信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その3
信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その3
本能寺の境内に明智軍の兵士たちが雪崩れ込む。
彼らは未だ誰を敵とし、討とうとしているのかも知らない。
一説には信長の密命により、安土へ招いた家康を騙し討ちするものだと思っていたとも言われている。
とにかく末端の兵士たちに出来ることは、向かった先にいる槍を構え、矢をつがえ、火縄銃で狙いを絞っている者たちを、次々に屠っていく事だけだった。
本能寺の境内は、たちまち戦場と化していった。
槍を片手に、信長は廊下の欄干に片足を乗せて、向かってくる兵士を一突きにした。
呻いて倒れ込む兵士を薙ぎ払い、響き渡る大声で言い放つ。
「わしを殺そうとする不埒者どもがッ! この信長自らが冥府へと送ってくれるわ!」
その言葉に、向かってきた兵士たちの動きが止まる。
誰も彼もが判で押したように驚愕に目を見開き、口を開けたまま硬直する。
そこを鉄砲玉や弓矢が襲いかかる。
悲鳴を上げて倒れ込む者、恐慌状態になってオロオロとする者、上官へ指示をもらおうとする者。
今度は反応が分かれたが、信長に向かってこようとする者は相変わらずいなかった。
(ふん、相手が誰だか分かった途端にこの有様か、つまらんな……どうせなら日の本一の大将首と思って攻めてくるくらいはせぬか! 兵の統率がなっておらんぞキンカンめ)
この期に及んで兵の質に考えが飛んでしまうあたり、生粋の支配者の思考回路だという事に信長自身は気付いていない。
そこへ、立派な甲冑を付けた武者が本堂へと駆け寄ってきた。
甲冑の武者は相手が信長だとわかった上で、真っ直ぐに向かってきたのだ。
その武者が放つ眼光、そして刀を構えた隙の無い佇まいに、信長は正面から相対する。
「良き武者振りぞ、名乗れぃ」
「明智日向守が家臣、明智左馬助秀満、推して参る!」
その名を聞いて、内心で信長が舌打ちする。
明智左馬助秀満、光秀の娘を娶って明智姓を名乗る事になった男である。
光秀にとっての一門衆の武将でありながら、常に一番槍を競うような血気盛んにして、勇猛果敢な武将である。
この本能寺においても、おそらくは一番槍を競ってここまで来たのだろう。
信長も以前、光秀の娘婿にはなかなかの武辺者がいるとは聞いていた、それが目の前の秀満だ。
信長の得物は槍、秀満の得物は刀。
普通に考えれば信長の優位は覆らないが、それはあくまで得物だけの話である。
秀満程の武者ともなれば、信長の槍をかいくぐって一太刀入れる、という事も充分に可能だろう。
ここで源平武者のごとく一騎打ち、というのも興が乗りそうではあったが、秀満の名乗りに合わせて周りの兵の動揺が収まってきており、数を頼みに攻めかかられてはせっかくの策も水の泡である。
数に任せた雑兵と、荒武者・秀満を同時に捌くのは難しい、ならば。
信長が一歩横にずれる。
その後ろに隠れていた形のフクロウが、正面に立つ秀満を狙って鉄砲を放つ。
ダーンッという銃声が響く中、間一髪の所で横に飛び退いて銃弾を避けた秀満が、転がりながら体勢を立て直し、信長と後ろですぐさま次弾装填をしているフクロウを同時に睨む。
「名乗らせておいて鉄砲玉とは、お人が悪い」
「百を討つのに万を用意するお主の義父ほどではないわ」
堂々と言い返す信長に、痛い所を突かれた、とばかりに顔を歪める秀満。
「足軽に討たせるにはあまりに惜しいその首級、せめて某の手で介錯を、と思いましたが」
「無用じゃ、下がれ」
その会話の内にも、フクロウは二発目の準備をほぼ終えている。
このまま秀満が信長に向かった場合、秀満の刀が信長に届く前にフクロウの鉄砲が秀満を貫くだろう。
他の兵士たちも掛かるに掛かれず、睨み合いによる膠着状態となった。
「どうしても信長の首が欲しくば、キンカンの許可でももろうて来い。 お主が戻るまでの間は雑兵どもを相手に遊んでおいてやるわ」
その挑発に秀満は一瞬飛び掛かりかけたが、戦場で冷静さを失うのは愚の骨頂である。
秀満程の武者がその事を知らぬ訳が無い。
奥歯を噛み締めた秀満は刀を納め、信長に向かって一礼する。
「不躾ながら、名乗りを挙げておいて御前を去るご無礼お許し願いたい。 主・日向守様の許可を頂いて後、改めて参上致す」
そう言い放ってすぐさま門へと駆け出す秀満。
信長の挑発にあえて乗った上で、次は絶対に討ち取ってみせるという気概がその声に滾っていた。
その背中にフクロウは鉄砲の狙いを付けるが、信長に無言でそれを制された。
敵とすれば厄介な相手ではあるが、正面から堂々と名乗って来た相手を背中から鉄砲での騙し討ちは、あまりと言えばあまりな手段である。
何より勇名を馳せた武士がその死に様というのは、信長自身の矜持が許さない。
強敵を一旦退けた信長は、その後も次々と掛かってくる足軽たちを相手に獅子奮迅の動きを見せる。
蘭丸が信長の脇を固め、フクロウが一旦下がって仲間との連絡を取る。
先程の明智秀満とのやり取りで、実質的な時間制限が出来てしまった。
本来であれば程々に戦い「この首、不忠者にはやらぬッ!」などと叫んで、奥に引っ込んで自刃して火をかけて、遺体を焼いて死んだと見せかけるという考えだった。
だが明智秀満がここに戻ってくれば、おそらく今度は逃げ切れない。
そうなれば明智秀満を討ち取って当初の作戦通りにするか、何とか逃げ切るか。
どちらにしろなかなかに難しい方法になる。
ましてや信長の考えでは、なるべく手傷の一つも負いたくないのだ。
だがあの武者振りを思い返すと、無傷の勝利というのはムシが良すぎる気がする。
それでもあの場で背中を撃つというのは、信長の選択肢にはない。
もしかしたらあの者も、信長の構想に将来的に役立つ男かもしれないからだ。
この期に及んで先の事を考えてしまうのは、もはや信長の悪癖と言えた。
今この瞬間には殺されるかもしれないという、絶望的な状況の中でも全くそんな気が起きない。
むしろこんな状況でもどこか楽しめてしまう己は、おそらくどうしようもない程の戦国に生きる男なのだと、己の在り方に苦笑すらしてしまう。
そんな事を考えながら、離れた所から自分に狙いを定めた鉄砲足軽に向けて、持っていた槍を投擲して牽制し、すかさず蘭丸から受け取った弓矢をつがえ、つるべ打ちにする。
若い頃は自ら馬を下りて足軽と共に戦い、泥にまみれ、手傷を負い、戦い抜いてきた。
家督を継いだ一軍の総大将であるにも拘らず、自ら敵と切り結んだ事すらある。
剣術・弓術・槍術・馬術などは誰かに教わるよりも、進んで自ら動き身体に慣れさせた。
その道に何十年という生涯をかけた剣豪などには及ばずとも、そこらの足軽雑兵ごときに後れを取るような信長ではない。
五十路の年齢に近づいても、戦場の空気に触れた信長は、むしろ嬉々として敵を打ち倒していた。
「上様!」
声に振り向けばフクロウが自分を呼んでいる。
どうやら久々に自ら身体を動かして戦っていたため、夢中になっていたようだ。
そしてフクロウが小さく頷いたのを見て、そばの蘭丸の肩を軽く叩く。
それで蘭丸も承知し、フクロウ先導の後を歩き、信長はその場から遠ざかっていく。
「皆の者! 上様のご最期を決して邪魔立てさせるな! 上様の最後の誇りを護るのは我らぞッ!」
蘭丸の激に、未だ生き残って奮戦している者が「おお!」と声を張り上げる。
数の差は歴然、装備も上、しかも指揮を執るのはあの明智光秀。
それでも本能寺で防戦する者たちは、決して士気が下がらない。
むしろその勢いに気圧され、信長を討つという負い目が、明智軍の動きを鈍らせるほどだった。
本能寺の戦は、終盤へと向かっていく。
信長に挑発され、その挑発に乗った上で討ち果たす決意を固めた秀満は、光秀の馬前に立っていた。
「日向守様、何卒某に前右府様を討つ御許可を頂きたい!」
日向守とは光秀の事で、前右府とは信長の事だ。
どちらも朝廷から与えられた官職で、九州にある現在の宮崎県、当時の国名「日向」を治めることを朝廷から公に認められた官職が「日向守」である。
だからと言って、光秀が単身そこまで行って「日向守」だと名乗った所で、その地の者全てが従うわけではない。
あくまで便宜上の物として扱われることが多く、ただの肩書に過ぎないものではあるが、それでも公の場においては光秀は「日向守」として呼称されるのだ。
そして前右府というのは前に右大臣という官職に就いた人、という意味である。
朝廷が信長に何とか手綱を付けたくて、信長も嫌々ながら受け取った官職である。
すでに朝廷に煩わしさを感じていた信長は、これ以上しつこい使者をよこされるのを嫌い、嫌々ながら受け取って、すぐさま辞任したという逸話もある。
もちろんこれは朝廷の面目を潰す行ないでもあり、当時の朝廷と公家衆はいたく狼狽した。
官職で飼いならすことの出来ない男、として公家衆が思い知らされた一件である。
だがそれでも右大臣という地位はまさに雲の上の存在であり、公家の中でも一部の上級公家の生まれでなければ絶対に就くことが許されない職でもある。
当時の大名たちの中でも、その地位に就けた者は他におらず、そういったものを誉れと考える者たちからしてみれば、信長の行為はうつけを超えて狂っている、とすら見えた事だろう。
右大臣の上にはせいぜいが関白・太政大臣・左大臣程度しかおらず、あとは朝廷の頂に君臨する帝以外には、頭を下げる必要が無いというほどの位の高さなのである。
そして信長は、たとえすぐに辞任しようが嫌々受け取ろうが、公の場においては「前右府様」と言われる地位にいるのである。
自分の妻の父、つまり義父であろうと「日向守様」と公の名で呼び、討ち果たすと決めた信長であろうと「前右府様」と呼ぶ、この辺りに公私をしっかりと分ける秀満の生真面目な部分が垣間見える。
「左馬助殿、信長はすでに敵! それを前右府様などと」
「よい」
秀満の物言いに斉藤利三が口をはさむ。
その斉藤利三に光秀は手を出して制し、自分の返答を待っている秀満をまっすぐに見る。
馬に乗る自分を、わずかの身じろぎもせずに見上げて待つ秀満。
この生真面目な荒武者は、ここで光秀が許可を出せばすぐさま取って返し、本当に信長の首級を挙げてくるだろう。
それだけの実力と気概を持っている、光秀はそう思っている。
「左馬助も利三も心しておけ。 どのような理由・経緯があろうとも我らは主君を討たんとする恩知らずの大悪党じゃ……その事をしっかと胸に刻み、生きて行かねばならん」
「殿?」
すぐそばにいた利三には、まるで光秀が泣いているようにも見えた。
多くの虐殺を行い、数多の戦を繰り広げ、朝廷をも喰らわんとする悪党を誅殺する、いわばこれは義戦、日ノ本の為を思い立ちあがった正義の戦ではないのか。
それを何故光秀は、そんなにも痛ましそうな顔で語るのか。
まるで身を切るような痛みを堪えながら語るような顔をするのか。
家老という重臣の地位にいながら、利三には理解が出来なかった。
「秀満、許可は出せぬ……あの方が我らの手に掛かりたくない、とお考えならばせめてそれまでお待ちしよう」
「それ」とはすなわち自刃である。
割腹し、首を刎ね、その首が見つからなければ信長という男が死んだ、という事を思い知らされずに済むのだ。
秀満は光秀がどういう思いで、この本能寺を攻めたのかは分からなかった。
だが、きっとこの戦を誰より望まなかったのは、この目の前にいる義父なのだという事は確信した。
光秀の言葉をただ「御意」の一言と一礼で返し、光秀に背を向け、本能寺を真正面から見据える。
光秀は口には出さず、ただ心の中だけで「上様、申し訳ございませぬ」と呟き、そっと目を閉じた。
それはまるで、親しい人に捧げる黙祷の様であった。
仕事の都合で31日と4月1日は投稿が出来ないと思いますので、本日中に次の話も上げる予定です。