信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その14
今回で巻の五は終了です。
信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その14
小牧山城に戻った家康、信長たちは、城の守りを固めていた光秀と共に、これで何度目か分からない軍議を交わしていた。
ちなみに、小牧山城へ捕虜として連行されてきたはずの森長可は、相も変わらず信長の護衛のように振る舞っていたが、その際に光秀と顔を会わせ、その次の瞬間には猛然と斬りかかろうとしていた。
蘭丸や周りの者が即座に止め、信長と光秀から事情を説明されてようやく長可は大人しくなったが、それでも光秀を見る眼は他の者よりも厳しく、殺気立っていた事は言うまでもない。
終いには「貴様が上様から切腹を賜ったなら、わしが介錯を引き受けてやる」と、殺気に満ち満ちた顔で詰め寄ったため、またも信長から頭を小突かれ、部屋の隅に控える事になった。
蘭丸曰く「上様御存命の嬉しさで、少々はしゃでしまっているものと思われます」という事らしい。
これで本当に一つの部隊の指揮官が務まっていたのか、と信長は少し呆れていたのだが、部下の前では勇猛果敢な大将として振る舞い、キチッと戦果も挙げているのだから不思議であった。
本人に言わせれば今は上様の側に侍り、そういった指揮官としての重圧からも解放されているので、気兼ねなく己の思うがままに振る舞っていられる時間なのだという事だ。
とにかく長可と蘭丸を部屋の隅に控えさせ、三人は改めて軍議に入った。
すでに京の前久からは『隠れ軍監』を通じて文が届いている。
順調に秀吉の財を使い、朝廷への根回しを行いながら、その日を待っているらしい。
もちろんこの場合の「朝廷への根回し」は、必ずしも秀吉の望む形ばかりではない。
信長が表舞台へと舞い戻り、再びその存在を明らかにした際には、前久を通じて朝廷にも様々な働きかけを行うための、いわば下準備に前久は動いているのだ。
それこそが信長たちの真の狙いであり、計画は問題なく進んでいると言えた。
そして、目の前の秀吉を相手に一戦を交えた上で、この後の行動について話し合う。
まず発言をしたのは家康だ。
「こちらはすでに羽柴方に痛撃を与えており、状況は五分五分以上と思える。 しかし未だ総兵数では向こうが多く、油断は出来ぬ状況でござる」
「だがサルには兵糧不足という不安がある。 敗戦により低下した士気を上げるため、むしろ大盤振る舞いでもって兵たちにたらふく食わせ、不安を払拭させる方法を取る可能性が高い」
「なるほど、人たらしらしい手段ですな。 そしてこちらには、恐らく先日とは違う搦め手からの攻勢を行って来ることでしょう」
家康の言葉に信長・光秀が次々と己の考えを述べる。
「違う搦め手、とは?」
「あの男は正面からの対決よりも、搦め手を好む傾向がございます。 それはあるいは利益で釣る調略、あるいは見せかけのハッタリ、あるいは奇策を用いてこちらの想像の埒外の行動を取る、などです」
光秀の言葉に、家康がオウム返しに問いかけると、光秀は指を一本一本立てながら丁寧に解説していく。
家康がフムフム、と光秀の解説に頷きを返す。
それを見て信長も納得できる、という顔で黙って頷いている。
「利益で釣る、は言うまでも無く。 見せかけのハッタリは、例えば以前上様が稲葉山を落とされる前段階として築かせた墨俣の城などを指し、想定外の奇策は先年の大返し、などが例として挙げられます」
最後の「大返し」という所だけ、光秀の声に憎しみの感情が宿っていることに、信長も家康も気付いてはいたが、あえて聞き流すことにした。
墨俣城は、遠目に外から見た時には小さいながらも城として建っている様に見えたが、実際には外見だけを良く見せたハリボテ同然の砦であった。
そして中国大返しをはじめとする、余人が思いもよらぬ策を実行に移す、生まれながらの武士ではないからこその、型に嵌った考え方をしない、というのも秀吉の特徴と言えた。
光秀の言葉に黙って頷き続ける家康。
そこでさらに光秀が、「これらにはある共通点があります」と前置きして続けた。
「先に挙げた三つの手段は、どれも人の心を読んだ上での手段、という事です」
「人の心を、読む……」
家康が己の中に染み込ませるように、ゆっくりと噛んで含むように口にした。
そして、その光秀の言葉を聞いた信長が続けた。
「なるほどな、己に付く『利』で人の欲の心を掴み、突如として現れた城という驚愕で敵の心を縛り、大返しはまさかそんな速度で移動する訳が無い、という思い込みを利用して相手の心の隙を突く、か。 となれば次にサルのやろうとする手段は、何じゃキンカン?」
「『利』による説得・調略はこと徳川には無駄足以外の何物でもなく、残された手段はハッタリか奇策。 ハッタリは仕掛ける時と場所が限られまする、となれば残るは…」
「奇策にござるな? しかしこれが最も厄介では。 如何様な手を打つか分からぬからこその奇策にござれば、その対策を講じようにも…」
信長の言葉に光秀が答え、家康が最期に悩む。
だがそんな家康に、光秀は柔らかな笑みを向けて平然と言い放つ。
「ご安心を、徳川様。 おおよその所は見当が付きまする」
「な! しかし簡単に手が読めては奇策にならぬのでは?」
「いえ、恐らく敵方は今頃和睦・停戦を仲介できる相手を探しているはずです。 あれだけの痛手を被った今ならば、もはや悠長に構えてはおれぬでしょう。 そして仲介相手ですが、京の朝廷か近隣の勢力が妥当ではありますが、恐らくそれらを頼ることは出来ますまい。 かつては権力と言えば幕府もございましたが、肝心の公方様は備後からは出てきませぬし、上様がお亡くなりになっていると信じ切っている方には、むしろ彼の地にてひっそり暮らしておられた方が、あの御方にとっても幸せにございましょう」
幕府の名を出したことで、信長が「そういえばいたな、そんな奴も」と呟いた。
その顔はつまらない事を思い出させるな、という苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
信長が不機嫌になった事を察したのか、光秀は「申し訳ございません、些事はお忘れいただきまして、話を戻しまする」と一礼して、再び家康に語り続ける。
信長も家康も、光秀がかつてはあれほどその存在を重要視していた『室町幕府』すら、『些事』と割り切って発言している事にいささか驚いてはいたが、光秀の心境の変化を知っている二人は、驚きはしたもののすぐに納得して、光秀の言葉に耳を傾けた。
「羽柴勢は急成長をしたが故に、近隣勢力との繋ぎも浅く、朝廷にもようやく近衛様という伝手が出来た程度。 毛利・上杉が羽柴とは同盟状態になっておりますが、毛利は遠く、上杉は今も北の新発田重家の事もあり、こちらに手を割く余裕はございますまい。 ならば残された手段は死中に活、敵の中に味方を作り出す、そういった奇策を用いて来るものと思われます」
光秀の順序立てた説明に、家康は内心舌を巻く。
徳川には武辺者が数多くいるが、こうした戦略眼を持つ軍師のような人間はいない。
本多弥八郎正信は家康の知恵袋の一人ではあるが、彼の進言はその多くが戦術的な策や謀略などであり、いわばその時その時に応じた知恵は出してはくれるが、こうした大局的な物の見方を出来る者というのは、徳川には不足していた。
家康は改めて織田家の人材の多様さに驚きながら、こういう人間が忠誠を誓う信長という男に、同時に畏敬の念を持った。
家康がそんな事を考えている間に、信長は相変わらずつまらなそうに光秀に問いかけた。
「で、キンカンよ。 お主そこまで分かっておるのなら、何らかの手は打っておったのだろうな?」
「は、差し出がましい真似とは思いましたが、既に信雄様には『羽柴秀吉が会いたい、とあの手この手で誘いをかけて来ても、それは信雄様を暗殺するためだから、決して会ってはならない』と、徳川様名義で文を出しておきました。 そして同じく京の近衛様にも『停戦協定願い』の文を出しておきました」
「待て、茶筅の方は分かるが何故前久にまで文を出す? しかも停戦協定願いだと?」
信長の問いに淀みなくスラスラと答えた光秀だったが、最後の方で言った言葉に信長が眉間にしわを寄せ、光秀を軽く睨んだ。
家康も訝しげな顔をしており、その二人の眼を見た後で光秀はさらに続けた。
「近衛様は京から出られた後、徳川様の元へと逃れられました。 そして京に戻った後は羽柴秀吉と手を組んだ。 つまり両家に繋がりがあり、その両家が争っているという現状にひどく心を痛めておられ、願わくば前関白の顔を立てる形で停戦に応じて欲しい、という内容で両家に文を出し、最終的な和睦締結の場は、近衛様ご自身と羽柴家に従う諸将も列席する場で行って欲しい、と」
「回りくどい上に小賢しいが、確かに当面の目標は達しておる。 サルに一当てしてこちらが勝ち、向こうもあまり余裕がない上に手を組んだと思うておる前久からの呼びかけなら、これ幸いと飲む事であろうよ。 取り返しのつかぬ事になる前に停戦・和睦となれば、むしろサルにとっては救いとなる。 前久には貸しが出来ても、サルとして見れば徳川に煮え湯を飲まされるよりはよほど良い、という事か。 相変わらず賢しい奴よ、わしらがいない間によくもそこまで」
「……いや、つくづく恐ろしい御仁ですな。 わしらが戦っておる二日かそこらの間に、その様な動きを見せておったとは」
光秀の説明に信長は口に出しながら、その状況を脳内で組み上げていく。
そして家康も少しだけ顔を引きつらせながら、光秀をまじまじと見た。
恐縮したように頭を下げて、光秀は淡々と語る。
「表に出られぬ身にございます故、せめて裏方で励みたく。 なお、こちらに近衛様にお送りしました文の写しがございます、どうぞお検め下さい」
そう言って光秀は懐から一通の文を出し、信長の前に差し出した。
「であるか」とだけ言って、信長はその文を少し乱暴に開いた後、丁寧に一文一文目を通し、そして最後まで読み終わるなり信長の眉間にしわが寄った。
その様を見て、家康は「早くわしにも」と目と手つきで訴え、信長が文を家康に渡した後で立ち上がり、床几に腰掛けたままの光秀を見下ろす。
「お主…さては戦が始まった時より、ここまで絵図を描いておったな?」
「上様が徳川様と組んで、負ける所が思い浮かびませぬ故」
「たわけが! 『差し出がましい真似』なんぞと、よう言うたわ! ここまでくれば差し出がましい所ではないわ、僭越極まりないわキンカン!」
信長の声に、光秀はすぐさま床几を降りて平伏する。
その一方で家康は信長の言葉の真意を知るべく、ひたすら目の前の文を読み進め、最後の一文を読み終わって大きく息を吐いた。
既に光秀はこの戦の趨勢、そしてその後の行動までを読み切った上で、この文を書いたのだと分かる内容であった。
これは確かに、信長殿の性格を考えれば腹を立てるのも当然かもしれぬ。
光秀が前久に送った手紙の内容、それは実質信長と家康、さらに前久から秀吉まで、全てを己の思い描いた通りに動かすがごとき内容の文であった。
「だが……」
そう言って信長は平伏する光秀の前に片膝を付き、光秀の面を上げさせその顔を真っ直ぐに見る。
後ろでは信長の突然の怒声に、蘭丸が慌てて長可の抑えに入っている。
既に長可の目は据わっており、この場に槍があろうものなら光秀を刺しかねない雰囲気を纏わせている。
そうして家康や蘭丸が固唾を飲んで見守る状況で、信長は突然笑みを浮かべた。
「賢しい貴様が描いておった絵図なら、その通りに踊ってやるのも吝かではない。 貴様は己が描いた絵図面の、完成までしっかと責任を取るのであろうな?」
「御心にそぐわずば、いつでも我が身をご存分に」
「よかろう。 ならば励め、光秀!」
「御意ッ!」
文を見せてもらっていない森兄弟の二人は、なぜ急に信長の機嫌が良くなっているのかが分からないが、とりあえず一触触発のような事態は免れたらしい、という事だけ理解した。
そして横で見ていた家康も、とりあえず剣呑な気配が去った事に、今度は軽く息を吐く。
明智惟任日向守光秀、思い起こせばこの男は、元々は室町幕府の将軍の家臣であった当時から信長にその才を認められ、やがては直臣となって信長の右腕まで上り詰めた男であった。
才能ある人材を重用する事に定評のある信長が、己の腹心に選ぶ男を無能な人間にする訳が無い。
多様的で、多数の人材を抱える織田家の、その実質頂点に上り詰めたのが信長の右腕、腹心という地位に就いた明智光秀なのだ。
誰かの掌の上で踊らされる、なによりその事を嫌いそうな信長が、それを許しても良いというのだから光秀への信頼というのは相当なものだ。
確かに家康から見ても、光秀の先を読む力というのは信長や秀吉、そして己よりも上なのだろうと認めざるを得ない。
だがそれと同時に、もし光秀の描いた絵図通りに事が運んだのなら、果たしてその時秀吉という人間はどれほどの衝撃を受けるのだろうか。
信長は純粋に「わしを己の思うままに勝手に動かそうとは、分を弁えろ!」という感情が先に立ったのかもしれないが、家康にはもう一つ、「光秀が秀吉をどう思っているか」という点が何となく浮き彫りになったような気がした。
光秀は秀吉を心から憎んでいる、家康はそれを文の内容でなんとなくではあるが、読み取っていた。
それは、家康も信長も知らないことではあった。
光秀が本能寺の一件を境に、自らを信長の代用品として、『信長』たらんとしていた事。
そしてその『信長』を討ち果たそうとした秀吉こそが、本当の意味での謀反人であると、光秀の中では確定となっていること。
ここまでの戦では光秀も戦場に出て、それなりに武功も挙げてはいたが、光秀にとってはそんな事はどうでも良かった。
ただ一点、『信長』に対する不忠者、真の謀反人であるあの男に、これ以上天下人の様な面をさせたくなかったのだ。
生きていた信長本人への奉公と、『信長』への謀反を働いた大罪人への罰、その両方を成す事こそが、今の光秀の生き甲斐であった。
巻の五は最近影は薄くなってきてました光秀で締めました。
今の所彼にはこういう形でしか見せ場が作れません。(汗)
次回はの更新は、恒例の端書きとなります。
本編の再開、巻の六「日ノ本鳴動」その1は7月21日に更新予定です。
今しばらくお待ち下さいませ。




