込む隙となっていた。

 かつては信長に敵対していた三好家であろうと、長宗我部の四国制覇の足枷となって役に立つのなら、後ろ盾になるという名目で対長宗我部用の駒として使えるようになる。

 三好家の側からしても、自分たちの本領を取り戻す手助けをしてくれるのなら、不倶戴天の敵であった信長の力を借りる事も厭わなかった。

 四国における反長宗我部勢力は、信長にとって失っても惜しくない捨て駒であり、長宗我部元親という将の器を計る、叩き台という役目も背負わされていた。


 これは中国地方における、対毛利家用に捨て駒とされた、尼子家の残党と同じやり方である。

 尼子家の血を引く男児を御輿として担ぎ上げ、尼子家再興を願って信長に助力を請うた山中鹿之助幸盛は、上月城の攻防戦で捨て駒となった。

 天下の情勢を睨んだ戦略的思考ではなく、只々己の主家の再興を願うという、信長からすれば視野が狭く、目の前の戦とその直後の事しか頭に無いような、美しくも滑稽な武士の生き様。

 だが目の前の戦に勝っただけの、一瞬の勝ち鬨に価値は無い。

 たとえそこにあるのが純粋な忠誠心であろうと、山中鹿之助の頭にあるのは『尼子家への忠誠』であって『織田家への忠誠』ではない。


 ならば例え信長の助力で尼子家の再興が成ろうと、その後の情勢によっては平気で寝返りや裏切りを行い、信長に牙を剥かないとも限らないのが戦国の世だ。

 戦国の世の恐ろしさ、厳しさを身を以て知り尽くしている信長が、自らと織田家に忠誠を誓わぬ存在に、忠誠に代わる『利』を求めるのは当然であった。

 『利』の無い助力など、後に己の首を絞めるだけの愚策に過ぎない。

 ならば『仇で返されるかもしれぬ恩』を売るよりも、あくまで自らの手駒として使えるだけの『利』をもたらさなければ、利用するだけの価値も無い。

 結果として山中鹿之助は、『毛利家侮りがたし』を信長に実感させるための捨て駒として使われ、後に吉川元春によって捕らえられ、そして殺された。


 対毛利家の中国地方方面軍の司令官を担っていた秀吉も、あえて最前線の上月城に旧尼子家臣を入れ、毛利家に対する備えとして彼らを使った。

 未だ若い尼子家の血を引く男児・尼子勝久を大将とした尼子家臣団は、勇将・山中鹿之助の指揮の下で、大軍で襲いかかって来る毛利家と、熾烈な戦いを繰り広げた。

 その武勇を惜しんだ秀吉は、すぐさま上月城へ援軍を向かわせようとしたが、戦略上の重要拠点・三木城にいた別所長治の謀反鎮圧を信長に命じられ、見捨てざるを得なかった。

 確かにその武勇と忠誠心は目を見張るものであった山中鹿之助だが、その忠誠は尼子家に向かってのみであり、そしてその武勇は下手をすれば自分に向けられるかもしれない。

 あくまで合理的な判断を下す信長は、尼子家の事情を斟酌するよりも、『天下布武』のための行動を優先させたのだ。


 対毛利には尼子家の残党を、対長宗我部には三好家の残党をそれぞれ利用し、まさに『敵の敵は味方』の理論で使い潰せる駒を用意する。

 労せずして兵力と味方を増やし、たとえ全滅したとしても自らの軍勢には大した痛手とならない、合理的な信長らしい戦法と言えた。

 そうして敵対勢力の力を少しでも削ぎつつ、『織田家』の戦力でもって本格的な戦いを挑む。

 実は長宗我部元親も、この信長の狙いに感付いてはいたのだ。

 だが既に三好家をはじめとする各抵抗勢力には織田、あるいは毛利の後援が入っており、それらを懐柔する事は不可能であった。


 結果として元親は全ての抵抗勢力を潰す、武力制圧の道を取る事となった。

 中国地方に覇を唱え、九州では今一つ攻めきれていなかった毛利家は、瀬戸内海の完全掌握を目論んで、四国にもその手を伸ばしてきていた。

 織田と毛利、この二つの大勢力の後援を得たそれぞれの抵抗勢力は、元親を大いに苦しめた。

 元々物量も装備も、織田・毛利と長宗我部では大きな差がある。

 四国全土を手にしていた後ならば、元親側にも対抗する方法はあったかも知れないが、織田と毛利を相手取った代理戦争の場と化していた四国では、それは望むべくも無かった。


 ようやく四国の半分以上を手にした元親であっても、抵抗勢力の完全駆逐、にはまだまだ時間が必要だった。

 毛利家とは対織田での共闘を結ぶ、などという外交を用いた選択肢を取れなかった元親は、本能寺の一件で命拾いをした時から二年近くが経過した今も、四国を統一出来ずにいた。

 長宗我部元親は四国制覇を成し遂げるために、自らの頭を押さえようとする存在に対し、徹底的に抗い続けた。

 結果として信長の地位に取って代わっていた羽柴秀吉とも敵対姿勢を露わにし、柴田勝家や徳川家康など、秀吉と敵対した勢力と次々に同盟を結び、秀吉を背後から脅かし続けた。

 そしてその勢力は、ゆっくりとではあったが念願の四国制覇に、一歩一歩近づいてはいた。


 元親が四国の抵抗勢力を駆逐し、完全な四国統一を果たすのが先か。

 それとも四国の外から入って来た大勢力によって、長宗我部家が潰されるのが先かという状況で、四国へ向かう家康は一つの決断を下したのだ。

 すなわち、信長がかつて行おうとした大兵力による、一気呵成な制圧戦。

 そのためには淡路島を中心とした防衛線を展開し、守りを固めるだけでは成し得ない。

 むしろこちらから積極的に四国へと上陸を果たし、未だ四国の中で抵抗を続ける反長宗我部勢力をまとめ上げ、長宗我部元親へと決戦を挑む。


 家康は大坂を発する前に、事前に服部半蔵本人も含めた伊賀の忍びを多数四国へと渡らせ、地形や情勢をつぶさに調べ上げさせている。

 四国はこちらにとって未踏の地、対して向こうは生まれた時からその地で育ち、ましてや領地とした所などは地形もしっかり調べているはずだ。

 となればどうやった所で「地の利」は向こうにある。

 どこに川が、山が、湿地が、平原が、丘が、道が、森が、そして城や砦が。

 それに川や湿地などはどれほどの深さがあるか、また広さはどれくらいかなど、調べるべき点は数限りなく存在する。


 さらに四国の反長宗我部勢力とも繋ぎを付け、場合によっては連携して波状攻撃を仕掛けるなどの必要もあるだろう。

 戦う前に「地の利」による利点の差を、少しでも埋めておかなければ戦にもならない。

 なので淡路島を一旦経由して、ある程度の情報が集まってから四国へと上陸し、長宗我部に対抗するつもりであった。

 そのため家康は大坂から領国に文を出し、領国の統治や守護のための兵以外のほとんどを、四国へと向かわせる事にしたのである。

 その数はおよそ一万五千、急遽動員する事になった兵力としては、かなりの軍勢であった。


 率いる総大将は無論徳川家康本人であり、付き従うのは本多忠勝、榊原康政、井伊直政、大久保忠世、鳥居元忠、本多正信などである。

 浜松には家康の代理として酒井忠次が戻り、北条や真田、上杉などがこの機に乗じて不穏な動きを見せないように、石川数正が外交による牽制を行っていた。

 さらにそれぞれの国境沿いには、本多重次や大久保忠佐などの有能な譜代の将が即座に動けるよう、それとなくそれぞれの城へと入っている。

 少なくとも上杉は事前通達無しの奇襲を仕掛けてはこないだろうが、北条の方は分からない。

 何しろ一年半前に起こった甲斐・信濃争奪戦の『天正壬午の乱』において、北条は最も実入りが少なく、徳川や上杉に比べて割を食ったと言える有様だったからだ。


 もし動くとすれば北条、あるいは現時点では弱小勢力ながらも、常に油断のならない動きを見せる真田である。

 当主の真田昌幸は、父は真田幸隆という武田信玄の軍師の一人として名を連ねた古強者であり、当の昌幸も若い頃は、その武田信玄の小姓として薫陶を受けた者である。

 さらに長篠の合戦で兄二人を失い、三男で武藤家に養子に出された身でありながら、実家へと戻って真田家を継いだという経歴を持つ男でもある。

 徳川・上杉・北条の緩衝地帯とも言うべき沼田の地にあって、目敏く情勢を察しては己の勢力を伸ばす機を虎視眈々と狙うという、極めて不気味な存在であった。

 ましてや今の天下の情勢は、信長の再臨という一大事件によって大きく揺れている。


 どのような事態が起ころうとも、それを自らの勢力伸長の機会に変える、そんな強かさこそが真田昌幸の恐ろしさの真骨頂である。

 そして今、家康は九鬼水軍による護衛を受けながら、一路淡路島へと向かっている。

 徳川家当主・家康が遠く離れた地にいる、と知った真田昌幸はこの機を狙って動き出す可能性がある。

 いや、むしろ動く可能性の方が高いのではないか、と家康は見ている。

 だがどちらに向かって動くかが分からない。


 信長が本能寺で姿を消すまでは、関東を任されていた滝川一益に一度は従っていた真田であり、信長再臨となれば大人しくしている可能性もある。

 だがそうなれば真田単独で動くか、いや恐らくは北条の動きに呼応するか、上杉の動きに合わせたものとなるだろう、と考えた。

 もし上杉がこちらと袂を分かったなら、そちらに付いて徳川領に攻め込む可能性も高い。

 だが上杉が徳川と歩調を合わせるなら、それに追従するか北条側に付いて徳川・上杉対北条・真田の構図となるか。

 家康にとって今回の四国への軍勢派遣は、いくつもの大きな賭けを同時に行ったものでもあった。


 船の揺れなど気にならない程、家康は思考の海へと沈んでいた。

 そんな家康の乗る船には、本多忠勝をはじめとする重臣たちが集まって軍議を開いていた。

 議題は言うまでも無く四国の長宗我部に対して、どのように戦うか、というものである。

 出来れば半蔵からの詳細な報告を待ちたい所ではあったが、ここは船の上であり、ましてやまだ四国に忍びを放ってから日が浅い。

 なのであくまで大筋の所の話を詰める、といったものだ。


「ついこの間までは、我ら徳川と長宗我部は対羽柴の共闘を誓い合っておった……が、此度は敵となる…今までの信長殿・秀吉殿への態度を見る限り、長宗我部元親という男は、戦わずして軍門に降るような者ではなかろう…よって調略や懐柔は一戦した後、という事となる。 異論は無いな?」


 思考の海から浮かび上がった家康の前には、これから向かう淡路島、そして四国の現時点での見取り図が置かれ、重臣たちが一堂に会していた。

 その者達の視線で家康が言葉をかけるのを求められている、と察して家康は軍議の口火を切った。

 言い終わるなり、家康が居並ぶ重臣たちの顔を順繰りに見回す。

 一人一人に目が合い、それぞれが頷きを返す。

 全員が頷きを返したのを見て、家康は口元に笑みを浮かべて続ける。


「お主らの気概、誠に嬉しく思う。 されば此度の戦に関し、わしの真意をお主らには伝えておこうと思う」


 家康の『真意』という言葉を聞いて、眉をひそめるような者はこの場には居ない。

 なぜなら家康の語る本音・真意などは、彼らにとって絶対の命であり、それを聞きもしない内から異を唱えたり、疑問を投げかけるようでは『三河武士』とは言えないからだ。

 家康のためなら命を投げ打つ覚悟、などと言うのはこと『三河武士』においては誇りでも何でもない。

 むしろ命を投げ打つ覚悟も無しに、家康に仕える事が不忠と言える。

 家康が己の腹の中にある本音を曝け出すと言うのなら、それが秘する必要のある事柄なら、たとえ殺されようとも墓の中まで持って行く覚悟で聞かねばならない。


「此度の四国遠征……浜松からはあまりに遠く、また仮に攻め取ったとしても統治には難儀すること請け合いである……されど今わしはそれをするためにここにおる…それは何故か、分かる者はおるか?」


「……徳川の、武威を示すために御座いますか?」


「ほぅ、分かるか? なかなかに鋭くなったのう直政よ」


 家康の言葉に、挙手をして口を開いたのは井伊直政であった。

 居並ぶ重臣たちの中でもまだ若く、家康の覚えもめでたい青年である。

 直政の言葉に、家康の口角が少し上がる。


「では何故徳川が武威を示す必要があるか、それも分かるか?」


「それは……殿が織田殿を頂点とするこの勢力の、名実共に副将であることを諸大名に知らしめんが為、と…」


「ふむ、無論それもある……が、それだけではないな……他の目的もあるがそれも分かる者は?」


 直政にはとりあえず及第点をくれてやるが、完全な正解ではない。

 完全な正解に至れそうな者がいない事を見計らって、家康は再び口を開く。


「わしは信長殿の求めに応じ、これまで幾度も援軍を出してきた……此度もそれの延長よ。 だが無論それだけではない……徳川の武を示す事で諸大名が自然とわしに従うようになれば、信長殿が去った後には問題なくわしが天下を差配出来るようになる……いわば今はその足場固めの時期という事よ。 そこに行くまでには餌も必要でな、此度の四国遠征で得た領土は信長殿の差配に任せ、先に貸しを作っておく」


 家康がニヤリと笑うと、そこでようやく居並ぶ重臣たちがハッとした顔をする。

 家康の狙いに、ようやく合点がいったのだ。


「徳川が四国は領しても益は少ない……現在再編中で家臣に分け与える土地はいくらでも欲しい信長殿ならば、このような地でも上手くバラ撒く事も出来ようがな……わしは天下をまとめ上げるために真っ先に身を粉にして働き、それで得た物に執着せずに手放す度量を持ち、それでいて戦上手である…どうじゃなお主ら…このような人物を前にして、真っ向から噛み付いてくる者がおると思うか?」


「……殿の深謀遠慮はよく分かり申した…されどこの度の戦は、北条や上杉が徳川領へ侵攻するまたとない機会となっておりまするが…?」


「来たら来たで迎え撃たせる、その為の配置も済んでおる……上杉は先の会談で見る限り、直江兼続が失脚でもせねば敵対はするまい…そして北条や真田がこれを機に攻めてきたとなれば、上杉は我らに恩を売るまたとない機会となろう…こちらが頼みもせぬ内から、向こうが『義』をもって助けに入ってくれればもっけの幸い、であればこちらもそこまでの被害は出すまいて」


「…しかしせっかく攻め取った土地を、みすみす織田殿にくれてやっては下の者らが不平を漏らす恐れもござりますが…」


 将来の布石のためとはいえ、現在の国土防衛に対して一抹の不安がある、と忠勝からの意見が出た。

 しかしそれも笑顔のまま、家康は空中で指を動かしながら説明する。

 その指の動きと家康の言葉に忠勝が頷くのを見て、家康は己の考えにさらに自信を得た。

 すると今度は鳥居元忠が自らの顎を撫でながら、難しい顔で意見を出した。


「そこは耐えてもらうしかあるまい。 それにな…信長殿に引き渡したとて、この地を宛がわれた者からすれば間接的に徳川からもらった、という事にもなる……その者にも後々恩を売れようぞ?」


 そう言う家康の眼は、少しばかり意地の悪い輝きが灯っている。

 後年『狸親父』と揶揄された、家康の謀略の才が顔を覗かせている。

 だがそれを、卑怯・卑劣と蔑むのはお門違いである。

 結果として史実では家康は戦乱の世に終止符を打ち、後の世の禍根と成り得る豊臣家を滅ぼす事で、それから二百五十年以上もの長きに渡って、太平の世を築く礎を作ったのだから。

 車座になって家康を囲み、それを支える重臣たちは皆が皆、家康の意見に頷いて頭を垂れた。


 屈強にして揺るがぬ忠誠心を持った者達を率いて、徳川家康は淡路島へと上陸した。

 淡路島はその防衛上の観点から、引き続き仙石秀久が領するよう通達が出されていたため、信長再臨・それによる配置換えの混乱とは無縁の土地であった。

 ただ大坂城という、それこそ海さえ渡れば目と鼻の先にある地に信長が姿を現したと聞かされ、仙石秀久は落ち着けぬ日々を過ごしていたらしい。

 徳川家康が淡路洲本城を訪れた際には、城門まで出向いて一通りの挨拶をした後、信長様へのお目通りが出来ずに悔しいという愚痴を聞かされ、家康は苦笑しつつそれを宥めた。

 さらには『今回の戦で首尾良く行けば、淡路を守り抜いたそなたの功は大なり』と、目の前に餌をチラつかせる事も抜け目なく言い含めておく。


「わしの方からも信長殿には口添えをお約束致す……頼りにしておりますぞ、仙石殿」


「ははぁ! 四国攻めの折の道案内は、某にお任せあれッ!」


 家康の言葉にすっかり気を良くした仙石秀久は、日焼けした浅黒い顔に満面の笑みを浮かべたのだった。

次回はこの作品の敵役、黒田官兵衛の登場です。

この作品においては新キャラ扱いになる人物が二人ほど登場いたします。


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