信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その3
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信長続生記 巻の五 「頂上決戦」 その3
「賤ヶ岳の合戦」の後、岐阜の信孝、伊勢の滝川一益を相次いで降伏させた秀吉は、戦後処理に入った。
敵対した者の所領、名物などの没収と味方した者たちへの恩賞である。
先に書いた通り、「賤ヶ岳七本槍」と賞された七人の他にも、前田利家や堀秀政など、戦でしっかりと功を挙げた者たちには格別の恩賞でもって応えた。
しかしその中で、戦に不参加ながら領地加増にありつけた者がいた。
他でもない現在の大阪府近郊、すでにこの当時から畿内の要地として目されていた、大坂や兵庫一帯を領していた池田恒興である。
南を向けば紀伊の雑賀衆や石山本願寺残党、西を向けば四国の長宗我部という土地で、実際の戦場となった近江に向かわずとも、万一の備えのために領地に詰めていた、と言い訳が出来る土地でもある。
だがその二つの脅威は実際に脅威足りえたかと言えば、これは非常に微妙としか言い様が無かった。
実はこの時、秀吉は石山本願寺残党に対し、融和的な方法でもって半ば味方としていた。
明確な助力は無くとも、少なくとも敵対はしないという消極的な動きではあったが、背後を脅かされる心配の一つは無くなっていたのである。
そして四国の長宗我部、これも本州どころかその手前の淡路島にすら、上陸を許してはいなかった。
四国の反長宗我部勢力に、羽柴軍からの援軍として一部隊を率いて四国へ向かった仙石秀久が合流し、終始押されてはいるものの長宗我部による四国の完全統一を成させてはいなかった。
こうした事から、結果として池田恒興の懸念は杞憂に終わる。
そして池田恒興に対する秀吉の心情は一気に急落した。
まだ正直に不参加を詫びるのなら良し、もしくは病であったとかそういう物でも仕方なしとは思う。
だが自分の所は兵の一人も、一銭の金も消費することなく、戦勝の祝いにだけひょっこり顔を出し、さも自分も苦労したという顔でいけしゃあしゃあと言うのだから、秀吉も内心の苛立ちを隠すので必死であった。
それでも池田恒興は織田家の宿老の一人であり、信長の乳兄弟でもあり、織田家旧臣の中には親しい者も多いため、見限る・使い捨てる・いっそ潰すというのは、さすがに現時点では拙い。
しかし「清州会議」時に再分配された土地が、秀吉にとっては都合が悪かった。
秀吉の領する土地は、そのほとんどが畿内と中国地方である。
その大きく横に広がった土地の一部、ほぼ中心近くに池田恒興の領地が紛れているような形で存在し、しかもその土地は淡路島にも近く海に面しているため、秀吉としても決して無視できぬ土地でもある。
そこで秀吉は一計を案じた、池田恒興に加増の名目で領地を鞍替えさせ、恒興の領地であった場所を秀吉の直轄地へと変えるのである。
結果として領地は現在の十二万石から十三万石、一万石の加増で池田恒興を退かし、秀吉は後に天下に名立たる巨城・大坂城を建てる事になる土地を手に入れるのである。
当初は渋っていた恒興に対し、「周囲の者は戦に不参加の恒興から領地を削れと言っていたが、わしが何とか上手く取りまとめた。 だがこのままという訳にもいかぬ、宿老として相応しい土地を用意する故、どうか領地替えに同意してもらいたい」と、得意の人たらしの技を見せた。
しかし恒興もさる者で「先年移ったばかりの土地で、やっと落ち着いたのにまた領地替えでは費用がかさむ。 家臣たちを納得させるためにも、少しで良いから加増してもらいたい」と言ってきたのである。
恒興からすればこの際だから取れそうな所で取っておこう、という算段だったのだろう。
しかしそれこそ秀吉の思い通りの結果であった。
損得勘定の取引、交渉、化かし合いでは、恒興よりも秀吉の方が数段上手である。
結果として秀吉は「仕方ない、わしの分を差し引いてでもなんとか致そう」と、苦渋の決断染みた芝居をして、恒興には一万石の加増と岐阜城を与える事で決着した。
恒興は表面上は渋々ながら、内心ではホクホク顔で岐阜城へと移っていった。
そんな見え見えの腹の内を、秀吉は内心で呆れ返りながら見ていた。
だがこれで、秀吉は中国地方から畿内にかけて、莫大な領地をほぼ自分の直接、または間接的に治める領地として手に入れる事になった。
この頃の秀吉は自らの地盤、足場固めにも奔走している。
なんといってもあの織田信長の後を継ぎ、天下に号令を下そうというのだから、単純な武力だけの存在という訳にもいかないのである。
日ノ本には古来より続く権威の最たる存在、朝廷がある。
源頼朝の作り出した鎌倉幕府によって全国に『武家』という存在が認識され、足利尊氏の作り出した室町幕府の時代には『守護大名』、それはその後『戦国大名』という存在を生み出した。
だがそう言った新たな「武士」の権威も、朝廷無くして語ることは出来ない。
頼朝が作った鎌倉幕府は、朝廷の支配からの脱却と武士という存在の独立、を目的の根幹に置いていたかもしれない。
尊氏の作った室町幕府は、その成立時から地盤が弱く、応仁の乱を経てその支配力は劇的に低下し、形骸化したことで全国に戦国大名を乱立させることとなった。
鎌倉幕府成立からおよそ四百年、武士という存在が時として朝廷すら超える影響力を発揮していた時代ではあったが、南北朝などの分裂はあっても消滅はせずに、生き残り続けたのが朝廷である。
その朝廷に対し、秀吉は敬意をもって接することで、その権威を味方に付けることを選んだ。
かつての信長のような、「朝廷など関係ない」という態度はおくびにも出さなかった。
信長は目標へ邁進するがあまり、公家によって足を引っ張られる事を拒み、日ノ本随一の財力と兵力を誇りながら、朝廷へ接近しようとしなかった。
そしてそれを目の当たりにしていたからこそ、秀吉はあえて信長とは違う新たな天下人、を印象付けるため進んで朝廷へ接近した。
当初は朝廷側、公家衆の者たちはそれを消極的な態度で受け入れていた。
原因は二つ、「あの信長の家臣だった男」という点と、「生まれ育ちが卑しい下賤の者」という点。
ちなみにあの信長でさえ元号が天正に移る前の頃などは、比較的大人しくはしていた。
信長にとっては朝廷に利用価値があり、いざという時の和睦・停戦交渉を行う上での切り札、という点もあるためそうそう無碍には扱えなかった。
実際に信長は包囲網が敷かれ、四方を敵に囲まれた際には一部の勢力とは和睦し、各個撃破で状況を打破するという手段を取った。
その際の和睦交渉では朝廷へと働きかけ、「勅命による停戦」とすることで、相手方も無視は出来ない上に一方的に不利な条件を突き付けられた和睦、という危険も避けられる。
だが武田信玄も上杉謙信も世を去って、さらに石山本願寺までが降伏すると、信長にとって「朝廷という切り札」を使わざるを得ないだけの、そういった危機的状況に陥る心配が無くなったのだ。
それもあって晩年の信長は、「朝廷を軽んじている」と思われるような言動が多くなっていった。
秀吉としては朝廷からの正式な「天下人として認める」という意味を持つ、何かしらの証拠となる肩書き・役職を得たかった。
例えば信長がかつて就任した「右大臣」、もしくはさらにその上の「左大臣」や「太政大臣」など、分かり易い『信長の後継者』に相応しい官位をもらいたかった。
だがこの時の秀吉は未だ「筑前守」という役職のみであり、より高い位を求めて擦り寄ってきたな、と公家衆には完全にその行動を読まれていた。
秀吉は金銭を惜しまず公家衆へのご機嫌取りに終始したが、史実では朝廷側から正式に『従五位下・左近権少将』の地位をもらうには、さらに一年を要することになる。
公家にとっては生まれた家、出自が全てであり、「生まれも育ちも卑しい下賤の者」が自分達よりも上の地位に行く、という事に嫌悪感を隠そうともしていなかったのである。
これには秀吉も閉口した。
思った以上に公家衆の自分への風当たりは強く、容易に事を運ばせてはくれない。
「人たらし」とまで言われた自分が、まさかここまで拒絶されるとは。
もっとも簡単なのは力で、武力を背景に脅かす事ではあるが、それはあくまで最終手段であり、それをやってしまったら最後、下手をすれば『朝敵』の扱いを受けてしまう。
信長でさえそこまではやらなかったというのに、まさか自分がやってしまう訳にはいかない。
相手が武士で、大名などであれば武力で脅せばすぐに決着が付くだろう。
抵抗されれば潰し、服従を願い出れば受け入れる、なんという単純な話だろうか。
それがこの公家衆相手ではそのどちらにもならない、あくまでこちらが下手に出て、向こうがその気になってくれるのを待つしか方法が無いのだ。
京の朝廷とは、日ノ本の中心地にして公家衆という魑魅魍魎の棲家である、秀吉はそういう認識を持つに至った。
織田家臣団の羽柴軍ではなく、羽柴家という一つの独立した大名家となって、その代表にして頭領という立場として朝廷と接し、秀吉は信長の苦労や心情が少しだけ分かった。
「面倒臭ぉてたまらんぎゃぁ! なぁんであの公家衆っちゅう奴らぁ回りくどい言い回ししかせんのかのぉ! 金が欲しけりゃやるわ! 反物欲しけりゃくれたるわ! 家を建て直して欲しかったら言えばエエじゃろうが! そんなんで官位くれるんじゃったらいくらでもしてやるわい!」
朝廷へと出向き、貢物をたっぷり持って行って挨拶し、そして帰って来るなり秀吉は荒れた。
この日のために最上の着物を着込んで行き、しっかりと礼儀作法を覚え、貢ぎ物はそんじょそこらの大名たちでは出せないほどの量を持って行った。
秀吉はそれを「挨拶代わり」と言って、にこやかに「どうぞご笑納下され」と言った。
秀吉の想像では「これほどの物を挨拶で! 羽柴殿の朝廷への敬意はしかと伝わりましたぞ」などという反応を返してくるものだと思っていた。
しかし現実は、秀吉の想像を遥かに絶する冷めた反応だった。
「うむ、ご苦労におじゃる。 筑前守はこれからも朝廷に対する敬いの心を忘れぬようにの」
などと言われただけで、極めて普通に流されてしまったのだ。
秀吉からしてみれば、朝廷の台所事情はつぶさに調べ上げ、その上で一体何年分の収入がこれ一回で入ったのだ、と思わせるだけの金銀や物品を用意したはずだ。
それがこの対応とは、あまりに予想外過ぎて絶句してしまった程だった。
しかも、その後で他の公家たちは秀吉の前でこれ見よがしに内輪の話をし始めたのだ。
しっかりと秀吉の耳にも届くような声の大きさで。
「そういえば、我が屋敷の塀が随分と痛んでしまいましてな」
「それはそれは……そう言えば私の娘が風邪をひきまして、先日ようやく治ったのですが」
「色々と皆さま御苦労がおありですな、私も妻に新しい打ち掛けを買ってやりたいとは思うておるのですが」
チラリチラリと秀吉を見ながら、それぞれが世間話のように「今現在求めている物」を語り合う。
これは要求ではない、なので秀吉がその「求めている物」を贈った所で、公家衆にとっては恩に感じる必要も無く、あくまで秀吉が「自発的にしたこと」なのである。
秀吉の様に多大な貢ぎ物をした所で、それが一回で終わるのならばそれで終わりだ。
重要なのは「これからも目の前のこの男は、自分たちにどれだけ貢いでくれるのか」という一点。
この話し合いはそれを見定めるための、いわば儀式と言っても良かった。
秀吉も察しの良さでは日ノ本屈指の男である。
当然公家衆の意図には気付いた。
「帝にお仕えせし皆様方には、今後そのようなご苦労はお掛けいたしませぬ故、何事かおありでしたら何なりと、この筑前守を頼って下さりませ」
絶句状態から立ち直り、秀吉は頭を下げながら気前の良い所を見せた。
しかしその反応などは、公家衆にとっては至極当たり前のことであり、別段顔をほころばせる程のものではなかった。
そもそも公家衆にしてみれば、秀吉の考えなど読み切っている。
ならば「秀吉が求めているもの」を焦らしに焦らして、秀吉の懐から出せる限りの物を出させてやろうというのが公家衆の目的なのだ。
しかも秀吉は「頼って」と言ったが、それでは「公家衆から秀吉への頼み事」になってしまうため、秀吉への義理が出来てしまう事を避けようとする公家衆は、さらに回りくどく攻めた。
「しかし筑前守殿がいかほどの事を成せるのか、我らにはとんと分かりませぬ故、何を申し付けても良いやら……のう」
その反応に、秀吉は「そういう事か」とすぐさま察してさらに言い募った。
「されば先程皆様が仰られておりました、様々なお悩み事を解決して御覧に入れましょうぞ、この筑前守がいかに頼れる者かを、皆様ご自身の眼でお確かめを!」
「左様ですか、ならばやらせてみても良いでしょう。 そちらはいかがでしょう?」
「そうですなぁ、我が妻は打ち掛けにはこだわりを持っておりますので、よほど良いものでないと恥ずかしくて着れぬ、と言いそうで」
「我が屋敷の塀は傷みが激しくて……いっそ全てを新しくした方が早いかもしれませぬなぁ」
一体どこまでたかり始める気だ、公家の奴らは!
そう叫び出したい気持ちが喉から溢れ出しそうになったが、秀吉はそれを無理やり腹に収める。
公家衆はようやく『秀吉の好意で、自発的に行うこと』という言質を引きずり出した途端、さらに要求を釣り上げた。
まさに「取れる限りむしり取る」と言わんばかりの行動に、思わず秀吉の顔が引きつりそうになった。
「万事この筑前守にお任せあれ! 何卒これからもよしなにお頼み申し上げまする!」
これ以上の話など聞いていられない、秀吉は自らの精神の限界が来る前に、一人一人のたかり、もとい求めている物を脳内に書き出し、退散してきた。
そして、帰って来るなり着る物を雑に脱ぎ捨て、思わず叫んでしまったのだ。
部下に対しては確かに短気で、癇癪持ちだったと思っていた信長様だったが、あのような連中と付き合っていたなら一概にそうも言い切れない。
秀吉の信長に対する印象を少しだけとはいえ変えてしまうほど、今回の事は秀吉に精神的な負担を強いることになった。
そしてそれと同時に、公家衆というものがどれだけ自分の出自を蔑んでいるかを身を持って知った。
(あやつらの眼は、わしを幼い頃から見続けていた者たちの眼と同じじゃ。 蔑みに満ち満ちて、わしを下賤な者と断じ所詮は薄汚れた存在だと、あの眼が雄弁に語っておった! 今や天下人と呼んでも差し支えの無いわしを、今更あのような目で見るとは! そんなに家柄が大事だというのかッ!)
秀吉の中に、どうしようもないほどの怒りが湧き上がる。
ここ数年はほとんどあの眼に、あの視線に晒される事が無かったからこそ、余計に敏感に感じた。
今や織田家の中で、自分にあのような目を向ける者はいない。
いや、日ノ本全てを探したところでまずいないだろう。
だが、あの場所だけは違う。
生まれによって、出自によってほぼ全てが決まる世界。
それは秀吉にとって、最も相性が悪く、おぞましく息苦しい世界であった。
どんなに功を挙げて、出世を重ね、金を貯めて兵を養って偉くなっても、あの場に行けば自分は卑しく貧しい下賤の者が、ただ上手く成り上がれただけ、としか見られないのだ。
金なら出す、物なら贈る、建てて欲しい物があれば建ててやる、だからその眼で見るな!
思わずそう叫びたくなったほどだ、よく信長様はあんな奴らを相手にやり合えたと感心する。
何かしらの手は無いものだろうか、出来れば朝廷内の、公家衆の中でもこちらと縁故を結んでくれるような存在はいないものだろうか。
上級公家との縁故が出来れば、他の公家衆もこちらを今ほど蔑ろには出来まい。
今日の挨拶で秀吉は理解した、このまま向こうのご機嫌取りに終始しても、朝廷がこちらの思うような事をしてくれるようになるまでには、とてつもない時間と費用がかかると。
ならばもっと手っ取り早い方法を取った方が、時間と金の節約にもなるだろう。
そのためにはどこかの公家、中でも上級の公家との縁を結ぶことが何よりの早道だろう。
だがそうそう都合よく、「生まれも育ちも貧しい」秀吉を相手に、縁を結んでくれる存在などあるだろうか。
縁故を結ぶ、というのは自分でも妙案だと思ったが、問題はその縁故を結んでくれる公家がいるかどうか、なのである。
「あのような者と付き合いを持つとは、あの家ももう終わりだな」などと陰口を叩かれるような事は、公家衆にとって絶対に避けたい事態だろう。
下手をすれば秀吉と縁を結んだがために、その家は今後公家衆の中でも疎んじられ、養子や嫁入りの縁組に支障が出るかもしれない、そうなってはその公家はおしまいだ。
秀吉自身そこまで自分は酷くはない、と思っていても今日の公家衆の態度や目線からすると、本当にそうなりそうな部分もある。
「信長様が公家衆を相手に堂々と武力を背景にした理由が分かったわ、ありゃあ商人や坊主よりも厄介だわぁ。 なーんかエエ手は無いもんかのぉ!」
不機嫌ゆえに据わった眼で、ゴロンと服にしわがよるのも構わずに、秀吉は大の字に寝転がる。
池田恒興などはあんなに簡単に思い通りにいったのに、公家衆との交渉がこれほど厄介だったとはな、と秀吉は思案に暮れた。
怒るだけ怒り、叫ぶだけ叫んでようやく秀吉は荒れるのを止め、思考する時間へと入った。
そんな秀吉の元に、部屋に入って来た石田三成が恐る恐るといった様子で声をかけた。
「殿。 お疲れのところ誠に恐縮では御座いますが、御客様が参られております」
「客ぅ? わしは今すこぶる機嫌が悪いぞ、出直せと言っておけ!」
「いえ、それが……公家衆との会談を終えたばかりの殿にお伝えするのは、大変心苦しきことながら御客様が御客様ですので、お伝えせぬ訳にも」
秀吉は寝転がったまま動こうとしない。
そんな秀吉に困り顔のまま三成は言い難そうに言葉を続けた。
どうにも奥歯に物が挟まったようで、ハッキリとしない言葉に秀吉は余計に苛立った。
「なんじゃ鬱陶しい! 早う言え、早う! 誰が来ても驚かんわ!」
秀吉の言葉に、困り顔のまま秀吉の耳元に顔を近づける三成。
そこでそっと、来客の名を告げた。
「なんじゃとぉッ!!」
驚きのあまり、建物中に響き渡るような大声で返事をした秀吉は、勢いそのままに体を起こし、耳を抑えて悶絶する三成の胸倉を掴んだ。
「どういう事じゃ! 何故そのような方がここに来ておる! それで、それで近衛様は一体どこにおられる? 早く教えよ佐吉ぃ! 耳を抑えておらんでわしの言葉を聞けッ!」
聞いたからこうなったんです、と言いたかった三成であったが、当時でも指折りの大声を出せたと言われる秀吉の声を間近で聞いて、鼓膜から三半規管まで麻痺しかけたため、回復するのにさらに数秒を要したのだった。
胸倉を掴まれガクガクと前後に身体を揺さぶられながら、三成は遠くなりそうな意識を必死に繋ぎ止めていた。
この辺から少しずつでも史実からずらしていこうかと思います。
『この時の○○はこうしていたはずだから、この行動はあり得ない』という箇所も、読まれる方によっては見付けてしまうと思います。
ですが物語の都合上、展開上のモノとしてご理解ご了承の程、何卒よろしくお願いいたします。




