信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その18
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大変お待たせいたしております。
信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その18
秀吉の独白をふすまの向こうで盗み聞いていた黒田官兵衛は、内心で舌打ちをしていた。
信長が下す秀吉への処罰。
その結果如何によっては、信長への反旗を翻すための格好の材料に成り得ると思っていた。
ふすまの中にいる人数は全員でおよそ四十名。
武器を持った兵二十名で、その大半を討つ事は決して不可能ではない。
いっそ先程の者たちを再集合させて、大広間内に突入させるか。
そんな考えも頭をよぎったが、その前に蜂須賀小六が立ち上がり、秀吉に決起を促した。
よくやってくれた蜂須賀正勝、貴様が信長抹殺の引き金を引いてくれれば、わしが泥を被ることなく最終的に漁夫の利を得る可能性も出て来るというものだ。
普段から無表情であった官兵衛の口元がわずかに歪む。
今からでも兵たちを、と官兵衛が行動を起こそうとした所で、秀吉が小六を諌めた。
そして今、官兵衛からは見えぬ位置で秀吉の独白が続いている。
多くの者が立ち上がってしまったために、官兵衛からは秀吉の姿が見えなくなってしまっていたのだ。
聞こえてくる秀吉の本音に、今度は官兵衛の表情が違う方向へと歪んでいく。
先程は思わず浮かべてしまった笑みであったが、今度は奥歯を噛み締め、眉間にしわを寄せてしまうような言葉が続いていた。
秀吉が、それこそ物心付いた頃より抱き続けていた劣等感、そしてそこから這い上がっては来たものの、どうしても拭い去れない過去の記憶が、官兵衛の思惑を打ち壊した。
確かに秀吉はお世辞にも良い生まれなどとは言えない。
それこそ野良犬同然の扱いすら受けていた男だ。
だがそれでもその才覚は言うまでも無く、その才覚をいかんなく発揮出来るような場を与えられる、天運にも恵まれていた。
才能があり、努力もした、さらに運まで持ち合わせてここまで来たというのに。
ここが限界か、羽柴秀吉。
小物から足軽に、足軽から武将に、武将から大名に、そして今では天下人に。
成り上がり続け、ついには天下に号令すら出せる地位まで、あと一歩だったというのに。
奇しくもここまで成り上がらせてくれた存在に、最後の最後で突き落とされるとは。
これもまた宿縁、というものかもしれないが、いずれにしろ『織田信長』という存在がある以上、『羽柴秀吉』という男が頂点に立つことは出来ない、という事だ。
自分が都合良く頂点に、『天下人』に上り詰めるためには、自分のすぐ上にいる秀吉に一瞬でも頂点に立っていてもらった方が良かったというのに。
この状況を見る限り、秀吉にもはや再起の芽は無い。
それこそ信長を殺して今度こそその地位に取って代わるか、信長自身が自らの跡目を秀吉に継がせる、などの行動を取らない限り秀吉が再び『天下人』に返り咲くことはない。
だがどちらも、まず起こり得ない事態だ。
信長を殺す機会は確かに先程まではあったかも知れないが、秀吉自身がその芽を潰した。
さらに信長が秀吉に跡目を継がせるくらいなら、秀吉の養子とさせた自らの四男・秀勝に継がせる方が、まだ可能性としては高い。
現在信長の息子の中で最も高い地位にいるのは次男・信雄であり、彼の人物的評価は誰もが口を揃えるほど低い。
そういう意味では信長が跡目を継がせる可能性として、三男・信孝亡き今となっては四男・秀勝は一躍有力な後継者候補と成り得るのだ。
信長から半ば強引に押し込まれた養子とはいえ、秀吉は公的には秀勝の義父である。
ならば秀勝が信長の後継者として指名され、信長が死んだ後に秀吉が生きていれば、その立場を利用して再び天下を牛耳る事も、夢ではないかもしれない。
だがその状況になるためには、気の遠くなるほどの策謀や幸運などが必要となるだろう。
そもそもこの時点で秀吉が死罪を申し渡されれば、このような考え事も全て水泡に帰するのだ。
官兵衛は『信長生存』というただ一点で、自らの未来が閉ざされたかのような感覚に襲われた。
そしてそれに伴う羽柴家の凋落は、あるいは滅亡まで行くかもしれないほどの失墜となるだろう。
羽柴家の軍師という扱いであった自分も、無傷で済むとは思えない。
仮に命が助かったとしても、二度と天下を望む事など出来はしないだろう。
だが官兵衛を襲った衝撃は、それだけに留まらなかった。
信長の発した「キンカン」という単語に、官兵衛は聞き覚えがあったからだ。
まさか、いやそんなはずは無い、信長がその呼び名で呼ぶ男が、今この場に居るはずがない。
あの男は死んだはずだ、次代の扉を押し開け、羽柴にその扉の先へ進む事を譲ったも同然の男。
考え様によっては恩人とも言えた、だがあの男まで生きていたとすれば、次代の扉などは最初から開かれてはいなかった事になる。
「羽柴筑前守秀吉には、切腹を申し付けられるのが最良と存じまする」
そう発した男、ふすまを挟んで一番近くにいる男がその頭巾を脱ぎ去り、その顔を露わにした男は紛れもない、官兵衛が心から生存を信じたくなかった男の後ろ姿であった。
その瞬間、官兵衛の表情は完全に驚愕に染まり、僅かに息を飲んだ。
そして困惑と苦悶を混ぜたような表情を形作り、そのまま硬直する。
だが広間の中では、官兵衛の驚愕などとは比べ物にならないほどの驚愕の声が広がり、その声はふすまの隙間からでも大きく響いた。
おそらくこの日一番の驚愕と困惑の声でもって、明智光秀はその生存を迎えられたのである。
織田信長の生存、森長可・蘭丸兄弟の生存、そしてさらに明智光秀の生存。
この中の誰か一人でも、生存していたならば十分に大事である。
だがその中でも取り分け大事となるのは、その首が晒された事で大々的に死んだと認識されている、明智光秀が生存していたという事だろう。
無論世の中に影響をもたらした存在という意味では、信長の生死に関わる問題ほど重大な事実ではないかもしれない。
だが信長も長可も蘭丸も、死んだとされながらもその遺体は誰にも確認されておらず、あの状況下では生きてはいないだろう、といういわば思い込みでしかなかった。
だからこそ、その影響力はとてつもない物であったにしろ、生きていたのならそれを認めざるを得ないというものではあったのだ。
だが明智光秀は、信長たちしか知り得ぬ事実として、影武者の首が晒された事によってその死を免れ、今日まで生存の秘を守り通すことが出来た。
しかしよりにもよって、生きていた信長と共にこの場に現れるとは、この場の一体誰が予想出来たことだろうか。
事前情報として知っていた家康・前久・秀政と徳川家家臣の四名、さらに頭巾を被っていた信長や森兄弟以外の全員が、驚愕に顔を染めて光秀を注視した。
だがその中でも一際早く、正気を取り戻すと同時に憤怒に顔を染めて拳を握り締めた佐々成政が、光秀へと向かう。
「きぃぃさぁぁまぁぁぁぁぁぁッ!!」
驚愕から立ち返るなり、今度は怒りに我を忘れた佐々成政が雄叫びを上げ、拳を振り上げて光秀に襲いかかる。
その勢いに押されるように周りの者たちが不意に道を開け、佐々成政の拳がそれを静かに見つめる光秀の顔面に届く直前。
その間に割って入った長可によって、すんでの所で止められる。
「ぬぅッ! 何故止める、貴様も上様を」
「佐々殿! こやつは上様の許しを貰い次第、わしが首を刎ねるという先約を頂いておるッ! 勝手な抜け駆けをしないでもらいたい!」
射殺さんばかりの視線で問う成政に、負けじと睨んで言い返す長可。
長可が掴んでいた成政の拳を振り払い、武闘派と呼んで差し支え無い二人が真っ向から対峙する。
その間に徐々に諸将の驚きの波は引いていき、状況を確認するだけの余裕も出てきた。
ほとんどの者が光秀と信長の双方に視線を走らせ、説明を求めている。
その顔は信じられない物を見るような眼をしており、開いたままの口を塞げない者もいる。
「キンカンの生存については、後で詳細を本人の口から聞くが良い。 してキンカン、サルが切腹となればここに並んでおる他の者も同様に腹を切らせる事となろう、貴様はそれを『最良』と?」
「恐れながら、上様の死を契機に自らが天下を簒奪しようと図るは許されざる仕儀にて。 例えば某めは本来であれば、この場で諸将の方々よりどのような目に遭わされようと、文句の言える立場ではございませぬ。 しかしそれを言うなら羽柴筑前守とて同じこと、上様がおらぬを良い事に御嫡孫・三法師様を利用して織田家を乗っ取り、御三男・信孝様を切腹に追い込み、上様が築きし織田家を凋落させんと図りました。 もし上様が本当にお亡くなりになられていたならば、やがて御次男・信雄様や養子となっている秀勝様とて、その身は危ういものとなっておりましたでしょう。 最後には自らが擁立した三法師様とて…権勢を誇る者が邪魔者を消そうとするは、古今に暇のない話にございます故…」
今この場で、止める者がいなければ嬲り殺しにでもなっている光秀が、あえて自らを例に挙げて秀吉の罪状を並べ立てた。
そうなると、光秀憎しの念を持っている者からすれば、秀吉に対して何も思わないという訳にもいかなくなってくる。
光秀を憎むなら、罪があるというならば秀吉はどうなのだ、という事だ。
論理のすり替え、と言ってしまえばそうかも知れなかったが、既にここまでの間に多くの衝撃的な事実を知らされ、諸将の頭も精神もそれを指摘出来るだけの余裕は無かった。
そしてまた、光秀が最後に挙げた例えもいくらでも過去に実例のある話であったため、諸将の間に声高に光秀を糾弾する声も、秀吉を擁護する声も上がらなくなった。
「であるか。 ならばいっそ後腐れ無く、サルに腹を切らせるべきと?」
「これが他の者であれば、拷問にかけた上で首を刎ね、街角に晒すまでやるべき所を、これまでの勲功に免じて介錯も付ける、切腹にまで減刑いたしました。 某にとってはこれが『最良』にございます」
信長の問いに、光秀は真っ直ぐにその顔を見ながら言い放つ。
出来ない事を口にはしない、光秀の偽らざる本音だという事は誰の目にも明らかだった。
だがだからこそ、信長は光秀の言う事に即座に頷きはしない。
そして一方で利家は、この光秀の言葉に思わず顔を怒りに染めて反論した。
「そう言う貴様は上様を本能寺で襲ったではないかッ! どのような理由があろうとそれも動かしがたい事実であろう! 藤吉郎を切腹に処すると言うのなら、貴様は自分で言った拷問の上に晒し首でも文句はあるまいなッ!?」
「もとより覚悟の上。 上様が望まれるなら今すぐにでも行って頂いて構わぬ。 某は本能寺の贖罪を願い、上様にこの命を使い潰して頂くためにここにいる。 今更、命を惜しむ気は毛頭無い」
激昂した利家の言葉を、淡々と返す光秀に諸将が絶句する。
言った利家ですら眼を見開いて、光秀の顔を凝視する。
利家の言葉はここにいる多くの者の心の声の代弁であり、それをあっさりと肯定されてしまっては、二の句が告げぬというものだ。
しかしその中でも丹羽長秀や堀秀政といった面々は、言い辛そうな顔はしているものの、信長の御前へと座り直して、平伏しながら口を開いた。
「上様の御裁断であれば、我らは異を唱えることは出来ませぬが…羽柴筑前守に連座して、他の者の、特に前田殿まで切腹を賜る事態とあらば、恐らくこの場にいる者のほとんどが何かしらの罰を負わねばならなくなりましょう。 やり方を誤れば、上様の再起に支障をきたす恐れこれあり!」
「左様にございます。 ことは羽柴家のみの問題に非ず。 某や丹羽殿も含め、多くの者が賤ヶ岳では柴田殿と敵対致しております。 柴田殿とお市の方様の死は、我らにも責がございます。 羽柴家のみにその罪を押し付け、我らだけがお咎め無しとは参りますまい。 何卒平等なる、そして温情あるご沙汰を! 何卒!」
かつての織田家宿老の一人であり、今の羽柴家の中でも一目置かれている丹羽五郎左衛門長秀。
さらに『名人』と言われ、その呼び名に恥じぬ才覚と働きを見せる堀久太郎秀政。
共にこの場においてもその地位と名声、発言力や影響力は軽んじることの出来ない両名からの申し出に、場が静まり返る。
そんな二人の懇願を聞き終え、さらに一拍の間を置いて、信長が口を開く。
「うぬらの存念はあらかた出尽くしたようだな……これを踏まえて改めて聞く。 キンカンよ、お主が考え得る『最善』の沙汰を言え」
信長の言葉に、それまでほとんど表情を動かさなかった光秀の眉がピクリと動く。
居並ぶ諸将、家康や前久、隆景や兼続など、全ての者の眼が光秀に集まる。
光秀が思わず言葉に詰まっていると見るや否や、信長からの威圧感が瞬時に跳ね上がる。
「貴様がサルを憎んでおる事に気付いておらぬとでも思うたか? 貴様の言う『最良』とは、お主にとっての最も嬉しき結果であろうが、わしのためになってはおらぬ。 貴様の感情など捨て置け、最もわしのためになるサルの身の処し方を、今この場で言え。 この場におる、貴様を討ちたくて殺気立っている者すら黙らせるだけの妙案を出せ、それだけの才を示せぬならば貴様は要らぬ」
往年の、二年以上前には誰もが一度は感じていた威圧感を再び浴びて、諸将の身が一斉にすくみ上った。
これが、織田信長の放つ本気の圧倒的な存在感、そして威圧感なのだと強制的に思い起こさせられる。
小早川隆景や直江兼続でさえ息を飲み、安国寺恵瓊に至っては小刻みに身体を震わせている。
先程までの威圧感など、信長が意図して出そうとしたものでは無かったのだ。
それが今、信長の感情が怒りに向き、その視線や言葉にすら物質的な力がある様に思える。
「……大変失礼をいたしました。 されば申し上げまする、羽柴筑前守秀吉を上様のための新たな楔として、お使い頂くというのは如何にございましょう?」
その言葉だけで、多くの諸将の理解を置き去りにしたまま、信長はコクリと頷いた。
先程から後ろに下がったままであった前久に視線を送ると、前久もコクリと頷いている。
前久も光秀の出した案を理解し、しかもその為の行動も心得ているかのようだ。
なるほどな、と呟いて信長の口角が上がる。
すると先程までの威圧感が霧散し、場の空気が幾分緩やかとなる。
「であるか。 サルよ、お主の首を獲ろうとは言わぬが条件がある、それを呑めば貴様には命と相応の地位をくれてやる」
「……上様、もしそれが藤吉郎にとって呑めぬ場合であれば…」
「であれば要らぬ」
信長の言葉に、未だ顔を上げられぬ秀吉に代わり、神妙な顔をした利家が尋ねる。
しかし利家の言葉を、信長は一言で切って捨てた。
思わずゴクリ、と喉を鳴らす利家の横で、秀吉が頭を上げないまま口を開く。
「……一つだけ、一つだけ確認をさせて下され…」
「なんじゃ?」
顔を上げぬままの秀吉の嘆願に、信長が答える。
「その条件は、寧々や小一郎、又左や小六、将右衛門らの命……お助け頂けるものにございましょうや?」
「兄上?」
「藤吉郎!?」
「オイ、わしらに遠慮なんぞ無用じゃ! せっかく助かる道があるというんじゃから」
秀吉の言葉に、秀長、利家、小六等が相次いで声を上げる。
だが秀吉は一向に頭を上げぬまま、さらに言葉を続けた。
「このようなわしに付いて来てくれた者共を見捨ててまで、己一人が生きていくことは出来ませぬ。 我が身のみであれば如何なる条件であろうと全て呑む所存にて、何卒彼の者らには寛大なるご沙汰を…」
秀吉の言葉に、その左右に並んだ四人の眼に涙が浮かぶ。
とりわけ秀長は、既に畳をその流した涙でポタポタと濡らし、時折嗚咽すら上げている。
皆の眼と意識が信長へと向かう。
ふん、と鼻を鳴らした信長が秀吉に、その条件を突きつけた。
「では貴様の持つ軍権、領地、城、金銀名物に至るまで全てを召し上げ、今後は我が命の全てに服すことを誓え。 連座する者達の罪は問わぬ代わりに、わしに対し改めて誓紙をもって忠誠を誓え」
信長の言葉に、秀吉の顔がゆっくりと上がり、その顔を正面から見上げた。
いわば改易、という処分ではあるが連座する者たちの罪は問わぬという一言に、秀吉の眼に歓喜の涙が浮かぶ。
だがその涙は、続く信長の言葉に、驚愕でもって瞬時に引っ込む事となった。
「その上で羽柴秀吉は、公家となって朝廷に睨みを効かす、京における楔となれ」
「は?」
驚愕のあまり、秀吉の口から間の抜けた声が漏れる。
そんな声を上げた秀吉の顔を見て、信長が思わず悪い笑みを浮かべる。
その様子を少しだけ離れた所から見ていた家康と前久は、同時に肩をすくめてそっと息を吐いた。
次回でいよいよ第一部完、という予定です。
およそ半年間に渡って約50万文字という、飽きっぽい自分がよくもここまで、と思う次第でございます。
一足早いですが評価・感想・ブックマーク登録等、とても励みになりました。
次回で本編はちょうど80話、どうかその区切りの話までお付き合い下さいませ。




