信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その12
信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その12
森長可が蘭丸に取り押さえられ、それを引き剥がそうと悪戦苦闘している頃、他の戦場ではそれぞれの武将がそれぞれの役目を必死に果たしていた。
家康自らが指揮を取り、配下に大久保一族や期待の若手・井伊直政やさらには織田信雄に「我に必勝の策有り、どうか兵をお貸し願いたい」と、頼んで借りた兵力まで足した軍勢が果敢に池田勢に襲いかかった。
織田信雄自身が采配を振るうのならこの上なく不安な部隊だが、それでも家康の指揮下に置いて使うのであれば話は別である。
一方の三河強襲部隊の最後方、第四陣にして総大将の羽柴秀次の部隊には、敵も味方も最大の数をつぎ込んでの激戦となるだろう。
そちらをあえて信頼出来る重臣・酒井忠次や榊原康政に任せ、家康自身は池田恒興に当たった。
家康は池田恒興とは旧知の仲だ、遡れば織田での人質暮らしの際、当時元服前で「吉法師」と名乗っていた頃の信長に付き従って、共に遊んだこともある。
その後信長と清州同盟を結んだ後も、何かに付けて会うこともあり、その時は昔話に花を咲かせたこともある相手だ。
だがそれ故に、家康にとっては許し難い裏切りを受けた気分だった。
池田恒興は、あの男は自分がいかに三河を、自分の家臣を誇りにしているかを知っていたはずだ。
知った上でこちらの呼びかけを無視するどころか、三河に攻め込もうと秀吉に進言したという報告を、『隠れ軍監』から受けた。
せめてこれが、秀吉の発案でたまたま向かわされていただけであれば、多少の手心を加える余裕があれば、殲滅までは考えなかっただろう。
だが、この三河強襲部隊は池田恒興の発案で編成され、その先鋒・第一陣を拝命したというのだからもはやかける情けは無い。
こちらの最も大事にしているもの、誇りに思う家臣達の領地を、全て知って、分かっている上でこちらをおびき寄せるために蹂躙しようというのなら、それは鬼畜の所業である。
恒興からすればそこまで深くは考えなかったのかもしれない、ただ手柄を立てたかっただけなのかもしれない、それか本当は家康を憎んでいたのかもしれない。
だがもはや、池田恒興がどういう思いで、どういう考えでもって三河へ向かおうとしていたのかなど、心の底からどうでもよくなった。
あの男は一番許されぬ事をした、このわしの眼前を横切り、領国を蹂躙していくという、武田信玄の如き真似を、わしの逆鱗に触れるような真似をしたのだ。
ならばもはや殲滅あるのみである。
本音を言えば報告にあった池田勢六千など、家康の指揮下で動く徳川軍だけで充分とすら思っている。
だがそこであえて織田信雄から軍を借りて、「織田家」の力を入れる。
こうすることで織田信雄は完全にこちらに付いている、そして「織田家宿老」という地位にありながら、「織田家に弓引く者」という印象を池田勢自身に与えることが出来る。
ただでは攻めぬ、ただでは負かさぬ、ただでは潰さぬ、ただでは殺さぬ。
貴様はわしの逆鱗に触れた、ありとあらゆる手段を用いて池田家から奪える限りの物を奪ってくれる。
「織田家宿老」という地位は、信雄軍と対立させることでその正当性を奪い、度重なる敗戦と今回の敗北で、戦国大名としての面目も奪う。
さらには数で勝っておきながら討ち死になどしてしまえば、後世まで池田恒興の名は「良将」という扱いで遺る事などあり得まい。
援軍による兵数の増加で、逃がす事無く完膚なきまでに殲滅し、池田家中の重臣・武将たちまで討ち取れれば、仮に恒興だけ生き残れたとしても屋台骨が揺らいで、家中の取り纏めで散々な事になる。
覚悟しろ池田恒興、貴様には家も、名も、命も、何一つ残さぬ。
出来れば従軍しているという息子たちまで討ち取れればなお良い。
それとは別に、確か恒興には未だ元服前の男児が二人はいたはずだ。
その子らに娘を嫁がせ縁故を結ばせ、そこでじわじわと締め付けても良い。
恩を売り、娘を嫁がせ、その上で支配して意のままにしてやるというのも手ではある。
家康の、後に知る「天下を獲る為なら非情に成り切る事が肝要」という事の第一歩が、今人知れず果たされた瞬間である。
本人は怒りと憎悪で気付いてはいなかったが、必要とあらば鬼畜の所業すら上回る、しかもそれを平然と飲み込む修羅の如き振る舞いも、『天下人』には必須であった。
かつての信長が、一向一揆に手を焼いたため業を煮やし、万を超える一向宗門徒を殲滅した時のように。
兵糧攻めにして餓死者も多数出た頃、焦らして焦らしてようやく降伏を受け入れてやり、安堵して城や砦から出てきた飢えに苦しむ者たちを、鉄砲の一斉射撃で皆殺しにした。
凄惨な戦振りで後世まで伝えられた、伊勢長嶋の一向一揆殲滅戦であった。
その時には門徒宗の怒りの反撃によって、織田軍も多くの者が討死、あるいは負傷する事態となったが、これによって伊勢長嶋の一向一揆は収束へと向かっていった。
目的のためには手段を選ばず、そして見せしめと報復を兼ねた凄惨な戦い方であった。
そしてこの時の家康も一切の迷いなく、池田勢殲滅の指示を下した。
夜襲で不意を突かれ、ロクに立て直しも出来ぬままの池田勢は、散々に打ち負かされた。
この時の戦で、池田家当主・池田恒興とその嫡男・元助が討死したが、父と兄が窮地となる中、自らも槍を取って奮戦しようとした次男・輝政は、家臣の決死の諌めによって戦場から脱出、家康の直接指揮する徳川軍の追撃を振り切り、逃げ延びていった。
(陣形に乱れが少ない、指揮系統がしっかりとしている証拠か)
夜襲をかける上で大事なものは色々あるが、いつ行くか、どれほどの速度で攻めかかれるか、の二点は間違いなく要、と言える要素である。
そういう意味では、今回の夜襲においては最もその要を捨て去っているのが第三陣・堀秀政の部隊に攻めかかる本多忠勝の部隊である。
あえて他の三つの部隊とは時間差で仕掛け、第一陣の池田勢は距離があるため援軍には行けなくとも、前の森勢か後ろの羽柴秀次勢か、どちらかには援軍を向かわせることが出来たはずの所を、それを妨害するために足止めに徹する。
夜の闇夜を多くの松明を掲げて突進してくる本多軍に、秀政の軍は完全に圧倒されていた。
にも拘らず陣形に乱れは少なく、混乱が起きている様子もない。
その様子に忠勝は一つ舌打ちをして、ならば、とばかりにすぅっと大きく息を吸い込む。
限界まで息を吸って、吐き出すとともに忠勝が吼えた。
「我こそは徳川が家臣、本多平八郎忠勝なりッ!! これよりそちらに我が槍を馳走に参るッ! 我こそはと思わん者は、我が隊の正面に立たれよッ!」
忠勝の怒号にも似た雄叫びに、味方の士気が否応なく上がる。
その一方で堀勢は瞬時に動揺が広がった。
信長も誉めそやしたと言われる、精強で知られる徳川の、さらに最強の呼び声高い本多忠勝が今自分たちの目の前にいる。
未だ明けぬ夜の暗闇の中で、多くの松明が「今から貴様らに襲いかかるぞ」と言わんばかりに数えきれないほど並んでいる。
その松明の向こうから、先程の名乗りが響いたのだ。
もはやこれは夜襲ではない。
ただ時刻が昼ではなく夜なだけだ。
でなければどうして、夜の闇の中を馬の嘶きや行軍の足音も隠さずに、しかも一気に襲いかかりもせずに敵の部隊の前で名乗りまで挙げるのか。
ただ攻めかかるだけでは堀勢は崩れない、そう察した忠勝はあえて自分の名乗りを挙げる事で、堀勢の動揺を誘った。
その効果は絶大で、明らかに堀勢を形成する兵は浮足立ち、中には松明の正面に立つと、本多忠勝の槍で貫かれるぞ、と言って松明と反対方向に逃げようとする者まで現れた。
「狼狽えるなッ! 相手が音に聞こえた本多忠勝であれば、奴を討ち取り名を上げよ! 陣形を崩すなぁッ!」
秀政が声を張り上げ、兵たちの動揺が収まっていきそうになると見るや、忠勝は負けじと秀政以上の大声を張り上げた。
「ならばいざ参るッ! 我が愛槍・蜻蛉切の切れ味、とくと味わられぃッ!!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
忠勝の声を合図に、本多隊の兵たちが堀勢へと果敢に突撃を仕掛ける。
すると秀政の声に落ち着きを取り戻そうとした兵たちも、その勢いに押されて自然と腰が引けていった。
暗闇の中から迫り来る多くの松明、そして馬の嘶きと蹄の音。
さらにはいつその槍の穂先が、自分を貫くか分からない恐怖。
秀政の手腕によって恐慌状態にまでは陥らなかったものの、堀勢の兵の士気はガタガタに下がっていった。
結論から言ってしまえば、忠勝は見事に隠し切ったのだ。
夜の合戦、視界は悪く明かりは天に輝く月と星、そして互いに掲げる松明か、かがり火の近辺のみ。
そんな中で、忠勝の指揮する兵は千にも満たない小数を、松明の数を増やして無理やりそれなりの数の軍勢に見せかけたのだ。
無論これは見せかけであり、ただでさえ少ない兵数は多くの松明を等間隔に一つの長い棒に結び付け、その棒を掲げるいわば「松明兵」をこれまた等間隔に配備したため、なお一層戦力としては落ちている。
だが効果は絶大で、よほど近くまで行かないとその松明が「松明兵」によって、数本まとめて掲げられているものだと看破出来ない。
しかも戦場という特殊環境下、さらには『本多忠勝』を相手取る、という恐怖感に襲われていた堀勢の兵士たちは、松明までじっくりと見るだけの余裕などなかった。
そうして忠勝の軍は、兵力差三倍以上の堀勢を相手に優位に戦を進めていった。
忠勝の言葉を聞いて、敵の正面に立つことを嫌がった兵たちは、自然と陣形を崩してしまい、真正面の中央の備えを薄くしてしまった。
それ故に忠勝の軍勢は敵陣中央を蹂躙し、さらにそこから側面へと抜け、ある程度の距離を取った所で悠々と軍勢全体が踵を返して、再び堀勢と対峙した。
軍が陣形ごと踵を返す瞬間などは、その軍が最も無防備になる瞬間であったが、今の堀勢にそこを突けるだけの余裕は無かった。
忠勝の部隊の実質兵力が少なかったがために、それを知らない秀政の予想よりも被害は少なかったが、数的損害よりも士気の方が問題だった。
恐慌状態に陥ってはいない、ここから陣形を整え直し、あの本多忠勝を相手に攻めかかれ、というのも不可能ではない、不可能ではないが。
士気が低い中で強敵を相手に突撃を命じた時、暗闇に乗じて恐怖に駆られた兵たちが、クモの子を散らすように逃散する可能性すらあった。
一人逃げ始めれば、そこからはもう連鎖反応で逃亡兵が相次ぐ、そうなればこの部隊は壊滅したも同然になる。
寒い時期であるにも拘らず、秀政の全身は既に汗でびっしょりだった。
これが、あの本多忠勝か。
上様も、上様が恐れた武田も褒め称えた、徳川が誇る猛将。
敵として相対すればよく分かる、これほどの者とは。
こちらはまずは陣形を整え、防備の構えを取らなければ話にならない。
あの突撃を再度食らおうものなら、今度こそこちらの兵の士気は取り返しのつかない所まで落ち込んでしまう。
だがあの猛将と言われる、そしてそれを身をもって知る羽目になった本多忠勝が、こちらが態勢を立て直す暇を与えてくれるだろうか。
向こうは既に突撃陣形を整え直し、いつでもこちらに攻めかかれるようにしている。
本多忠勝がその気なら、次の瞬間には再突撃が開始されてしまう。
そうなればこちらは這う這うの体で撤退するしかなくなるだろう。
ならばいっそ、これ以上の被害を出す前に一旦撤退するか、その際に森勢か秀次様の所へ向かい、撤退しながらどちらかの援護に向かうが最良か。
「手ごたえが無さ過ぎていささか拍子抜けにござる! お手前方の準備が整うまでこちらはお待ち致す故、手早く戦支度を始められよ!」
秀政がこの場からの離脱を考え始めた頃、忠勝の声が三度戦場に響く。
しかもその言葉は、秀政にとっても聞き流すことの出来ない意味を含んでいる。
準備が整うのを待つ、と言ったか、戦支度を始めろ、と言ったか。
先程の突撃を食らう際には、こちらも陣形を整え、戦支度をしていたのを分かっていて、あえてそのような事を抜かすか。
つまり、先程の攻防は本多忠勝にとって、戦いとは言えないものであったと、そう言うのか。
「なんなら先手もお譲り致そう、それでようやく対等な戦となるであろう!」
さらに聞こえた忠勝の声には、過分にこちらを見下した言葉が入っていた。
こちらの準備が整い、万全の態勢で攻めかかってやっと互角、だと。
『名人』と渾名され、万事をそつなくこなすと自他共に認める秀才、この堀秀政を相手にそこまで言うとは。
激情に任せたい気持ちを、奥歯を噛み締める事で堪えた秀政は、自らの拳で自らの足を叩いて必死に感情を押し殺す。
そして、少しだけ冷めた頭で必死に忠勝の言葉の真意を探る。
(落ち着け、落ち着けぃ! 奴がこうまで挑発を繰り返すには訳があるはずだ。 こちらが怒りに任せて突撃をかける事を、奴らは待っているのだ。 その手に乗るな、その手に乗れば待つのは全滅、敗北という結末だ。 待つというのなら待たせればいい、こちらはしっかりと陣形を整え、その上で奴らから攻撃を仕掛けさせればいい。 援軍は無理だ、あの本多忠勝を相手に背中を見せれば、その瞬間全滅する未来しか見えぬ。 そうだ、まずは兵たちを落ち着かせねば)
めまぐるしく頭を回転させ、それで何とか冷静さを取り戻し、秀政は号令をかけて陣形を整え直す。
もはや恥も外聞もない、忠勝側から待つと言ったのだから、この際しっかりと陣形を組み直させてもらう。
そうして秀政が組み直したのは、防御に特化した方円の陣形、明らかに攻めかかる気のない陣構えであった。
その上で秀政は声を上げる。
「お待ち頂き感謝に絶えぬ! だがこの上さらに先手まで譲られては、この堀秀政も武士の面目が立ち申さず! よって先手はそちらにお返しいたす、存分にかかって来られぃッ!」
防御特化陣形で構えておきながら、存分にかかって来いというのも随分な話ではあったが、もはや秀政も恥も外聞も無く、ただ全滅・敗北を喫しないようにするのが精一杯であった。
だが、それこそが忠勝の狙い通りであることに、秀政は未だ気付いてはいない。
忠勝の求められている戦果は、堀秀政勢の壊滅ではなく、足止めである。
ましてや明るい所で対峙したならば、堀勢の四分の一程度の兵数しかいない忠勝の部隊など、ものの一刻も持たぬ内に壊滅させられてしまうだろう。
なので夜の暗闇を味方に付け、兵数を誤魔化しながらの吶喊攻撃によって、戦の主導権を握る。
忠勝から見ても、一歩間違えれば危うく全滅、それか足止めの任を果たせないまま、森勢と秀次勢に援軍に向かわれていた可能性もある。
だが向こうは防御を固め、こちらの攻撃を受けつつ反撃に出る構えだ。
ならばこちらがいつ攻めかかるかで、戦は再開される訳だ。
狙いとしてはこちらが攻めあぐねている、と見せかけて夜明け直前までこのまま引き付ける。
そして夜明け直前、明るくなってこちらが少数の部隊であると見破られる前に撤退が最良だ。
(殿、こちらの首尾は上々にござる。 御身もどうかご無事で)
未だ深い闇の中で、忠勝の口元には武人の笑みが浮かんでいた。




