信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その6
信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その6
徳川家康の本拠城・浜松城に秀吉と秀長の母・なかを乗せた輿の一行が到着した。
家康はわざわざ浜松城の大手門前まで出向いてその一行を歓迎したが、それを知ったなかは輿から慌てて飛び出し、そのまま地べたに平伏しようとした。
それを見た家康が逆に慌てて「お手をお上げ下され!」と言いながら、駆け寄る羽目になっていた。
たとえ息子が出世しようとも生まれてからずっと百姓であったためか、未だに「貴人」と言われる人間を前にすると、なかという女性は自然と平伏してしまうのであった。
そんな人柄に苦笑しながら「ささ、どうぞこちらへ。 歓迎の支度は出来ておりますぞ」と、家康は自ら手を取って人質であるはずのなかを案内した。
そんな対応をしてきた家康に「恐れ多いことで」と恐縮を続けていたなかを、家康は苦笑を続けながら「遠い所をお越し頂いたのです、何卒ご遠慮なく」と、和やかに返した。
扱いとしては確かに人質ではあるが、羽柴方が家康や徳川家に危害を加えない限りは、あくまで賓客として扱う必要がある。
ましてや現時点では何も徳川に害をもたらしていないこの老婆を、無碍に扱ってしまえばそれこそ徳川という家の名に傷が付いてしまう。
かつては人質として幼少期を過ごし、その心細さや境遇の辛さを身を以て知っている家康は、ことさらなかを歓待した。
なかの故郷、尾張国中村の辺りで採れた作物をわざわざ取り寄せたり、学が無くても目で見て楽しめるような旅芸人一座をわざわざ呼び寄せたりと、様々な趣向を凝らしたのだ。
無論、なかの一行に女中として紛れ、潜入工作や情報収集を行おうとする秀吉配下の忍びの目を誤魔化す事も忘れない。
なにせ浜松城には、絶対に知られてはならぬ秘密があった。
だがそれも、実はすでに過去の話である。
なかの女中として入り込んで来るであろう女忍びまで、完全に警戒し切る事は難しい。
ましてや向こうは賓客のお付き、という立場で来ている以上、口封じの殺害も後々の禍根になりかねないのだ。
なので絶対に知られてはならない秘密、であるはすの信長と光秀は、既にこの浜松城を発っていた。
なかが浜松城に到着したのとほぼ同じ頃、信長たちは森家の領地である美濃国金山に到着した。
だがもちろんここでは信長生存の秘は明かさない。
既に信長生存を大々的に知らしめる場は、整いつつあるのだ。
いくら先代と現当主が信に足る者であったとしても、ここで明らかにする訳にはいかない。
考えたくはないが、森家中にも秀吉に通じる者がいないとも限らないのだ。
なのであくまで森家中でも信用出来る家臣、各務元正をはじめとする数名のみに森長可、蘭丸、そして信長の生存を明かす事にした。
森家臣の中でも最重鎮、先の戦でも領国守護を任じられ、自分のいない所で主君・長可を死なせてしまった事に涙していた元正は、長可が生きて帰って来たことにまた涙した。
「二度も主君に先立たれる所でございました」と、涙を流しながら笑顔でそう言った元正に、長可は大きく胸を張って「この鬼武蔵がそう簡単に討たれるものか!」と呵呵大笑としていた。
その様を蘭丸は半ば呆れながら見ていたが、蘭丸も久々に戻った森家の領地と、元正をはじめとする家臣たちに「久しく帰れず、申し訳なかった」と声をかけた。
長可の弟にして、信長自慢の小姓として名を知られていた蘭丸こと成利の生存・帰還も、元正を大いに驚かせ、そして喜ばせる一因となった。
そして極め付けが信長の生存である。
生存を秘する旨を伝えられた元正は「森家からこの事が漏れた場合、某が家中全ての者を撫で斬りにした上で、最後に腹を切り申す」とまで言い切るほどの覚悟を決めた。
表向きは「当主・武蔵守長可討ち死にのため、しばらく喪に服す」という名分で、領内の行き来を制限して他の家臣たちの登城も控えさせた。
そうしてとりあえずの情報の漏洩を防いだ信長たちは、今後の予定を長可をはじめとする森家に伝え、手を貸すよう命じた。
無論ここで難色を示すようなら、そんな者はとっくに長可に首を刎ねられている。
むしろ上様生存を大々的に報じてこのまま一気に天下布武の続きを、と息巻く者までおり、それらを宥める方がよほど手間がかかった。
さらに口が堅く、信頼できる者を信長の護衛に欲しい、という話になってまたも家臣たちは揉めた。
上様の護衛の任を賜る、となれば生半可な者ではいけない。
居合わせた家臣がそれぞれ「ぜひ某の倅を!」「いやいやわしの甥に手練れがおり申す!」「いっそわしにお命じ下され!」と次々と名乗りを挙げ、最終的に長可自身がその任を奪い取るように拝命し、家臣たちが一斉に不満を露わにする一幕まであった。
ともあれ先代当主・可成から続く忠誠心により、森家は一丸となって信長を支える事を決めた。
あとは家康が美濃国に入った時を見計らって、合流すれば良いだけの話である。
無論秀吉からの監視兼道案内役がいるだろうから、その者の目を誤魔化す必要がある。
なので家康は百を超える家臣を引き連れ、大人数での大坂城来訪を決めた。
そうして信長・蘭丸・光秀・長可に似た背格好の家臣を用意し、美濃国内でこっそり入れ替わる予定である。
そしてついに、その日がやって来た。
家康が居城・浜松城を発って、まずは三河・尾張・美濃といった国を経由し、近江国佐和山まで来たらそこからは佐和山城主・堀秀政が大坂城まで案内する、という予定である。
堀秀政は信長の小姓を務めていた時代から、何かと家康とも顔を会わせる機会も多く、お互いに気心も知れる一方で、先の戦いでは敵対していた間柄でもある。
堀秀政は秀吉から表向き蟄居を言い渡されていたが、家康をもてなす為という名目で蟄居の命は早々に解かれ、万全の備えをもって家康を歓待せよ、という新たな命を下されていた。
当然のことながら妨害する勢力などは無く、家康は三河・尾張を経由して、美濃国に入って信長たちと予定通りに合流することが出来た。
移動中に人数の増減があればさすがにバレてしまうであろうが、信長たちの合流に合わせて家康の連れてきた家臣たち四人は美濃国内で別れ、こっそりと三河へ帰る事が決まっている。
こうして表面上の人数の増減は無く、秀吉からの案内兼監視役の目を逃れながら、信長・光秀・長可・蘭丸の四人は家康に合流を果たした。
そうしてついに一行は、近江国佐和山城へと入った。
出迎えた堀秀政は「ご無沙汰しております、徳川様」と、丁寧に頭を下げた。
かつては自らが仕える主君の同盟相手、そして今また新たに仕える事になった、羽柴秀吉の新たな同盟相手となる徳川家康に対し、秀政は複雑な心境を抱いていた。
信長が本能寺で消え、かつての同盟相手として信頼していた徳川とも矛を交え、そして辛酸を舐めさせられた後は、今こうして秀吉の命令で歓待している。
なんとも、世の移り変わりの激しい事だ。
昨日の敵は今日の友、という言葉の一方で、今日の友が明日の敵ともなる。
そうして今また、去年の敵が今年は友となろうとしている。
秀政の心に、「諸行無常」の文字が浮かんでいた。
家康を出迎え、表面上はかつて信長が生きていた頃のように、和やかに話す秀政。
しかしその眼に映る、どこか虚ろな色を見て取った者がいた。
他でもない、かつては秀政を己の一番側に置いて重用した人物、信長本人である。
他の者には分からぬ様に、光秀と蘭丸に合図を送る。
その合図に気付いた二人が、不自然にならない程度に信長に顔を寄せた。
「秀政の眼を見たか?」
「眼、でございますか?」
「……少々覇気が無いように思われますが…」
信長の問いに、蘭丸は言われて秀政をまじまじと観察する。
そして光秀は一拍遅れてから、見て取った秀政の様子に少しだけ違和感を感じた。
それは不穏な感情や不審な動きなどではない、言うなればどこか動きにキレが無い、記憶にある堀秀政の動作からは、随分とかけ離れた様子が見受けられた。
本能寺の一件の直前までは蘭丸は小姓として、光秀は実質的な信長の片腕として側に仕えていたが、秀政が武将として一軍を率いるようになるまでは、秀政が蘭丸の役割を担っていた。
その際には光秀のような信長の片腕、名代としての任を任された事もあるほどの男である。
いわば蘭丸がこなしていた仕事の他に、光秀の担っていた仕事の一部も行えていた程の有能さを持つ者、それが堀久太郎秀政という人物なのだ。
信長から見てもその能力の非凡さは認める所であり、もし光秀がいなければ信長の片腕として側にいたのは、あるいは秀政であったかもしれない。
己に確固たる自信を持ち、だからと言って慢心や油断を持たずに己を律することの出来る、数少ない男でもある。
武勇を誇るでもなく、学をひけらかすでもなく、ただ己の成すべきことを成し、努力する事も泥にまみれる事も必要とあらば厭わず、それが『名人』たる男を作り上げた。
そんな、信長が認めた数少ない有能たる者の姿が、信長の目には滑稽に映るほど見る影も無かった。
「分かるか? あやつはあのような疲れた笑いを浮かべて客を出迎える腑抜けではなかった。 顔では笑みを浮かべておっても、頭では油断なく物事を考え、周囲を常に視界に入れる。 わしがその様に育て上げたと言うに、あの様はなんじゃ。 あれが『名人』久太郎とは笑わせてくれる」
そう言い放つ信長の顔は、笑うどころか不満を隠そうともしていない。
信長の命ずる如何なる無理難題にも全力を以て当たり、それに適うべく日々研鑽を怠らなかった男が、わずか二年足らずで随分と変わってしまった。
光秀の指摘通りに覇気が無く、最後に見た姿からは随分と老け込んでしまったかのようにも見える。
堀秀政はまだやっと三十路を超えたばかりであり、いわば男盛りと言っていい年齢である。
それが、どこか虚ろを宿した眼で疲れた笑みを顔に浮かべ、表面上だけは和やかに家康と歓談している。
「……喝を入れてやらねばならんな」
「まさか、上様…」
「知る者は少ないに越した事は……」
信長の呟きに、蘭丸と光秀の顔に同時に焦燥が浮かぶ。
信長は一度決断したら、大抵の事では覆る事が無い。
それをよく知る二人だからこそ、眉間にしわを寄せながら進言するが、信長の目は秀政から離れない。
これは、秀政のためにもなるか。
信長が一度決断したのなら、自分たちのやる事は翻意を促すのではなく、その決断したことを実現させるために手を尽くす事だ。
なので、二人はそれ以上口を開くことは無く、かつての同僚の変わり果てた姿を、何とか元に戻すために全力を尽くすと決めた。
そしておそらく、そのために最も効果的な方法は最も自分たちにとって危険な方法になる、と二人は同時に理解していた。
許されるなら盛大に溜め息を吐きたい、あるいは天を仰いで手で頭を押さえたい。
だが信長の手前、そうする訳にはいかない。
二人はとりあえず家康に事の次第を伝え、秀政と内密に話す場を設けさせるしかない、という結論に同時に達していたのだった。
一方、光秀が前久を介して秀吉の耳に入れた策は、予定通りに展開していた。
秀吉は毛利と上杉に使者を送る事を決め、毛利には本人たっての希望で黒田官兵衛が向かう事となり、上杉には石田三成がそれぞれ向かう事となった。
これは三成がその性格上、公家衆とはすこぶる相性が悪い、と判断した秀吉の決定であった。
なので前久の補佐役として京に滞在するのは、増田長盛や前田玄以、そして補佐役筆頭には浅野長吉(後の長政)が任じられる事となった。
浅野長吉は秀吉の正妻・寧々の義理の兄であり、文官としての才覚を感じさせる男であった。
秀吉にとっても朝廷への工作は、決して手を抜ける作業ではない。
石田三成が抜けた穴も、この男だったら埋めてくれるだろうという期待を込めて、長吉を朝廷工作を補佐する者の筆頭に据えたのだ。
長吉自身の領地も近江国の大津であり、京からほど近くにあるため人事の点も問題は無い。
そうして家康が浜松城を発つ頃には、三成は上杉家で上杉の主従を相手に、そして官兵衛は毛利家の使者・安国寺恵瓊を相手に、それぞれ弁舌を振るった。
だがそれぞれが語った内容は、三成と官兵衛でまるで違うものであった。
三成はその生真面目な性格が示す通り、天下万民のために何卒ご英断頂きたい、と上杉家当主・上杉景勝と上杉家執政・直江兼続を真摯に説得。
「義」の家風を掲げる上杉家が『天下万民のため』という題目を掲げられては、無碍にも出来なかったのだ。
とはいえすぐには結論も出せない、とした上で三成はその場で返答をもらうことが出来なかった。
だが次の日、夜通し語り明かした上杉景勝と直江兼続、さらに幾人かの重臣たちの間で結論が出た。
天下の情勢と、上杉家の現状を鑑みた上での決断であった。
なにせ現在の上杉家は、羽柴や徳川と正面から戦うだけの余裕はない。
一対一でも厳しい所を北越後の新発田重家の横槍があり、さらに徳川と羽柴の連携で攻められた日には、一年も持たずに滅亡の憂き目に遭うだろう。
さらに三成は毛利家にも使者を送っている旨を正直に話した。
これによって、東国の徳川・中央の羽柴・西国の毛利の三ヶ国同盟が成立してしまえば、上杉に残された道は従属か滅亡のどちらかだ。
ならばまだ、前述の三ヶ国に北国の上杉を加えた四ヵ国同盟にしてしまえば、扱い的には日ノ本の中心に名を連ねることにもなる。
当主と執政、二人が出した結論に対し、他の重臣も異を唱えることは無かった。
三成の、全てを隠さずありのままに話す気真面目さが、功を奏したとも言える。
さらに『近衛前久からの提案』、これもまた上杉家中を同盟参加に前向きにさせた。
先代・上杉謙信と近衛前久の親交は上杉家中では周知の事実であり、その前久からの提案という時点で、上杉家では既に感情論による反対は出せない空気となっていた。
さらにもしこれが成立した場合、同盟に参加した四ヵ国中最も国力に劣っているのは、認めたくはなかったが他でもない上杉家であった。
その結果「近衛様は我ら上杉家に天下の中心にあれ、と思し召しなのでは」という意見が出始め、さらには「現在の上杉の窮状を見て、手を貸して下さったのだ」と勘違いを始めた。
そして上杉の主従は「近衛様からの御厚情、無視致すべからず」と意見をまとめた。
翌日にはそれを家中の総意として、再び三成は景勝の前に呼ばれ、上杉の同盟参加に前向きである、という意思を伝えられた。
上杉家の家風や現状を鑑みれば、同盟参加に対して比較的前向きには考えるだろう、というのが三成の予想であったが、まさか一晩ですぐに結論を出されるとは思わなかった。
しかし上杉家中は近衛前久が絡んだためか、結論を伝えた途端すぐさま上洛の準備を始めた。
だが上杉家は未だ敵対中の新発田重家のこともあり、当主・景勝が動く訳にはいかなかった。
なので当主の名代として執政・直江兼続が同盟参加のための会議に出席を決めた。
石田三成と直江兼続は共に大坂へ向かう事となり、二人はその旅の間に親睦を深める事となった。
互いが生真面目にして明晰な頭脳を持つが故か、二人は自然と意気投合し、ついには義兄弟の杯を重ねるまでに至った。
三成と兼続が親睦を深める一方、西国ではとある廃寺で二人の男が密談を行っていた。




