信長続生記 巻の四 「躍進」 その6
大変遅くなりましたが更新いたします。
今日の日付の内に何とか更新しなくては、と少々焦っておりましたので、もしかしたら普段から気を付けている誤字脱字などが存在するかもしれません、その際にはどうかご一報を。
信長続生記 巻の四 「躍進」 その6
秀吉が先程から唸っていた。
腕組みをして、首を回して、しかめ面をしながら不機嫌そうに唸っていた。
信長が癇癪持ちであったことは有名だが、実は秀吉にもある程度の年齢を、出世を重ねてきた頃から癇癪を起こす事が度々あった。
また人当たりの良い反面、どうしようもない失敗をする部下には大声で叱責することもあった。
そんな人間が今、不機嫌そうに唸っているというのは近くにいる者にとって、多大な精神的消耗を強いる事になる。
だからと言って近習として仕える者が、無断でこの場を離れる訳にはいかない。
若くしてその才覚が認められ、秀吉の傍仕えとなっている石田三成は、秀吉の顔色をチラリと窺いながら、自らの仕事をこなしていく。
秀吉の下した命令を書面に書き留め、それを各方面、各武将に送るためだ。
この当時は口頭で言った言葉を人づてにさせるか、こうして書面に書いてそれを見せるか。
そのどちらかしかなかったため、命令書の作成というのは、非常に気を使う作業でもある。
その辺りは秀吉も分かっているし、先程自らが下した命を忠実に守っている三成に、いきなり怒鳴るようなことはしない。
だがそれでも、不機嫌の原因が無くなる訳でもない。
ましてやその不機嫌の原因は、今ここでどうにかなるようなものでもないのだ。
それがまた、秀吉の不機嫌さに拍車をかけていた。
さすがに見るに見かねて、側にいた羽柴秀長が声をかける。
「兄上、こうしておっても徳川様がどうにかなる事はありませぬ、まずは一旦落ち着かれませ」
「分かっておるのよ、分かってはな。 だがここ数ヶ月で徳川は急速に力を付けおった、わしが一旦兵を休ませておる間に、じゃ」
しかめ面はそのままに、脇の秀長に窘められて、それでも不満げな秀吉である。
秀吉にとっても、徳川の急速な勢力拡大は見過ごせなかった。
というのも、徳川は秀吉と必ずしも協力体制にあるとは言えず、お互いが領地の隣接しない、遠国だからという理由もあってか、今や音信不通状態である。
徳川からすれば同盟相手の家臣であった秀吉に、自分から挨拶に行くような真似は出来ない。
かといって、秀吉から挨拶に出向くには敵対するであろう勢力の圏内を通らなければ、家康の領地に辿り着けない上に、そうまでして行くだけの意味が無い。
結果としてどちらが先に挨拶に行くか、さらにその挨拶をしに行った方が下になる、という状況であったためどちらも自分からは動こうとしない、という膠着状態なのである。
秀吉からすれば、家康が自分からこちらと誼を通じに来てくれれば、諸手を挙げて歓迎するところだ。
なにせ信長との同盟は二十年に渡る、当時としては異例中の異例と言える、とても長い年月を共に戦っている盟友と言って差し支えの無い相手だ。
そんな相手、徳川からこちらに誼を通じよう、というのは言ってみれば秀吉こそが信長の後を継いで同盟を結ぶに足る、と認めたという事に他ならないのだ。
だから秀吉とすればもし家康が自分から来てくれるのなら、かなりの部分を譲歩した同盟を結んでも良いとすら考えている。
徳川家康、という人物とその家臣団を味方に出来る、というのはその実力以上の優位性を対外的に持つ事に繋がるのだ。
ましてやそれが織田家の家臣であった者に対してなら、絶大な効力を発揮するだろう。
織田家の正統後継、盟友・徳川がそれを認めた、というのは敵からすればやりにくい事この上ない。
なまじ実直な者なら、ただそれだけで付く勢力を鞍替えしかねないほどだ。
だからこそ、秀吉としても徳川相手には細心の注意を払わなければならない。
だが、こちらから擦り寄る訳にもいかず、出来れば向こうから最初の一歩を踏み出してほしい。
徳川が柴田・滝川方に付いたという報告も聞かないため、恐らく徳川も迷っているのだろう、あるいは状況を見て有利な方に付こうという、日和見を決め込んでいるのかと思った。
だが徳川の動きは、秀吉の予想をはるかに超えたものであった。
日和見どころではない、むしろその方が有難かった。
甲斐国を掌握、信濃国もその大半を手中に収め、今や全国的に見ても有数の大勢力へと成長しているではないか。
「徳川様とて、上様御存命時から幾度もの大きな戦を経験されておった方。 毛利のような大勢力を相手にしない限り、易々とは止められますまい」
「北条や上杉とて決して小さな家ではあるまい、むしろ十分な大勢力と言えるじゃろうが。 それらが雁首揃えて徳川にいい様にされておる、このまま勢力を伸ばされるとちと厄介じゃな」
徳川とて無能ではない、いやむしろ有能だという事はかなり前より知っている。
徳川家康本人の資質もさることながら、その家臣団も粒よりの者が揃っている。
だが以前は三河一国、今川滅亡時に遠江、武田殲滅時に駿河と、東海三ヶ国を手中におさめ、この時点ですでに大勢力の仲間入りをしていた徳川ではあったが、それでもまだこの時点なら秀吉の方が確実に勝っているという自信があった。
それがわずか数ヶ月、その間に甲斐と信濃の大部分を領有するようになり、総石高や甲斐の金山、東海の海を利用した交易や特産物、それらを考えるととても無視の出来ない存在となっていた。
今や大勢力の一角、どころか完全に毛利家などに並び得る、全国屈指の一大勢力へと成長を遂げているではないか。
上杉や北条とて名を馳せた強国であり、それぞれが北陸と関東で大勢力、と呼べる家なのだからまずは睨み合いで、しばらくは三家入り乱れて荒れるだろう、位に思っていた。
それがふたを開けてみればまさかの徳川一人勝ち、というのだから笑うどころか目を剥いた。
「小、なれど強なり」と思っていた徳川が「大、そして精強なり」となるのは、秀吉の目指す天下統一にとって、この上ない障害と成り得るのではないか。
対上杉への備えとして、共通の敵を抱えた柴田勢と手を組む、という事すらあるかもしれない。
それとも北条に対抗するため、上杉と手を組むという事もあり得るのか。
上杉と敵対か・友好かで、自ずと上杉と誼を通じたこちらとの関係も変わる。
どちらに転ぶかと思っていたら、徳川・上杉・北条の三国で和睦が成立し、それぞれがそれぞれの領有地域を決めて、それ以降は不干渉という話になり、決着を見たという。
秀吉からすれば、やきもきしながらもこちらから口も出す訳にもいかず、徳川の動きに注視しながらも手が出せない、という状況に焦りと苛立ちが隠せなくなった。
その結果、足は貧乏ゆすりをして、腕組みしたまま指はトントンと自分の腕を叩き、首をグルグルと回しながら落ち着かない様子を見せる、という醜態を晒している。
「では、徳川様に何かしらの牽制を?」
「いや、今はまだ早い。 柴田や滝川、それと信雄や信孝をどうにかせぬとな。 わしの目論見ではそろそろ動くかと思ったが、思いの外動きゃあせんわ」
徳川に下手な刺激は逆効果だ、と秀吉は見ている。
戦って負ける気は無いが、だからと言って楽勝かと言われれば首を即座に横に振る。
相手は名うての戦巧者であり、下手な戦いを挑めば痛い目を見るのはこちらだ。
上がって来た報告によれば、北条は数で勝りながらも徳川に敗北を重ね、最終的には徳川の一人勝ちを許す結果の要因になったという。
自分がその二の舞になるのは御免だ。
なにより、徳川の前に倒さねばならぬ相手もいる。
年寄りだから焦って動くか、と思いきや動かない柴田勝家と、名誉の回復を急ぐだろう、と思えばまずはじっと戦力を蓄える事を選択した滝川一益。
あるいは西側の勢力、紀州の本願寺残党と雑賀衆、四国の長宗我部と中国の毛利が動くのを待ち、それと連動してこちらを挟撃して叩こうという腹か。
そう考えるとさすがは「掛かれ柴田」と「進むも退くも滝川」と言われた二人だと、秀吉の顔にも不敵な笑みが浮かぶ。
だが甘い、それらの勢力がこちらを叩く準備が終わるのを、ただじっと待ってやるような男があの明智光秀を打ち破れると思うか。
「ではこちらから動きまするか?」
「んー……そろそろ雪も降るかのぅ?」
内心の考えを表に出さず、いつの間にか直った機嫌のまま、明日の天気でも聞くような口調で秀吉は気楽に問いかける。
その問いかけの意味を即座に理解出来た秀長は、頷きながらその真意を口にする。
「北陸では、冬支度が始まっておりましょうな」
「となると、上方で何が起ころうとも親父殿は帰ってこられんのぅ? 雪深い土地の寒さは年寄りには堪えるじゃろ、屋根の下で女子と乳繰り合うてる方が楽し…い、じゃ……」
この時点で、頭の回転だけならすこぶる速い三成は、即時撤退を決めた。
とりあえず現時点で書いてあった書類の束を引っ掴み、両手で持てるだけ持ってその場から走り去る。
おそらくはこの後に起こるであろう大荒れを受けて、今までの仕事をフイにされては堪らない。
秀吉は自ら地雷を踏み抜いた。
柴田勝家が清州会議の直後、誰を娶ったのかを思い出したからだ。
「う、うう……お、お市様ぁ……何故じゃああああああッ! なぜあのような年寄りに嫁がれたぁぁ! わしの方が年も近く、将来性もあるではございませぬかぁぁぁぁッ!」
先程まで、ほんの数秒前まで己がいた部屋から、秀吉の絶叫がこだまする。
断続的に響くその声の合間に、秀長の「落ち着かれませ、落ち着かれませ兄上!」と必死に宥める秀長の声も聞こえる。
周りにいる家臣たちも何事かと部屋へと集まっていく中、それをかき分けて逆方向へと進む三成。
心の中では平伏して秀長に謝り続ける三成だが、この書類まで暴れてグシャグシャにされる訳にはいかないのだ。
これも己の仕事を完遂するため、と三成は罪悪感を感じる自分を必死に説得しながら、安全圏へと避難するのであった。
四半時ほど暴れてようやく秀吉も疲れたのか、周りにしがみついた秀長をはじめとする家臣たちに「もうよい、もう大丈夫じゃ」と告げて、その場にごろんと大の字になって寝転がる。
その様に、その場にいた全員が息を吐いて「失礼いたします」と挨拶してから退室していく。
その者たち一人一人に「ご苦労であった、すまなかったな、騒がせたな」などと声をかけ、最後にただ一人部屋に残った秀長である。
先程の発作的な暴れ方からして、秀吉の心の中では未だにお市の方への想いが消化し切れてはいないのだろう。
秀長は幼い頃から秀吉の背中を見てきたため、たとえ頭の回転が官兵衛や三成に劣っていても、その感情を読む事だけは二人に負けない自信があった。
そんな秀長が感じ取った秀吉の現在の感情は、ある種の吹っ切れたものである。
先程までの暴れっぷりは、いわば秀吉の中の最後のわだかまりである、と秀長には感じ取れた。
それが収まり、今秀吉はようやく感情的なものを排して、理性でもって物事を考えられるようになっている。
そんな時の秀吉は誰にも止められない、こうなった時の秀吉は常に連戦連勝、何もかもを上手くいかせる『天才』となるのだ。
秀長は未だ大の字になって寝転がったままの秀吉を見つめ、次の言葉を待った。
「……のぉ、秀長」
「ここにおります、兄上」
「こちらから行くか?」
その短いやり取りで、秀長は秀吉の意思を悟った。
先程の会話、その後の大暴れ、それが落ち着いた後で出した結論。
ならば、秀長のやる事は決まっている。
「であれば陣触れを。 数はいかほどに?」
「ふぅぅむ……毛利への抑えに念のため小六に宮部、それ以外は全部じゃの」
秀吉の言葉に、秀長が眉をひそめた。
宮部継潤と言えば、秀吉の調略に乗って浅井から寝返った武将だが、能力の高さとその働きぶりから羽柴軍の中でも一目置かれた存在である。
それを毛利への抑えとはいえ、大事な戦から外して良いものだろうか。
「蜂須賀正勝殿と宮部継潤殿を外して、親父様と雌雄を決すると?」
「仕方なかろう、他に戦力的にも心情的にも任せられる者がおらん。 それに柴田と戦うかはまだ決まってはおらん、その前に近江と伊勢、それに岐阜を抑える必要もあろう」
そして蜂須賀小六正勝といえば、羽柴軍の中でも最古参の武将の一人であり、かつては尾張と美濃の間に流れる木曽川を中心に、独立した勢力を誇っていた豪族の頭領をしていた男である。
大名、と呼ぶほどの勢力ではないが、それでも木曽川周辺を縄張りにした豪族として名を馳せ、尾張や美濃国内には独自の人脈も形成しており、近隣の者からは恐れられてもいた。
だが秀吉はそんな小六に昔から誼を通じ、信長の美濃攻めの際にはその指揮下にいる者たちも動員して一つの部隊を作り上げていた。
それが羽柴軍の原型であり、それを支えていたのは他でもない蜂須賀小六である。
なので蜂須賀小六正勝、となれば羽柴軍では実質的な戦闘部隊の大将とも言える。
頭を秀吉、軍師が官兵衛、副将に秀長、その手足となって働く者の長が、蜂須賀小六なのである。
戦での槍を振るった活躍はもとより、陣構えをする時の土木監督、調略に向かう際の護衛兼好戦的な物言いをする役、元々人を束ねる立場だったためか政にもある程度は精通している。
そんなどこをとっても活躍できる小六は、秀吉に取ってなくてはならない存在である。
だからこそいざ毛利が攻め寄せてきたら、と思うと彼ほどの人物でなければ秀吉も安心して背中を任せられないのだ。
小六の能力と性格を当然よく知っている秀長は、それを伝えた時の小六がどういう反応するかを頭の中で想像して大きなため息を吐いた。
「ですが蜂須賀殿は、一大決戦から外された、と不貞腐れましょうなぁ…はぁぁ…」
「言うな! わしが直接説得する! 他の者には任せられんでな、お主だけが頼りと拝み倒す!」
「ではそちらはお任せいたします、某は官兵衛殿と話を詰めてまいりますのでこれにて!」
「待て秀長。 お主…一番面倒な所をわしに回したな?」
すぐさまその場から立ち去ろうとする秀長に、体を起こした秀吉がジトッとした眼で睨む。
その眼から少しだけ目線を逸らして、秀長は愛想笑いを浮かべている。
「先程の兄上の抑え役で、わしも少々疲れておりますれば…」
そんな秀長の言葉に、秀吉はチッと大きく舌を鳴らしてそれ以上は何も言わなかった。
その態度が秀長には「分かったから行け」と言っているのだと解釈して、秀長はそのまま足早に部屋から出ていった。
それでもしっかりと退室する際には「では失礼いたします」と一礼していくあたり、秀長の丁寧な性格がにじみ出ている。
それから秀吉はまたゴロン、と大の字に寝転がって天井を見る。
「まずは長浜を返してもらうとするか、あそこはわしが信長様から直々に頂いた城じゃからなぁ。 それを奪い返す所から、天下取りを始めるとするか!」
秀吉の脳裏には、すでにどういう進路で自分たちは進軍し、それに対し誰がどこで挙兵するかまで頭の中で想定が始まっている。
織田家の天下を信じ、それを維持しようとする者と、織田家の天下を見限り、それに取って代わろうとする者の戦は、すでに秀吉の脳内で始まっていた。
次回以降は2日に1話のペースで更新、に戻します。
引き続き、拙作『信長続生記』をよろしくお願いいたします。




