信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その2
信長続生記 巻の六 「日ノ本鳴動」 その2
徳川方からの使者・石川数正が秀吉と直接会談を行い、戦は一旦停止し、まずは双方武装解除・軍勢の撤収、後日改めて細かい条件の擦り合わせを行う、という事で双方が合意した。
秀吉からすれば上々の結果であり、兵糧不足を露呈することもなく会談を終えた。
表向きはあくまで「本来ならここで白黒付けたい所だが、正月も近い故、兵たちの心情を思うとそろそろ郷里に返してやりたいでな」と、下々の者を思う大将の顔で押し通した。
数正も「慈悲深き御心を持つ大将に仕えられる、羽柴軍は果報に御座いますな」と、こちらも秀吉の本音が別の所にあると分かっていながら、表情一つ変えない社交辞令で返した。
元々お互いがこの戦で、総力戦の潰し合いの上、殲滅戦まで行こうとは思っていない。
徳川からすれば己の武力を見せ付け、容易に屈せぬ相手として認識させ、和睦交渉に持ち込むことがそもそもの狙いである、と秀吉に思わせるだけで良い。
そして羽柴からすれば、己の財力を見せ付け、数万という軍勢の動員力とそれを支える財力がある、という事を思い知らせ、降伏・従属させることで充分と思っていた。
徳川を降伏させて従え、例えば甲斐・信濃を没収という降伏条件であれば、徳川もそう嫌な顔はしないだろう、秀吉の内心ではそういう皮算用があった。
三河は絶対に手放そうとはしない、遠江や駿河も難しいだろう。
だが先年手に入れたばかりで、まだ完全に統治し切ってはいない甲斐や信濃であれば。
徳川の領国は本能寺の一件以前の状態に戻るだけであり、一方の秀吉も信濃の広大な領地と甲斐の金山を得て、さらに関東への道が開けるという塩梅だ。
徳川はその勢力をあまり衰えさせずに、降伏しても三ヶ国の太守の座を保てる。
一方の秀吉は、さらなる飛躍を遂げる一手が打てる。
双方にとって損の無い話であり、その線でまとめていこうというのが当初の目論見であった。
だがそれも、徳川の驚異的な戦果によりその目論見自体が破綻した。
秀吉としても、外交上ここで弱気な態度などは決して見せられない。
だがあまりに強気に出過ぎて「じゃあ戦を継続しよう」などと言われても本当は困る。
その辺りのさじ加減は空気を読みつつ、硬軟使い合わせて話し合う。
秀吉とてその辺りは「人たらし」と言われた男であり、決して無様な事にはならない。
いくら相手が徳川きっての重臣にして筆頭外交官、石川数正であろうと後れを取るつもりはない。
この場には織田信雄軍からの使者はいなかったが、徳川方と羽柴方双方からの使者を派遣し、停戦・和睦の旨を報せる事まで含めて様々な事を決め、その日の会談が終了した。
会談が終了して秀吉は大きく息を吐き、羽柴勢を構成している部隊の撤収状況を確認した。
先日こちらに合流したばかりの黒田官兵衛の部隊は、基本的に戦闘に参加していなかったため無傷であり、また兵糧にも余裕があったためそのまま残留を決めた。
だが他の部隊、特に三河強襲部隊として編成した池田軍や森軍などは、その陣容が滅茶苦茶となっている。
なにせ当主討ち死に、不在という有様では部隊を取り纏めるだけで一苦労であり、真っ先に撤収させるべき存在であった。
池田家も森家も領地は美濃国にあり、そこに戻るまでの日数はそうはかからない。
そのため家の存続を許可する代わりに、残っていた兵糧の大半を召し上げて羽柴軍は当座の兵糧にあてさせることにした。
恒興の次男にして、家督相続を許された池田輝政などは、岐阜城や大垣城などに蓄えてあった兵糧も差し出し、さらに自軍が領国に戻るまでに必要な最低限の兵糧以外、全てを召し上げられた。
涙目になりながらもなんとか軍を統率し、輝政は帰国の途に着いた。
森家も美濃国金山という地をかつて信長から与えられており、そちらへと帰っていった。
「秀長は撤収にカタが付き次第、京・大坂の商人連中から金と兵糧をかき集めよ、官兵衛には徳川方との交渉を一任する。 わしは京に戻り、近衛様と今後の事に付いて話し合うてくる。 それと秀次には領地に戻り次第、謹慎を言い渡しておけ! 反省を促すために女子も遠ざけさせよ! あぁそれと官兵衛、徳川方との最終交渉は新築した大坂城で行うぞ、話がまとまりそうになったら徳川方にそう伝えよ! わしの日の本一の巨城で、徳川に度肝を抜かせてやるでな!」
矢継ぎ早に指示を下し、秀吉は撤収準備を続けさせる。
既に陣を引き払い、それに伴う事務作業で秀長なども忙殺されている。
こういう時、三成をはじめとする文官が不足しているとなかなかに面倒臭い。
資材の数が合わない、何が足りない、アレはどこ行った、とそこらじゅうで雑務が発生している。
秀吉はそれらの面倒臭い仕事を全て秀長に押し付け、自らは必要とする物だけを荷駄隊に運ばせる様に指示を出し、さっさと馬に跨った。
実際の所、羽柴方と徳川・織田方の交渉はすんなりとまとまっていった。
羽柴軍は少なくとも早期の戦闘再開に利益は無く、向こうからよほど無茶な条件を提示されない限りは呑むつもりでいた上、もし無茶な話が押し付けられそうならば、大将である秀吉不在を理由に交渉を長引かせ、こちらが立て直しを図るまでの時間稼ぎを行うつもりであった。
懸念されていた案件としては、自らの頭越しに勝手に和睦を結ばれてしまった織田信雄である。
不忠者の誅伐、などというお題目を掲げて兵を挙げてはいたが、本人以外の誰も羽柴軍と真っ向から戦って勝てるとは思っていなかった。
徳川が味方に付くのなら、そしてその徳川に釣られて当主・信雄が参戦を表明してしまったため、出撃せざるを得なかった部分もあったのである。
ところがその徳川から「羽柴と和睦する」という話が来た。
当初信雄は怒り狂い、徳川も羽柴も諸共に討ち果たすぞ、と怒鳴り散らしていた。
だがそこを三人の家老が必死に宥め、徳川と羽柴両家から使者が来るので、まずはそこで話を訊いてから、という事で何とか落ち着かせた。
そうして信雄の前に現れた使者は、徳川から石川数正、そして羽柴からは秀吉に従っていた信雄の叔父、織田信包の二人であった。
共に信雄としては知った顔であり、ましてや信包に至っては実の叔父である上に、先日の対滝川や信孝との戦いにおいては共同戦線を張った仲でもある。
使者二人との会談を受け入れはしたものの、不機嫌さを隠そうともしない信雄に三家老は不安を覚え、誰ともなく同席を願い出て信雄側が四名、使者二人という形で会談を行なう事となった。
使者からの申し出はあくまで『このまま争っていても互いに利は無し、前関白・近衛前久卿の停戦勧告もある、正月も近いため一旦停戦、条件をすり合わせて和睦を』という事である。
三家老は「異議なし」「妥当かと」「では細かな和睦条件に付いては後日に」と、非常に息の合った連携を取り、信雄が何かを言う前にさっさと結論付けようとした。
しかしそこで黙っていないのが信雄である。
自分の存在をまるでそこにいない者であるかのように、自分以外の者達で話が決まっていく事に苛立ちを感じ、立ち上がってその場にいた五人を怒鳴りつけた。
「わしを無視して話を進めるでないッ! わしは停戦に合意などしておらぬッ! 前関白が何だと言うのじゃ、わしは織田家の頭領なるぞ! 崇めるべきは、敬うべきは、まだ第一にこのわしであろうが! 盟友徳川と言えど、勝手な真似は許さぬぞ! そして叔父御も叔父御じゃ、羽柴なんぞに尻尾を振って、それで織田家の面目が立つのかッ! 恥を知れぃッ!」
その様は、まさに天下にその名を轟かせた乱世の風雲児・織田信長の生き写しである。
という妄想が、信雄の頭の中だけで繰り広げられている。
実際には状況も読めず、考えが足りず、ただ己の我が儘を押し通そうとする、幼稚な男の遠吠えにしか見えていない事を、その本人だけが理解出来ていない。
だが三家老は冬だというのにびっしょりと汗をかき、信包は「お主は後見であって頭領ではなかろうに」という冷めた目で見やり、数正は表情も目線も何もかも、一切変えずにただ内心で「織田様は御存命です、とこの場で言えたらどれだけ…」と、人知れず何かを堪えていた。
だがそれぞれが信雄を見たまま黙っている事に、先程まで無視されていたという鬱屈が徐々に晴れて行き、興が乗った信雄はさらに言い募る。
「そもそも此度の戦は増長極まりない羽柴のサルめに、天誅を食らわすという事で出馬してやったのじゃぞ! それなのにわしに断りも無く、停戦し和睦する、では筋が通らぬではないか! まずわしに伺いを立て、わしが了承して初めて停戦の交渉に入るべきであろう? 出過ぎた真似をするな石山ッ!」
「石川数正にござる。 しからば織田様は停戦には合意せず、戦を続けると仰せで?」
「石山じゃ本願寺だろうが」と、内心だけで返しておきながら、数正は平静を装って問いかける。
そしてその言葉を聞いた信雄は、居丈高に胸を逸らして言い放つ。
「無論よ、正月が近い等という理由で不忠者を野放しにしておく訳には参らぬ! 徳川方も軍を退くなどとは許さぬ、我が命に従い羽柴を駆逐せよ!」
「殿、恐れながら…」
「ええい黙れ! なんならわし自らが出向き、羽柴めを屈服させてやろうぞ!」
「わかり申した」
信雄の言葉に家老の一人、津川義冬が見るに見かねて口を挟もうとするが、信雄が一喝してさらに勢い付いた言葉を口走る。
目の前にいる者たちが、揃いも揃って自分を見上げ、自らの言葉に逆らえずにいる。
これこそがあるべき姿、これこそが正しき姿、父も兄も無き世で我を見上げぬ者などおらぬ。
対等な同盟者であるはずの徳川すら下に置く発言をしている事に、信雄は気付いてすらいない。
まるで己を天下人であるかのように錯覚した信雄に、数正の冷静な声が冷や水となってぶつけられた。
「では徳川は既に武装解除を進めております故、明日にでも陣を引き払い交渉に必要な者だけを残しまする。 織田様は未だ戦は終わってはおらぬ、と仰せですから御自身の信ずる大義を貫き通されませ。 今申し上げられたとおり、御大将自らのご出馬なれば、羽柴筑前守討伐も能うやもしれませぬ、我らは遠き所よりご武運をお祈りしておきましょう。 しからばこれにて、失礼いたしまする」
一気にまくし立て、石川数正は深々と一礼する。
逆に焦ったのは信雄に従う三家老たちである。
狼狽ぶりを隠そうともせず、数正が立ち上がる前に慌てて数正の周りに詰め寄る。
「石川殿! しばらく、しばらく!」
「御貴殿もお分りでござろう、殿の御気性を!」
「わしらでは言えぬ事もあるのだ、賢明なるご助言を何卒!」
自分達では手綱が取れないから、他家の重臣という立場から何とかして言ってやって欲しい、という三家老の嘆願めいた言動に、さしもの数正も苦笑を浮かべざるを得なかった。
その様子を一歩離れた所から見て、信包は三家老へ心の底から同情した。
信長次男・信雄付きの家老として配されていた三名であるが、その仕事ぶりは決して愚鈍や無能といったものでは無いのだが、いかんせん仕える相手が悪すぎる。
かつては兄も家臣を酷使していたが、それでも仕えるべき主君が有能であれば、家臣たちも懸命に奮起して働くのだな、というどこか他人事のような感想を、久々に会った甥を見てしみじみと感じる。
そしてその甥は、先程の石川数正の言葉を聞いて明らかに勢いが弱まっている。
「と、徳川殿は既に陣払いを?」
「早晩終わる事でしょう。 寒さも厳しく、正月も近いとなれば兵の動きも自然と早くなりますれば」
「な、ならばわしの軍勢だけで羽柴とやり合えと?」
「先程の勇ましき御言葉、この石川数正の胸に刻んでおりますれば」
「……わ、わしを…同盟相手のこの織田信雄を見捨てるのか?」
「我らとて本意に非ず、ただ他ならぬ近衛様からの必死の願いにございますれば、無碍にも出来ぬと我が殿は仰せでございました」
信雄と数正のやり取りを、固唾を飲んで見守る三家老。
ここでは決して自らは動かない、下手な口は挟まない、信雄の意識を数正に向けたままにする。
傍観に徹してそのやり取りを見る信包も、もうこのまま数正に任せよう、という腹積もりである。
信雄さえ首を縦に振れば、この甥の出来の悪さをこれ以上目の当たりにしなくて済む。
なんであの苛烈な兄の血を引いて、出来上がったのがコレなのかが未だに分からない。
二人で信雄説得に出向いて、たとえ主に活躍したのが石川数正であっても、手柄自体は二人で山分けになるのだから、ここで下手に自分は口を挟まぬ方が良い。
なまじ叔父と甥という立場があるからなのか、織田家の筆頭という地位が脅かされる、とでも考えているのか、思った以上に信雄は自分に対して身構えている様に見えた。
信包とすれば、兄・信長無き織田家に将来は無いと考えているだけに、信雄がいかに振る舞おうとも自分に累さえ及ばなければどうでも良い、とすら思っていた。
その場その状況を読み切って、それに適した行動を取るのは慣れている。
兄・信長は自らに従う織田の親類縁者には、別段家臣の様に厳しくはしてこなかった。
柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉といった面々には、その働きに応じた褒賞も与えられたが、じゃあ自分も同じ様にあれだけ懸命に働けるか、と訊かれれば否と答える。
自分にそこまでの才覚は無く、しかも自ら望んで苦労を背負いたいとも思わない。
自分と同じく信長という英雄の弟として生まれ、自分と信長の間にいた信行という兄は、己の分を超えた事を考えたが為に命を落とした。
だから自分は決して己の分を超えた行動は取らぬと決めた。
そしてその場その状況をしっかりと読み切り、目立ち過ぎず働き過ぎず背負い過ぎず、無難に妥当に密やかに、己の地位を築いて生き残りを図って今があるのだ。
「わ、わしとてその……望んで前関白の意に背きたい訳ではないのだ。 ただ羽柴をこのまま捨て置く訳にはいかぬ、と言いたいのであってだな…」
先程までの威勢は本当にどこ行った、と口に出したいがそれを堪える。
信包はあくまで使者であると同時に傍観者であり続けようと決めている。
信雄がこちらをチラリ、と見て来るがこれも黙殺する。
三家老はあくまで信雄の方を見ず、数正の方に顔を向けて、決して視線を合わせない。
そうして数正は、皆が会話の主導権は石川数正にあり、と認識したのを見計らって口を開いた。
「羽柴方はこちらを攻めあぐね、内心焦りを覚えておりましょう。 そして我ら連合軍も今の所は勝ちを重ねておりますが、未だ数の上では不利にございます。 此度の近衛卿の申し出はもっけの幸い、我らは勝ったままで戦を終え、数を頼みにひっくり返される恐れも無くなります。 あくまで近衛卿の顔を立てて停戦に応じる、そこで朝廷にも恩を売り、一方で堂々と勝ち名乗りを挙げれば良いのです。 むしろ戦の継続は何の利ももたらしませぬ、ここは六分の勝ちが最良に存じます」
石川数正のやや強引とも思える理論に、信雄はうむうむと首を縦に振る。
言っている内容の半分も理解出来ているかは甚だ疑問ではあったが、信雄の反応を見る限り少なくとも先程と同じような事を口走りそうもない。
そこで、数正の視線が信包の方へ向いた。
信包とて、ここで自分が何を言えば良いかは分かっている。
軽く咳払いをして、堂々とした口調で言い放った。
「むしろ今こそが、この戦を終える最良の好機なのだ。 織田と徳川の武名は轟き、双方の被害がこれ以上出ない内に、停戦の大義名分が降って湧いたのだ。 双方が総力戦を行えば負けた方は滅亡、勝った方とて被害が大きすぎて他勢力からの攻撃には耐えられまい。 結局は羽柴も織田も徳川も、全てが倒れて天下は別の所に転がり込む。 織田家の人間として、それこそが最も憂慮すべき事態ではないか?」
我ながらもっともらしい事を、と信包は自らの発言に内心苦笑する。
だが信雄には効果は抜群のようだ。
織田の天下が無くなる、それこそ信雄が勝手に思っていた自らの天下が無くなる、という事だ。
するとそれまではまだ立っていられた信雄が、足腰の力が抜けてドスン、と上座に尻を落とした。
腰を落とした、というよりも落ちた、と言う方が正しいと思える状態で座り込んだ信雄が、無理やり威勢を張って鷹揚な口調で宣言した。
「両者の言い分、熟慮すれば至極もっともであった。 わしとて無駄な戦は本意ではない。 我が織田家は停戦に同意致そう。 追って詳しい和睦条件を詰めるための場を設ける、大義であった」
信雄のその言葉に、他の五人が一斉に平伏する。
三家老は目に見えて安堵の溜め息を漏らし、信包もやっと終わったか、という疲れた顔をしていた。
そんな中でも石川数正だけは表情一つ変えずに、「ご無礼の段、平にご容赦を」という社交辞令も忘れなかった。
三者三様の態度を取る五人であったが、その中でも唯一共通した思いがあった。
「お前だけは熟慮、という言葉を使うな」というその思いだけは、たとえ口には出さずとも五人の心の中だけで、声の限りに叫ばれていた。




