信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その2
話が冗長になってしまっているので、せめて更新速度だけでも上げようと思います。
信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その2
すでに敵に囲まれたはずの本能寺だったが、すぐには攻撃は始まらなかった。
様々な経路を通り、時間差で本能寺に向かっていた各部隊は、どうしても同時到着とはいかない。
本能寺に到着前に事が露見することを恐れた明智光秀が、あえて時間がかかっても細心の注意を払って足音などが響かないように部隊を分けたが、すでに信長は光秀謀反の報告を聞いており、かえって信長に防衛態勢と策を練らせる時間を与えることになってしまっていた。
薄々その事に気付いた信長は、鼻を鳴らして小声で呟いた。
「相変わらずの細かさよ、キンカンめ」
「キンカン」とは、信長が光秀に付けたあだ名である。
すぐにでも襲いかかって来ると思っていた本能寺側は、門の前にあえて兵を置かず、屋内とその手前に兵力を集中させて、各個撃破による兵力の損耗を防ぐつもりだった。
門には当然閂はかけてあるが、破城槌などがあればすぐに破られる。
ならば下手に門の防衛に力を入れるのではなく、密集陣形を取れというのが信長の命令だった。
瞬間、その命令に蘭丸をはじめとする小姓たちは頭に疑問が浮かんだが、その前に信長の声が届いた。
「お蘭、弟を連れて奥に来い」
そう言い放って信長は寝間着のままズンズンと歩いていく。
すぐにでも総攻撃が開始されると思っていた信長は、着替えぬまま明智軍を待ち構えていた。
言われた蘭丸は自らの弟、力丸と坊丸を呼んで、3人で奥へと向かった。
そうして奥の間には信長と蘭丸、そして力丸と坊丸の4人が額を突き合わせるように座った。
そこで信長は細かな命令を、それぞれに下す。
「やれるな?」
「は、お役目必ずや!」
信長の言葉に、蘭丸も力丸も坊丸も伏して承諾する。
信長の出した命令に、この三兄弟が異を唱えることはない。
この三人にとって、信長の命を完全に実行するためならば死ですら厭わない。
そして直命を受けた力丸と坊丸がその命令通りに動くため、退室する。
残った蘭丸に、信長が尋ねる。
「報告に来た『隠れ』は?」
「は、フクロウにございます」
「呼べ」
すぐさま蘭丸も退室し、一人部屋に残った信長は瞑想してフクロウが来るのを待つ。
ほんの1分かそこらで、蘭丸と共に隠れ軍監フクロウが部屋へとやってきた。
「お召しにより参上仕りました」
「近うよれ」
言われてフクロウは信長の前まで膝を使って進み寄る。
信長は今まさに万を超える軍勢に包囲されているというのに、額に汗一つかいていない。
むしろこの本能寺まで駆けてきたフクロウの方が、先程ようやく息が整った所だというのに。
信長は自らの命が危ういというのに全く慌てずに、フクロウに次々と質問を飛ばす。
「貴様以外の『隠れ』との連絡は付くか? 敵味方識別の符丁などはあるか? 光秀の軍の詳細を分かる範囲で述べよ」
先程自分が到着してから報告の際に起きたはずの信長が、寝起きとも思えずにハキハキと次々に質問してくる様に、返ってフクロウの方が焦った。
だが時間が無いのでフクロウは次々にその質問に答えていく。
信長の周囲で働くには、察しの良さと的確さ、そして何より早さが求められる。
グズグズしていると信長の怒りを買い、ましてや間違った情報を出そうものなら首を切られかねない。
フクロウは隠れ軍監同士の連絡は指笛で、常人には聞こえ辛い音を発して報せるという。
「よし、ならば敵が寺内に入ったのを見計らって他の者に伝えよ。 向かって左の書院に3名ほどの兵を連れ出して、そこで殺して服や具足を奪い、死体は書院に押し込めて隠しておけ、いつでも火をかけられるように準備もしておけ、とな」
それだけ聞けば信長が何を考えているのか、蘭丸には想像が付いた。
軽く目を見開いて自分の意図を悟った、と見た信長は蘭丸に続けて命ずる。
「わしの考えが分かったなお蘭。 後で髭も剃る、カミソリを用意しておけ」
言われてすぐさま蘭丸は駆け出す。
フクロウはそんなやり取りを呆然と見ている。
なんて話の速い主従なのかと驚いていたのだ。
「フクロウ、貴様はワシの援護をせい。 信長が自ら槍を振るい、ここにいると見せてやらねばな」
言って信長は立ち上がる。
慌ててフクロウも立ち上がって信長の後に続く。
その頃本能寺を囲んでいた兵たちが、ようやく鬨の声を上げて門を叩き始めた。
奥の部屋から出て、本能寺の塀の向こう側に明智の桔梗紋を見た信長が、不意に目を細める。
「是非に及ばず、か……これだけ待たせておいたのだから、使者なり矢文の一つなり見せればよかろうものを、あやつにしては無粋なことよ……」
言いながら、歩く足はまるで止まる気配はない。
その後を続くフクロウには、先程の信長の独り言が聞こえていた。
何故相手が誰か、どれだけの兵数で攻めてきたのかを知っても、こんなに落ち着いていられるのか。
普通は怒りに震えるか、怯えて降伏を願い出るかしてもおかしくないはずだ。
それどころか目の前の信長は、まるで見慣れた景色を見るかのように、感情に揺れ幅が無い。
忍びとして厳しい訓練を課され、それを乗り越えたフクロウにとっても、今のこの状況は絶体絶命のはずだと分かる。
それなのに信長はすでに自らの策に一片の疑いも、不安も抱かずに成功すると信じている。
同じ人間のはずなのに、今この場で自分が刀を抜いて斬りかかれば殺せるかもしれないのに。
それなのにフクロウにとっては目の前の信長という人間が、何か得体の知れない別の生き物のようにしか思えなくなっていた。
一体どれほど苦難を乗り越えながら生きてくれば、これほどの存在になれるのか見当が付かない。
(長は知っていたのだ、信長という男の恐ろしさを)
降伏の際、甲賀の里の長は信長に直接謁見し、降伏を許されている。
その時に恐らくは悟ったのだろう。
目の前の男に逆らう事の恐ろしさと、信長という男の人間としての深さを。
直接信長と会い、言葉を交わし、その後に続いて歩いていく。
それだけでフクロウは、里の長の降伏という判断が間違っていなかったことを思い知った。
広間には既に主立った者と女たちが集まり、顔を緊張に強張らせていた。
そこに信長が姿を現し、一斉に皆の視線が集中する。
それらを一瞥し、全員が揃っていることを確認してから信長が口を開く。
「女たちは逃げ延びよ。 細々としたことを気にするキンカンの事だ、命は助かるであろう」
その言葉に、明らかにホッとした顔を浮かべる者、それでもなお不安げな者、俯いたまま顔を上げられない者、それぞれが様々な反応を見せたが、そのどれでもない反応をした女性がいた。
織田信長の正室にして、斉藤道三の娘・帰蝶である。
「上様はいかがいたします?」
信長の言葉を聞いても何ら反応をしなかったその女性は、逆に信長に問いかけた。
たとえ相手が「第六天魔王」とうそぶく男でも主君であり、その主君を討つ際に一緒にいた女子供の命まで取る、などという悪評は光秀は望まないだろう。
ならば女が逃げ延びようとすればそれを無理に止める事はしないだろうし、ましてや信長の妻である帰蝶に乱暴などを働けば、それこそ光秀の評判は地に落ちる。
そこまで見抜いた上での信長の言葉だったが、帰蝶という女性は自分はともかく信長はどうするのかと逆に問い返してきたのだ。
「キンカンがわざわざこのわしに挑んできたのだ、袖にする訳にもいくまい?」
それは信長なりの優しさだったのかもしれない。
顔に微苦笑を浮かべて、帰蝶を正面から見据える。
主君殺しの悪名も被る覚悟で、しかも自分と最も近しい考えと物の見方が出来ると思っていた男が、自分を殺しにわざわざこんな時間に、百かそこらの兵に万を超える軍勢でもって攻めてきたのだ。
普通に考えれば戦にすらならない、完全な嬲り殺しに等しい。
だがそれでも、信長は結局その間に子を成すことが無かった正室を前に、笑って見せた。
「ならばわらわもここに残りましょう、どうぞご存分に」
対して帰蝶も並みの女性ではない。
「マムシ」の二つ名を持つ斉藤道三の娘にして、嫁入り時には道三から短刀を渡され「信長が本当にうつけなら、殺して逃げて来い」と言われ「では信長殿がうつけでなければ、この刀を父上に向けてもよろしゅうございますか」と言い返した、などという逸話があるほどだ。
帰蝶の言葉に周りは唖然とし、信長だけがしかめ面になった。
「男の戦に割って入るか、出しゃばる女は嫌われるぞ」
「マムシの娘ですゆえ」
忌み嫌われるマムシ、とあだ名された男の娘が、今更少し嫌われる要素が増えた所で痛くも痒くもない、と言わんばかりな物言いである。
苦虫を噛み潰したような表情の信長に対し、どこか嬉しそうな帰蝶である。
周りの人間だけがハラハラするようなやり取りの中、信長は後ろに立つフクロウにそっと呟く。
「先程申した3名、4名に変更せい」
言われて戸惑いながらも、「御意」とだけ返事をするフクロウ。
そのやり取りだけで、意味は分からないがこの舌戦は自分の勝利に終わった、と確信する帰蝶。
その帰蝶を軽く睨みながら「美濃の者は鬼門よの」とだけ、信長がつぶやいた。
その場で唯一、信長の呟きを聞き取ったフクロウは、ますます信長という人物が分からなくなった。
巻の一は信長と光秀に焦点を当てながら話を進めていきます。
天正十年六月二日を、全8話にわたってお送りする予定です。
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