信長続生記 巻の七 「足場固め」 その1
第一部投稿時よりご覧頂いている皆様方におかれましては、大変お待たせいたしました。
この度、一ヶ月以上のお休みを頂いて再開の運びといたしますが、実はここで少々残念なお知らせというか、お詫びを申し上げなくてはなりません。
この一ヶ月で体調をしっかりと復調させ、仕事の方も一段落かと思いきや、家族が相次いで体調を崩し、あるいは怪我をして、仕事の方も今一つ落ち着かない状況が続いておりました。
さらにはパソコンが時折不調になり、ついには先日スマホまでおかしくなるという不幸に見舞われ、執筆も遅々として進まなくなってしまいました。
気分転換で書き始めた別作品もあまり気分転換ともならず、現在どうにも色々な事が上手くいかない状況に陥ってしまいました。
ですがここまで来た以上、途中で放り捨てるような真似だけはしたくはありませんので、まだほんの数話しか書き進められてはおりませんが、少しずつでも更新していきたいと思います。
状況が改善し、執筆ペースが以前のような形になれば、更新も定期的に行えるようになると思います、それまでは不本意ながら不定期更新とさせていただきます。
ふがいない状況を長々と語る事になってしまい、汗顔の至りではございますが、拙作『信長続生記』を楽しんで頂けたならこれに勝る喜びはありません。
現在書き上げております「その4」までは早めに更新いたしますので、その続きは何卒気長にお待ち頂きますようお願い申し上げます。
信長続生記 巻の七 「足場固め」 その1
天正十年六月、京の本能寺にて稀代の英傑・織田信長は、家臣であるはずの明智光秀に突如襲撃を受け、焼け落ちる本能寺の炎の中に消えたとされている。
戦国時代を象徴する『下剋上』を成し遂げ、頭角を現しやがては畿内の覇者として君臨した男が、その支配力を日ノ本全土へと広げていくその途上で、奇しくもその『下剋上』により姿を消す事となったのである。
世に言う『本能寺の変』、後世多くの識者たちが様々な推論、新説を唱える一方で、この事件に関して絶対不変な事実がある。
それは『信長の遺体が見つからなかったこと』である。
故に明智光秀は、信長を討ち取ったという証拠を挙げることなく、後に秀吉に敗れ、皮肉にもその首は討ち取られた証拠として、京の一角に晒される事となった。
信長の遺体は本能寺の本堂が焼け落ちた際、一緒に燃えてしまったのではないか、という説もある。
実は信長は密かに脱出し、生き続けて世の流れを傍観していたのではないか、という話もある。
はたまた奇想天外に、どこか別の場所へ旅立った、名を変えて新たな人生を謳歌した、などの物語も存在している。
どれが本当か、どれも作り話か、ただ一つ確かな事は『その後の歴史において、織田信長を名乗る人物は世に現れず、歴史上の英傑としてその名を深く刻んだ』という事である。
だがもし、彼が他の誰もが気付いていない事に気付き、そしてあの本能寺から生き延びていたのなら、世の中は果たしてどう変わっていたのだろうか。
歴史という時間の流れは、決して逆流などはしない。
起きてしまった、過ぎてしまった事はすべからく「過去」であり、これから起こり得る事、この後の予測し得るものはすべからく「未来」である。
『本能寺の変』によって信長は消えた、これは例え彼が生き延びていようと死んでしまっていようと、公的に彼の歴史はここで幕を閉じ、多くの者にその影響を残して消え去っていったのだ。
それが既に歴史上に存在する「過去」であり、過ぎてしまった「事実」である。
だがそれでも、織田信長という稀代の英傑が生き延びて、ある目的のために再び表舞台へと舞い戻ったのなら、世の中とそこに生きる者たちにどのような影響を及ぼしたのだろうか。
これは起きてしまった「事実」を捻じ曲げ、それによって生じ得る新たな「過去」を模索する物語。
日本という国の歴史上、最も長く荒れ果てていた時代、だからこそ多くの英雄が生まれ出でた時代の、それでもなお燦然と輝ける男の人生の続きを描いた物語。
天正十二年四月、この世に生を受けて満五十年となる節目の年、本来であればその時を迎えていたとは記されていない齢を重ねた信長は、天下人の象徴たる大坂城にいた。
自らが造り上げ、織田家の繁栄の象徴として築き上げられた安土城は、本丸が焼失したまま未だ建て直しが行われておらず、信長はそちらへ入城する事を拒んだ。
むしろ石山本願寺との開戦前から、この大坂城の立地には目を付けていた信長は、多分に秀吉の趣味が入った内装ではあったものの、この大坂城を自らの新たな本拠とする事に決めた。
こうして大坂城を新たな拠点とし、信長は主立った者達に誓紙を提出させ、ここに再び統治者として君臨した。
その過程で信長は、表舞台に返り咲いた大坂城での一件時には、その場に居合わせなかった者も多く招聘し、場合によっては一人一人と面通しをした上で忠誠を誓わせた。
だがその一方で、信長がその存在に渋面を浮かべさせた存在がいた。
自らの弟である長益、さらに息子である次男・信雄である。
彼らが自らの城で信長の再臨を聞いた時には、最初は信じようとはしなかったものの、後にそれが事実と分かって大いに喝采を挙げた。
信長は息子である信雄と、それに仕えていた長益を大坂に呼び付け、招かれた二人は大急ぎで大坂へと馳せ参じた。
羽柴秀吉の台頭、それは織田家の凋落とは切っても切り離せぬものであった。
秀吉が上れば上る分だけ、信長無き織田家は段々と地位を下げていった。
かつては『天下布武』を掲げ、天下第一の勢力として日ノ本全土にその名を知られた織田家であったはずが、秀吉に取って代わられた後は日を追うごとに権勢を失っていった。
かつての主家であっても、実力の無い上役が実力と野心を兼ね備えた下の者に追い落とされる、それが戦国の世の下剋上の本質である。
信長とてかつてはその下剋上を成し遂げ、徐々に頭角を現しついには『天下人』と呼ばれるに相応しい地位へと上り詰めた。
それと同じことを秀吉はやっただけであり、たとえ感情による恨みや妬みはあっても、それを声高に叫ぶ事など出来はしない。
叫んだところですでに相手は自分たちよりも遥かに多くの兵を従え、有能な将を数多く抱え、莫大な富でもってこちらを圧倒している。
結局生き残りを図ろうと思えば、頭を垂れて服従の道を選ぶ以外になかった。
それが世の理であり、時世というものだ。
だがそれを感情のままに否定していた男がここにいる。
他でもない、尾張から伊勢などに跨る百万石の領主・織田信雄である。
長男にして嫡男、既に信長から家督も譲られ、将来の織田家を背負って立つことが決まっていた兄・信忠は京で腹を切った。
そして自らの分も弁えない愚かな弟、三男・信孝も既にこの世にない。
秀吉の養子となっていたが、秀吉が新たな『天下人』でなくなった今、今更一度養子に出て名乗りも「羽柴秀勝」となっている四男が、まさか自分を差し置く訳が無いと勝手に思い込んでいる。
彼は自らも一度は北畠家へと養子に入り、「北畠信雄」であったという事を忘れている、いや、都合の悪い事は既に頭から消し去っている。
今の自分は「織田家後見人・織田信雄」である、という考えが彼の頭を占めている。
だからこそ、信長が生きていたという事は彼にとっては大問題であると同時に僥倖であった。
信長が死んだと信じてしまっていたからこそ、勝手に織田家の次期当主を決めてしまっていたが、信長が生きていたのなら正式に「織田家次期当主」を自分に指名してもらえるはずだ、と思い至ったのだ。
まずは生存・再臨の祝いを述べ、織田家の次期当主を勝手に決めたのは羽柴秀吉だと弾劾し、その上で信長が認めた新たな『織田家次期当主』は自分であると、宣言してもらわなければならない。
父上の事だから、自分がいない間に勝手な事をしたとを怒るかもしれぬ。
だがそれは詮無きこと、悪いのは全てあのサルなのだ、わしは何一つ間違いなど無かった。
思えばあの清州で、甥である三法師が『織田家当主』として決まって良かった。
これで織田家総帥である父上がいない間に決まった事など、全て無効という名目で新たに自分が『織田家次期当主』に指名してもらえる目が出てきた。
父上の掲げる『天下布武』の大事業を受け継ぐのは名実ともに自分しかおらぬ。
父上の一時的なお怒りを、お叱りを受けるのは仕方ない、だがその後に待っているのは紛れもない『天下人』の地位だ。
なんといってもあの『織田信長』の後継者だ、誰も文句は言えぬ正当性がある。
もはやわしの人生は順風満帆、誰も彼もがわしに平伏し、朝廷でさえ軽んずることは出来ぬ。
長益の叔父上には天下人補佐を命じてやろう、それでどんなうつけであろうと、天下を差配するのが織田家であると理解出来るはずだ。
うむうむ、父上に再びお会いするその日こそ、我が人生において最も佳き日となるであろう。
先年には待望の長男にも恵まれた、この子は後の天下人ぞ!
一方の長益は信雄ほど楽観的には構えていなかった。
確かに兄である信長の復活は、自分だけでなく織田家全体で見てもこの上ない僥倖と言える。
『織田信長』という稀代の英雄ただ一人の存在が、織田家をここまで繁栄させたのだという事は、織田家の人間の一人として当然理解している。
だが信長という人物は合理主義者でもあり、能力の低い者にいつまでも高い地位や大きな力を持たせておくとは思えない。
そして自らが仕える信雄という人物は、お世辞にも能力が高い有能な人物とは言い難い。
信長の息子である以上ぞんざいな扱いは受けないだろうが、それでも今ある領地が減らされる、もしくは実質信長の直轄地に編入される、くらいの事は起こり得る。
実質的な支配者が信長に代わり、領主であったはずの信雄は城代や代官に格下げ、自分の地位もそれに伴う格下げとなる可能性はある。
確かに織田家の前途は洋々、その中の一員である自分にもその恩恵が来ることは間違いない、だが何の前触れもなく自らの実入りが減る可能性がある、というのはやはり嬉しくない。
兄上再臨の祝賀の一環として、自分にも別途の領地が与えられ、畿内に十万石など与えられたりはしないだろうか。
出来れば以前からのめり込んでおる茶の湯に、より一層の時間と金を惜しみなく注ぎ込みたいものだ。
長益は決して無能、という訳ではないが趣味に没頭する時間を何よりの至福、とする男であった。
それ故に信長生存時にはその血統による恩恵に預かり、信長の所有した名物なども多く目にしていた。
信長は茶の湯とそれに伴う名器の価値を認め、さらにそれを高騰させた。
茶の湯は今や上流階級に位置する者にとって、なにより欠かせぬ嗜みとなっており、名器と呼ばれる茶器の所有は、そのままその人物の格すら上げてしまうほどだ。
そうする事で、信長は家臣たちにも「これが素晴らしい」という一種の洗脳でもって、領地や金品以外での新たな「褒美の枠組み」を作り出した。
領地も有限、金品を与え続けては自分が破綻する、だが家臣も褒美が無しでは付いてこない。
結果として「茶の湯」という新たな価値観で家臣を洗脳し、その価値を押し上げる事で誰も彼もがそれを「尊い」と思い込ませる、という集団催眠にかけたのだ。
こう言ってしまえば悪辣な手法と思えるが、実際はこれは素晴らしい統治者の知恵であった。
これによって現在まで続く「茶道」が生み出される土壌が出来、荒んだ時代に新たな文化的価値観を生み出し、さらには「茶の湯」にまつわる様々な作法を覚える事により、粗野な振る舞いをする武士が減ったのである。
そして当然信長自身も「茶の湯」を重用し、名物茶器を所有していた商人たちが涙を流すほど、名物と呼ばれる茶器を金と武力に物を言わせて、いわゆる「名物狩り」によってかき集めたのだ。
そのかき集めた名物茶器は、家臣たちに褒美として下賜されていったが、その前に一旦は信長所有となっていたため、織田家一門にして信長の弟である長益は、それらを目にする機会を得た。
それによって長益は、兄である信長が予想もしていなかった程、「茶の湯」とそれに伴う「名物」に魅了されてしまったのだ。
元々が戦よりも内政に向く性格であったためか、彼は戦場に出ても槍を振るうどころか、その血統と立場のために、前線にすらロクに出た事が無い。
一方で城内において、その血統と立場でもって出来ぬ事などほとんど無いと言っていい。
自然と彼は、信長の所有していた名物を眺める時間が増えていった、それを至福の時間としてしまうほどに。
自分にとって至福の時間を提供してくれる、その大元を作ってくれた信長には感謝してもし足りない。
だから今回の話は長益にとっても非常に喜ばしい事だ。
信長が本能寺で姿を消してから二年弱もの間、信長の所有していた名物は散り散りになり、しかもあの一件の直前で行った「名物狩り」で手に入れた物も、ほとんどが本能寺と共に消失した。
確かに己の命が惜しい事態ではあった、己を助ける為なら本来行うべき行動すら打ち捨て、遮二無二命からがら逃げ延びる事となった。
だがあの時からずっと、彼はあの至福の時間をもう一度、と思いながら生きてきた。
かつてのような至福の時間は、信長あってのものであった事に否が応にも気付かされたのだ。
信長が消えても、信長の作り出した「茶の湯」の価値観は消え去りはしなかった。
かつて信長が行った「名物狩り」は、信長という圧倒的な存在感が持つ、財力と武力を背景にし、なおかつ戦国に生きる商人たちすら屈服させる、その行動力があったからこそ成し得た行いだ。
間違ってもその弟であるからと言って、長益程度の男に出来る所業ではない。
自らの財力や、信長がいた頃からの伝手を頼っても、彼の欲求が満たされるだけのものを手に入れることは中々出来なかった。
信長再臨、これが果たして彼にとって吉と出るか凶と出るか、それは大坂に行ってみないと分からない。
だがもし吉と出たのなら、あの至福の時をもう一度、さらに自らが自由にできる金が増えたなら、今度こそ自らの手であの至福の時間を作り上げよう。
名物が所狭しと並べられた、自分だけの宝物庫を好きなだけ眺めていられる時間を。
信雄ほど自分の立場を楽観視している訳ではない、だがそれでも、あの至福の時間が今一度体験できるのなら、信雄がどうなっても構わないから自分だけは、とすら思えて来てしまう。
期待と不安、欲望と執着、様々な感情を胸に滾らせながら、長益は先を進む信雄に続いて、大坂城の正門をくぐった。
信雄と長益が大坂城に到着した頃、一足早く信長から呼び出されていた織田信包は、信長から二人の扱いについて、相談を受けていた。
だがそれは「相談」という体ではあるものの、信包からしてみれば「通達」に等しいものであった。
そして信長は、兄は本気なのだ、と信包は確信した。
なるべく音がしないように、それでも思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった信包は信長に平伏して「承りました」と了承の返事を口にした。
信包は信長再臨の際、領国である伊勢にいた。
それと言うのも、徳川家康は和睦締結のために大坂に向かっては来るが、信雄は尾張から動こうとはしなかったためだ。
もちろん動かぬように秀吉があの手この手を使って、釘を刺したのもあるが。
そしてその際、信包は信雄とも領地が近く、いざという時には信雄を制止し得る数少ない存在であったため、軽挙妄動に走りかねない信雄の監視のため、信包は伊勢で万が一に備えていたのだ。
信包とて、いくら信雄であろうとそこまで考え無しではないだろうとは思ってはいても、こちらの予想外の、さらに下の下と言える行動を取りかねないのが、信雄という男だとも思っている。
そのため信長が再臨したと聞かされた時には、まさかとは思っても「あの兄上ならば、もはや何をしようと驚かん」と、妙に達観した冷静さを発揮してしまうと同時に、「信雄の予想外の奇行は、あの兄上の血を曲りなりにも変な風に継いでしまったからか」と変な納得までしてしまったほどだった。
もちろんそこまで考えた後で、自分にもそれと同じ血が流れていると思い至り、一人頭を抱えて途方に暮れた信包である。
なんにせよその場にいなかった者たちの中で、唯一と言っていいほど信長の生存を詳しく調べもしない内から、信じてしまっていた男が信包であった。
そしてすぐさま大坂に居るはずの信長に向かって文を書き、それを送った所即座に早馬で呼び出しを受け、慌てて城を発してみればやはり信長は生きており、以前と変わらぬ迫力と悪ガキの様な笑みを浮かべて信包を迎えた。
喜び・驚き・安堵という感情もあるが、とりあえず「お帰りなさいませ、兄上」と深々と頭を下げると、「うむ」と比較的機嫌良く返され、信包は軽く肩をすくめた。
だがその後で信長から聞かされた話に、信包は眉根を寄せ、顔を引きつらせ、口を半ば開けたまま絶句し、終わる頃には全身びっしりと汗をかく羽目になった。
本能寺から今日に至るまでの経緯と、南蛮国という新たな、そしてとてつもない脅威。
小早川隆景の証言により、南蛮国の脅威はより信憑性を伴って、危機感を募らせる事となった。
また、それまではあくまで信長の妄想として片付けられかねなかったこの考えは、南蛮国に船で連れて行かれる九州の民草がいる、という具体的な証言でより真実味を帯びさせる事となった。
持って生まれた性分か、とにかく結論や事実だけをズバズバ言い放つ信長に、側に控えた蘭丸がその都度補足説明を入れる事で、信包にも南蛮国の脅威を理解することが出来た。
その上で、信長は信包に尋ねた。
「三十郎(信包)、正直に申せ。 三介(信雄)や源五(長益)に、南蛮を相手取るだけの気概と才覚があると思うか? 遠慮はいらぬ、思うところを全て申してみよ」
信長の言葉に、信包は一瞬言葉に詰まった。
ここで彼が信雄を擁護するような発言をすれば、おそらく信長は「正直に言えと申したはずだ」と激怒するだろう。
だがだからと言って、本人の目の前でその息子をけなすのは気が引ける。
ましてや信雄は自分の甥、さらに長益は信長と自分、二人の弟だ。
数秒ほど躊躇ってから、信長の視線の圧力に負けるように、信包は口を開いた。
「されば……彼の者たちでは、南蛮国を相手取るにはいささか分が悪いかと…」
これでもかなり控えめに、言葉を選んだ日和見な意見である。
そしてやはり信長もそう思ったのか、視線の圧力と放たれる威圧感がさらに増す。
ビクリと身体を震わせ、その視線から逃げるように信包は平伏する。
だがそんな信包を逃がさず「誰も頭を下げろとは言うてはおらぬ」と、声だけは平坦に言い放つ。
信長の顔を、眼を直視出来なかったからこそ平伏して逃げた信包であったが、それを許さない信長は「今一度言え」と、再度信包の意見を求めた。
「さ、されば言上仕ります! 三介殿や源五に任せては、恐らく敗北は必至! それに聞く所によると、源五はこの所『デウスの教え』にも興味を示しておる様子。 兄上の申される南蛮の脅威を知って、これまでの己の好きな事にのみ血道を上げるを辞め、粉骨砕身の努力をするのならばともかく、それほどの脅威が迫っているのなら、と却って降伏の道を選ぶ事すらあり得る話かと!」
信包とて、まさか本当に長益が南蛮国に対して降伏する、とまでは思っていない。
だが信長の視線の圧力は「もしかしたらこういう事も」という内心わずかに思っていた事さえ、口に出させるだけの威力を持っていた。
そして信長も、額に汗を浮かべた信包の言葉を聞いて「であるか」と頷いた。
すまん源五よ、だがお主も悪いのだ。
他の兄弟の如く、織田一門の名を背負って戦で死ぬのならともかく、戦に出てもロクに戦おうともせず、己が数寄に耽溺するお主を庇い立てすれば、わしとて咎を受けるやも知れぬのだ。
信長という絶対者に対し、信行の様に抗うような真似をせず、かといって有能な家臣たちの如く己の働きを誇ることも出来ず、ただ従い続ける事で生きてきた信包。
その男にとって、信長の下す決断は天命にも等しい。
今まではその家名と地位、さらに目立たずそつなくこなせる性格と才によって生き延びてきた信包であったが、信長がこれから行う改革によっては、それらが全く通じなくなる恐れもあった。
それを理解出来るだけの能力があるからこそ、信包の心臓は先程から早鐘を打っている。
だが信長は先程までの圧力の一切を収め、信包は自然と息を吐き出した。
「お主の意見はよく分かった。 そろそろあやつらも来る頃であろう。 三十郎、お主も同席せよ」
「は、ははッ!」
言われて平伏しながら、信包はこの後に起こる事を、なんとなくではあるが予想が出来た。
弟と甥には悪いとは思ったが「これもお主らの自業自得、わしには何も出来ぬ」と諦めた。
もし自分の予想通りなら、あの二人には気の毒な未来となるだろう。
だがそれも、この日ノ本のための、兄上の足場固めのためとなるならば自分には止められぬ。
わしは所詮、兄上や羽柴の傘の下でしか生きられぬ小物であるが故、な。
ある意味では、この男ほど自らの分を弁えている者もいなかった。
無理や無茶を通さず、出来る事と判断した事は多少の計算違いはあってもやり通す。
だがその一方でこれは不可能だと判断したならば、早々に手を引くという諦めの良さも併せ持つ。
信長という絶対者の陰に隠れてはいたが、かつての秀吉も織田家の中では比較的厚遇したその能力は、純粋な身内びいきを抜きにしても評価できるものであった。
だがなまじ「織田信長」という存在と血縁であり、それを間近で見続けていたからこそ、彼は自分自身の自己評価と他人からの評価に差がある事に気付いていなかった。
他人からの評価が高いのは、兄である信長の目と耳を気にしてのこと。
秀吉が己を厚遇したのは、信雄は暗愚、信孝は敵対しており、中立的立場で物事を考え、その上で織田家において一定の地位にある者を、自陣営に引き込みたかったため、と考えていた。
その為、彼が予想している通りの事以上の出来事が、この後に起こる事を彼は全く予想出来ていない。
まさか自分にそんな器があるとは思ってもいないからだ。
だがこの後、彼は信長より「織田家」の実質的な差配を任される事となるのである。
前書きでもお知らせいたしましたが、現在書き上げている部分に関してはなるべく早めの更新を行おうと思っております。
お待ち頂いている皆様方に対し、大変心苦しくは思いますが、何卒よろしくお願い申し上げます。




