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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の四 「躍進」 その11

たまには全編信長方面の話です。

            信長続生記 巻の四 「躍進」 その11




 浜松城の中でも奥まった場所のとある一室、現在は信長の居室となっている部屋の隣。

 そこに家康と信長が、東は関東・西は畿内まで、さらに北は越後の先までを書いた大地図を囲み、現在の情勢を話し合っていた。

 激動の天正十年も終わり、天正十一年を迎えた徳川家は前年の混乱からすぐさま立ち直り、今では甲斐と信濃の大部分を領する一大勢力となっている。

 東の北条・北の上杉とは和睦が成立して、現在は戦を行っていないため末端の兵たちには骨休めをさせることも出来た。

 だが問題は西側、畿内方面である。


 羽柴秀吉対柴田勝家、この戦いの趨勢によっては天下が大きく揺れ動くことになる。

 例えば柴田勝家が勝ったならば、秀吉は一気にその勢力を弱らせ、場合によっては滅亡まで行くかもしれない。

 そして柴田勝家にその気がなければ、織田家を頂点とする今までと同じ体制が続くことになる。

 信長からすれば、それもまた良いとも思ってはいる。

 なんといっても自らが生まれ育ち、そしてここまで押し上げた家である以上、それを掌握して再び『天下布武』を掲げた方が手段としては手っ取り早い。


 だが、恐らくそうはならない。

 秀吉は戦を始めた時点で、すでに必勝への道筋が見えているだろう。

 なまじここで秀吉の戦いに介入して、手痛い反撃を食らうのは避けたかった。

 なんといっても現在の徳川家は、領地こそ一気に増えたものの、その分の統治に忙殺されている状況であるため、戦よりも優先しなくてはならない事が多すぎる。

 内政を担当する文官系の家臣たちは、新たに徳川に従った者達の領地に関する権利保障などで、日夜寝る間も惜しんで働いている。


 攻め込まれたのなら、防衛戦のために全ての作業を中断し、兵をかき集める所ではある。

 だが現在領地を接しているのは上杉と北条、そして織田家である。

 上杉と北条は前述の通り今は停戦中であり、互いに不干渉を貫く立場だ。

 そして織田家とは現在のところ戦を行う名分がない。

 向こうからいきなり攻めて来たならまだしも、名分も無しにこちらから戦を仕掛ける訳にもいかない。


 しかし織田家の側からすれば、というよりも岐阜にいる信孝は徳川に密使を寄越し、密かに対羽柴の同盟を組んでほしいという要望を持ってきた。

 天正十年の年末に秀吉に降伏し、三法師を奪われるという事態に業を煮やした信孝は、家康を抱き込んで新たな戦を起こそうとしたのだ。

 徳川の参戦は、たとえ参加した兵数がわずかであっても、状況に一石を投じる事態になる。

 同盟相手の徳川は、信孝を支持すると公言したも同然となるため、織田家の家臣団の中でも秀吉に付いた者の多くを動揺させることになる。

 信孝はそれを狙って徳川の勧誘を仕掛けてきたのだ。


 だが自家の内紛に他家の介入を招く、それがどういう事になるのかを分かっていないのだろうか、と家康は思った。

 それだけ状況は困窮していると見るべきなのか、とにかく味方を増やしたいだけの考え無しか。

 家康はあえて「織田家を信じるからこそ、いくら長年の同盟を結ぶ当家とて、踏み込んではならぬ事がござる、しかと御自身の器量を示されよ」と伝えておいた。

 遠回しな「自分の家の面倒くらい自分で見ろ」という言葉に、密使は肩を落として帰っていった。

 信孝は同盟を結んで羽柴を打ち破った場合、尾張と伊勢の領地の一部を割譲、さらには朝廷へ働きかけて上位の官位も進呈すると示してきていた。


 だがこの条件自体が、家康にとっては信孝が「お坊ちゃん」であるという証明に見えた。

 尾張と伊勢の領地の一部、すなわち「信雄の領地の一部の割譲」であり、これは暗に対羽柴のみならず、対信雄でも共同戦線を張り、その上で信雄を打ち破った後に信雄が領していた土地を一部譲渡する、というものである。

 さらに朝廷へ働きかけたとて、信孝の官位は確か従五位下であり、家康は従四位下である。

 信長が織田家を率いていた時ならまだしも、信孝にそこまでの政治的な力があるとはどうしても思えなかったし、何より信孝自身の官位が家康よりも下である。

 信孝は信長がいた頃の外交力・政治力が自らの手で行える、と思い込んでこのような条件を出してきたのだろうが、それらは全て信長がいてこそ、のものであると理解出来ていない。


 信長ならば公に賜った最後の官位は右大臣、さらに「三職推認問題」時の話になれば、関白・太政大臣・征夷大将軍のどれでも好きな地位に就けたほどである。

 それと同じような真似が出来ると、信孝は勘違いしているのではないかと家康は想像する。

 信長無き織田家にそこまで媚びるほど公家衆は甘くないし、またその本質は極めて強かでもある。

 さらにのらりくらりとした言い逃れなどは公家衆のお家芸とも言えるし、どちらにしろ信孝の出してきた条件は、その履行を反故にされる恐れが大、というより実現はまず不可能であろう。

 密使が伝えてきた条件を聞いた時、家康は内心で「空手形にも程があろう、信長殿が見切りをつける訳よ」と苦笑したほどだった。


 家康がその密使と会った部屋は、前久と対面した際にも使った部屋であり、あの時と同じように信長は武者隠しに潜んでいた。

 そして密使が帰った後で、信長はそこから出るなり開口一番「信孝もその程度か」と漏らしていた。

 信長が言うには「なまじ小利口にまとまっておる故に、家臣たちは名君と誉めそやす、かつての信行を見るかのようじゃ」という事らしい。

 だが家康はこの時、信長に問いかけた。

 信孝や信雄が潰し合うような事態になるくらいなら、いっそ信長がここで名乗り出て、返り咲いても良いのではないだろうか、と。


 信雄と信孝は清州会議でも相当やり合ったと聞く。

 信雄はどうやら秀吉と組んだらしいが、信孝は秀吉に敵対姿勢を明らかにした後、降伏して三法師を取り上げられても岐阜城に収まったままだ。

 信雄がこの機に信孝を亡き者に、と考えれば実現は難しい事ではない。

 だが信長はそれを「捨て置け」と、一言で切って捨てた。

 家康が思わず絶句する隙を突くかのように、信長は自分の目的を語った。


「今はそれよりイエズス会の動きよ、わしが死んだという事になってから半年以上が経った。 奴らが今、何を思い誰を頼るか、それを犬助らに探らせておる」


 言われてみれば、フクロウはいざという時の信長直属の忍びとして常時待機しているが、浜松に来た際にもう一人いた忍びは、ここ数ヶ月姿を見なかった。

 そのもう一人の忍びの名が確か「犬助」と言ったはずだ。

 フクロウが夜目が効くことから付いた名、ならばこの犬助はまさに嗅覚が鋭いが故に付いた名であった。

 その犬助は今、畿内にある南蛮寺、すなわち教会へと潜入させている。

 信長の、織田家の支配地ではイエズス会の布教の自由を許していたため、畿内には数多くの教会が建ち並び、現在も徐々にだがその信者を増やしているようだ。


「なるほど、信長殿の危惧する南蛮の動きを探るためですな」


「新たな庇護者を求めておるだけならば良い、それはまだこの国に十分な数の信者が揃っておらぬ証拠。 だがもし庇護者を求める必要もなく、数多くの信者を抱える様になっておったなら」


「かつての石山本願寺と同様の、武力を持った宗教勢力が新たに誕生する、と?」


「しかも下手をすれば、奴らの本国から最新式の鉄砲を多数揃えた軍までが襲来する恐れもある、となればその脅威の度合いは、雑賀衆を抱え込んでいた石山本願寺すら、その比ではなかろう」


「……来るでしょうか、南蛮軍は」


「無論、来なければそれで良い。 だが来ないと決め付け、護りを怠って攻め込まれ、蹂躙されてからでは遅かろう。 それに何かしらの問題が起こらぬ限り、奴らはこの国を見逃すまい」


「…見逃す、とは?」


 そこで初めて、家康は信長がここまで焦る理由の根底を知ることとなった。

 確かに今までも南蛮国の脅威は実感してきたが、「見逃す」という言葉を、信長は家康の前で初めて使ったのだ。

 家康は軽く唾を飲み込んで、信長にその先を促した。


「この日ノ本にはそこらじゅうに金や銀を産出する山がある、他にも鉄や銅の山も数多く存在する。 宣教師の者どもも驚いておったわ、これほど国土と産出高が釣り合わぬ国は、世界でも稀だとな」


「……南蛮国にとっても、やはり金や銀は大きな価値を持つ、と」


「そうだ、奴らは知ってしまったのだ。 ここに己の国より技術で数段劣り、金も銀もある。 そのくせ国全体が内乱状態で征服するに容易い、まさに前年の徳川にとっての甲斐や信濃のごとき獲物が、南蛮にとってのこの国全てという訳だ、分かるなこの意味が」


 家康の背筋が、凍るように冷えた。

 弱小勢力しかない、しかもそれぞれが協力体制に無い勢力が、各個撃破するのにどれほど容易いか。

 挙句こちらはあくまで同じ日ノ本に住む者同士として、かける情けもあれば進んで恭順することで、その地位を安堵することもある。

 だがそれが、南蛮の国にも通用する保証はない。

 そもそも言葉もろくに通じず、向こうが最初から全てを奪うつもりでこの国に来たならば、地位や命の安堵など最初から望めはしないだろう。


 家康とて戦国の世で苦労を重ね、屈辱にまみれた幼少期を送った男である。

 それが徳川のためになるならば、己一人が屈辱にまみれる事を厭いはしない。

 だが問答無用で蹂躙されるのだけは、なんとしてでも避ける必要がある。

 信長の危惧することはもっともだ、たとえ海を越えるという苦労をしてでも、いや実際に宣教師たちは遠き海を越えてこの国にやって来たのだから、南蛮国にとってはこちらが思うほどの苦労はないのかもしれない。

 それでもこの国には海を越えて軍を派遣するだけの旨味がある、となれば躊躇いはしないだろう。


 実際、この当時の日本の精錬技術は「灰吹き法」と呼ばれるものが最先端であり、この技術によって日本各地の産出量は飛躍的に増大したとも言われている。

 だがその一方でこれより八年後の天正十九年、南蛮人によって伝えられたとされる、いわゆる「南蛮吹き法」により、さらにその技術を向上させることになった。

 つまりこの時点で日本国内の技術は、その製錬方法からして南蛮に後れを取っており、結果として多くの資源が当時の人々の知らぬ内に、海外へ流出していたのである。

 日本は現在の東北から九州まで、あらゆる地域でその埋蔵量の多少はあっても金山や銀山が多く存在し、時の権力者によって運営され、またその利益によって様々な恩恵をもたらした。

 中国地方に名高い「石見銀山」など、想定される埋蔵量は世界一とも言われており、大内家・尼子家などが死力を尽くして奪い合い、最終的には毛利家が手に入れる事となった。


 毛利家中興の祖・毛利元就は遺言の中で「石見銀山だけは手放すな」と言い遺したとも伝わっており、石見銀山から手に入る銀が、それだけの恩恵をもたらす物であったとも言われている。

 その後史実において、関ヶ原の戦いでの敗戦を機に徳川によって奪われた石見銀山であるが、江戸時代もその地からは銀が産出され続けていたらしい。

 当時から『黄金の国 ジパング』などと言われるに足るだけの価値を、この小さな島国に持っていたという事は紛れもない事実であり、だからこそ南蛮国は日ノ本を決して無視はしない。

 当時の世界は大航海時代、と言われる時期の真っ只中であり、新たな大陸・陸地の発見、植民地開拓に欧州各国は躍起になっていた。

 そのため世界中で技術・文化レベルに劣る地域に住む者達は、破壊と殺戮・略奪の対象とされ、人も物も資源も、全てが欧州の国々、すなわち信長の言う南蛮国によって奪われ続けていたのである。


 そんな情勢であることを、宣教師たちは決して語らない。

 あくまで地球儀というものをもたらされた信長が、様々な言い回しを持って宣教師たちに語らせた言葉の裏を読み、そこから導き出された結論をもって、独自にその考えへと至ったのだ。

 南蛮国は一つではなく、また多くの地に辿り着いた事で、その地の者達から様々な物を吸い上げようとしている、と。

 信長のその考えを肯定するものの一つが、黒人奴隷・弥助の存在であった。

 彼は南蛮人とも、そして日ノ本の民とも違う肌の色を持ち、遠き海の果てにある国に住んでいた所を、奴隷として連れ去られた後に信長によって買われた。


 信長は宣教師たちから聞いた話だけでなく、弥助からもどういった経緯でこの国に来たのかを詳細に聞いていた。

 要は生まれ故郷を襲撃され、労働力となる男は奴隷にされ、女たちは慰み者とされた挙句、生きていれば男と同じく奴隷に、死んだ場合は放り捨てられるという扱いだった。

 日ノ本でも戦国の世で確かに似たような事はあるが、言葉も通じず武器は比べるだけ無駄、という有様では人として最低限度の扱いすらされていない可能性もあった。

 弥助は最後に、そういう意味では信長に買ってもらった自分は幸運だった、と語っていた。

 日ノ本でいきなりそういう事にならなかったのは、ある程度の文化と技術水準を持っており、いきなり征服と略奪を行うよりも、まずは懐柔から始めた方が効率が良いだろうという判断をしたのだ、と信長は推測する。


 あとは、強いて言えば『デウスの教え』を理解するだけの知能を持っているか。

 『デウスの教え』に帰依するならば、自分たちの敵ではない、という証になるのだろう。

 石山本願寺の如く、一向宗に帰依するならば共に支え合い、肩を寄せ合って生きていこうと言うのとは違うのだろうが、少なくともいきなり殺害の対象にはならないのだろう。

 信長はこの時、既に先を見越した上でどう動くか、誰に何を伝えるかの草案を作り始めていた。

 家康もその全ては理解し切れてはいないため、こっそりと光秀に聞きに言った事もある。


「上様は私如きには計り切れぬ御方、恐らくは徳川殿が動かれた後の事を考えておられるのでしょう」


 光秀は穏やかな表情でそう言った。

 家康からすれば尚更詳しく聞かせて欲しくなったが、信長に直接尋ねたところ「今しばらく待て、我が生存を明らかにした上で、すぐさま朝廷にねじ込む故な、今の内にまとめる必要がある」と言われた。

 さらに詳しく聞きたくて堪らない家康であったが、どうやら信長はそれ以上は語る気が無いらしい。

 墨を硯で磨りながら、信長は瞑想するかの如く目を閉じ、黙って手だけを動かしていた。

 それが昨日の事であり、今は大きな地図を前に信長と二人、軍議をしている。


 自分の頭の中だけで考えが至ってしまうからこそ、それを口に出して周囲の者たちに伝えないからこそ、この人物は謀反を起こされる事が多いのではないだろうか。

 家康は少しだけジトッとした眼で信長を見たが、信長はそれに気付くことなく、手の中の目印代わりの碁石をジャラジャラと回していた。

この『信長続生記』を通して書きたかった事の一部が書けました。


当時の日本国内と海外では、金と銀の交換比率に大きな差があり、当時から交易の際には金による取引を求められていた、という話です。

また、その際に多くの金を日本国内から持ち出すことに成功したスペインやポルトガルの商人などが、日本の資源に目を付けて母国の軍隊に攻め込ませようとしたら、という妄想がこの話の基本骨子の一つでもありました。


もちろん当時のヨーロッパ諸国の情勢をご存知の方からは、様々なご指摘を頂くことにもなるとは思いますが、その辺りに関してはヨーロッパの情勢を知らない信長の想像に依る話の展開の仕方、としてどうかお見逃しを。


引き続き拙作『信長続生記』をお楽しみ頂けましたら幸いです。

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