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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その9

              信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その9




 池田恒興は焦っていた。

 羽柴秀吉に付いて行けば『利』がある、と。

 そう思って織田家よりも羽柴家に付き、存分にその『利』を堪能させてもらおうと思っていた。

 自分と織田家との関係は深い、だがその深さは信長あってこその関係だ。

 自分の母は信長の幼い頃の乳母、そして信長の父にも気に入られて側室になった女性だ。


 自分に織田家の血筋は流れていないが、それでもいわば準一門衆のような扱いで、幼い頃から信長と共にいろんな所に連れ回され、付き合わされ、従い続けていた。

 別にその事を恨みに思うようなことは無い。

 その時代があったからこそ、信長は自分に対して気兼ねなく接してきたし、信長の率いる織田家の中でも確固たる地位に就けたのだ。

 だがそれも終わった、信長の死とともに幕を閉じたのだ。

 これからは『織田家の中の池田家』ではなく、池田家単独でこの乱世をどう生き、どう渡り歩いていかねばならないかを模索し、その当主たる自分は舵取りをしなければならない。


 そうして自分は、池田家という家柄は『羽柴に付く』という舵を切ったのだ。

 これは織田家に対する裏切りではない、「池田家」という乱世の荒波を渡る一隻の船が、荒波を乗り越えるために舵を切った方向がたまたまそうだっただけだ。

 しかし今、状況はすこぶる悪いと言っていい。

 莫大な兵力、膨大な金銀、広大な領地、まさに早晩天下を取るであろう秀吉が、まさか半分以下の兵力しか持たぬ徳川を相手に苦戦するとは、夢にも思わなかった。

 徳川の強さは自分もよく知っている、信長存命時から共に戦った事もあるし、その当主・家康とは直接会話したこともあったのだ。


 さらに言えば家康が幼少の頃、まだ竹千代と名乗っていた時分には信長と共に、様々な所へ連れ回して互いに相撲まで取った仲であった。

 だがそんな事は、今となっては全く関係の無い事だ。

 そう思いつつも恒興の脳裏には、今更ではあったがあの時の誼を大事にして、徳川方に付けば良かったかもしれない、とすら思い始めていた。

 なにせここまでの戦は小城の攻防や、小競り合いの野戦ばかりではあるものの、ほぼ全てで徳川方の圧勝と言っていい戦果なのだ。

 無論こちらとて徳川方にはそれなりの被害も与えてはいる。


 だがこちらの、秀吉の指示に従い兵を借り受け、自らの軍と合わせて部隊を形成して挑んでも、明らかにこちら側の方が手痛い損害を被ってばかりであった。

 先日などは、偶然遭遇した千にも満たぬ小部隊、と見てこちらの三千の兵で突撃して踏み潰そうかと思えば、近くの森から千や二千はあろうかという騎馬と足軽の混成部隊が突如姿を表し、こちらに横槍を突いてきた。

 慌ててそちらに対処をしようと思えば、正面にいた小部隊はなんと一斉に鉄砲を放ってきた。

 囮だったかと思えばとんではない、足軽と騎馬の直接攻撃部隊と、援護射撃の鉄砲部隊が分散されて配置してあっただけの事、そしてこちらはまんまとそれに引っかかり、結局散々に打ち負かされて慌てて退却する羽目に陥った。

 野戦慣れしているどころではない、兵の呼吸から部隊運用の仕方まで、全てがこちらより上であると認めざるを得なかった。


 しかも徳川方は、恐ろしい程この尾張国の地形を把握し尽くしている。

 どこに山があり、丘があり、森があり、川があり、平野があるかを、知り過ぎている。

 一体どうなっているのか、徳川にとってはいくら長年の同盟国とはいえ、ここは尾張であり徳川の領土でもないはずなのに、なぜこうも地の利を活かした戦法が取れる?

 度重なる敗戦で、すでに秀吉の自分に向ける視線には、冷たさが混じってきている。

 このままではまずい、せっかく羽柴に付く決心をしているのに、このままでは池田家は、自分は秀吉から役立たずの烙印を押されてしまう。


 恒興は自分の価値を、しっかりと認識出来ていた。

 『織田家宿老』という地位など、もはや何の意味も成さない事は分かっている。

 なにせその宿老が、現在最も広い領土を持つ『織田家』である信雄と敵対しているのだから、今更『織田家宿老』などという役職が、何の役に立つというのか。

 清州会議、と後に言われるようになったあの会議で、自分の役割はすでに終わっている。

 羽柴に付き、尻尾を振って従い、もたらされるおこぼれに与かる事でしか、池田家の繁栄の道は無いのだ。


 だがこのままでは、おこぼれに与かるどころの話ではない。

 乾坤一擲、まさに逆転の一手を打つ以外に、自らの評価を上げる方法は無い。

 秀吉とてこちらの必死な思いは汲んでくれよう、命懸けの覚悟は感じ取ってくれるだろう。

 無論命など賭けたくは無いが、それでも此度だけは少々危ない橋でも渡る必要がある。

 やる時はやるぞ、わしの底力を見せてやるわ、今度は尾張にも領地をもらってやる!




 池田恒興の進言は、戦力の大半をこの戦につぎ込んでいる徳川家の領国、本貫の地である三河に攻め込んで、背後から脅かして戦力を分散させる。

 もしくは一気に降伏までさせる、というものであった。

 秀吉はあえてすぐには結論を出さず、恒興には一旦保留を言い渡した。

 そしてその日の夜に秀長と二人だけで、恒興の進言について話し合う事にした。

 恒興の進言してきた内容を秀長に改めて問いかけ、「どう思う?」と最後に聞いた。


「あまり気乗りせぬ話にございますな……確かに現時点で攻めあぐねてはおりますが、だからと言ってその戦い方はあまりにも……池田様も随分と焦っている様で」


「うむ、確かに軍を分割させておびき出す、というのは賤ヶ岳でもやった戦法じゃな。 有効と言えば有効とも言えよう、だが此度は向こうに『佐久間盛政』はおらぬじゃろ? そうそう二度も三度も同じ手で勝てるとは思えんのぅ…」


 恒興は一気に国境を越え三河まで突き進み、そこの守備兵などを蹴散らして岡崎城を占拠してしまえばいい、とまで言っていた。

 そうすれば家康も小牧山城に籠城し続ける事など出来はしない、と。

 だが秀吉は、家康が岡崎城を奪られるまでのんびり小牧山城に籠ったまま、などにはならぬだろうと踏んでいるし、そうなる前に家康が小牧山城を出て何らかの防衛策を取るだろうと考えた。

 となれば恒興の軍を囮にして小牧山城から出てきた家康を、秀吉本隊で潰して終わり、という事になればいいが。

 ここまでの家康の戦い方は、そんな簡単な話で終わるとは思えない巧みさを見せている。


 徳川は確かに強いとは思っていた、実際にその強さは目の当たりにしている。

 織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍が決戦を行った『姉川の戦い』では、織田対浅井、徳川対朝倉という因縁の両家による戦いと援軍同士の戦いといった、二つの戦場で展開された戦だった。

 この戦は戦国時代の数ある戦の中でも、稀な部分が数多くある戦でもあった。

 まず四つの大名家が二対二で組んで戦い、それぞれがそれぞれの敵と戦っただけでなく、それぞれの側の少数の軍が大軍を押し込むという状況になっていた、ということ。

 織田・徳川軍の少数の軍、徳川が大軍を擁する朝倉軍を押し返し、浅井・朝倉軍の少数の軍、浅井軍が織田軍の信長親衛隊、馬廻り衆まで防戦に回らねばならないほど、織田軍を追い詰めたのだ。


 最終的に織田軍は浅井軍の猛攻を凌いでいる間に、朝倉をやり込めた徳川の軍勢が浅井にその矛先を転じようとした所で、挟撃を恐れた浅井は撤退を開始した。

 四つの大名家の中で、最も数が少ないとされた徳川が最も数が多かった織田軍を救ったのだ。

 そしてこの戦での戦死者の数は、当時としては異例とも言える千を超える数に上った。

 合戦の舞台となった場所の付近には「血」という言葉が現代まで残されるほど、その辺り一帯では多くの血が流れたことを表している。

 そうして、この戦で徳川は『三河の精兵』の強さをいかんなく敵味方に知らしめ、それから十三年が経過した徳川は、その領土と兵力をさらに増している。


「徳川に正面から当たるは確かに愚策、しかし調略が通じる相手ではない。 搦め手も考えてはおるがコレという案が思い付かん。 やはり官兵衛を同道させるべきであったか…」


「今からでも呼び寄せますか?」


「……いや、ここで奴を呼べば借りが出来る事になる。 いざという時には必ず自分に泣きついてくる、とあやつに思われるのも癪じゃ。 止むを得まい、恒興に雪辱を晴らす機会を与えてやるか」


「では池田様の単独部隊に? それとも誰か付けまするか?」


「希望する奴がおったなら一緒に行かせてやれ、それとわしの方でも誰か見繕って軍監として付けておくとするか」


 今一つつまらなそうに、秀吉は首をコキコキと鳴らす。

 妙案を思い付いたり、有効な手が見つかったりするのならともかく、現時点ではそのどちらもない上に必死に手柄を立てたいと訴える者がいる。

 ならばやらせてみるのも一興だろう。

 仮にも織田家内でもそれなりの地位にいた池田恒興だ、信長の乳兄弟というだけでのし上がったのではない、というのならここらで活躍してくれるかもしれない。

 念のため、こちらでも能力的に監督出来る者を同行させれば、大きな損害が出る前に対処をしてくれるだろう。


「それに失敗したら失敗したで、邪魔な奴も消えるしのぅ…」


 ボソリ、と秀吉の本音が漏れる。

 岐阜城は池田恒興ごときに与えるには、正直もったいないと思っていた。

 大坂城を建てたくて、そこを領国にしている池田恒興を退かせるには、それなりの石高や配置をかんがえないといけなかったとはいえ、美濃国岐阜十三万石、はさすがにやりすぎだった。

 話はすぐにまとまったとは言え、それは即ち恒興にとっても岐阜が魅力的に映ったからに違いない。

 『美濃を制する者は天下を制す』などという言葉もある土地を、そんな器も無い奴にいつまでも領させておくのは、馬鹿らしいというものだ。


 ダメで元々、いっそ消えてくれても有り難い。

 上手くいったら儲けもの、その時はこれまでの失態をチャラにする代わりに、岐阜から退かせてどこか別の所を宛がおう。

 様々な打算を張り巡らせつつ、秀吉は床についた。

 細かい人選、陣容は明日で良い。

 恒興は眠れない夜を過ごしているかもしれないが、精々焦らして奮起させて、働いてもらうとしよう。




 『隠れ軍監』からの報告に、家康・信長・光秀の眉間にしわが寄った。

 ここ数日は小牧山城に籠っていたため、両軍ともに目立った動きは無かった。

 先日などは光秀が八百ほどの部隊を率いて、あえて森の中に潜もうとしていたところを見つかった、と思わせて敵をおびき寄せた。

 そこを本多忠勝率いる騎馬と足軽の精鋭に横槍を突かせ、敵を散々に打ち倒した。

 さらにトドメとばかりに混乱する敵に光秀自身も銃を取り、援護射撃を行った。


 一撃離脱を信条にした、小部隊ならではの戦法を駆使して戦い続けた徳川軍であったが、敵はそもそもこちらよりも多くの兵を要する大軍である。

 こちらの戦法に対抗して数千人規模の部隊をいくつか編成し、一部隊当たりの兵力をこちらよりも多くしてから、逆にこちらを各個撃破しようと挑んできた。

 だがこちらはそれを巧みに避け、ある時はおびき出し、ある時は複数の部隊で囲んで攻め立てた。

 すると敵は戦力分散の愚を悟り、軍勢を集結させて防御力を高め、速度を犠牲にした上でゆっくりと進軍を開始したのである。

 元から数の上ではまともな戦にならない、全軍集結となれば単純な兵力は倍以上だが、その一方で緩慢な動きで消費される兵糧も、それに応じた量となる。


 今回の戦は秀吉としても、ここ数年で行った戦の中で唯一、資金的に潤沢な戦ではない。

 なので兵糧の買い集めなども万全、とまではいかなかった。

 なにせ朝廷、公家衆という相手は金食い虫も同然であり、前久からはかなりまとまった金額を朝廷工作のために要求され、今更後に退く気は無い秀吉は、その要求通りの金額をすでに三成経由で、前久へと預けてしまっているのである。

 無論、そこは家康や信長と裏で繋がっている前久である。

 自らの屋敷や家財道具、それらの一新のためにも公家衆懐柔費用のための資金を横領して使い込み、本来必要な金額を割り増しして三成には提示・請求している。


 たとえ石田三成が几帳面に全ての出費を記録していても、所詮は前久からの自己申告にしかならないため、誰にどれだけ金や物を贈ったかなど、まさか贈られた公家に直接聞きに行く訳にもいかない。

 さらに恐ろしい事に、前久が横領したという話になって、言い責められるような事態になった場合には「いかに秀吉はんに付けば得か、この身の屋敷を見れば分かる、という状況にしただけですわ」と、いけしゃあしゃあかつ堂々とした言い訳も既に考えている。

 前久とて海千山千の公家衆の、さらにその頂点に立っていた男である。

 自分の言動に一片でも正当性があれば、そこからの自己弁護などお手の物なのである。

 その辺りの恐ろしさを、秀吉も三成も理解し切れてはいなかった。


 しかし秀吉からしてみれば、前久に任せている朝廷工作を今更他の者に変える訳にはいかない。

 仮に前久に文句を言っても「じゃあ手を切ろう」と言われてしまえば、前久に代わる伝手も人材もおらず、金を消費しただけの無駄骨に終わるのは秀吉の方である。

 その辺りも秀吉にとっては泣き所となるだろう、とまで信長と家康に語った時の前久の顔は、二人が顔を引きつらせるほど嬉しそうに笑っていた。

 その際には信長も「これだから公家という奴らは」と、不快感を隠そうともしなかったが、秀吉の強さの根幹の一つである、経済力を封じるのは有効であると判断し、前久にその辺りの判断は任せた。

 信長と家康の了解を得たことで、前久は満面の笑顔でこう言っていた。


「お武家はんにはお武家はんの、お公家衆にはお公家衆の、それぞれの戦い方があるものや。 この身は公家としての戦いに全力を尽くすことを、お二人に誓いますえ」


 その言葉を聞いて信長も家康も、心の底から嫌そうな顔をしたまま、前久の京都帰還を見送る事になった。

 秀吉は当然、その様な会話が行われていた事など知る由もない。

 もし知っていたのなら、いくら相手が前関白であろうと叩き斬っていたかもしれない。

 そうして前久による秀吉への散財攻撃に、時間差で家康が兵を挙げる。

 秀吉からしてみれば嫌な時期に戦を仕掛けられたとは思ったが、その「嫌な時期」は綿密な計画の元に起こされていたものであったと、秀吉が知る事になるのはもうしばらく先の話であった。

当時日本国内でも指折りの金持ちとなっていた秀吉から、仕事のためとはいえ秀吉の懐が寂しくなるレベルの金額を預かり、それを逃げ道を用意した上でガンガン使い込む近衛前久。

想像すると、我ながらつくづく最悪な手段を取らせたものです。

この時代「領収証」とか「第三者機関からの会計監査」もありませんし、公金や税金でもありませんから、秀吉が訴えなければ罪にも問えず、実質泣き寝入り確定案件という、鬼のような禁じ手を使わせました。

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