信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その5
情けない事に夏カゼをひいたようです。
今回と次回分はなんとかストックがあったのですが、それ以降が少々不安な様相を呈してきました。
話の大事な所で大変恐縮ですが、8月以降の更新がどうなるのかが現在未定です。
楽しみにして頂いている方々には大変心苦しい限りなのですが、なんとか体調の回復を図りつつ更新していきたいと思います。
信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その5
前久が秀吉との会談を終えて、私室へと入った。
部屋に入って気が抜けたのか、前久は首や肩をコキコキと回していると、そこに家人が白湯を入れた茶碗を盆に載せて現れた。
前久が一人の時に白湯を持って現れるのは、『隠れ軍監』の者である証である。
前久が呼んだ『隠れ軍監』木猿は素早く部屋へと入り、前久の面前に白湯の入った茶碗を置いてから、正面に座り直して平伏する。
この男はかつて、光秀による本能寺襲撃の際、信長と共に逃げるためにあえて傷を負った男である。
その後は京に潜伏しながら傷を癒し、前久が帰京する段になって近衛家の家人、下男として潜入していた。
無論これは前久も知っている事であり、前久が京にいる間は、浜松にいる家康・信長・光秀への連絡は木猿を通して行われていたのである。
本来であれば身分の定かではない者が近衛家に仕えるなど、という反対が起きる所ではあったが、そこは前久と上手く口裏を合わせ、かつての知り合いだという事で周囲を納得させた。
当初こそ他の者から訝しがられていたが、どんな仕事も文句一つ言わずにやっている姿から、自然と警戒心は解かれていき、今では誰も彼に不審な目を向ける者はいない。
木猿にとっても、忍びの訓練に比べれば公家の屋敷での仕事内容など、かえって身体が鈍ると思ってしまうほど容易いものであった。
「三人に伝えておくれやす。 すこぶる順調や、と」
前久の言葉に、木猿は平伏しながら表情一つ変えずにコクリ、と頷いた。
その様子を見て前久は白湯を一口すすり、言葉を続ける。
「ホンマに毛利や上杉まで釣れるかは分かりまへんけど、餌は充分撒いたつもりや。 あとは釣り人さんの腕次第やな、お手並み拝見と参りまひょ」
言ってさらに白湯に口をつけ、そのまま一気に飲み干す。
白湯を飲み干すときが、連絡終了の合図である。
前久が茶碗を置くと、平伏したまま木猿がその茶碗に手を伸ばす。
そして一礼してから立ち上がり、部屋を出る時もまた一礼してから姿を消す。
その様を見てから、今度こそ完全に気を抜いたのか前久はぷはぁ、と大きく息を吐いた。
「ふぅぅぅぅ……今や天下人に一番近い者を騙すやなんて、骨が折れますなぁ……ま、でも秀吉はんもウチに勝手に人を入れたんやからおあいこやろな」
石田三成が前久に不審を抱き、忍びを使って前久の屋敷を調べさせた際、前久をはじめとする家の者達は全くその存在に気が付かなかった。
天井裏や軒下など、様々な所に忍んでいた忍びの存在に気付いたのは、同じ忍びである『隠れ軍監』の木猿だけであった。
なので木猿は、前久に白湯を出す際にあえて盆を使わずに、手で持ったまま前久の前に置いた。
これは「現在異常アリ、今は連絡を控えて下さい」という意味である。
察した前久が、何事も無かった様に白湯を飲み干して茶碗を下げさせたことで、前久の口から木猿の存在が漏れることは無かった。
後になってから聞けば、どうやら秀吉配下の忍びが前久の屋敷を検めて回っていたと聞き、前久は不快さを隠そうともしなかったが、それでも後ろめたい事をしている自覚があったのか「仕方ないやろな」という、極めてアッサリとした言葉で締めくくっていた。
そうして、今日も前久は徳川にいる三人に伝言を送った。
先程の木猿が京の洛中にいる仲間に、先程の前久の言葉を一言一句余さず伝え、その仲間が紙片に書き写して、幾人かの仲間を伝って浜松まで届くのである。
実はその機構の現在の維持費は、前久持ちとなっている。
正確に言えば、秀吉が前久に預けた金の一部を充てる事で、『隠れ軍監』の維持にかかる諸々の費用を全部秀吉に負担させているというやり方であった。
「桜が咲く頃やろか……忙しゅうて花見も出来んようになるのは、嫌やなぁ…」
羽柴秀吉の肝煎りで、そして黒田官兵衛の縄張りによって完成した大坂城。
その大坂城で、天下の命運を左右するかもしれない出来事が、起こるかどうかまでは分からない。
だが家康は近く、浜松城を発つはずだ。
家康が大坂城に着くその日は、今から逆算していくとちょうど桜が見頃になる時期かも知れない。
それをどこか他人事のように、しかしそれでいて楽しそうに、言葉とは裏腹に口元に笑みを浮かべた前久は、予想がそう大きくは外れないであろうという確信だけは持っていた。
秀吉が前久から、四家による日ノ本分割統一の構想を聞かされ、それの実現を本格的に考え始め、それを秀長や官兵衛に語る日がようやくやって来た。
日数にして既に十日、秀吉が前久と会ってからそれだけの時間が流れていた。
二人ともそれぞれに受け持った仕事が忙しく、なかなか時間が取れなかったために今日まで日延べしてしまっていたのだ。
そして秀吉が秀長と官兵衛にその考えを語り、両者の意見を求めた。
まず発言をしたのが秀長だった。
「某は賛成でございます! 畿内を抑える重要性は言わずもがな。 東は美濃から西は備中、さらに四国まであれば日ノ本の中心はまさに当家が握っているも同然。 毛利や上杉には貸しを作って実質的に従属させてしまえば、徳川殿とて従わざるを得ますまい、これで天下統一は一気に早まりますぞ!」
「某は賛成いたしかねます。 そもそもが楽観視し過ぎている、と言わざるを得ませぬ。 毛利や上杉とて矜持がありましょう、ただその方が都合が良さそうだ、という理由だけでこちらの提案を呑むとは限りませぬ。 よしんば手を組めたとして、それぞれの勢力の境界線をどこにするかで揉めるのは必定。 妙案とは思いますが、実現は難しゅうございますな」
秀長の言葉に対して官兵衛が口を開き、大体秀吉の予想通りの答えが返ってきた。
秀長はその性格上、血で血を洗う戦で争い合うよりも、和を以て尊しとする人間だ。
一方の官兵衛は、これもまた良くも悪くも己が才覚を世に出したくてたまらない人種である。
なまじ自らの発案以外の手法で戦が行われない世となってしまえば、自らの手腕を発揮する場が無くなってしまい、己の才覚と野心を持て余してしまうだろう。
そして秀吉としても、秀長の言っている事は即座に頷ける一方で、現実的な問題としては官兵衛の意見の方が正しいだろう、というのが本音であった。
「うむ、両者の意見は分かった。 わしとしても悪くはないとは思っておる、じゃが官兵衛の言う通り実現は難しかろう、というのが紛れもない本音でな。 だが試すだけ試してみんか?」
「試す、ですか?」
黒田官兵衛が訝しげに問い返す。
「うむ、試すのよ。 まずは毛利と上杉にそれぞれ使者を送り、徳川を交えて大勢力同士で手を組み合い、それぞれの敵に当たろうではないか、という話し合いの場を持ちたい、という旨を伝える」
「なるほど、それで先方が乗ってくれば」
「ダメで元々、ではあるがやってみるだけやってみても良かろう。 幸い毛利も上杉も今の所は敵対しとらんし、それぞれ敵を抱えておる。 案外乗って来るやもしれぬぞ?」
秀長の顔には笑みが浮かび、ぜひそうしよう、と言わんばかりだ。
一方の官兵衛の眉間にはしわが刻まれている。
普段から無表情な分、こういう時の官兵衛は機嫌が悪いという事が、秀吉にはすぐに分かる。
「不服か?」
「いえ、それが殿の御裁断であれば従います。 ただこの案の発案者は殿ではありませぬな? あまりに理想論過ぎて、おおよそ殿の普段の言動からはかけ離れた物に思えまする」
「む、う……ま、まぁな。 実を言えば近衛様からの入れ知恵でな、一刻も早う戦の無い世にしてくれとせがまれたのよ。 毛利と上杉が難色を示したならば、自分の名を使って呼んでも良いから、とにかくまずは交渉だけでも行って欲しいという事じゃ。 動きもせんでは近衛様からの頼みを無視することになる、よって向こうの反応待ちではあるが、やるだけやってみんとわしも顔が立たんのでな」
そう言って秀吉は苦笑を浮かべている。
官兵衛はそういう事か、と眉間のしわを深くした。
要は戦を知らぬ、強いてはこの天下の情勢もいま一つ分かってはおらぬ、そんな公家に貸しを作ってしまったがために、言う事を聞かざるを得ない状況にされた訳か。
近衛前久、思った以上に厄介な者を内に抱え込んだやも知れぬ。
官兵衛の中で、近衛前久への警戒度が上がる。
理想論、と断じてしまえる様な甘っちょろい意見。
だが秀長のような人間には魅力的な名案に見えるだろうし、秀吉としてももしこれが上手くいけば、前久の顔を立ててやりながら自らの天下統一にも近付いて、良いこと尽くめの様に思える。
だが何かが引っ掛かる。
このような甘い意見を、いつかどこかで見たような気がする。
どこだ、誰に、何が起きた時にこのような話を聞いた。
官兵衛が瞑目して思考の海に沈む。
いつかどこかで、これと似たような意見を見たような気がした。
確かその時も、何を甘い戯言を、と思ったはずだ。
官兵衛が深く静かに思考の海へと潜航する。
そしてようやく見つけた、自らの探し求める答えとその在り処を。
あれは、そうだ。
本能寺の一件で織田信長が、明智光秀によって討たれた、という話を聞いた直後だ。
いや、正確に言えばそれを報せる文が届き、秀吉から渡された文に目を通した時だ。
そこには確か、明智からの提案で『諸国で手を取り合った国作りを行いたい』という旨が記されていたはず。
そうだ、近衛前久からの提案は、あの時の明智が出した提案と酷似、いや範囲が絞られただけで基本的な内容は全く変わらない。
これは、単なる偶然なのか。
いや、それともまさか近衛前久が明智光秀と裏で、いやいくらなんでもそれは無い。
近衛前久にとって、織田信長の死は痛恨事であったはずだ。
ましてや明智は既にこの世の者では無い。
山崎の戦で破り、その後は首まで晒したのだから生きているはずもない。
夏場であったために腐乱が激しかったが、その首は既に埋葬もされている。
可能性としては、近衛前久は織田信長と明智光秀、その両名とも親交があった。
そして信長を討った光秀が、諸国で手を取り合い助け合う、いわゆる連合国家を作り上げようという構想を持っていたとして、生前の内に何らかの手段を使って前久にその構想を託したのか。
それならばあり得る、あの本能寺の一件直後、その二人は共に京にいたはずだ。
こちらとの合戦を行うまでの間、明智光秀が万が一の時には、と近衛前久に後事を託していたのなら。
そして近衛前久が己の立場を上手く使い、この場でその託された構想を持ち出してきたのなら。
さらに近衛前久は徳川の元に一時身を寄せていた。
ならば徳川は既にこの構想を聞かされ、今回の和睦締結後、そのまま連合国家構想への参加を既に決めていたのなら。
羽柴と徳川、この二大勢力が手を組むことが既に確定しており、そこに毛利と上杉がどう反応するのか、少なくとも上杉は話に乗る可能性が高い。
なぜなら上杉は四つの勢力の中で、一番規模が小さいと言えるからだ。
自家よりも大きな勢力を持つ家同士が同盟を組み、そこに自分も参加を呼びかけられておきながら拒否をする事は、すなわち潜在的には敵対すると宣言したも同然になる。
上杉は羽柴の勢力圏と徳川の領地の両方と隣接しており、もし同時にこの二つの勢力を敵に回せば、上杉家の滅亡は想像に難くない。
ただでさえ現在は新発田重家という、北越後の勢力に手間取っている状況で、わざわざ望んで挟撃されるような愚を犯しはしないだろう。
毛利は分からない、戦略的に利があると分かれば乗る可能性は高いが、羽柴家との対立・戦いの記憶は未だに新しく、実質的な半従属同盟という話に乗るかどうか。
ただ毛利として見れば、背中を完全に預けられるのならそのまま九州へと戦力を集中させて進軍し、博多や長崎といった港、さらには琉球へと続く薩摩・大隅まで手に入れられれば。
中国地方と九州の大半を手に入れることが出来れば、毛利は間違いなく超大国となる。
実質大陸との貿易は、毛利の独占に近いものとなるからだ。
さらに琉球などとも繋がれれば、ルソンなどにも交易の手は広げられる。
畿内を掌握し、四国を手に入れた所で、もしかすれば羽柴とは立場を逆転させることも可能なほどの、恐るべき財力を手に入れる事も可能かもしれない。
もしこの可能性までを視野に入れたなら、毛利とて手を組むことも吝かではないだろう。
ただでさえ石見銀山という、莫大な量の銀を産出する銀山を持っているというのに、この上交易でさらに財力を蓄えたなら、毛利は間違いなく危険な水準まで国力を高めてくる。
官兵衛自身やがては羽柴秀吉さえ超えてみせる、とは思っていても、それ以前にもっと強大な敵を生み出す訳にはいかない。
少なくとも毛利は、毛利だけはこの大同盟に参加させてはならない。
毛利には幸い伝手もある、毛利の外交を一手に担う外交僧・安国寺恵瓊を通じて、毛利と羽柴の間に亀裂を生じさせておかねばならぬ。
官兵衛がそういった考えを巡らせている間に、秀吉と秀長はそれぞれ使者を送る事を決め、その使者の選定を秀長に任せる、という所まで話が進んでいた。
「恐れながら! 某に毛利への使者をやらせて頂く訳にはいかぬでしょうか?」
「うん? いやしかしお主はこの話に反対じゃったろ? 反対しておる者を使者に送れば、そもそもその話自体を無かった事にしてしまう恐れがあるじゃろうが」
「いえ、毛利には伝手がございます。 毛利の安国寺恵瓊と某は昵懇の仲ゆえ、お互いの立ち位置なども正確に把握した上で、気の置けぬ話をすることも出来ます。 ましてや彼の者はなかなかの曲者ゆえ、初めて会う者は大抵煙に巻かれます。 大坂城建築も滞りなく終了しております、次のお役目として某にぜひ使者を!」
いつもの官兵衛からは想像も出来ぬ、熱を帯びた願いに若干秀吉が気圧される。
秀長もいつもと違う官兵衛の様子に戸惑いつつも、視線で秀吉に「どうします?」と問いかけている。
「何卒!」と、睨むような目付きで迫ってくる官兵衛に、やがて根負けするように秀吉は溜め息を吐きながら首を縦に振った。
「分かった分かった、お主がそうまで言うなら任せよう。 じゃが念のためじゃ、正式な使者はもちろんお主で構わんが、もう一人副使として付けるが構わんな?」
「御意、もちろん否やは申しませぬ。 むしろ当然のご配慮かと」
「ん、では決定じゃ。 秀長、上杉の方に送る使者はお主が選べ……あー、いや、待てよ…やはり佐吉にするか? あやつはどうにも公家衆とは相性が悪いでな、今の役目は増田長盛辺りに引き継がせ、しゃちほこばった上杉には、肩肘張った三成に行かせよう。 案外あれで合うかもしれぬ」
次々と指示を下し、これで当面のそれぞれの仕事は決まった。
秀吉と秀長は様々な仕事に追われながらも、家康への人質として自分たちの母、なかを向かわせることに決定し、兄弟揃って地べたに額を付けて懇願した。
自らが産んだ息子二人に揃って頭を下げられ、さらに極秘なはずの大勢力同士の同盟により、戦が無くなる日が近付くかも知れないのだ、という話まで持ち出されて説得を受けた母親は、最後には笑顔で了承してくれた。
姉や妹からは散々文句も言われたが、それでもどうか堪えてくれ、と二人に何回も頭を下げられ、最終的には笑顔の母親の鶴の一声で決着を見た。
こうして家康の元には秀吉と秀長の生母、なかが向かう事になり、その日程の調整に入った。
同じ頃、官兵衛は毛利との国境付近にほど近いとある寺を借りて、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊と会談を行う事が決まった。
その一方で上杉家の本拠城・春日山城へと向かうため、石田三成が京を発った。
近衛前久と明智光秀、その二人の関係性に気付きかけた黒田官兵衛ではあったが、今の彼の脳内には毛利家の同盟への参加を妨げる、という一点しかなかった。
これが後に、彼を大きな後悔へと突き落す事になるとは、今は誰も知る由も無かった。
そして寒さも和らいできた時節になり、秀吉と秀長の生母・なかを乗せた輿が、大坂城を出発した。




