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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の四 「躍進」 その4

               信長続生記 巻の四 「躍進」 その4




 かつては武田信玄率いる武田家本貫の地として、誰も手出しのすることが出来なかった甲斐国。

 その武田信玄が没し、後継ぎと任命された存在は未だ幼くして、その父親が当主代理の「陣代」として武田家を率いる事になって、かれこれ9年半もの年月が流れた。

 その間に一時は武田家の版図は広がったものの、世に言う長篠の合戦での大敗を機に、まるで坂道を転がり落ちるがごとくその勢力は弱体化。

 止めに織田・徳川・北条の三ヶ国合同の武田殲滅作戦によって、武田家の嫡流は天目山で消滅。

 こうして誰もが知る戦国の一大勢力は、歴史から消え去った。


 そしてその広大な武田の遺領の大部分は織田家が支配することとなった。

 徳川には駿河の大部分が分配されたが、織田の反対側から攻めた北条家には、それこそスズメの涙程度の分配しか行われなかったのである。

 特に上野国に至っては、それまでは北条の勢力も大分入り込んでいた所に、『関東管領』の役職を名乗る滝川一益が我が物顔で居城を決め、関東に存在する諸将・大名家と勝手に手紙のやり取りを始めた。

 当然北条家からすれば面白くない事態である。

 北条家の当初の基本方針としては、織田家とは友好的な関係を築いていく事を模索していたが、滝川一益にそれを打診しても色良い返事は返さず、北条家としては危機感が募った。


 そして北条家の危機感や焦りといった感情は、意外な形で払拭された。

 京都・本能寺にて信長が重臣の明智光秀に討たれた、というのだ。

 北条の本拠・小田原城にまでその知らせが届き、北条家先代当主にして現当主の父・北条氏政は、それを渡りに船と判断して、関東からの織田勢力排除を決めた。

 関東全域支配は北条家、正確に言えば『後北条家』と言われる家を創った初代、北条早雲の頃よりの長年の悲願であった。

 今にして思えば、北条早雲がかつての鎌倉幕府執権・「北条家」の名前を名乗ったのは関東を支配する上で最も適した名前であるから、という理由であったのだろう。


 ちなみに北条早雲の孫、三代目当主北条氏康の代で北条家の関東支配は一気に進んだ。

 甲斐の武田、越後の長尾(上杉)を相手にしのぎを削り、攻めと守りを巧みに使い分けながら危機を凌ぎ、領土を徐々にではあるが広げていった。

 氏政として見れば、自らの父を含めてあの世代の武将は豊作に過ぎる、と思っている。

 時として敵、味方とその立場を変えながら、武田信玄・上杉謙信・北条氏康の三者による戦いは、それぞれの持つ全戦力を傾けなければ危険だ、と思うほどの強さを誇り、それだけで他の地域への侵攻は遅れ、結果として痛み分けのような事になるのだから、たまったものではなかった。

 それぞれが隣接した領地ではなく、遠く離れた者同士ならば良かったものを、と思わずにはいられない。


 父があれだけの才覚を有しながら関東を支配し切れなかったのは、武田と上杉のせいだと氏政は信じて疑わない。

 「相模の獅子」とも言われ、攻防使い分けた巧みな戦術と当代随一と信じて疑わない内政手腕、なぜそれだけの武将が関東すら支配し切れなかったのか。

 そんな父は遺訓として「武田と同盟を結び直せ」と言い残して世を去った。

 氏政としてもそこだけは、尊敬する父・氏康であろうと、許せないものがあった。

 かつての氏政の正室、黄梅院という名の女性は武田信玄の娘なのである。


 煩わしくも認めざるを得ない名将・武田信玄とは同盟を結ぶことになった際、子供同士を結ばせる婚姻による同盟を結んだ。

 しかし今川義元死後の今川家、駿河の所領を巡って武田家とは対立が表面化し、武田との縁を切るため黄梅院とはすでに何人もの子を成していたにも拘らず、離縁することとなった。

 黄梅院は武田を内心で嫌っていた氏政にとって、その嫌悪感を払拭するほどの魅力を持った女性であり、夫婦仲も悪くなかったというのに家の都合で離縁することとなった。

 だが父の死後に再び武田と結ぶ、という段になって再び氏政は黄梅院を北条に迎えようと思ったが、すでに黄梅院はこの世を去っており、しかも離縁から一年も経たずに亡くなっていた、というのだ。

 戦国の世では決して珍しい事では無い、同盟による婚姻とその破棄による離縁。


 氏政は気落ちしながらも黄梅院の遺骨を分骨して、北条家側でも黄梅院の冥福を祈ることを条件に入れて同盟は結び直された。

 なまじ夫婦仲が良かったがために起きた悲劇ではあったが、この行動は弟達や息子にして五代目当主・氏直からは快く受け入れられ、北条一族の結束に繋がった。

 しかしその結び直された同盟は、再び破られる事になる。

 同盟から一年半と経たずに武田信玄が病没し、さらに五年後にはあの上杉謙信も死んだというのだ。

 この時、三つの家の中で最も早く先代を失くしていた北条氏政は、いよいよ新たな時代の到来を予感した。


 武田は長篠の戦いで弱体化し、上杉は後継者を定めておかなかったが故に揉め、現在は「上杉景虎」と名乗る氏政の弟が上杉の後継者候補となっていた。

 かつて北条が上杉と結ぶ際、上杉への人質として北条氏康は自らの七男・北条三郎を差し出した。

 同盟という名の下に家族が引き裂かれる悲劇は、自らのみならず、弟たちにも及んでいた。

 それも戦国の世では仕方のないこと、と思い耐えていた氏政であったが、今回はそれがまさかの事態を引き起こしていたのだ。

 差し出された人質であったはずの三郎は、謙信に気に入られて養子という扱いで迎えられた。


 そして実子のいない謙信は死ぬその瞬間まで後継者を決めず、この世を去ってしまった。

 その結果、上杉家は謙信の姉である仙桃院の息子「上杉景勝」と北条からの人質であったはずの「上杉景虎」の二人が後継者候補となり、二つに割れてしまっていた。

 血筋で言えば当然景勝有利ではあったが、景虎側にも味方をする勢力が大勢いたため、上杉家中は、そして越後の国は完全な内乱状態へと突入した。

 氏政はこの時ほど「災い転じて福と成す」という言葉を実感したことはない。

 家族の別れと思った出来事が、勢力拡大のまたとない機会となって戻ってきたのだ。


 氏政は即座に景虎支援を表明し、同盟を結んでいた武田にも協力を要請した。

 しかし武田は独断で密約を結び、景勝側支援へと鞍替えした。

 その結果景虎優位に傾きかけた流れは、景勝優位へと変わり、景虎は人質として向かった越後で、本来なら当然ではあったが、二度と相模の地を踏むことなく死んだ。

 当然この結果に激昂した氏政は即座に武田との同盟を破棄、武田とはこれで何度目かになるか分からない、敵対関係となった。

 今回の上杉家後継者争い、世に言う『御舘の乱』の一件で上杉も再び敵となる事は間違いなく、武田と上杉が同盟を組み、北条は劣勢に立たされることになった。


 しかし関東と甲信越だけで戦国の世は語れるものではない。

 中央ではいよいよ天下に王手をかけた、といっても過言ではない織田信長が、着々と勢力を伸ばしていった。

 武田や上杉とは敵対している北条家にとって、織田家との同盟は必然にかられた行動だった。

 まずは徳川と誼を通じ、対武田の挟撃作戦を展開しつつ、対上杉には北陸方面軍総司令官の柴田勝家を援護する形で、越後を背後から脅かした。

 その後行われた武田殲滅作戦では、攻め寄せる織田・徳川連合軍の攻撃に抗し切れず、武田は敗退を重ねて天目山へと落ち延びた。


 北条は武田の退路を塞ぎ、織田との関係を極力友好的なものにしようと思っていた。

 だが信長は北条を半ば無視するような形で関東へと進出した。

 これには氏政も怒りを露わにしたが、だからと言って積極的な対立は憚られた。

 なにせ相手は長年の宿敵である武田を葬り、今また上杉すら返す刀で討ち滅ぼそうというほどの巨大勢力である。

 いくら関東随一の勢力を誇る北条家とて、まともに正面から戦って勝てる相手とは思えなかった。


 だが氏政が悩んでいる間に信長は本能寺で討ち取られた、というのだからこの機に打って出ない、というのは愚策中の愚策だ。

 氏政は今度こそ、自分の生きている内に関東支配を成し遂げる、とばかりに滝川一益を関東から追い出し、そのまま勢いに乗って関東の諸勢力に戦を仕掛けようとしたが、ここでその行動を制止した人物がいた。

 他でもない『後北条家の長老』として名高い、北条幻庵であった。

 初代北条早雲の末子として生まれ、僧として生きていながら様々な文化を嗜み、またその豊富な知識を以て代々の北条家当主に仕えてきた、まさに北条の御意見番にして、長老と言える存在である。

 彼の発言はたとえ当主と言えど、必ず耳を貸さなければならない。


 初代から五代目まで、北条家の当主に代々仕えてきた幻庵はその豊富な知識でもって、北条を支える縁の下の力持ちでもある。

 家督を息子に譲りながらも実権を握り続けた氏政でさえ、大叔父に当たる幻庵にだけは頭が上がらない。

 その幻庵は、関東よりも甲斐と信濃を見よ、という言葉で氏政を諭した。

 甲斐と信濃は実質的な空白地と化し、しかも武田家時代の金山が未だ金を産出し続けている甲斐国と、広大な土地で石高が期待できる信濃国があるのに、そこを手に入れずしてどうする、と諌めたのである。

 どうしても関東に目が向きがちな氏政ではあったが、言われてみれば甲斐と信濃を手に入れる事による益は大きく、言われるがままに甲斐・信濃への出兵を決めた。

 

 甲斐・信濃を手に入れれば、未だ抵抗を続ける関東の諸勢力、特に常陸国(現在の茨城県)の佐竹家などを相手にも、優位に立ち回れるだろう。

 佐竹家もまた常陸国に根を張る、鎌倉時代から代々続いている大名であり、特に当代の佐竹義重は「鬼義重」の異名を取る戦巧者であり、豪の者であった。

 北条家も佐竹家とは幾度となく戦を行い、互いに決め手に欠けていたため未だ決着はついていないが、北条の悲願である関東支配を目指す上で、避けては通れぬ壁であった。

 後の関東支配に繋げるため、氏政は甲斐と信濃の同時侵攻を行う事を決めた。

 その結果、北条家は信長から甲斐・信濃の領有権を託された家康と、甲斐国にて対峙することになるのである。


 幻庵の言う事は確かに的を得ていた。

 甲斐と信濃の領有をめぐる戦いに参加し、そして勝利すること。

 この二つの国の持つ潜在的な価値が、どれほどの物であるかを理解出来ていない者に天下を総べる器量はない。

 だがそれを理解出来ているからといって、実際にその地を領有出来るだけの実力があるかは、また別の問題でもある。

 結論から言えばこの二つの国の大部分を領したのは徳川であり、自らの領地に接する部分を少し手に入れたのが上杉であった。


 そして一番実入りが少なかったのが他でもない北条なのである。

 滝川一益の撤退、そこから始まる甲斐と信濃だけではない、上野まで含めた三ヶ国の争奪戦。

 本来であれば上野は確実に、そして他の二家とは甲斐や信濃をどれだけ攻め取れるかを競う、くらいのものであったはずなのに。

 上野は真田の思わぬ手練手管によって、一国を完全に掌握することは叶わず、また甲斐と信濃に関しては数の上で勝る兵力で迫りながら、肝心な所で押し切れず。

 結果三ヶ国の和睦で決まった分配は、北条が完全に割を食った形となった。


 小田原城、という天下に響き渡る堅城、そして城下町までをすっぽりと覆い尽くす、広大な堀と塀による難攻不落の城塞都市。

 本拠をガチガチに固め過ぎたからこその、攻めよりも防備に主眼を置いた家風だからこそ、未だ関東制覇を成せず、そしていずれ時の流れに埋もれていく、という事をこの時の北条家は、誰も予想だにしていない。

 いや、あるいはこの時点でそれを危惧した者はいたかも知れない。

 例えば北条家の長老にして知恵袋たる北条幻庵。

 または「地黄八幡」の二つ名を持ち、誰もが認める北条家最強の武将・北条綱成。


 しかし共にすでに家督を子に譲り、剃髪して出家もしている。

 「攻撃は最大の防御」という言葉を実践するかのごとく、攻めにおいても守りにおいてもいかんなくその強さを発揮し、関東にその名を轟かせた綱成も、この五年後には世を去ってしまう。

 そしてご意見番であった幻庵が無くなってから、一年と経たずして小田原北条家は秀吉の前に屈することになる。

 動き出し始めたのも早く、数の上でも勝り、条件的には最も有利であったはずの北条家は、それを活かせるだけの人材がもはや無く、この後は徐々に衰退の一途を辿る事になる。

 天正十年の時点において、綱成が一線を退き、幻庵が年老いて、北条家はその本拠の勇壮さとは裏腹に、家中の人材不足はいよいよ深刻の度合いを増していたにも拘らず、それに気付ける者は未だ皆無であった。

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