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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の三「新体制」その5

             信長続生記 巻の三 「新体制」 その5




 信長と家康は今後の方針を話し合っていた。

 すでに京にはフクロウをやり、あとは報告待ちの状態である。

 浜松城の奥まった部屋を借り受け、信長は日々をそこで過ごしていた。

 信長生存、を知る者はなるべく少ない方が良い、という理由から信長はあまり自由に出歩くことは出来ない。

 この浜松城にも、どういう勢力の間者が入り込んでいるか分からない以上、信長の姿を目にする者が少ないに越したことは無い。


 日頃から顔の半分を覆面で覆い、呼び名も吉殿(きちどの)と呼ばせ、一応の対策は取ってはいる。

 ましてや信長がこの浜松城に現れた時に、その存在を知ってしまった者には厳重な戒厳令を出し、口外しなければそれで良し、万が一にも口外した場合は一族郎党まで斬首、と家康は厳命しておいた。

 無論知っている者同士でもそれを話題に挙げる事も禁止し、それを聞き咎める事があれば、話していた者たち全員の首を刎ねる、とまで口を酸っぱくして言っておいた。

 いつかは漏れる、とはいえこれでしばらくの間は持つであろう、というのが家康と信長の共通の認識だった。

 そうして、二人は各方面の伊賀や甲賀の忍びから上がってきた情報をまとめ、今後の対策を話し合っていた。


「穴山梅雪は死んだか、となれば甲斐にあるあやつの領地が浮くな」


「堺を出た所で顔を会わせましたが、我らより先行していたにも拘らず討たれたとは」


「あやつの事よ、急ぐあまりどこかでしくじったのであろう。 これで武田の名跡を継ぐ者もいなくなったな、まずは甲斐の穴山領から手を付けるとしよう」


 言って、信長は目の前に広がる近隣諸国の地図の「甲斐国」と書かれた部分に、目印の碁石を置く。

 置いた場所は、大体ではあるが穴山梅雪が領していた土地の辺りである。

 穴山梅雪、という男は今は亡き武田信玄の次女を妻とし、武田の一門衆に名を連ねていた男であった。

 だが義理の兄弟である信玄四男の勝頼に従うことを不服に思い、領地を接する家康に、秘密裏に接触を図って来たのだ。

 家康もその旨を信長に連絡したことで、武田攻めのきっかけとした。


 他国の領地に攻め込む場合、基本的には地の利は向こうにある。

 だがそれも、敵に内通者がいて、自ら案内役まで務めたとなれば話は別だ。

 一門衆であったはずの穴山梅雪の、突如とした寝返り。

 その事に動揺した武田家臣団は、裏切者である穴山梅雪を誅殺するどころか、雪崩を打って敵方に寝返っていく者たちを止める事すら出来ないほどの混乱に陥った。

 これは、元々の武田家の体制に問題があったとも言える。


 武田家は勝頼の祖父・信虎の時代には、既に甲斐国一国を支配した上で、隣国である信濃国に幾度も攻め込んでいた。

 その時には武田家の重臣、と言える者たちの多くはそれぞれの豪族のまとめ役であり、そういった者達のさらにまとめ役が武田家当主、という扱いだった。

 そのため武田家の今後の行く末を決める、重要な事案には必ず合議制が用いられていた。

 それはたとえ武田家の当主と言えど、自らの家の行く末すら己の一存で決める事は出来ない、という事を表してもいた。

 その状況に業を煮やした信虎は、強引な手法を使って家中統一を図った。


 力によって全てを支配し、己の能力を誇示することで、重臣たちを無理やりにでも従わせる、という方法である。

 無論これが上手くいっている間、戦に勝ち続けている間は良いかもしれない。

 だが一旦戦で敗北すると、その途端に求心力を失い、下手をすると家臣たちの反乱を招きかねない。

 また、あまりにも戦にこだわり過ぎた信虎は、自らの足元の領民たちが重い年貢に苦しんでいることにも無頓着であった。

 合議制の煩わしさに業を煮やして動いた信虎は、さらにその状況に危機感を募らせた息子・晴信によって追放され、武田家は新体制の下、新たな時代を迎えた。


 武田晴信、後の信玄はまず領内の統治に力を入れた。

 内政の重要性を理解していた晴信は、戦ももちろん重要だが、それ以前に国を富ませる事が重要だと家臣たちに説いたのである。

 力による支配は反発と不満を募らせるが、政による統治は家臣と領民の忠誠と感謝を生み出した。

 元来甲斐国という場所は、土地柄として盆地が多く、あまり米を作れない土地であったが、その代わりに蚕の養蚕などに向いている、という側面もあった。

 また甲斐国、現在の山梨県は多岐に渡って果物を生産し、特にブドウは国内において甲州ワインというブランドまで立ち上げているほどの、一大生産地にもなっている。

 その前身となるブドウ栽培は、すでに戦国時代以前より始まっており、また蕎麦も痩せた土地でも育ち易いことから、非常食用として栽培が始まっていたようでもある。


 米の生産高が低い、という致命的な食糧生産の非力さを、他国との貿易に使える特産品で補い、また金山開発も同時進行で行った。

 武田晴信が武田家当主として動いて十年後には、以前とは比べ物にならないほど甲斐国は豊かになっていった。

 無論問題が無い訳ではなかった、大雨の度に毎年領内のどこかの川の堤防が決壊し、ただでさえ収穫高の少ない米が流される、という被害も相次いで起こっていた。

 そこで領内の治水事業にも着手した晴信は、結局晴信存命中には完成を見る事が無かったが、工事着工から三十年という長きに渡って行われ完成したその堤は、その後現代に至るまでに改修工事なども経てはいたものの、武田晴信の功績を讃えて『信玄堤』として現代にその名を残している。

 さらに金山開発による収入が軌道に乗った事で、武田家は先代までの疲弊ぶりが嘘のように羽振りが良くなり、また余裕も生まれてきた。


 当時の年貢は「五公五民」という言葉がある通り、半分を領主に税として治め、半分を領民たちが収入として得ることが出来る、というものが主流であった。

 だが晴信の統治する甲斐国では、これが「四公六民」であったという。

 税として持って行かれるのは四割、六割が領民が自らの収入として良いのである。

 当然一割も違えば、生活の度合いは全然違う。

 領民たちはこぞって武田晴信を「名君」として崇め、敬っていった。


 戦では失敗や敗北もあったが、最終的には対立する敵を次々と下し、信虎時代には適わなかった広大な信濃国の大部分を領有するまでに大きくなった武田家。

 その根幹を支えたのは晴信による新たな政策であった。

 まずは民の生活を支えてやり、そこから徐々に上へと良い影響をもたらしていく、というやり方で様々な手法を実践した晴信は、いつしか「甲斐の虎」と呼ばれ、戦国最強を謳われるまでになっていった。

 この頃にはすでに武田家当主を単なる豪族たちのまとめ役、として見る者はおらず、皆が皆、甲斐国を豊かにしてくれた晴信に、進んで頭を垂れる様になった。

 甲斐武田家は、この時ようやく重臣たちを「譜代家臣」として扱えるようになったのだ。


 だがそれも晴信改め信玄が没し、武田家がまた新たな時代となって事で変わった。

 信玄の作り出した領内統治方法はいまだ健在、家臣団も信玄の代からほとんど変わらず、ただ一点当主が信玄ではなくなった、という事が全ての歯車を狂わせた。

 重臣たちも元々がそれぞれの豪族たちを束ねる、いわば小領主であり、その上に君臨するのが武田家であったため、武田家当主には絶対的な能力の高さが求められるのである。

 力によって支配しようとした信虎と、内政によって無事に治め切った信玄。

 その後を継ぐべき勝頼は、父を超えようと焦り、そして失敗した。


 父の作りだした「戦国最強」を過信するあまり、時代の流れを読み誤った勝頼は、時を重ねるごとに武田家を弱体化させ、起死回生の機会を持てぬまま、天正十年を迎えた。

 一門衆であったはずの穴山梅雪の裏切りは、すでに武田勝頼を父・信玄には及ばぬ器、と判断していた家臣たちの最後の一押しとなった。

 勝頼の名誉を守るために言うならば、決して武田勝頼という人物は無能ではない。

 信玄は死ぬ直前に「我が死を三年間は秘匿せよ」と言い残したことは有名な話ではあるが、それは別に勝頼が暗愚であったから、という訳ではない。

 信玄は自らの存在の重要性を自覚していたため、その存在がいなくなる事で武田と領地を接する隣国への重しが無くなることを懸念していたのだ。


 だが信玄の死は一年と経たずに他国の情報網に引っかかり、その死を確信した信長や家康は安堵の息を吐き、宿敵であったはずの上杉謙信は、その死を悼んだとも言われている。

 ともあれかつては諏訪家を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗っていた若者は、信玄が亡くなる直前に「武田四郎勝頼」という名前に改められ、武田の当主代理として武田家を率いる立場になった。

 「信玄、未だ存命」を印象付けるため、勝頼は自ら軍を率いて戦をくり返した。

 既に他国に信玄の死は知られている、とは知らずに勝頼は、信玄の葬式を行う三年後までの間に、他国がおいそれと手出しできないだけの強固な地盤を創る必要性に迫られていたからだ。

 ひいてはそれが武田の安定に繋がり、また自らの器を証明することにもなる。


 能力の高くない者は、武田家を率いる者として相応しくない。

 当初は「諏訪家当主」として、信玄の子でありながら家臣という立場であった勝頼は、己の実力でもって家臣たちに「当主」として認められ、従わせなければならないのだ。

 対外的な印象と、武田家中の、家臣団の統率。

 最重要課題と位置付けた、その両方を一気に解決する手段は「戦で勝つこと」であった。

 奇しくもそれは父である信玄が危険視し、祖父・信虎が行い続けた「戦に勝つことで己の実力を示し、家臣団を支配する」という事と同じ方向性の結論であった。


 だが勝頼は戦にその才覚を発揮し、世に言う「長篠の合戦」で鉄砲を中心に据えた新戦術に敗れるまで、連戦連勝という破竹の勢いであった。

 信長も「勝頼、信玄に劣らぬ器」と評したこともあり、信玄没してなお武田侮りがたし、という印象を持たせ続けることが出来たのである。

 だがそれも「長篠の合戦」での大敗、この戦での極めて優れた人材の喪失による、武田の弱体化から状況は一変する。

 山県昌景・内藤昌豊・馬場信春といった、歴戦の勇将にして名将たちの死によって、武田家は崩壊の第一歩目を踏み出すことになる。

 信玄の遺した「人は堀・人は石垣・人は城」の言葉を、よりにもよってその息子である勝頼が誰よりも実感する事になる程、武田家は有能な人材が不足していった。


 父を超えんと志し、そのために取った手段が父が危険視し排除した方法であり、父が遺した言葉を悪い意味で実感する羽目となった皮肉にして悲劇の猛将、それが武田勝頼であった。

 戦えば滅ぼされ、降伏して織田や徳川へ服従する者が相次ぎ、それは拍車がかかる一方でその勢いを止められるだけの人材が、武田家には残っていなかった。

 信玄没後十年を待たずして、義兄弟・穴山梅雪の寝返りにより起きた「甲州崩れ」によって、名門・甲斐武田家は滅ぼされたのである。 

 信玄から将来武田家当主を継がせよ、と言われていた息子・信勝と共に勝頼は天目山で自害した。

 これにより武田家の正統な後継者がいなくなったことで、信玄の娘を妻としている穴山梅雪は、自らの子を新たな武田家の当主として就かせようと画策していた。


 武田を潰したいと考える信長を利用して、武田の正当な血筋を葬る。

 その上で自らの子に名門の名跡を継がせ、自分はその後見として名門武田家の新たな実質的支配者となる、そんな野望を抱いていた穴山梅雪は、領国に帰る前に農民によって討ち取られたのである。

 武田殲滅の功労者として、家康と共に安土城で歓待を受けていた時が、穴山梅雪の人生最後の悦楽の時間であったのだろう。

 その穴山梅雪はすでにこの世に無く、さらに集めた情報によれば甲斐国を穴山梅雪と分け合う形で与えられていた河尻秀隆も、武田遺臣の蜂起に晒されその地で命を落としたらしい。

 これでどうやら、甲斐の国はほぼ完全に無主地、空白地帯となったようだ。


「甲斐には金山もある、信玄坊主が貯め込んでおったであろう金を、徳川で手に入れられれば後は如何様にも使い道はあろう?」


「ですな、甲斐は石高が低い反面、そちらは期待できますからな」


「それと信濃。 こちらはとにかく山が多く、広大ではあるが案内役がおれば問題はなかろう」


「案内役、でござるか」


「おるだろう、武田の落武者を匿っておったお主の所になら」


 ビクッと身体を震わせるような真似はしない。

 家康とて、戦国の世に生きる大名の一人である。

 だがそれでも、奇襲のような信長の発言に、眉の片方が動くのだけは抑えられなかった。

 そんな家康の反応を、どこか悪戯が成功した子供のような顔で見ている信長。

 そこには、自分に隠し事をしていたことに対する怒りの感情はない。


「お主はわしの同盟相手であって家臣ではない。 たしかに従属めいた真似をさせたこともあるが、な…武田遺臣の登用はお主が徳川のためになる、と思ってやった事であろう? 有能な者を埋もれさせたままの方がよほど罪、お主の行動は至極当然のことよ」


「……ご理解、有り難く」


「ただしわしの寝首をかくなよ? 伊賀といい武田といい、しっかりと手綱を握っておけ」


「それは、もちろん!」


 家康の強張った表情を見るに、信長はやはりこの男の元に身を寄せて良かった、と改めて思った。

 家康は自分よりも九歳も若く、もうすぐ齢四十となる。

 男としても大名としても若い、と言われる時期を過ぎて老獪さを身に付けてくる年頃だ。

 表向きは同盟とは名ばかりの服従にも似た関係ではあったが、その一方で信長には知られぬように敵だった者を取り込み、戦力の拡充を図っていた家康である。

 素直なだけ、従順なだけの者ではそうそう優秀と言える者はいないが、自ら考え行動できる者が、ましてやそれが優秀な者であれば、こちらの想像を超える手を打つ事もある。


 家康が自分には知らせないまま、武田の旧臣を取り込んでいた事は知っていた。

 家康からしてみれば長年自分を苦しめて来た者だからこそ、その力を嫌というほど知っている。

 無論それは信長も同じだが、信長が始めた武田殲滅戦は、その指揮を嫡男・信忠に一任していた。

 信忠の力量を測る意味合いも兼ねてはいたが、やはりまだ若い信忠では、自ら降ってきた者はともかく、敵として戦い、破った者を仕えさせようとまでは考えが至らなかったらしい。

 そして家康は武田殲滅の折に駿河国を手に入れ、領土が広がった事で新たに人手を増やさねばならない事情もあった。


 そこで落ち延びた武田の旧臣の中で、過去の経緯を水に流して徳川に仕える意志のある者は、積極的に登用するという方策を打ち出した。

 その結果かなりの数が集まり、一つの部隊を形成できるまでになった武田の旧臣たちは、その大部分を成長著しい若武者・井伊直政に預けた。

 これが後に徳川四天王と言われる内の最後の一人、井伊直政の真紅の騎馬隊「井伊の赤備え」になるのである。

 戦国最強の武田軍、その中でもさらに最強と謳われた山県昌景の「赤備え」を引き継いだとも、その強さにあやかったとも言われている。

 ともかくこれによって、元からその強さにおいて定評のあった徳川家臣団に新たな力が加わり、これ以後徳川軍はさらにその精強さを増していく事になる。


 信長は家康が優秀な人物であることは、それこそ昔から知っている。

 そこにまた、年齢に合わせた新たな強かさが加わってきた。

 自分がこれより頼みとするべき者が、これだけの器を持っている男ならば心強いというものだ。

 信長と家康は甲斐・信濃攻略作戦の概要を詰めていった。

 仮に領地を失っていなかった者であっても、恐らく領内統治にはとてつもない時間と手間がかかるだろう。


 ならばいっそのこと徳川家、という新たな勢力による統治の方が、かえって手間が無いかもしれない。

 何より武田の旧臣を取り込んだ徳川の方が、武田を滅ぼした織田よりも従い易いことだろう。

 合理的な手段を好む信長が、拡大した徳川家臣団をどういう編成で、甲斐・信濃各地へ送るかを話し合おうとしたその時、また新たな報告がやって来た。

 基本的にはこの奥の間は、家康以外ではごく少数しか入ることを許されない。

 先程の報告に来た声も、重臣・榊原康政の声だった。


「苦しうない、入れ」


 家康の言葉に康政が部屋へと入ってくる。

 近隣諸国を描いた地図を広げ、体面に座って話し合っていた信長と家康に向けて一礼した後、康政は少し困った顔をして口を開いた。


「かねてより報告をしておりました明智軍と羽柴軍の対決、山崎の地にて羽柴方が勝利。 敗走した明智光秀も小栗栖辺りで農民の手にかかって討たれた、とのことにございます。 その首は京で晒され、この暑さもあってか無残な有様、と」


 康政の報告に、家康も信長も顔を険しくした。

 光秀が討たれた、という事にではなく羽柴秀吉の行動の速さに、ある種の危機感を抱いたためだ。

 家康からしてみれば、目の前に信長がいる以上同盟国として、盟友の危機を助けるために出陣した、という大義名分はいくらでも立つだろう。

 だが今は力を蓄えるべきと判断し、明智との正面切っての対決は避けるつもりでいた。

 信長も考えがあるらしく、一旦織田家との距離を取るつもりのようで、今こうして浜松に滞在し続けている。


 いわばこれは織田家の内輪揉め、ならば織田家中の不始末は織田家中の者で始末をつけるべきであり、家康は請われれば状況によっては、そうでなければ積極的に関わろうとはしていなかった。

 羽柴軍の恐るべき行動の速さには驚かされたが、それでも単独決戦で明智を破り、さらに明智光秀も死んだとなれば、世の中は大きく動くだろう。

 それこそ、光秀を討った秀吉を中心にして。

 康政の報告に瞬時にそこまで考えが至った二人は、険しい表情のまま思考の海に意識を沈ませる。

 だが康政の報告はそれで終わりではなく、続いた報告に二人の意識は浮上を余儀なくされた。


「そして…前関白・近衛前久卿が参られました。 先触れも何もなく、突然のご訪問でしたのでとりあえず客間へとお通しいたしましたが…いかがいたしましょう?」


 その言葉を聞いて、家康は「なんで?」という思いが隠せず言葉を失ったまま、康政に視線を向ける。

 一方の信長は「なぜあやつがここに?」と言いたげな顔で眉を寄せて康政を見る。

 そんな二人を見つめ返しながら、康政は無礼とは思いながらも内心で「お聞きしたのはこちらなのですが」とだけ思っていた。

投稿直前の自己編集で、さらに長くなってしまいました。

誤字脱字の確認どころか、ほとんど書き直しレベルまでやってしまったのは初めてです。


織田家と関係の深い大名家ほど詳しく書いてしまう傾向がありますが、信長が主人公、という事でどうかご容赦下さい。

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