信長続生記 巻の四 「躍進」 その9
信長続生記 巻の四 「躍進」 その9
ついにこの時が来てしまった、と前田利家は人知れず溜め息を吐き、その息は白く霞んで風に吹かれてすぐに消えた。
羽柴秀吉対柴田勝家。
信長がいなくなっても未だ日ノ本一の勢力を誇る織田家を二分した、もはや家中の内乱などという規模には収まらない、大大名同士の一大決戦という様相である。
互いに数万という軍勢を持ち、敵対勢力から背後を守るための兵を配置しつつ、残る兵力でもって雌雄を決するという所まで似通っている。
羽柴勢は対滝川に兵を割き、柴田勢は対上杉に兵を割きつつも、それでも近江国に集結した軍勢は互いに三万とも五万とも言われる大軍勢である。
互いを不倶戴天の存在と見なし、互いを越えなければ先に進めぬと判断し、互いに全力を出さねば打ち破れぬ敵であると認識している。
織田信長という存在、その重しが無くなった途端にこの有様なのだ。
一度この世に生を受け、滅せぬもののあるべきか。
信長様が好む「敦盛」の歌の一節にそんな言葉があったな、などと思いながら利家は馬を進ませる。
信長が生きていたからこそ生まれた絆や縁が、信長が死んだことでそれぞれを結ぶ絆と縁が夢幻の如く滅してしまった、そして互いに争い合う日が来てしまった。
自分と柴田の親父様の縁は、絆はまだ断たれてはいない。
その一方で自分と藤吉郎の縁も、まだ繋がっていると信じたい。
たとえ親父様と藤吉郎が、二度と縁が繋がらない、絆が断たれたままの間柄となっても、この二人と自分の縁は未だ繋がっていると思っている。
この両者を止める事が出来る唯一の存在、それは紛れもなく自分であると断言できる。
だがそれと同時にもはや止めようがないほど、両者の溝は深まっていると分かってしまっている。
若い頃から、それこそ今思うと赤面ものの若輩の時分から、親父様には目をかけてもらっていた。
その恩は忘れぬし、今でも親父様を慕う気持ちに偽りはない。
親父様に命じられれば、誰が相手でも戦う気概は持っていたはずだ。
だが、それでも唯一例外が存在する。
その唯一の例外、その人物こそがこの賤ヶ岳を超えた向こうにいる。
若い頃から共に酒を飲み、互いにずいぶん年下の女房を迎え、足軽長屋では隣の部屋だった。
思い出話を挙げればキリがない、互いの武功も、失敗した話も腐るほど思い出せる。
たとえ戦国の世と言えど、どんな事があっても互いに槍を向け合う事だけは避けようと、いつかの夜に話していたこともあったのだ。
あいつの頼みなら、それこそ女好きのあいつが俺の女房に手を出そう、という頼み以外ならなんだって聞いてやるつもりだった。
だがそれでも、なんでそんな奴に限って、自分の恩人と雌雄を決しようというのか。
出来ればこんな日は来てほしくなかった。
「清州会議」での一件で、親父様は随分と立腹されていた。
お市様という存在がいなければ、暴発して藤吉郎を絞め殺しかねないとすら思った。
その後両者の溝は深まるばかりで、いよいよ一触即発という事態になる前に、和解の使者を立てる段になって自分はその使者に立候補した。
親父様と藤吉郎、その両者に縁がある自分がやらなくて、誰がこの任を務められるというのか。
天正十年十一月、自分の他に金森長親や不破勝光といった面々と共に、藤吉郎と会った。
「清州会議」からわずか四ヶ月、藤吉郎は馬鹿丁寧にこちらを迎えた。
敵愾心を向けられるよりは良いが、あまりの低姿勢、そして親しみやすさに長親や勝光などは完全に毒気を抜かれて、宴席では上機嫌に互いの近況などを言い合っていた。
頼んでもいないのに京で評判の一品、などを手土産に持たされ、二人は完全に機嫌が良くなって言う必要のない事までべらべらと喋ってしまっていた。
だが、自分だけは知っている、これこそが藤吉郎という人間の凄さ、器の大きさ、そして恐ろしさの根底にあるものなのだ。
「寒い所で必死に戦い、女房や子供たちにも心配させとるじゃろ。 これでも渡して、安心させてやるとええ。 京でも評判の呉服屋の、その中でも最高級の一品だで。 若や姫にも喜ばれそうな物もぎょーさん揃えておるし、好きな物を選んで持ってってちょーよ」
当初、この二人は親父様の命を受けて、秀吉に対して疑念と敵意を持ってここに来たはずだったのだ。
それがどうしたことか、帰る頃には互いに笑って別れる始末だ。
二人とももらった土産物を、家臣たちが持ち切れぬほど持っての帰り道である。
当然二人はホクホク顔で、女房子供に次に会う日が楽しみだ、と言い合っていた。
もはやこの二人は完全に秀吉に籠絡されている。
最初は受け取るのを拒んでも、そこはさすがの藤吉郎だ。
真正面からが通じないとなれば「これはわざわざ足を運んでくれた礼だで、気にする事はにゃあぞ? それにな、女房子供に会うた時に土産の一つも持って行きゃあ、堂々と胸も張って帰れよう。 お主らの家のため、女房子供のためと思うて、受け取ってくれんがね?」と言われてしまえば、そうそう断れはしない。
その様を見ていて、藤吉郎が恐ろしくなった。
見た目は以前に会った時と、清州であった時と変わらないはずなのに。
有り難い友だとも、すごい奴だと感心したことも、女好きでどうしようもない奴だとも思ったことはある。
だが藤吉郎を恐ろしいと思ったのは、あの時が初めてだった。
人間の持つ欲望、それをここまで的確に突いてくることの恐ろしさ、これは自分ではない他者に向けている姿だからこそ気付けるのかもしれない。
長親と勝光が手土産品を物色している中、一人立ち尽くした自分にそっと藤吉郎が耳打ちしてきた。
「後で二人で話そう」と言った藤吉郎の顔は、二十年以上の付き合いになるはずの自分でさえ、背筋がうすら寒くなるような笑顔で、しかも初めて見るものだった。
長親と勝光と別れ、茶室で藤吉郎と二人になった。
亭主が藤吉郎、客が自分のみという一亭一客形式で、藤吉郎が茶を点てた。
自分でもそこまで茶の湯に精通している訳ではないが、それでも藤吉郎の作法はキチンとしたものだと分かる。
対毛利の中国戦線をあそこまで優位に進める一方で、こんな所までしっかりと身に付けているという藤吉郎に、この男の測り知れなさがより一層増してくる思いだった。
出された茶を飲み干し、礼をして茶碗を返そうとすると、藤吉郎はスッと手を出してきた。
「その茶碗は持って行くがええ。 あの千利休が認めた名物だで、値打ち物じゃぞ」
千利休と言えば信長様のかつての茶頭の一人であり、茶の湯の第一人者として現在最も高名な者の一人ではないか。
思わず顔を上げて藤吉郎の顔を見れば、その顔はニタニタと意地の悪い笑みを浮かべている。
ああ、見慣れた藤吉郎の顔だ。
こいつは気心の知れた人間にしかこういう顔を見せない、織田家中でもこいつのこういう顔を見た者はそう多くはないはずだ。
千利休が認める名物、それを惜しげもなく渡す俺は器が大きいだろう、と自分に言ってきたのだ。
「…茶碗一つで、親父様への忠誠心を売れと?」
「そんな事は言わん! お前さんを茶碗で買おうと思ったらわしは破産してしまうわい!」
静謐な茶室に似合わない大声でゲラゲラと笑う藤吉郎。
確かにまだまだ勉強中とはいえ、そんな自分でも分かるくらいこの茶碗の黒い渋みは素晴らしい。
あの千利休が名物と認めるのなら、確かにこれには相当な価値があるのだろう。
それこそ、人によっては仕えるべき相手すら変えてしまうほどの。
だが見くびるなよ藤吉郎、お前がどんなつもりで自分と二人になったのか、そんな事すら分からないと思われていたのなら、和解の使者は暗殺の刺客となるぞ。
「ならばなぜ、そんなものを寄越そうとする?」
「あの二人には反物や簪、鞠で充分じゃろ? じゃがお主だけにはわしも本音で話さんとな。 その茶碗はわしの趣味には合わんで、エェと思うてくれる者に渡しておきたいだけよ、他意はにゃあでよ」
そう言って、秀吉はそれまで正座していた足を崩し、あぐらをかいて頭を下げた。
「頼む又左。 裏切れとは言わぬ、寝返れとは言わぬ。 ただ敵として向かっては来るな、それだけじゃ! 戦いさえせねば、後はどうとでもなる! 終わった後でお主をわしの腹心にすることも出来る!」
藤吉郎の言葉に、思わず眉間にしわが寄った。
今、この男は「戦い」と「終わった後」と口にしたのだ。
つまりそれは、親父様と戦い、そして勝利した後の事を考えての言葉だ。
もしかしたら、見くびっていたのは藤吉郎ではなく、自分の方だったのかもしれない。
藤吉郎は既に親父様との戦いを想定し、しかも勝つ算段まで付けているのかもしれない、そう思うと自然と身体の至る所から嫌な汗が噴き出た。
「……その言葉だけで、お主に叛意有りと報告するに足るぞ、藤吉郎」
「ならば逆に問うぞ、又左よ。 お主の言う『叛意』とは誰に、なにに対しての叛意じゃ?」
「それは無論」
「柴田の親父様はすでに宿老筆頭ではない、家臣の序列であればわしが上じゃ。 そして織田家にもはや先は無い、上様の死と共に織田家も終わったのじゃ」
「口が過ぎるぞ藤吉郎!」
自分でも思わず大きな声を出し過ぎた、と思った。
こんな声を出してしまっては、どこで誰が聞き耳を立てるか分からない。
こちらが思わず口元を抑えようとしたが、藤吉郎は「人払いは済んでおる」と小声で言ってきた。
安心した半面、こちらの言動を読み切ったかのような藤吉郎に、少しだけ腹が立った。
それに、先程の言葉も捨て置けない。
「織田家が終わるなど、戯言にしても言葉が過ぎる! お主一体誰のおかげでその地位に」
「上様が生きておったらわしとて従うわい、恩も義理もある上様相手に刃向えるものか」
「ならば何故」
「上様がおらぬからよ、先程も言うたであろう。 上様の御威光無き今、織田家は先細り必至じゃ。 ならば余計な天下騒乱を招く前に、誰かが代わって世を治めるしかあるまい」
「だからそれは織田家を中心に」
「出来ると思うか、本当に? 今となっては織田家に執着する事こそ、かえって天下の災いの元よ。 世の民は織田家の支配を望んでおるのではない、安寧に暮らさせてくれる統治者を待っておるのよ。 それが上様と思い、皆が従った。 だがその上様無き織田家に、期待を持てるだけの器はない!」
「そ、それはこれから三法師様が」
「何年かかると思うておる、あの幼子が十年かそこらですぐにそれだけの御仁に育つと思うか? 二十年もかかればわしも又左も、生きておるかどうかも怪しいぞ! それに別に織田家を潰すという訳ではない、何もかもを現在の織田家に背負わせるには、荷が重いと申しておるのよ!」
自分でも思った通りの言葉が出せなかった。
藤吉郎の勢いに押された、と言うのもあるが自分でもその意見に納得出来てしまう部分があった。
上様、信長様との付き合いは藤吉郎よりも長い。
正直に言うと、今でも死んでしまったという事が信じられないくらいだ。
女房であるまつ、やっと二十歳を過ぎたばかりの嫡男・利長がいなければ、自分は殉死という道を選んでいたかもしれない。
信長様の偉業は、確かに誰でも達成できるものではない。
いくら息子だから、孫だからと同じだけの偉業達成を望まれても、容易にいくものではない。
誰もあの方の代わりなど務まる訳がない、それは親父様でも藤吉郎でも同じだ。
親父様は上様存命中からの既定路線であった、織田家を中心とした天下統一を目指している。
だが藤吉郎は織田家を退かしてでも一刻も早い天下統一を、という考えで動き出そうとしている。
果たしてどちらが正しいのか、どうすることが最良なのか。
この時点で、自分は親父様に何があっても付いて行くという考えが揺らいでいた。
藤吉郎の言う事にも一理ある、と思ってしまったのだ。
迷ってしまった、考えてしまった、そして黙ったまま拳を握り締めていた。
すると、藤吉郎はそれまでの勢いが嘘のように穏やかな顔で、肩をポンと叩きながらこう言った。
「大事な事だで、すぐに結論なんか出せる訳もにゃあぞ。 とりあえず今日の所はこれ持って行きゃあええ、部屋はもう用意してあるでな。 ゆっくり休んで明日またな」
頷いて、茶室を辞した。
丁寧に箱にまで入れてもらった、利休も認めた名物という茶碗を持って。
悩みながらも結論は出ない、だがそれこそ藤吉郎の狙いであったと、後になって気付く。
親父様との対決は、すなわち織田家への反逆であり、天下簒奪の野心を露わにした証。
そう思っていた自分はどこかへ消えていた。
天下万民のため、民の安寧なる暮らしのために織田家に拘っていてはダメなんだ。
むしろ上様亡き今、天下統一という重圧から織田家を解放してやることが必要だ。
頭の中で、そんな事を考え始めてしまった事、これが藤吉郎の狙いだったのだ。
つくづく恐ろしい男だ、藤吉郎は。
親父様とは違う種類の、いやもっと得体の知れない恐ろしさを備えた男となった。
「まつ殿にもよろしくな! 寧々が会いたがっておったで、手紙も持って行っとくれ!」
別れ際にはそういって手紙も渡された。
藤吉郎とは家族ぐるみの付き合いをしているから、女房同士も仲が良い。
あいつと戦になれば、まつと寧々殿との仲もそれまでとなるのか。
実の姉妹のように仲の良い二人、出来る事ならどちらも泣くような事にはなって欲しくない。
どうすればいい、一体自分はどうすれば良いというのだ。
結論は出ない、出せないまま、この日が来てしまった。
戦の結果によっては、親父様か藤吉郎のどちらかを失う事にもなるだろう。
戦国の世の習いであり、武家の習い。
武運拙き者は、その屍を野に晒すことになる、あるいは首を刎ねられて晒される。
そんな世界で生きておる我らは、常にその覚悟をしておらねばならない。
なにが槍の又左だ、優柔不断の馬鹿犬が!
自分は何一つ決められぬ、未だどちらも選べず、どちらと戦う覚悟も持てず、ここまで来てしまった。
開戦の日は近い、こちらが近江国に入った事も、藤吉郎はすでに知っておるだろう。
既に岐阜の信孝様も降伏し、滝川殿も苦戦中と聞く。
親父様曰く、もはや包囲網の体も挟撃も能わぬならば、いっそ正面から打ち破るべし。
こんな時でも親父様は力強い。
齢六十を超えてまだこれほどの覇気でもって戦に臨むとは、まさに鬼柴田の名に恥じぬ御方よ。
藤吉郎よ、親父様は手強いぞ。
それでも尚、この鬼を叩き潰せるだけの気概、覚悟、強さがあるなら見せてみよ。
それを見届けることが出来たならば、我が前田の一切をお主に託そう。
後世大恩ある親父様を裏切り、逃げ出した卑怯者と誹られようと、甘んじて受ける覚悟は出来た。
お主の器が見れたなら、親父様すら超えられるならば戦場から退く。
親父様に蹴散らされる事になれば、命ばかりは助かるよう口を利いてやる。
後世の者達よ、日和見と言わば言え。
これが恩と友情の両方を天秤にかけて、どちらにも傾き切れなかった男の、ありのままの姿よ。
前田利家という一人の戦国武将にとっての、その生涯において最も長い時が始まろうとしていた。




