信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その19
ようやく書き終えました、この話で一旦の区切りとさせていただきます。
冗長になり過ぎていたので、少しまとめていこうと思えば今度は過去最長クラスの一話となりました。
信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その19
信長の命により、秀吉はその権限の全てを剥奪。
大坂城は信長に明け渡し、その所領や家臣団、生野銀山などからの収益も、全てを信長が掌握することとなった。
さらには羽柴家の直臣のみならず、その影響下にあった全ての家の領地なども再配分する事と決まった。
信長と光秀が消えた事により、所領の配分が決められた「清州会議」を、ここ大坂城で再び執り行う事が決まったのである。
もちろんそれに伴う手間や時間はかなり大規模なものとなるが、その間に敵対勢力からの攻撃が来ないとも限らない。
そのため隣接している毛利家と上杉家には、今回の大坂城会談によって開示された様々な情報を国許に持ち帰り、今後の動向については十分に各家で話し合いをしてもらい、結論が出るまでは相互不干渉、を取り決める事となった。
その取り決めの立会人は、その場にいた者達の中で唯一武家ではない、近衛前久である。
前関白の権威は伊達ではない、さらに織田と徳川がそれに従うと宣言した以上、小早川隆景と直江兼続も、異論を唱える訳にはいかなかった。
小早川隆景とて、望んで織田と再び戦端を開きたい訳ではない。
それに南蛮国の潜在的な脅威を知った今、それを同じ様に理解している織田家とは、足並みを揃える事も必要だと理解出来ている。
さらに直江兼続も、上杉家は南蛮国や『デウスの教え』に対し、毛利や織田ほど深くは関わってはいないものの、やがて強大な敵となって襲いかかって来るかもしれぬ存在に、無警戒などではいられない。
織田家とは先代謙信公の頃よりの敵対関係とはいえ、それでも一旦敵対するまでは同盟を結んでいた間柄でもあった。
それに織田と徳川の両家を即座に敵に回すのは、上杉存亡の危機を招くという現実的な問題もあった。
全面協力、とまではいかなくとも少なくとも対南蛮勢力に関しては協力的に、それ以外の部分に関しては互いに不可侵条約を結ぶ、といった所が落とし所であると、兼続は計算していた。
それに隆景も兼続も、この日一日だけで見聞きした情報が既に莫大なものとなっている。
ハッキリ言ってしまえば、それぞれの家に於いて第一とまで言える彼らほどの優秀な人物でなければ、とうの昔に脳内で情報が処理し切れずに破綻をきたしている恐れすらあったほどだ。
織田信長と明智光秀の両名が生存、さらに羽柴家が実質解体されて、そのほとんどを信長が掌握して再び天下に名乗りを挙げた。
挙句信長は徳川家康と強固な同盟体制を築いており、さらに前関白・近衛前久もこれに呼応して、たった一夜にして天下に並ぶもの無き大勢力を出現させたのだ。
これらを逐一主君に報告し、領国に戻り次第重臣なども交えて会議を行わねばならない。
内心で二人はそれがどれだけ厄介な会議となるか、いくら各家に於いて絶大な発言力と影響力を持つ二人とはいえ、相当に骨が折れる作業となる事は明白なため、隠れてそっとため息を吐いたほどだった。
そして信長が織田家を率いていた頃からの敵対勢力として、四国の長宗我部家がいる。
これに対しては淡路島を防衛線の中心として、織田・徳川家の新体制が整うまでは徳川家の方から兵力を出向させ、現在も長宗我部に備えている仙石秀久と共に防衛に備える事が決まった。
ちなみに徳川は以前と変わらず、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の大半という五ヶ国に勢力を持ち、本能寺以前は織田家の所領であった地域も、徳川領として正式に譲渡が決められている。
これに関しては信濃に領地を貰っていた森長可が何かを言いたそうな顔をしたものの、信長の決めた事であるため口を挟めず、結果として他に反対意見を出せる者はいなかった。
さらに信長は、矢継ぎ早に居並ぶ家臣に指示を下していく。
旧織田家臣団は再び結束し、新たな織田家として再出発する事になった。
そこに至るまでには時間もかかるだろうが、それでもそう長い時間ではない事を想起させる、そんな信長の指示の的確さに、隆景も兼続も改めて信長という人物の底知れなさを感じた。
だがこれでも、信長にとっては未だ最終的な目標に至るまでの準備段階に過ぎない。
旧羽柴家、と言ってしまっても良い織田家の勢力圏と、徳川の領地の全ての兵力を統合させ、日ノ本に強大な一大勢力を新たに築くための、下準備に過ぎないのだ。
自らが再び表舞台に立ったなら、やるべき事はそれこそいくらでもある。
徳川で過ごした時間は、いわばこれまで休みなく動き続けてきた自分への休養、だと位置付けつつも、再起した後の予定を考える時間にも充てていた。
秀吉の身の振り方は前久に任せ、自らは家康・隆景・兼続との四者会談に臨み、毛利と上杉は対南蛮勢力に対する備えに関して、協力も含めて前向きに検討する、という意見で合致した。
主君の名代としてこの場に訪れてはいても、それも当初の予定とはかなり違った話し合いとなっていたため、今すぐこの場で結論など出し様も無いのだ。
隆景も兼続も、まずどうやって主君への報告を切り出すべきか、と内心で頭を悩ませていた。
まずは早馬でもって国許へ火急の報せとして伝え、追って自らが帰国した際により詳しく重臣会議でも開いて話す以外にないか、と結論付けるのが精々だった。
大坂城大広間での信長再臨、さらには森兄弟と明智光秀まで生きていた、という情報は当然ながら大坂城内だけで抑えられるものでは無く、次の日には大坂城下で知らぬ者はいない程となっていた。
さらに次の日には堺の街でも知らない者はいないほど、さらに次の日には京でも知らない者はいないほど、という塩梅で情報は広がっていった。
誰もがその生存に驚き、ある者は喜び、ある者は愕然とし、ある者は恐怖にかられた。
織田信長が生きていた、その情報は日を追うごとに、水面に物を落とした時に広がる波紋のように、広く、遠く、日ノ本全土へと広がっていった。
その様はまるで日ノ本全土が鳴動するかのように、『信長生存』という情報を聞いた者たち全てに、少なくない衝撃と動揺、そして事実確認のための行動を取らせていた。
その一方で一足早くその衝撃を受け、既に立ち直った上で行動を起こし始めた者もいる。
黒田官兵衛孝高、羽柴家の軍師としての地位を確固たるものとしていた男である。
秀吉は自らとその場にいた家臣たちのこと、そして何より目の前にいた信長の事で頭が一杯だった。
その他の家臣達も言わずもがな、誰もその場にいない者の事まで、気にかけるだけの余裕は無かった。
なのでこれは誰が悪いという訳でもない、ただその様な状況では無かっただけなのだ。
大坂城の縄張りを行い、その建設中の作事の監督も行い、物によっては城主であったはずの秀吉以上に詳しい、と言える黒田官兵衛。
その男は自らに割り当てられた部屋へと密かに戻り、ここ大坂城に詰めていた重臣三名と共に、誰にも知られぬままに姿を消した。
明確に黒田官兵衛がその場にいた、という証言を出来た者は大広間の次の間に控えていた小姓のみであり、中を覗き見ていた官兵衛はある時を境に、無言のままに去っていったという。
官兵衛の行動が今一つ理解は出来なかった小姓は、呼び止めることも出来ずにそのまま官兵衛の背中を見送った。
そしてそれが、大坂城で見た黒田官兵衛の公的には最後の姿となる事に、その小姓も、そしてこの世の誰も予想などしていなかった。
黒田官兵衛とその家臣団が、大坂城内どころか、城下のどこにもいないという事に最初に気付いたのは羽柴家の副将であった秀長だった。
あの場に居なかったのはこの際構わない、どうせいた所であのような状況では何が出来るとも思えなかったからだ。
だが、あの日から大坂城内は混乱一歩手前の大騒ぎであり、さらに再び「清州会議」が行われるという事も重なって、それらの処理に忙殺されていた秀長が、そういえばこういった仕事が出来る人間がもう一人いたはずだ、という事で官兵衛の不在に気付いたのだ。
既に信長がその生存を明らかにしてから、三日という時間が経過していた。
城内に居ないのなら、城下のどこかに居るのかと思い使いをやって捜索させたが、やはりどこにも官兵衛の姿は、それどころか黒田家の家臣の一人もいない事に気が付いた。
秀長や三成といった事務処理を上手くこなす事が出来る、いわゆる文官と言われる者たちは、いつ終わるかも分からない膨大な仕事に忙殺されている。
あの賢い官兵衛の事だから、この状況で不在という事にもきっと何かしらの理由があるのだろうと思い込んでしまっていた秀長は、官兵衛不在の報告を信長まで上げるよりも先に、まずは目の前の仕事を片付けることを優先した。
結果として信長の所まで『元羽柴家軍師・黒田官兵衛孝高、行き方知れず』という報告が上がるよりも先に、信長の方から「そういえば」と官兵衛について話を振られる方が早くなってしまった。
信長から官兵衛の所在を尋ねられ、周りの者達も「そういえば姿が見えませぬ」と、ようやく官兵衛の不在に気が付くという有様だった。
官兵衛の不在に皆が気付いたのは、彼が姿を消してから五日後の昼となっていた。
官兵衛は信長が秀吉の作り上げた羽柴家、その勢力をそっくりそのまま自らの手で掌握する事を宣言した姿を見て、ゆっくりとその場を離れた。
もはや羽柴秀吉に用は無い、あの男の再起の芽は潰えた。
それと言うのも、信長の言う「楔」という言葉が理解出来たからだ。
信長が考えている事を想像し、官兵衛はその狙いに思わず舌打ちをした。
あの男は、本当に「天下獲り」というものを熟知している、と思い知らされたのだ。
ならば自分は、あの男とは違うやり方で天下を目指さねばならないだろう。
『織田信長』と『黒田孝高』、あの男と自分を比べ、何が勝り何が劣っているのかを考える。
劣っている部分で勝負を仕掛ける必要はない、勝っている部分で相手を圧倒するのだ。
自らの得手としている分野に、相手を引きずり込めば良い。
幸いにしてあの男には敵も多い、対抗できる手段は必ずあるはずだ。
信長の手の中には家康・光秀・前久・秀吉をはじめとする、日ノ本全土で見ても実力や才覚が飛び抜けている、綺羅星の如き駒が揃っている。
だがそれだけで日ノ本全土が手中に収まるかといえば、天下はそれほど狭くは無い。
東国には関東の北条や佐竹、奥羽の伊達や最上といった大名家も存在する。
西国には四国のほぼ全土を手中に収めた長宗我部、さらには九州の龍造寺・大友・島津という三つの屈強な大名家もいる。
だが上杉や毛利は当てには出来ぬ、下手をすれば信長の陣営に取り込まれる恐れすらある。
冷静に日ノ本の各大名家の状況を分析していく官兵衛であったが、実はこの時、龍造寺家は「沖田綴の戦い」と呼ばれる戦ですでに当主・竜造寺隆信が討死しており、龍造寺家はそれまでの勢いを完全に失っていた。
だがこの時点では、官兵衛の耳にその情報は入って来ていなかった。
戦いの中でこそ、人はその本質を露わにして動き出す。
動乱の中でこそ、人はその才覚をもって成り上がる。
応仁の乱から既に百年以上の時が経ち、天下はようやくまとまりを見せ始めた。
しかしまだ早い、まだ終わらせる訳にはいかぬ。
この動乱の時代、戦国の世を終わらせるのは信長でも秀吉でもない、この黒田孝高だ。
わしが頂点に立つ事でこの戦国の世をまとめ上げ、天下を我が物とする、生きている限りその大望を捨ててなるものか。
既に頭の中には絵図が出来ている、この日ノ本全土を巻き込んだ騒乱の絵図が。
後は如何にして、この絵図を実際のものとするか。
深く静かに官兵衛は動き出す、かつて本能寺の炎の中に消えたと思わせた、織田信長の様に。
かつて信長が、自らを窮地に陥れておきながらも、その命を奪う事が出来なかった存在がいる。
信長によって都合の良い神輿に担ぎ上げられておきながら、その傀儡であることに不満を抱き、信長と敵対し続けてついには京を追放された男。
室町幕府第十五代将軍・足利義昭。
義昭は将軍就任当初こそ、信長を慕い「我が父」と言うほど恩を感じていた。
副将軍の地位を与えよう、という打診も行ったが信長は幕府内での役職には興味を示さず、幕府の役職を得る事によって、かえって義昭に頭を抑えられる事を嫌った。
あくまで足利義昭、そして室町幕府という存在は、信長にとっては利用するべきものであって、自らが傅くものとして見てはいなかったのである。
そこが『朝廷と同じような権威ある存在としての幕府・そして将軍』という意識しか持っていなかった義昭との、重大な意識の違いであった
だが結局は信長の、織田家の正統性の担保のための道具でしか無かった事に不満を抱いた義昭は、様々な勢力に文を送っては反織田勢力を煽り続けていた。
表面上は互いを利用し合う一方で、その実いつ殺し合いを初めてもおかしくないほど、時の経過と共に互いの仲は険悪となっていった。
そうして当然の如く破綻の時は訪れ、勝ったのは言うまでも無く信長であり、義昭は命こそ奪われなかったものの、京を追放されて室町幕府は終焉を迎えた。
だがこれによって信長は、織田家の正統性の担保を作り続ける存在を失った。
となれば代わりになるのは、幕府以上の権威と歴史を持つ、朝廷を置いて他に無かった。
しかし朝廷を相手にしては、幕府ほど強硬に話を進める訳にもいかず、また帝を追放して朝廷自体を滅ぼす訳にもいかなかった。
もしそんな真似をしてしまえば正当性の担保どころか、織田家を朝敵とする格好の材料が出来上がってしまうため、かえって織田家の滅亡を招いてしまう。
その為に信長は極力京周辺に居続ける事で、朝廷の公家衆に睨みを効かし、自らの正当性を揺るがす様な真似をさせぬ様に、見張っておく必要が出来てしまった。
そうして朝廷には常に自らの存在を意識させ、たとえ公家衆との関係は険悪となろうとも、表面上は『朝廷という後ろ盾がある』という状態を保ったまま、信長は天下布武を推し進める事が出来た。
話が畿内や北陸、中国地方の東側程度であれば、信長が京を少しだけ離れるくらいであれば、大きな問題は無いかも知れなかった。
だがこれより先はいよいよ天下の全て、日ノ本全土へと『天下布武』は加速する。
であれば信長が京に座したまま、九州の果て、奥州の果てへ軍勢を送るのは、やはり難しくなっていくだろう。
そこで信長は自分に代わる、新たな朝廷への「楔」を探す事にした。
徳川で雌伏の時を過ごす間、家康・前久・光秀ともじっくり話し合い、朝廷への「楔」に秀吉を使う事を思い付いた。
そこで信長と光秀の二人は一計を案じ、秀吉の処遇を決める時には光秀に意見を求め、光秀はあえて秀吉を殺す事を主張させ、その後で生かしておく代わりに「楔」となって生きよ、という条件を突き付ける事にした。
秀吉は自らが新たな天下人であると朝廷に認められたいがために、つまりは正当性の担保のために高位の官職を求めていた。
そこには秀吉が長年心の内に溜め込んでいた、鬱屈した劣等感なども多分に含まれていた行動であったが、それでもその行動は間違ってはおらず、そして信長にとっても好都合であった。
近衛前久を秀吉に接近させ、秀吉の金を使い込ませるばかりか、信長再臨後には秀吉を高位の官職に就けることにより、朝廷への抑えに使う格好の状況を作り出せる。
無論、これには秀吉に信長を裏切る野心が無い事が前提条件だ。
なのでもし、蜂須賀小六が焚き付けた時に秀吉が謀反を起こそうとしたのなら、その時点で全ての話はご破算となる所であった。
しかし秀吉は信長へ反旗を翻すことなく、自らの命すら信長に全て預けるという意思を示した。
これにより、信長と光秀は秀吉を当初の予定通り、朝廷に対する「楔」として使う道で予定を進めようという意思を固めた。
秀吉は前久に任せ、今後は二人がかりで朝廷に対する抑えであると同時に、信長の行動の正当性の構築、という重要な役割を担ってもらう事にする。
朝廷に対する抑えとして、信長自身が京周辺に居続けることが出来なくなっても、朝廷に勝手な真似をさせないための楔、それが前久と秀吉の役目となる。
さらに信長を全ての頂点としている一方で、軍権の最高責任者に徳川家康が置かれ、以後の敵対勢力との戦には、信長がいない場合には総大将として軍をまとめる事となった。
この決定に関しては、織田家臣団からは少々の不満が漏れた。
だが信長の「では徳川相手に一戦交えてみよ、さすれば徳川の強さが体感できるぞ」という言葉に、不満の声は尻すぼみとなっていった。
織田と徳川の同盟は二十年以上に及び、その間に徳川の強さは横で何度も目の当たりにしている。
こと総兵数で言えば、織田と徳川では大きな差がある。
だが織田家の総力ではなく、その中の一家臣の家の兵力と徳川家とでは、その兵力と兵数にこれもまた大きな差が付くものだ。
信長自身が直接指揮する新たな馬廻り衆、いわば直轄軍を除けば、織田・徳川連合軍において、徳川に並び立てる者などいないのだ。
結局最終的には誰もが納得をせざるを得ない状況であると認識され、徳川家康はこの勢力における副頭領にして最高司令官という地位を確立した。
そして参謀としての地位には光秀が就く事になったが、実はこれが一番反対意見が多かった。
当然と言えば当然な反応ではあったが、すでに前久からの話もあって、光秀とて本能寺に襲撃をかけたのは本意では無かった、と皆も理解はしていた。
だが知識としての理解と、感情による納得は別である。
多くの者が憤りを隠せはしなかったが、光秀は参謀という地位には就いても、持ち得る兵力や領地は零に等しく、脇差すら持たないという事を明言した。
常に信長の側近くに侍り、一切危害を加えることの出来ないように脇差すら持たず、不意の襲撃の際には己の身体一つでもって、信長の盾となると宣言したのだ。
脇差の一つも持たない、となると己の身を守る武器すら持たない、という事と同義である。
未だ感情による納得こそ出来ない者も多かったが、兵力も領地も持たず、脇差すら持たない覚悟に渋々ながら了承する者もあり、光秀は参謀という地位に就く事と決まった。
また、前田利家と丹羽長秀、さらに堀秀政は自らの領地を自主的に一旦返上、信長の差配による領地の再分配に全てを委ねる、という覚悟を示した。
さらに丹羽長秀は、このところ体力の衰えが激しく、以前ほどの働きでもってお仕えする事は難しいと訴え、自らが持っていた百二十万石を超える領地を返上すると共に、隠居・及び嫡男への家督相続を願い出た。
その上でもし自らの嫡男である長重が、上様の御心に添う働きを見せたならば、その時に改めて働きに見合う褒美を賜りますよう、と言って頭を下げたのだ。
その願いを一旦は退けた信長であったが、確かに長秀の顔色は悪く、最後に直接会った時から比べれば、顔も大分やつれ、加齢によるものだけではない衰えを感じさせた。
そのため信長は一旦は退けた願いを承諾し、嫡男の長重への家督相続を許可。
長秀は長年の功を労われ、さらに「今後は療養に徹する様に」という勅命を受け、その言葉を聞いた長秀は涙を流しながら頭を下げた。
丹羽長秀は信長とも親戚関係にあり、「織田」の家名こそ持ってはいなくとも、信長にとっては単なる部下以上に重要な、まさに兄弟同然の存在であった。
だからこそ、生涯を通じて己を支え続けた長秀に隠居・療養料として十万石を与え、その領地も山城国内という京・大坂にほど近い場所にした。
さらに嫡男の長重は、その働きが信長の眼に入りやすいようにと、新たに編成される事となった信長の直轄軍の将の一人として、抜擢される事に決まった。
そして旧羽柴家の中枢、羽柴秀長と蜂須賀正勝・前野長康等はまとめて前田利家の旗下に組み込まれる事となった。
羽柴家という勢力の中では、それまでは同格から一段上の扱いをしていた者達を、自らの家臣として使うという事に難色を示した者が多かった為である。
秀長の副将としての能力は買っていても、それを自らの下で使うとなると、やはりやり難いと思う者も多く、また小六や長康の能力も皆が認めるものではあったのだが、先の信長の前での行動などを鑑み、やはり誰もが自らの家臣として召し抱えようとは言い出さなかったのである。
結果、秀吉という存在を通じて長年の付き合いがあった前田利家が、これまでの石高の四分の一で良ければまとめて面倒を見よう、と言い出した事で決着を見たのだった。
秀吉があのような事になり、自分たちは許されたとはいえ秀吉が改易では、自分たちも秀吉から賜った領地を失う事になる。
このままでは放逐されて浪人となる以外にはない、それに比べればそれまでの石高から大分減ってはしまうものの、気心の知れた利家の旗下として組み込まれる方が遥かに良い。
そう考えた三人は、利家の下でまとめて世話になる事となった。
後に、それまでの羽柴家内での三人の総石高を聞いた利家が、瞬時にして顔色を失うという事態が起こったのだが、それはまた別の話である。
さらに後日、利家が信長にこっそり、そしてひたすら頭を下げて石高の再分配時に便宜を図ってもらえませぬか、と涙ながらに懇願をする、という前代未聞の事態となったりもしたのだが、それもまた別の話であった。
羽柴家という日ノ本一の大勢力が、新たな、いやかつての主の元に再び織田家という勢力に姿を変えて、畿内を中心に君臨した。
大坂に使者と間者を送っていた日ノ本各地の勢力が、次々と従属か敵対かの判断を迫られる中、当の信長は一人眉間にしわを寄せていた。
従属を選んだのなら姿を消す理由は無い、であれば敵対の道を選んだのであろう一人の男。
秀吉の下で、竹中半兵衛重治の後釜となって、軍師として働いていた男。
信長は甲賀に命じて官兵衛の所在を探ったが、今の所発見の報告は上がって来てはいない。
信長は、各地の大名勢力よりもあの男一人の方が、潜在的な脅威は上だと感じていた。
こちらは一度姿を現した以上、あとは堂々と自らの生存を、居場所を喧伝し続けなければならない。
だが奴は違う、生きているのかすでに死んだのかさえ明らかにせぬままに、どことも知れずに姿を消した。
しかもそのやり方は徹底しており、妻子や主立った家臣も同じく姿をくらまし、家臣の親戚ですら姿をくらませたのがいつか、そしてどこに向かったのかさえ知らぬという。
つい先日まで己が行っていた、隠れ潜んだまま相手を盗み見るかのような行動を取ろうというのだと、直感的に理解した。
「黒田官兵衛孝高……あやつは必ず殺さねばならん…」
大坂城本丸の一室で、信長がそう呟いた。
同じ部屋にいる家康と光秀は、真剣な表情のまま頷きだけを返した。
秀吉から聞いた限りでは、信長が本能寺で死んだと知らされた時に、官兵衛は「運が開けた」と秀吉に言い放ったという。
さらに信長の三男である、三七信孝を直接切腹に追い込んだのも、『隠れ軍監』の報告で黒田官兵衛であったという事が判明している。
秀吉の陰に隠れている様でありながら、官兵衛は着々と己の目的のために動いていた。
信長の暗殺による織田家の衰退が始まるのなら、代わって秀吉を台頭させる。
そして秀吉が徐々に頭角を現していくためには、邪魔となるのがかつての主家である織田家である。
その織田家の中でも明確に敵対の意思を示した信孝を、表向き政敵の信雄のせいにするために、わざわざ尾張国内の信雄の領内で腹を切らせる。
さらにそれを見破った信孝は、辞世の句に秀吉と官兵衛の存在を匂わせた。
だがその辞世の句に込められた意味を読み取った官兵衛は、あろうことかその証拠となる辞世の句を灰にした。
すでに秀吉に反旗を翻すだけの気概は無い。
だが官兵衛は敵対する意思すら明らかにしないまま姿を消し、どこかに潜んでこちらの寝首を掻こうと狙ってくる事だろう。
生存の秘を隠して陰に潜み、表舞台に再び立つ事で新たな『天下布武』を進めようとする信長。
忍びにすら居場所も探れぬように潜み、己が支えた『天下人』の傍らからも姿を消した官兵衛。
決して相容れぬ二人の戦いは、この時すでに始まっていたのだった。
信長続生記 第一部 完
気が付けばちょうど本編は80話、という話数で第一部を締めくくる事となりました。
最初の話を投稿してからおよそ半年間、多くの方にブックマーク・感想・評価を頂きまして、とても励みになりました、重ね重ねありがとうございます。
今後は少し長めにお休みを頂いて、その間に第二部のお話を書き貯めておこうと思います。
第二部のお話も書き始めてはおりますので、頃合いを見計らって投稿を再開いたします。
御愛読頂きました皆々様には、再開した後もお読み頂けましたら幸いと存じます。




