信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その4
今回は久々に近衛前久が目立ちます。
信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その4
羽柴秀長は緊張のあまり、拳を握り締めて冷や汗を流し、ただじっとしていた。
目の前にいる存在は、かつて朝廷の公家衆の頂点に立っていた男、前関白・近衛前久である。
秀吉が戻って来る前に、何の前触れも無く現れた時には誰が来たのかと思った。
供も連れず、先にこちらに来訪を告げる先触れも無く、本当に突如としてやって来たのだ。
顔を検めさせてもらえば、確かに近衛前久本人であった。
秀長もかつての本能寺の一件の際、近衛前久邸から本能寺に向かって鉄砲を構えている兵がいた、という目撃証言があったために一時とはいえ、近衛前久を拘束した羽柴軍の一員、というよりその柱石を担う人間である。
その際に様々な質問もしたし、しっかりと顔も合わせ会話もしている。
だがそれだけに、秀長として見れば気まずいものがある。
あの時は信長の敵討ちという大義名分があり、明智光秀に加担した者は誰であろうと許さない、という姿勢を示すためもあり、怪しい者は公家であろうと町人であろうと容赦をしなかった。
だがその中に、目の前の近衛前久もいたのである。
近衛前久は公家衆の中でもその頂点に立つ最上級の公家・五摂家の一員であり関白を務めたという、まさに血統やその地位で見るならば、この日ノ本に置いても最上段に位置する立場の人物である。
そんな存在に取り調べを行い、数日間とはいえ拘束して、最後は冤罪で釈放という結果であった。
相手が名も無い町人であれば気にはしない、この時代はそういったものである。
だが相手が名もあり立場もあり、ましてやその立場というのが遥か上の、まさに殿上人ならば。
そんな存在に無礼な真似をしてしまうと、後々とんでもない厄災となって降りかかる場合がある。
そしてそのとんでもない厄災が、今この時に来てしまったのかと、秀長は内心気が気でなかった。
もし前久があらん限りの手を尽くして、秀吉が望む『朝廷からの天下人として認めたお墨付き』を邪魔しようと思えば、それはとてつもない障害に成り得るだろう。
それこそ秀吉が一生かかっても、どれだけの金を積んでも覆せないものになる可能性もある。
秀長の前に座る、正確に言えば上座に座したまま目を閉じ、何も言わない前久は内心の怒りをグッと抑えている様にも見えた。
平伏したままでなくても良い、とされたので面こそ上げてはいるが、内心下げてどうにかなるようなら自分の頭など何度でもいつまでも下げていてもいい、とすら思っていた。
(兄上、まだ来られませぬか……先程戻られて、今頃は三成が呼びに行っているはず…)
カラカラに乾いた喉で、内心の焦りをなんとか顔に出さないように、秀長は待ち続ける。
室内はシンッと静まり返ったまま、物音一つしない。
小さな音さえ出すことを憚られるような空間で、秀長はいやな汗を流し続けていた。
そこに「なんじゃとぉッ!」という大声が響く。
危うく「やっとか!」と言いたくなったが、秀長はその声が聞こえてきた方向に頭を向けるだけで何とか堪えた。
その後ほどなくして、ダンッダンッと板張りの廊下に明らかに慌てた足音が響き渡り、前久と秀長がいる部屋の前で、その足音が収まった。
障子の向こうから三成の「失礼いたします。 羽柴筑前守様、お越しにございます」という声が響き、前久の「お入りなされ」という言葉が返される。
三成が障子を開け、その向こうにいた秀吉は頭を下げて挨拶し、部屋へと入ってまた平伏した。
「このようなむさ苦しい所でお待たせした事、何卒ご容赦下さりませ。 羽柴筑前守秀吉に御座りまする。 この度は御来訪頂き、恐悦至極に存じ奉りまする」
作法に則って落ち着いて礼をする秀吉に合わせて、秀長は再度頭を下げる。
公家衆との会談が終わった途端に、今度は公家衆の頂点に立った男の来訪である。
秀長は内心で秀吉が相当疲れているのでは、と思ったがさすがに口には出せなかった。
前久も秀吉に挨拶を返し、その声音から怒りなどは感じられなかったため、秀長はホッと溜息をついていた。
「早速ですみまへんけど、こちらにお訪ねしたんは羽柴殿に折り入ってお話ししたい事があるからや。 よろしければ二人だけで話をさせてもらえんやろか」
「はは、では早速に!」
前久の人払いの言葉に、秀吉が神妙に返事を返し、秀長が即座に対応する。
秀吉の言葉と同時に、秀長は一礼して立ち上がり、「失礼いたします」と言い残して素早く静かに部屋を出ていった。
障子を閉めて、その場から歩き去りながら秀長は「はぁぁぁぁ……」と大きく息を吐いた。
立場上他にいなかったとはいえ、「前関白」の地位にいる者と二人だけで部屋にいるという事が、しかもこちらに負い目があるという状況では、その精神的な疲労感はとてつもなかった。
秀吉と一緒に公家流の礼儀作法や、千利休から茶の湯の指南などは受けてはいたが、それでも元々が農民上がりである秀長は、まだまだその空気に慣れ切る事が出来ない。
「兄上は凄いな……わしなど寿命が縮む思いであったわ」
そう言いながら秀長は、白湯の一杯でも貰おうと自ら台所へ向かっていった。
部屋に残った前久と秀吉は、秀長の足音が遠ざかっていた所で本題に入った。
「さて、この身が本日こちらへ参りましたんは色々ありますけど、まずは先の本能寺の事についてや」
ギクリ、とばかりに秀吉の顔が強張る。
前久の声音から怒りが感じられなかったので安心していた所に、時間差攻撃のような言葉を受けて秀吉の心臓が跳ね上がる。
三成に近衛前久が来ている、と聞いた時には「縁故を結びたい相手が向こうからやって来た!」と瞬時に考えが至り、思わず顔に笑みを浮かべてしまった。
だが慌てて服を着替え、少しだけ冷静になってみると事はそんな単純な話ではない、と思い直した。
確かに相手は上級公家だ、しかもとてつもない地位の。
しかし「ただのとてつもない地位の上級公家」ではないのだ。
本能寺の際には「冤罪をかけてしまった近衛前久」なのだ。
部屋に来るまでの間に、秀吉は様々な会話、質問、要求を想定した。
何を言ってくる、何を聞かれる、何をねだられる?
いや、それくらいならば良い、物や金で釣れるのなら願ったり叶ったりだ。
一番恐ろしいのは近衛前久の地位と人脈、全てを使った秀吉に対する妨害宣言などを出されては、今の秀吉にはとてつもない打撃となる。
『信長の後を継いだ天下人』は所詮自称に成り果て、朝廷からは何の後ろ盾も承認も得られず、大義名分は永遠に手に入らなくなるのではないか。
日ノ本の諸勢力全てを力ずくで制圧する、というのは単純で話が早い一方、どうしても金も兵も損耗するし、効率という点ではやはり悪いとしか言いようがない。
なので秀吉は『調略』を主軸に今まで戦ってきたが、朝廷が実質的に羽柴家を『朝敵』として扱った場合、その主戦法は封じられ、残る手段はなるべく避けてきた力ずくのみである。
秀吉は内心の動揺を押し殺して、当り障りのない言い方で前久の言葉の先を促した。
「あの時はお互い、不幸な行き違いがありましたな。 信長はんの死は、この身にとっても身を裂かれる様な悲しみでしたわ。 家臣であった羽柴殿も、同様やと思いますけども…」
「それは、それはもちろんの事! あまりの怒りと悲しみで某、毎夜眠れぬ夜が続いた次第! 憎き明智の首を挙げるのが先か、某が上様に殉じてしまうのが先か、という状態で……上様の仇を討てた時には、涙が止まりませなんだ!」
相手の言葉に調子を合わせるのは、秀吉にとって朝飯前だ。
そんな秀吉の言葉を聞き、前久は神妙な顔でうんうんと頷く。
「あれは哀しい出来事でしたな。 せやからこの身も、あのような扱いを甘んじて受けたんや」
「いや、あ、あれは……申し訳ありませぬ、重ね重ねお詫び申し上げまする! 上様への忠義が行き過ぎた結果、近衛様には多大なるご迷惑をおかけいたしました事、お許し頂けるなら何でもやらせて頂きまする故、何卒何卒、その寛大なる御心の御慈悲を賜りとう存じまする!」
ひたすらに畳に頭をこすり付けて、秀吉は平伏したまま詫びの言葉を並べる。
そんな秀吉に前久は優しい眼をしたまま、秀吉にとって意外な言葉を言い放った。
「この身は怒っておる訳やない、むしろ羽柴殿には事の真相を聞いてほしくて、今日はお話をさせてもらいに来たんや」
「へぇ?」
秀吉が思わず間の抜けた声で返すと、前久は少しだけ笑って声を潜めた。
「今から話すことは一切の他言無用や、もし羽柴殿がこの部屋を見張らせておる忍びでも飼っておるんなら、それも全て遠ざけて欲しい……よろしいやろか?」
「は、ははぁ! もちろん、先程の人払いでそれらも全て散らしておきました故、どうぞ御心の内をご存分に!」
いくら相手が相手とはいえ、とても部下には見せられないと思うほどの平身低頭ぶりに、思わず前久が苦笑を浮かべる。
演技過剰なその言動はいっそ滑稽でもあるが、むしろそれこそが秀吉が「天然の人たらし」たる所以である。
自らが道化じみた滑稽さを出すことで、相手が一笑に付すほどに気持ちを緩ませる。
一度緩んだ気持ちはそうそう固くし直すことは出来ない、だからこそ会話の途中で相手の気持ちを緩ませる、和ませるような行動が必要なのだ。
前久の苦笑を目敏く見て取った秀吉は、少なくともこの会談は自らの不利益にならないだろう、と踏んで内心でほくそ笑んでいた。
「ほんならお話しいたしましょか。 まずは先年の本能寺での一件、アレを仕組んだんは朝廷内の信長はんを嫌う一派の仕業や、明智はんはそれに利用されただけなんや」
「はぁッ!?」
この時の秀吉の驚愕に満ちた声は演技でも何でもなく、心底からの驚きによって無意識に出たものであった。
内心ほくそ笑んでいた感情など、一気にどこかへ吹き飛んでしまうほどの爆弾発言。
回りくどい言い回しを好み、こちらに察しろと言わんばかりな公家衆が多い中、この前久の直接的な物言いはいっそ戦国大名の方に近いくらいだ。
前久は声を潜めて話していたが、秀吉があまりに大きな声を出してしまったので、袖から出した扇子で自らの口元を塞ぐように「シッ!」と窘めた。
やられた秀吉も慌てて両手で口を塞ぎ、視線と頭の動きで謝罪の意を示す。
「重ねて言いますえ、これは他言無用や。 驚くのも無理ない話やけど、もう少し声を潜めてもらわんと…」
「し、失礼いたしました! 仰られた内容が思いもよらぬ事にて」
「まあええわ、話を続けますえ。 信長はんの直接的で強引なやり方は、公家衆が一番嫌うものやった……信長はんの抹殺計画をこの身が知りえたのは偶然やったけども、知ってしまったこの身は幽閉され、光秀はんを実行犯に仕立て上げる片棒を担がされるようになってしもうたんや」
「な…あ、え…こ、近衛様が明智を唆した、と?」
前久の語った内容は、秀吉に相当な衝撃をもたらしていた。
この話を全て真実とするなら、信長も光秀も朝廷による陰謀の被害者であり、自分は知らなかった事とはいえその片棒を担いでいたことになる。
目の前の前久も片棒を担いだ共犯者、には違いないらしいがそれでも全ての事情を知る者と知らない者では、今後取れる行動が全く違ったものになるだろう。
全く予想だにしていなかった話に、秀吉は内心の混乱を隠せなかった。
そこにさらに前久の言葉が重なる。
「この身と信長はんの付き合いはご存知の通りや。 反信長派の公家衆はこの身と信長はんの連携を恐れて、この身の名を使って信長はんを京へと呼び出し、同じくこの身の名を使って明智はんに本能寺で討たせた。 これが先の本能寺の一件の真相なんや」
前久の言葉を聞いて、秀吉は危うく秀長と官兵衛を呼びつける所だった。
これが真相を話した相手が前久ではなく、立場的にも低い者であったら人払いの頼みなど無視して、羽柴軍の中枢三人の前で洗いざらい喋らせる所だ。
だが少なくともこの話はまだ秀吉の中だけで留めておかねばならない。
前久が人払いをする理由も理解出来る上に、今後の対朝廷工作において、この情報が果たしてどれほどの威力を、価値を持つか計り知れないのだ。
自然と秀吉の喉がゴクリ、と鳴る。
「そしてその明智はんを羽柴殿は討った、そして織田家の反対勢力も破った。 もはや名実共に天下人に一番近い方やと思う。 せやけど朝廷はあんさんを認めはしまへん、なんでか分かりますやろか?」
先程よりもさらに声を潜めた前久は、身体をグッと前のめりにして秀吉に語りかけてきた。
その前久の姿勢と、発した言葉に秀吉の顔が強張る。
なんとなく理解は出来る、たとえ少々の混乱や動揺はあっても、そこまで思考が麻痺している訳ではない。
だがその言葉を秀吉自身の口から発するのは、あまりに悔しい。
もし自分が考えていた通りの答えであったなら、秀吉はこの上ない屈辱を味わう事になる。
「……羽柴殿、その顔は分かってる顔やな。 せやけど口に出して言いたない、といった所やろ」
「近衛様……先に言うて置きまする。 どうか、違うと言うて下され」
秀吉は歯を食いしばりながら、目に涙を湛えながらそう前置きした。
「某の生まれ育ちが卑しく、下賤なる者が知らずとはいえ公家衆の策略に上手く乗れただけで、天下人の様な面をして調子に乗っておる、と。 公家衆は某を左様に思うておったのではないでしょうか?」
「……やはりすごい御仁ですな、羽柴殿。 己をそこまで客観的に見て、公家衆の考えも読んだ上での今の想像、あんさんはやはり『天下人』に成り得る器や。 残念ながら正解ですわ」
「くうううぅぅぅぅぅぅぅぅッ!」
痛ましそうな目で秀吉を見る前久。
秀吉がなまじ有能であるだけに、人の心の機微を読み取ることに長けているが為に、先程会った公家衆の視線の内に込められた蔑みの感情に気付いてしまったが故に。
秀吉は残酷なほど完璧な、本人にとっては最も辿り着いて欲しくない正解に辿り着けてしまっていたのだ。
前久の前だという事も忘れて、秀吉は目の前の畳を掻きむしる。
溢れそうになる涙を必死で堪え、先程以上に歯を食いしばりながら呻き声を上げるだけで、叫び出したり暴れ出したりしないのは、前久の前でこれ以上醜態を晒さないように必死に抑えているからだ。
「今一つ言えば。 公家衆の者らからすれば羽柴殿は都合良く動いてくれた駒、という扱いでしか思われてはおりまへん、そんな存在に高位の役職を付けるなど、まずありえまへんやろうな」
「……な、ならば! わしがどれほど朝廷に尽くそうとも、わしがどれだけ敬おうとも! あちらは、公家衆は、わしを生涯に渡って認める気は無いと、そう仰られるのか!?」
暴れ狂うような感情を必死に抑え、秀吉は思わずうずくまる。
そしてそんな秀吉に更なる追い打ちをかけてしまった前久である。
先程までの過剰なまでの平身低頭ぶりを捨て、秀吉は顔を上げずに畳をガリガリと掻いたまま、苛立ちを隠そうともせずに前久に問いかけた。
前久はそんな秀吉にさらに近付き、扇子でそっと秀吉の頭と自分の口元を隠す。
そこで囁くように、秀吉の脳内に響き渡るようにこう問いかける。
「せやから羽柴殿、いや秀吉はん。 この身と手を組みまへんやろか? 信長はんの真の敵討ち、二人で成し遂げる気はありまへんか?」
前久の言葉に、秀吉はガバッと頭を上げる。
その顔は涙に濡れ、瞼を見開いて少し凶相が入っているようにも見える。
だが眼だけはギラギラと、様々な感情を映して輝いている。
その顔を見て前久の口角が少しだけ上がる。
それを見て秀吉も同じく顔に笑みを浮かべた。
「前関白・近衛前久様。 この羽柴筑前守秀吉、これより貴方様の同志となりましょうぞ! わしに出来る事であれば如何なる援助も惜しみませぬ、何卒よろしくお取り計らいを!」
ササッと居住まいを正して、秀吉は先程の演技過剰な物言いよりも、よほど熱のこもった言葉でもって己の意思を示した。
それを受けて前久も「ええ、よしなに頼みますえ」と笑みを浮かべて頷いた。
(ここまでは何とか上手くいきましたで、信長はん。 第一関門突破や)
顔に浮かべた笑みとは裏腹に、内心では冷や汗をかきまくっている前久であったが、それでも信長と家康、さらに光秀まで加わった天下簒奪計画の第一段階が、無事に終了したのを確信したのであった。
信長の近くにいると、どうにも近衛前久は「驚く、慌てる、慄く」位しか出来ませんでしたので、この辺りからは前関白として動いてもらいます。




