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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その3

          信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その3




 徳川と羽柴の和睦条件の擦り合わせは、結論から言えば非常に順調に進んでいった。

 徳川からすれば、常に戦を優位に進めて行った分だけ有利な条件を引き出し易く、羽柴からすれば不甲斐無いと言っていい戦振りではあっても、未だ持ち得る兵力や財力に大きな差がある。

 そのため徳川があまりに優位な条件を提示して来たならば、羽柴方はのらりくらりと回答を避け、蓄えが出来たと同時に停戦を反故にして、戦を再開させれば良い。

 そのため交渉を任せられた黒田官兵衛からすれば、徳川には優位な条件での和睦などさせる気は毛頭なかった。

 だが徳川は官兵衛の予想とは裏腹に、拍子抜けするほどの条件しか提示してこなかった。


 『まず第一に、徳川家及び羽柴家、並びに尾張織田家(信雄領)の領地には一切手を付けること能わず、これは徳川家康と羽柴秀吉の存命中、両者の、又は両者が認めた代理人との同意無しには、決して破られる事の無いものとする』

 『第二に、朝廷へ工作して互いの家へ不利な勅命が下る、いわゆる朝敵にするための工作などを行わない、また官位任官や位階昇進なども妨げないこと』

 『第三に、徳川家と羽柴家は対等な地位での同盟を結び、たとえどちらか一方が勢力を広げ、日ノ本に冠たる存在となったとしても、これは徳川家康・羽柴秀吉両名の存命中は決して変えぬこと』

 大まかに言えば、徳川の出してきた条件は大体この三つに集約された。

 その条件を読んで、官兵衛はその無表情な顔の内側で、必死に考えを巡らせていた。


 勝者として振る舞うのなら、例えば金銭や物品、さらには領土などを求めるのが普通だ。

 それでなくとも人質を出せ、くらいの事は言ってくるものだと思っていた。

 それがフタを開けてみれば「あくまで対等な立場で、今後は二度と争いたくない」と言わんばかりな条件に、官兵衛は逆に警戒感を強めた。

 なんだこれは、徳川の狙いは何だ、一体どうしてこのような条件で納得が出来る、この条件で家臣は納得したのか、命懸けで戦った家臣たちに対して、これでは褒美も何もやれないのではないか。

 官兵衛には全くと言っていいほど理解が出来なかった。


 第一の条件だとこちらの領土は削られないが、逆に向こうの領地も奪えない。

 しかもサラリと織田信雄の領地にまで言及してはいるものの、よくよく見れば信雄側からの意見は必要なく、徳川・羽柴両家の利害の一致があれば、信雄の領地は好きな様に出来る。

 待てよ、ならば徳川の狙いはここなのか。

 徳川からしてみれば上杉や北条とは、既に相互不干渉を条件に和睦し、実質東側への領土拡大は非常に難しいと言っていい。

 ならば残るのは西側、織田信雄の領する尾張や池田家などが領する美濃国ぐらいしかない。


 同盟を組んだ以上、尾張に領地を求める訳にはいかないのならば美濃国、それこそ美濃一国は無理でも東美濃半国だけでも寄越せ、くらいは言って来るかと思っていた。

 ならば徳川の狙いは羽柴との和睦にかこつけ、同盟相手を織田信雄から羽柴秀吉に乗り換え、信雄の領土を併呑する事が真の狙いか。

 そして羽柴とは固く同盟を結んで、羽柴が西国、徳川が東国に隠然たる影響力を持つ大国として並び立つ。

 ある意味では上手いやり方と言える、こちらは実質的に敵と見なしている織田信雄を見殺しにする事で、東国側への侵攻を諦める事で西国側を確実に手に入れる事も、不可能ではないのだ。

 そして徳川も三河に始まり、遠江、駿河、甲斐、信濃、尾張、伊勢などの七ヵ国にまたがる領土を持てば、徳川の兵力や財力は現在の羽柴に対抗し得る領域に至るものとなる。


 そして第二・第三の条件を見ても、羽柴秀吉も徳川家康も存命中の間は決して互いを裏切らぬよう対等な立場で付き合え、とわざわざ条件に入れてきているのだ。

 これはつまり、徳川は羽柴秀吉が今後天下人に成り得ると、確信しているとも取れる。

 そこで今の内に羽柴秀吉とは対等な地位を確立し、羽柴秀吉の世となってもしっかりと己の立場を確保しておこう、という姑息だが先を見据えた見事な手段に見えた、

 徳川の今後の戦略は、この和睦条件から窺い知れる。

 この条件で行くのなら、むしろここでの羽柴の弱体化は徳川にとっても嬉しくない事態なのだ。


 羽柴は強くあり続け、これからも躍進を続け、やがては天下人と成る。

 その横に並び立つ唯一の存在、それが徳川となるのが理想の形なのだろう。

 なるほど、あえて天下を獲るのを諦める事で、第二位の地位を盤石にしておこうという腹か。

 そういえば徳川家は、織田家と同盟を結ぶ際に今川と手切れをし、その後二十年かけて三河から遠江・駿河と領土を増やしていった家柄であったな。

 そして現在は甲斐や信濃も合わせた五ヶ国の太守、そこで今度は織田と手切れをして羽柴と組み、尾張と伊勢も手に入れようとする訳か。


 なるほどな、徳川の思うがままになるのは業腹ではあるが、これはしっかりとこちらにも利のある和睦条件、いや天下獲りを行う取引だ。

 羽柴と無駄に争うのではなく、むしろぴったりと寄り添って甘い蜜を吸おうというのだから恐れ入る。

 だがいざとなれば、こちらが天下人となった後ならこんな約束などすぐに反故に出来る。

 羽柴が天下を獲った暁には、徳川に甘い汁を吸わせつつ懐柔して骨抜きにするか、何かしらの理由を付けて潰してしまえば良いのだ。

 後はこちらの思うがまま、最終的には力の強いものが全てを動かせる。


 金も物も土地も人質も、なにも要らぬから将来に渡る保証を寄越せ、というのならくれてやる。

 むしろ先見の明がある、と褒めてすらやろう。

 あの暗愚の信雄など煮るなり焼くなり好きにしろ、そちらが尾張と伊勢で満足している間に、こちらは西国全てを頂くまでよ。

 これ以上の条件、何かを付け加えさせたりしないためにも、ここは早急に了解してしまっても良いだろう、なまじ難色を示すのも危険だ。

 徳川の戦略を読み切った、という感触を自らの中で得て、しかしそれを表面上には全く出さずに、官兵衛は目の前にいる徳川方の全権を委ねられた交渉役、石川数正を見据える。


「羽柴家としてみても、この条件ならば殿もご納得して頂けるでしょう。 しかし此度の戦では徳川様は随分と御活躍なされたご様子、差し支えなければで構いませんのでお教え頂けませぬか、自らの領国でもない尾張国内で、どうしてそれほど縦横無尽に動けましたのか、を」


 官兵衛の眼が石川数正を射抜く。

 だが数正も交渉事に関しては百戦錬磨である。

 その眼光をサラリと受け流し、表情一つ変えぬままに言葉を返す。


「我が殿はかつて、織田前右府様の元で人質として過ごされた時がございました。 織田様の御気性はご存知かと思いますが、破天荒を絵に描いた様な御方であったそうで。 幼くして人質にあった幼少の殿を、様々な所へ連れ回したそうにござる、その際に覚えのあった地形であったのが幸いした、と」


 無論、嘘である。

 だが真実も混ぜてある。

 真実と虚構、嘘と本当を入り混ぜた言葉は、どこまでが本当でどこまでが嘘かを非常に分かり辛くさせる。

 あるいはその全てを本当かと錯覚させる。

 数正は家康が幼き頃に織田家の人質であった、という事実を巧みに利用して、それらしい理由をでっち上げたのだ。


 聞かされた官兵衛も「左様でございましたか、これはまんまとおびき出されましたな」と、言うなり首を軽く振って「してやられた」という体を装う事を忘れない。

 官兵衛も嘘が混じっている、と気付いていた。

 かつての信長がいた城は那古野城という城であり、この城は尾張国内でも下尾張と言われる南側に位置する城であった。

 そして今回の戦の舞台となっていた地域は上尾張、尾張国内でも北側に位置する地域であり、いくら幼少の頃に信長が色々連れ回したであろう、と言ってもまず立ち入ることなどしない地域であった。

 尾張国内と言えどそれなりの広さはある、幼子が気軽に行って帰って来れる距離ではない。


 石川数正は、明らかにこちらを煙に巻こうとしている。

 官兵衛はそれが分かってはいても、先程の言葉を「嘘だ!」と断じた所で、今回の交渉には何一つ利をもたらさない、と理解しているため数正の嘘に乗った。

 本当の理由を話す気などない、自らの手の内を明かさない、当然と言えば当然か。

 別段官兵衛とて、数正が馬鹿正直に何もかもを話してくれるとは思っていない。

 ただ雑談めいた中にも、出来れば向こうの手の内の一つや二つでも探れれば、程度に思って話を向けただけなのだ。


「羽柴家が誇る軍師・黒田孝高殿であれば、この条件に同意して頂けるものと信じておりました。 条件からお察し頂けましょうが、我が殿は羽柴家との戦を金輪際行う気は無く、今後は末永い付き合いでありたい、と仰せでござった。 筑前守様にも、左様にお伝え願いたい」


「委細承知いたした。 つきましてはこの和睦の締結に際し、御足労頂きたい場所がございます」


「ほぉう、どちらまで?」


「我らが御大将羽柴筑前守様は、石山本願寺跡地にこの度新たな城を築き申した。 その城の記念すべき最初の賓客の一人として、是非とも徳川様をお招き致したいとの仰せです」


 数正の眼が、少しだけ細くなる。

 こちらがここまで条件を引き下げてやったのに、お前たちは自らの膝元まで出向いて来いと言うのか、という意思を視線で表したのだ。

 官兵衛も無表情を貫いてさらに言い募った。


「無論、こちらからは安全を保障するための人質を提出いたします。 こちらからの人質がそちらに到着し次第、そちらからも出立して頂きたい。 なお、これは前関白・近衛卿の御意志も含まれております」


 数正の眉間にしわが寄る。

 この停戦・和睦に関しても近衛前久の意見が決め手となっている。

 ここで前久の意思を無視するような行動は、後々良くない結果をもたらしかねない。

 官兵衛にはそこまで分かっているからこそ、数正の胸中が読めている。

 結局は数正が「我が殿にもそうお伝え致そう」と、苦々しく発言したのを見て満足そうに頷いた。




 黒田官兵衛との交渉を終えた数正が、家康の元へと戻ってきた。

 数正の帰還を聞くなり、家康は大広間に主立った者達を集めた。

 上座にいる家康の脇には信長と光秀が座り、さらに中座と下座の部屋の両脇には徳川の重臣がズラリと列している。

 そんな中、部屋のほぼ中央に座した石川数正が、交渉時の官兵衛の様子を含め、その全てを語った。

 徳川の重臣たちの間には、不満顔をしている者も多くいたが、それでもこれで狙い通りだ。


「全てはこちらの思う通りに運んだようだな、まずは大儀であった。 そして皆も本当に良くやってくれた! 今や天下人を名乗る羽柴を相手に、寡兵で五分以上の戦いをしたとなれば、徳川の武名は天下に轟いたであろう! だが武を誇りはしても、驕ってはならぬ。 かつての負け戦を教訓とし、此度の勝ち戦を誇りとする、その心を努々忘れてはならぬ。 それを肝に銘じこれからも励むのだ、良いな!」


「ははぁぁぁッ!!!」


 家康の言葉に、家臣皆が平伏して声を上げる。

 その様は、家康への絶対的な忠誠を感じさせる。

 信長はかつて、恐怖で以て織田家中を統制し、天下第一の勢力へとのし上がった。

 今の秀吉は、利益による餌を以て家中を掌握し、天下人への道をひた走っている。

 そしてこの家康という男は、自ら付き従ってくれる家臣たちによって支えられ、天下を受け継ぐ存在へと成長しようとしている。


 信長とも秀吉とも違う、主君と家臣との間にある、確かな絆。

 信長はそれを、これで何度目か分からぬほど目にしてきた。

 そしてその度に思う、家康に後事を託しておけば、上手くやってくれるであろう、と。

 今回の戦で、家康をはじめとする徳川家中は大いに奮闘し、そして少なからず損害もあった。

 戦を行う上での金銭と兵糧の消費、優位に進めていたとはいえ少なくない数の死傷者も出た。


 徳川にこれまで随分と骨を折ってもらった。

 ならばこれからは、自ら骨を折る覚悟をしなければならない。

 潜伏にかこつけた休息はそろそろ終わりにしよう。

 近衛前久も充分に動いてくれた、そろそろ仕上げの時期となる。

 さしもの黒田官兵衛も、自らの行動が羽柴家に止めを刺すことになるとは、思いもよるまい。


 新たな天下人の象徴として、畿内から日ノ本全土を見渡すがごとき大坂城。

 黒田官兵衛が秀吉の肝煎りで縄張りをし、その工事を完成まで見届け、天下統一事業の難所と思われた徳川を呼び付け、新たな天下人の象徴に相応しき場所となるべくして建てられた、天下一の巨城。

 徳川家康が大坂城に入り、羽柴秀吉との和睦締結を行うその時こそ、大坂城はその役割を変える事になるだろう。

 念のために森長可と蘭丸の兄弟には、こっそりと領地である美濃国金山へと向かわせた。

 現当主と、その弟が健在であることを密かに知らしめ、森家の全てをこちらに引き込むためである。


 長可にも信長の考える日ノ本防衛構想を語ってはみたが、やはりと言うかなんと言うか、南蛮からの脅威というものを今一つ認識し切れていない様子ではあったが、信長の命であれば何であろうと従うという意思は確認出来たので、とりあえずはそれで良しとした。

 後は秀吉からの、家康の安全を保障するための人質が送られてくるのを待つ、という事になるだろう。

 前久とも連絡を取り合い、信長が家康の陰に隠れたまま上洛した後の予定を、今の内からしっかりと組んでおかなければならない。

 動くとなれば電光石火、神速の行軍は今でこそ秀吉の代名詞のように言われているが、元々はそれを得意とするのは他でもない信長だった。

 一度上洛すれば、恐らくはもう浜松城に戻ることは無いだろう。


 表舞台に戻る事でかつてのような、いやそれ以上に過密な予定でもって動くことになるだろう。

 だが信長自身が動かねば、今後は立ち行かなくなるのは目に見えている。

 抑えるべき所、味方に引き込むべき相手、潰さねばならぬ敵、いくらでも考える事はある。

 そして何より、最大の懸念である南蛮の、デウスの教えを広める者たちの実情を、この目で確かめる必要もある。

 信長の眼には、今後己がやるべき事、行うべき仕事がしっかりと見えていた。

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