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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の四 「躍進」 その2

              信長続生記 巻の四 「躍進」 その2




 家康の言葉を皮切りに、一斉に挙がった発言を求める手、手、手。

 とりあえず家康は手近なところで、平岩親吉の発言を許可した。

 平岩親吉、彼は家康の嫡男・信康の守り役を務めていたものの、その信康を自害させたことで信長を恨み、口には出さないが本音では信長をこの機に殺してやりたいとも思っている男である。

 先程の守綱・忠世・忠佐の三名の意見には、口には出さなかったものの内心では諸手を挙げた大賛成の立場でもある。

 だが家康がそれを認めなかったため、グッと堪えて口には出していなかった。


「某は信長の申すこと、突拍子の無い作り話に思えまする。 南蛮国は確かに優れた技術は持っておるものの、遠き海の果てにある国。 わざわざ日ノ本まで軍勢を引き連れてやってきましょうか?」


「某も同様に存ずる。 日ノ本防衛など、所詮は『天下布武』に使う大義名分に過ぎず。 国の守護、と言えばこれ以上の大義はございますまい、その心理を利用して天下万民を騙す、自らを第六天魔王と称する者のやりそうな事ではございませぬか?」


「だが考えとしては分からぬでもない、本当に異国の軍勢が攻め寄せたならば、それこそお家だけではない、日ノ本全体の危機となりますぞ」


 親吉の言葉に賛同する渡辺守綱、それに対して反論する鳥居元忠。

 後年「関ヶ原の戦い」の前哨戦の一つとなる伏見城の戦いにおいて、死して家康に忠義を全うした『三河武士の鑑』と称賛される武将である。

 また、家康が人質の時代から苦楽を共にし、常に家康を守って命を投げ打つために生きているような男でもある。

 そんな元忠の発言に、武勇を持って鳴る守綱も「むぅ」と唸って口をへの字に曲げる。

 発言の隙間を埋めるように、今度は片目を失い、手の指もいくつか無くなっている本多重次が手を挙げていたので、家康は「話せ」と目で発言を促した。


「殿、信長が当家を頼られた経緯は理解致した。 が、今のこの状況について今一度確認しておきたい、よろしいか?」


 重次の言葉に、家康を含めた誰もが頷いて話の先を促す。

 この本多重次という男、見た目は片目片足が無く、手の指も度重なる戦で切り落とされ、全身が戦傷によって見るも無残な有様となっている。

 だがそんな事すら感じさせない力強さと家康への忠義、さらには見た目にそぐわぬ細やかな配慮とまっすぐな性根を持った好漢である。

 そして何より本多作左衛門重次、という名前から取った「鬼作左」と言われる彼の本領は、たとえ相手が主君であろうと間違っていたなら大声で叱責する、その胆力にあった。

 三河国では、時折家康であろうと大声で叱り飛ばす重次の声が、城の外にまで響いた事がある。


 三河国で国内の安定・治安の維持のための法度を書いた高札を立てたところ、重次は法度を漢字で書いてしまっては一部の者しか読めずに、皆に読んでもらうための高札を立てた意味が無いと家康を叱責。

 その後で彼は読みやすい仮名文字で、子供にも分かる言葉で法度を書き直した。

 すると多くの者がその法度の内容を理解する一方で、最後の一文を見て背筋を凍らせた。

 「やぶったものは、さくざがしかる」という言葉で締めくくられた高札は、驚くほどの効果を発揮して、法度を破ろうとする者が激減したのである。

 たとえ主君であろうと容赦なく叱り飛ばす、そんな三河国一の雷親父の、落雷のごとき怒声を落とされるというのは絶対に避けたい罰であった。


 史実においてはその胆力でもって、天下人となっていた秀吉相手にも怯まなかったため、秀吉の怒りを買いながらも決して己の態度を変えなかったという。

 民への配慮を欠かさない細やかな気遣い、相手が誰であろうと態度を変えぬ頑固さ、それでいて主君のために自らが傷つくことを、全く恐れぬ忠誠心と胆力。

 鳥居元忠が『三河武士の鑑』であるなら、この本多重次は『三河武士の気骨そのもの』であった。

 そんな重次には、家康はもとより周りの者も信頼を寄せているし、なまじ重次の言葉を遮ろうものなら『口を挟むな!』と自慢の大声で怒鳴られてしまうため、彼の言葉は皆が黙って聞く。


「信長の言う事が全て真実であると仮定し、南蛮国の脅威が今この瞬間にも迫っていると想定いたす。 ならばなぜ、信長は自らの本拠となる織田家に帰らぬのか。 己を討ちに来た明智光秀もここにおり、裏で糸を引く者の一人であった近衛卿もおる。 そしてその両者とは実質和解が済んでおる様子、なのになぜまだ当家に居座り続けるのか、これがまずもって解せませぬ」


 重次の言葉に、誰もが「それは確かに」という顔で家康を見た。

 家康とて、そういう質問が来ることは予想していた。

 だがそれでも重次に言われると、なぜだか少し慌ててしまう。


「う、うむ。 作左の申すこと、至極もっともじゃ。 実はな、わしも先日信長殿に聞いてみたのだ」


 実はこの鷹狩りの数日前に、家康と信長、光秀と前久の四人が改めて一堂に会し、それぞれの意見と情報を交わし、意識と情報の共有を図った。

 その中で信長は、家康をはじめとする三人に自らの胸中の全てを明かした。

 信忠亡き今、織田家に自分の才を受け継いでくれる者はいない、ということ。

 それは信長の中で、実質的な織田家の『天下布武』を諦めた宣言でもある。

 信長は己の息子、兄弟、親戚の者たちの中で、真に自分の後を託せる者がいない事を悟っていた。


 京都潜伏中に聞いた信忠自害の報、それは諦めるという事を嫌う信長に、どうしようもない諦念を抱かせるだけの衝撃をもっていた。

 報告を聞いて少しの間、信長は益体もない考えに浸り、しばらく無言でこの後の事を考えた。

 己が生きているという事を声高に報せ、味方と信じる者の元へ。

 例えば柴田、例えば信孝、例えば信雄、例えば羽柴。

 距離があろうと辿り着けさえすれば、そしてその頼った者がいらぬ野心を持っていなければ充分にやり直せる。


 だがそれにしたところで自分が生きていることで、結局は「織田家」の名前に縛られる。

 己の生きている内は良い、だが人生五十年を謳う己の年齢はすでに四十九。

 たとえ己がさらに十年生きたとして、その十年は良くてもその翌年はどうなるのか。

 「織田家」の後継者に足る者、未だ幼い我が子たちが優れた人物に成長することを期待するか、それとも息子や兄弟たちによる合議制にするか。

 それともいっそ、その才覚を買って人質から娘婿とした、蒲生氏郷辺りに任せるのも一興か。


 いや、どれも案としては不安が残る物ばかりだ。

 幼い子や孫の成長を期待したい所もあるが、その者たちがこちらの期待に添うだけの者に育つだろうか、という不安。

 そして成長までにかかる時間、これは信長が長生きをしたとしても果たして十分に育つだけの時間が取れるだろうか。

 成長するまでの間は自分が何もかも一切を取り仕切ってもよいが、恐らくその場合自分は長く生きれるだけの日々を送ることは出来ないだろう。

 だからといって息子や弟たちに合議などやらせれば、何一つ決められずに我欲を押し通すだけの場に終わるだろう。


 蒲生氏郷は将来が楽しみだと思えるなかなかの若者だが、いかんせんデウスの教えに興味を持ち、最後に会った時には明らかにそれにのめり込み始めていたため、下手をするとそこから日ノ本防衛構想の根幹から崩れる恐れもある。

 やはりこれだ、という名案はいくら考えても出てこなかった。

 さらにそもそも、織田家臣団の誰が信用できるというのか。

 常に裏切りや寝返りに晒され、光秀の謀反を受けた直後であった信長は、ここであえて一度、織田家から距離を取って徳川を頼る道を選んだ。

 「織田家」というくくりを取り払う事で、信長は己の思考が開けたことを実感した。


 そして浜松へと至る道すがら、これからの世は血筋のみならず、有能な者が舵取りをしていかなければ、結局は一つにまとまる事など出来はしないであろう、という結論に達した。

 その上で、信長は織田家にその将来を託すことを諦めたのだ。

 自分が後を、この日ノ本の防衛を託すに足ると思える、そういう才覚、資質を持ち合わせている者が果たしてどれだけいるのだろうか。

 一代の英傑を生み出した家は、その英傑の死後に大抵悲惨な末路を辿る。

 それは歴史上幾度も繰り返されてきた事であり、自分の死後には織田家もその末路を辿る危険性は高いと見ている。


 それを防ぐにはどうしたら良いのか。

 優れた跡継ぎが盤石な体制でもって足場を固め、有能な家臣がそれを補佐していく。

 それが現実問題として最も確実な方法ではある。

 そうして信長の知る限り、それが可能な家は徳川家しかなかった。

 家康は信長よりも九歳も若く、自分の死後もしばらくは生きていられるだろう。


 そしてその家臣団も、有能な将を数多く抱える信長が、それでもさらに欲しがるほどの人材が片手では足りないほどいるのだ。

 そしてあとは有能な跡継ぎさえいれば、信長にとって徳川家は理想的な後継者となる。

 しかしそこで信長は、一つの失態に気が付いた。

 家康の長男にして、自らの命令で自害させてしまった信康の存在である。

 家康も期待をかけ、家臣団も忠誠を誓い、後を継ぐのに何ら問題が無かったあの若者を。


 娘からの嘆願、武田との内通疑惑、徳川がそのまま武田に寝返るかもしれぬという恐怖。

 いくら様々な要素があったとはいえ、さすがに死なせたのはやり過ぎではなかっただろうか。

 例えば家康の正室・築山御前などは今川義元の姪であり、自分の伯父の仇である信長と組んだ家康とは、すでに夫婦仲が冷め切っていたから、これを離縁しろと言えば家康もしただろう。

 だが信康の正室にした娘・徳姫からは、最近の信康は別の女に熱を上げてしまっていて私に冷たい、という手紙も来ていたため、さらに築山御前が武田に内通しているという疑惑もあったため、それらすべての問題事を一挙に片付けるために、正室と嫡男を始末しろ、という命令を出してしまった。

 信長自身、今にして思えばあれは痛恨の失策であった。


 三年も前の事であり今更どうしようもない事とはいえ、家康もその命令を遵守してしまい、万が一にも苦しまぬようにと服部半蔵に介錯を命じたほどである。

 しかしその「鬼」の二つ名で呼ばれる半蔵すら、涙ながらに信康の首を刎ねる事だけは出来ない、と介錯の任から解く様に家康に懇願したという。

 その後で別の者が改めて介錯を行うことになり、信康は切腹して果てた。

 首は信長も検分して、その後に丁重に葬られたが、やはりあの時の事は失敗であったと、信長は己の内心を包み隠さず、家康に語った。

 その上で、家康に正面から謝罪を込めて頭を下げた。


 この時代は、己の「家名」というものを何よりも重要視していた時代でもある。

 父祖の代から受け継いできた「家」を、自らの代で絶やすことを何よりも恥とし、血は繋がらなくとも名前が、名跡が遺せればそれで、とすら考える者も多くいたため、親戚や同僚、友人の子供や弟などを養子にする、という事は日常茶飯事であった。

 家康自身、己の幼少期には父親に「松平家」を残すための犠牲にされたのだ。

 そして家康も、「松平」改め「徳川」となった家を守るため、息子の命を差し出した。

 その事を今、信長は心から詫びて頭を下げたのだ。

 

 家康は心底から驚いて言葉が出なかった。

 あの信長が頭を下げた、という事にも驚いたが、信長が自らの行いを過ちだと認め、光秀や前久の目もあるところで、自らに頭を下げたという事にさらに驚いた。

 信康切腹の一件に関しては、確かに家康とて思う所はあった。

 家臣の多くは信長との手切れ、同盟破棄を声高に叫んだし、家康もその道を模索したこともあった。

 だが怒りも悲しみも苦しみも、全てを飲み込んで家康は耐えた。


 感情だけで行動する者に、戦国大名として生き残る道はない。

 家康は苦渋の決断をして、冷徹であることを覚え、戦国大名としてさらに一段高みに上った。

 そして今、目の前で頭を下げた信長の肩に手を置き、そっと呟くように言った。


「信長殿にそこまでして頂けたなら、あの世で倅も胸を張っておりましょう。 今は過去を論ずる場にあらず、先を見据えて議する場にござるぞ」


 家康の言葉に、信長は頭を上げながら「忝い」と返事を返す。

 その後で信長は、あえて「織田家」に天下を取らせず、その才覚がある者に日ノ本防衛の総司令官を、すなわち「天下」を任せたいという考えを改めて説明し、出来れば家康にその地位を任せたいと語った。

 その言葉に家康は嬉しくもあったが、同時に恐くもなった。

 家康自身からすれば、「家名」を尊重し、出来れば自らの息子に己の築き上げた全てを託したいと考えている。

 いくら信長が「織田家」に先が無い、と判断したからとてその考えをそのまま受け継ぐのなら、自らが天下を守り切ったとして、その先はまた別の誰かに譲らなければならないのだろうか。


 家康は言葉に詰まった。

 目が泳ぎ、信長の方を真っ直ぐに見れない。

 信長はそんな状態の家康の心情を読み取ったのか、さらにこう言った。


「わしが生きておる間にこの日ノ本が無事であったなら、わしはお主に後事を託す。 託した後ではわしは死んでおる故、お主が誰に後事を託そうと何も言えぬ。 息子でも家臣でも、お主が信ずる者を選べば良いのだ、わしの考えに縛られることはない」


 信長の言葉は、家康の心に突き刺さった。

 本音で言えば絶対に息子に継がせてやりたい所ではあるが、信長の考えを理解し、「才」によって自分に継がせてくれるというのに、自分は「家」を尊重しても良いのだろうか。

 先程と同じように言葉に詰まり、内心で迷う家康に、さらに信長はこう言い放った。


「これはな、竹千代よ。 お主の嫡男を斬らせた俺への罰であり謝罪の気持ちよ。 お主が期待をかけた息子を死なせた俺が、どの面をして期待も出来ぬ息子に後を任せられる? 現時点で三人、お主には息子がおったであろう。 これは、と思う奴を選んでやれ」


 そういった信長の顔は、どこか申し訳なさそうに見えた。

 それでも目を逸らす様な真似はせず、しっかりと家康を見て信長は言ったのだ。

 非難も罵倒も全てを受け止める、その上で後を頼む、とその眼が語っている。

 信長も期待をかけた嫡男・信忠を失ったことで、家康の気持ちが痛いほど分かっている。

 だからこそ、天下の行く末が決まった後はその差配を家康に委ねる、と言ったのだ。


「上様及び信忠様への重ね重ねの愚行、この光秀心底より」


「やめろ、今更頭を下げられた所で信忠は戻らぬ」


「どうか、この身からも謝らせておくれやす。 光秀はんはいっそ被害者と言うてもいい、この身の方こそ罰せられるべき存在や」


 沈痛な面持ちのままで光秀と前久から頭を下げられ、信長はチッと舌打ちをする。

 家康に対しては申し訳なさそうな顔をした信長が、冷淡な視線で光秀と前久を見る。


「なら貴様らは今後もわしの申す通りにその命と名を使え、それで手打ちとしておいてやる」


 信長の言葉を聞いて、家康の脳裏には様々な感情が浮かんでいた。

 一つは使命感、ここまで言ってくれた信長の気持ちを無碍にする訳にはいかないと。

 一つは重圧感、将来的に己が背負うかもしれぬものの重さを想像し、その重圧に身震いする。

 一つは打算、信康という期待の長男を失ったが、もしかしたらそのおかげか、家康には天下への道が開けたことにもなった。

 感情だけでなく、計算高さも備えたからこそ、家康は戦国大名として今日まで生き抜いてこられたという面もある。


 家康の頭にある様々な思いは、ある意味では当然の事でもあった。

 家康は脳裏に浮かんだ感情全てを、己の中で肯定する。

 この国に生きる者として、家臣を抱える者として、国を守るために戦うという使命。

 その重圧すらも力に変えてみせる、という反骨の精神。

 信長の期待に応えれば、やがて来るのは徳川の時代、という計算。


 家康自身はまだ気付いてはいないが、確かにこの時、家康は戦国大名としてさらなる高みへと登っていた。

 己に使命を課して突き進み、我欲を肯定してしがみ付き、自らに圧し掛かる重圧をはね退ける。

 そうして家康は、先程とは逆に信長に頭を下げてこう言い放った。


「さればこの家康、天下の後継を承り申す」


 家康の宣言に、信長は家康の成長を感じ取った。

 今、この目の前にいる自らの弟分だと思っていた男は、とうに「弟分」という枠を超え、自分と対等に並び立つ存在なのだと、それだけの「才」を兼ね備えた男なのだと思い、自然と頬がほころんだ。

前回に引き続き徳川家臣団の皆さんと家康の軍議。

そしてこの「信長続生記」で描きたかった事の一つをようやく書く事が出来ました。


信忠の死、はここに至るまでに必要な出来事であり、仮に生きていたとするとまた違う展開になってしまっていたと思います。

信忠と信康、織田と徳川の二つの家の嫡男がそれぞれ死んでしまっていたからこそ、というのも変な話ですが、こういった展開に進ませることにいたしました。


本能寺の変から続いておりました「信長が生きていて、何故徳川に頼るのか?」の疑問をお持ちであった方が、一人でもこの展開に納得をして頂けたなら、これに勝る喜びはありません。

こんな湿っぽい奴は信長じゃない、と言われる方がいらっしゃるかとは思いますが、それでもここまで読んで下さった上でのご感想として、厳粛に受け止めさせて頂きます。

こんな事を書いてはおりますが、引き続き拙作『信長続生記』をお楽しみ頂けましたら幸いです、問題は更新ペースが守れるかどうかの話ですが(汗)

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