信長続生記 巻の四 「躍進」 その7
信長続生記 巻の四 「躍進」 その7
秀吉が京で信長の葬儀を盛大に執り行った、という話が徳川家に伝わり、その報告を直接受けた家康が、信長と前久に伝えたところ信長と前久が思わず苦笑した。
今自分の目の間にいる人物が、世間的には死んだことになっているのは当然分かってはいるが、だからといって盛大に葬式まであげられると、それはそれでどういう反応をしてよいものか。
だが三人がひとしきり笑った後、それまでの能天気な空気は一変して、その部屋の中はピンッと張り詰めた空気が漂う。
とりあえずは笑うだけ笑った、その上でその葬儀を行った事による影響、その葬儀の喪主を務めた者の真意を探る。
まずは話を持ってきた家康が、最初に口を開いた。
「羽柴殿がまず動きましたな、やはり抜け目の無い御仁の様で」
「清州での一件からすでに三月、おおよその準備は整ったという事であろう」
家康の言葉を受けて、信長はつまらなそうに言い放つ。
伊賀や甲賀の報告もあり、葬儀の詳細まで聞いた信長は、演出過多な秀吉のやり方をあまり快くは思わなかったらしい。
だがそれに対して、何かと派手好きな人間という印象を持つ信長が、なぜ今回に限って不機嫌そうになるのか分からなかった前久が、信長にそれとなく問いかける。
「分からぬのか? 本当に我が死を悼むだけなら、厳かになりこそすれ、派手な葬儀は必要はない。 これはな前久、サルが我が死を利用し、他の者への宣戦布告をするというふざけた三文芝居よ」
秀吉は信長を模した木像まで作って、それを火葬して信長の遺体の代わりとしたという。
しかもその木像を入れた棺を信長の四男にして、秀吉の養子となっていた秀勝に持たせた、というのだからここまで来ると露骨すぎて呆れて物も言えない。
信長の言葉に「自分の死を、葬儀を見世物にされた」という怒りを感じ取った前久は、信長が不機嫌な理由を理解した。
そこに悼む気持ちは皆無ではないだろうが、それでも自分の死が利用されて、挙句それを政敵である柴田や滝川、さらには息子に対する挑発に使われれば、怒るなという方が無理だろう。
信長は自ら望んで他者の注目を浴びるのは大好きだが、自らの意図しない部分で見世物となるような、道化の様な真似をする趣味はない。
そういう意味では、この時の秀吉の行動は信長の逆鱗に触れていたとも言える。
前久も秀吉の事は知っているし、有能な家臣だという認識はあったが、ここまで露骨な行動を取るほどの人間とは思っていなかった。
そういう意味でも、前久はまた己の人を見る目の無さに、人知れず落胆していた。
だが前久の内心の落胆を一々理解して、そこに慰めの言葉などをかける人間はこの場には皆無である。
前久が黙っている間に、信長と家康はこれについての互いの意見を出し合っていた。
「報告によれば、羽柴殿は随分と京の町衆からの人気を得たとか。 そこら中から次の天下人と推す声が上がったという事ですが、これも仕込みでしょうな」
「つくづく三文芝居が好きな奴よ。 民を手懐け、敵を籠絡し、味方をも欺く。 しかも以前より度が過ぎるようになったな。 これは小寺の、いや黒田のやり口かもしれぬな」
家康は秀吉の手口に気付いてはいるが、実際としてそれは有効だとも認めている。
皆の目が葬儀に集まり、その絢爛豪華な有様に意識を奪われているその時、近くで誰かが囁いた言葉は自然と耳に、そして頭に入ってくる。
それが秀吉を賛美するような言葉であれば、自然とそれを聞いた者たちは多かれ少なかれ、秀吉に好意的な感情を持ちやすくなる。
民心とも、民忠とも言うが、民からの支持というものは大事である。
ましてやそれが日ノ本の中心、京の町衆であればなおさらだ。
良くも悪くも京の町衆は口さがの無い、と言われる話し好きな性分で、自分が見聞きしたことを互いに意見交換をし、それを知らない者には話したがるという性分を持っている。
それがやがて日ノ本各地に散り、それぞれの地域で噂話として広がれば、やがては日ノ本全土でその噂が真実味を帯び、自然と秀吉は天下人として祭り上げられる存在となってゆく。
秀吉の描く予想図は、大体こんな所だろう。
だがそれを信長は一笑に付した上で、今回の秀吉の行動に不審な点を感じている。
「あやつの機を見るに敏な点、そして己が利を嗅ぎ分ける鼻の良さは家中でも群を抜いておった。 だがこうまであからさまな真似をするには相応の覚悟と、事前の用意が不可欠。 となれば」
「すでに羽柴殿は柴田殿らを向こうに回しても、戦い抜く覚悟と準備は出来ておる、と。 それが未だ我が徳川に対し何の手も打ってこない所を見ると」
「手を打ちあぐねておるのだろうよ。 織田と徳川の結び付きは全国津々浦々にまで知られておる、その徳川を向こうに回す訳にもいかず、かといって下手に出れば己が天下は望めず、という所であろうな」
「つまり羽柴殿はすでに天下を望んで動いておる訳ですな。 信長殿のご子息を差し置き、己が野心を明らかにしたと」
「だが今ならばまだ言い逃れが出来る、誰もやらぬからこそ自分がやった。 自分こそが織田家一番の忠臣であると証明したいがために葬儀を行った、と」
「……やはり、人柱が必要になりましょうか?」
「サルが言い逃れ出来ぬようにするには、権六か左近、あるいは茶筅か三七、もしくは市か秀勝の首が必要となろうな。 いずれにしろ奴よりも俺に近しい者が死なねば、確かな証とはなるまい」
信長と家康の会話に不穏な言葉が飛び交い始めたために、さすがに前久が落ち込んでばかりもいられずに、慌てて会話に交じろうとする。
「ひ、人柱やなんて…一体どうしてそないな話に?」
前久が顔色を窺いながら尋ねてきたので、信長は煩わしそうに家康に視線を送る。
その視線を受けて、家康は「説明が面倒だからお前に任せる」ということだと判断し、前久の方に体の向きを変えながら、丁寧に最初から説明した。
つまりは秀吉は信長の葬儀をあえて派手に行う事で、織田家の人間と織田家を盛り立てようとする勢力を挑発し、同時に次の天下人が自分だと喧伝する。
挑発に乗った者を討ち果たし、自らの地盤を固めて勢力を伸ばして実質的な天下を掌握する、その際に主家であったはずの織田家もその討伐対象に入れ、従うなら良し、刃向うなら討つ、という姿勢でもって当たり、最終的には誰も逆らえないようにする。
信長が生きていることを明らかにし、その存在でもって秀吉の野望を止めるなら、決して秀吉が言い逃れ出来ぬよう、信長に近しい存在の犠牲が必要となるだろう。
それらの話を聞き終えて、前久は信じられない者を見るかのように信長を見た。
「信長はん……それで、よろしいんか? あんたはんの息子や妹、長年支えてきてくれはった家臣すら、秀吉はんへの弾劾材料として使い捨てる気なんか?」
「無論死なねばそれで良い。 だが、恐らくそうはなるまい。 サルとてそのような生温い奴でもなかろうし、サルへの降伏と服従を拒み、自ら腹を切る者も出よう。 あやつはすでに天下へと動いておる、今更わしがのこのこ出ていった所で、下手をすれば殺されて終わるな」
「そないな事は……そうや、この身が共に行けば秀吉はんも手出し出来へんはずや! この身と信長はんで秀吉はんに直談判すれば」
「お主が朝廷にとって目障りな存在と化しておる事を忘れたか? わしとお主が揃って出向けば、朝廷内の反対する者どもがサルに勅命を下し、結局は亡き者にされて終わりぞ。 サルは勅命を盾に、嬉々として我ら二人を葬る、それを知った者も消す、それで全てが終わる」
前久の言葉を、信長は冷徹に返していく。
前久自身、朝廷の反信長勢力は根強く、またその勢力は朝廷内を牛耳っている、と言っていいほど大勢を占めていることを身を持って味わった。
それだけに、信長の言葉に反論が出来なかった。
だが信長がその後に言った言葉に、前久はさらに言葉を失った。
「それにな、サルは常々『人たらし』と揶揄されるほど人を束ねるに長けておる。 ならば奴には天下人寸前まで登らせてやれば良い。 そこまで登った所でわしが生きておることを明らかにし、奴からは全てを奪い取る、地位も兵も領地も何もかもをな」
「その際、羽柴殿を弾劾するための材料が必要となりましょう。 そのための人柱、そのための犠牲として信長殿に近しい方の命が必要なのですよ、近衛様」
信長の言葉を、さらに家康が続ける。
それらを聞いて、前久は完全に顔色を失っていた。
秀吉も恐ろしいが、それ以上にその秀吉の恐ろしさを分かった上で、その全てを奪い取ると断言した信長はさらに恐ろしい。
しかもその方法論を家康に聞かされて、顔色一つ変えずにそんな事を口にする、この男もまた恐ろしいと思った。
前久はこの時、信長が改めて『第六天魔王』であることを悟った。
「後はいつ、どこで明らかにするかが肝よな、なんぞ良い案はあるか?」
「やはり織田家の旧臣方が多く集まる場所、しかも戦場などではない公式の場所がよろしゅうござるな、問題はいつそれが訪れるか……」
既に先程の不機嫌さは完全になりを潜め、まるで悪戯を企む子供のような顔をして、家康と話し合う信長に前久は目眩を起こしそうになった。
こんな悪辣な、天下丸ごとを奪い取ろうとする悪戯など聞いた事もない。
しかもなんでそんな楽しそうな顔をして、そのくせ眼だけはギラギラと輝かせながら話せるのか。
目の前に居ながら、そして付き合いもそれなりに長くなったというのに、未だ前久は信長という人間を掴み切れていなかった。
そしてそんな信長と、顔色一つ変えずに時に同じ様に笑い、時に同じ様に頭を悩ませながら話せるこの家康も、やはり計りかねる人間だと前久は思い知った。
もはや自分とは完全に違う種類の人間。
この時ほど自分は公家であり、この二人は武士なのだ、と思い知ったことはない。
そしてその武士の中でもとりわけ有能かつ冷徹な、天下すら窺える器を持った武士とはこういうものなのだ、と前久は感じ取り、自然と喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
日ノ本のあちこちを歩き回り、多くの風景、多くの人間、多くの戦を見た。
だが、それでもこれほど衝撃的なものはない。
まさか目の前にいるたった二人の人間の会話が、戦で多くの人間が血みどろになって死んでいく様よりも、自分の心を揺さぶるものになるとは思わなかった。
自分は全国規模で見ても相当に世の中というものを知っており、その知識量、風雅の道への造詣、それら全てにおいてそうそう他の者に遅れは取らない、そんな自負もあった。
だが、目の前にいる者たちは完全に別格だ。
風雅の道への造詣などはともかく、前久のように歩かずとも世の中というものを知りつくし、その上で自らの取るべき行動をしっかりと見据え、そのためにどうするべきかを考えられる。
これが、世を治めるべき『天下人』というものなのか。
少し引いて考えてみれば、むしろ自分は幸運なのだろう。
こういう存在を間近で見て、そしてその考えに触れて己の経験と成せる機会があるのだから。
少なくとも、朝廷内に引き籠ったままで風雅の道に邁進、いやもはや耽溺して、今この瞬間も日ノ本のどこかで戦が起きていることを、まるで見もせず、聞きもせず、知ろうともしない。
そんな公家には一生経験の出来ぬことを、今自分は経験出来ているのだ。
前久は一つ息を吐き、改めて信長と家康を見る。
人として、為政者として遥か高みから日ノ本を見通す二人の英傑。
その存在のすぐそばに身を置く我が身を、どうして腐らせることが出来よう。
今この場で何もしないのは、何も考えないのはもはや道化にも劣る。
自らを一度でも当代の傑物として思ったのなら、目の前にいる二人を見逃す訳にはいかない。
自らが目指すべき人としての高み、その高みの段階にすでに足を踏み入れている者が、二人も目の前に座しており、さらにまだその上へと登ろうとしているのだ。
自然と、前久の顔に不敵な笑みが浮かぶ。
置いていかれてたまるものか、自分もそこに踏み込んでやる。
武士だけが高みに上り、公家衆だけがそれを怠ったままで、朝廷の地位が、帝の安泰が図れるはずもないのだから。
今ここにいる公家は己一人、たとえ京の朝廷内にいる多くの公家衆を敵に回そうとも、今この場において朝廷を守る役は、己一人しかいないのだ。
食らい付いてやるぞ武士どもよ、おのれ等だけが高みに上れると思うなよ!
それは前久が生まれてこの方、初めて人としての闘争本能を刺激された瞬間でもあった。
今までの公家衆との、陰での、裏からの、権謀術数じみた足の引っ張り合いなど児戯にも劣る。
これが、人としての器のせめぎ合いにして計り合い。
信長と家康が何故二十年もの長きに渡って、同盟を結び続けていられたのか。
この二人は互いの器を磨き合いながら、互いを高みに導き合う存在であったから、だからこそ互いを必要とし、共に歩み続けていられたのだと前久は確信した。
今この時、前久もまた一人の人間として、ある種の殻を破った。
信長と家康の、二人に触発された結果である。
今の己の状態・状況を正確に把握し、冷静に、冷徹に物事を考え、そこに私的な感情を介在させることなく、ただ在りのままの事実を現実として受け止め、その上で思考を巡らせる。
それをただ機械的な物の見方・考え方として行うだけなら、客観的な物の見方と主観的な物の見方を分割して考えられる者でも、充分に実現可能であろう。
だが今信長と家康がやろうとしている事は、さらにそこに自らの感情も乗せた上でのものであり、それらを全て満たした上で理想的な形に持って行くには、どうするべきかを論じ始めていた。
前久は改めて二人の才覚を思い知った。
正確にはそれを知れる所に到達できるようなった、と言うべきなのかもしれない。
だが負けてはいられない、公家衆全てが狭き世界で生きる狭量の者だと思わせはしない、朝廷にいる者全てが暗愚ではない事を、この二人に知らしめておかねば自分がここにいる意味はない。
だから、前久は口を開いた。
今自分が言おうとしていることが、どれほど自らの立場を危うくし、その一方で有効的かを分かった上で発言しようとしている。
前久にとってもこれは諸刃の剣。
いや、下手をすれば身の破滅どころではない、近衛家の名跡すら危ういかもしれない。
だがこの二人に対抗するには、今自分が打てる手は、思いつく手はこのくらいしか無い。
覚悟を見よ、武士たちよ。
決意を知れ、英傑どもめ。
「この身に、妙案が浮かびましたわ」
口に出してしまった。
もう後戻りはできない。
二人の武士にして英傑、信長と家康が前久を見る。
その二人を前に、全身を強張らせながら己の考えをぶつける。
前久の、誰一人知る由の無い、人としての器を賭けた一世一代の大勝負。
「であるか。 考えたな、前久」
言い終えた後で、信長の発した一言がそれであった。
結果は信長の口元に浮かんだ笑み。
多くの公家衆を相手に失意と絶望に沈んだ男が、多くの公家衆に勝る迫力を、たった一人で発することの出来る信長を相手に、一本取った証拠であった。
へたり込みそうになるほどの脱力感と、叫び出したくなるような達成感。
今、前久は人としての器を広げ、また一段高みへと登った。
それを実感して思わず拳を握り締めた前久をよそに、信長と家康は再び会話を続ける。
「では近衛様の申されたやり方で締めるとしまして、そこに辿り着く道筋を作りまするか」
「であるな、こちらはまずは甲斐・信濃の地盤固め、サルの方は動き待ちじゃな」
二人の英傑は、高みへと登った前久をさらに置き去りにしながら、さらなる高みへと登ろうとしていた。
なんとか更新できました、まさか話のストックを少しだけとはいえ増やせた途端に、本業の仕事量が増えるとは思いもよらず。
話の先が書けなくてペースが落ちるのではなく、本業が忙しくて更新するのに苦労する事になるとは、完全に予想外でした。




