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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 首巻 その3

           信長続生記  首巻  その3



 明智光秀が京都・本能寺に宿泊する織田信長を夜明け前に強襲。

 謀反を起こして信長を討ち、信長の目指した『天下布武』は夢と消えた。

 それが後年まで残る戦国時代最大の事件『本能寺の変』である。

 だが、分かっているのはただそれだけで、なぜその事件に至ったのかという原因、光秀の考えやその光秀に何かしらの後ろ盾や黒幕の存在があったのかどうか。

 それらは未だ憶測・推理の域を出てはいない。


 百年以上続いていた戦国の世を、わずか五十年足らずで駆け抜けた一人の英傑の存在は、その死の本当の理由さえ明らかにならぬまま、本能寺を焼く炎の中に消え去ったのである。

 明智光秀へ通達されたという、未だ敵国の領地であるはずの他国への国替え。

 領地の石高も減っており、それまでの働きを一気に無にされたかのような絶望感から来る、恨みの感情によって引き起こされた、いわば突発的な犯行という説もある。

 無論突発的な犯行と言えど、そこは明晰にして隙のない明智光秀である。

 突発的な感情に動かされはしても、闇雲な凶行に及ぶような男ではなかった。


 または信長の旧態依然とした勢力をことごとく打ち破っていく、というその姿勢に危惧を抱いた朝廷が、自分たちにとって最も親しく、また信長を討ちやすい立場にいる光秀を唆したという説。

 光秀自身、旧勢力と言われる朝廷の公家勢力、寺社の宗教勢力とは、形は違えど戦を行っている。

 比叡山焼き討ちや本願寺の一向宗との戦で、実際に光秀は宗教勢力と血で血を洗う戦を行っている。

 朝廷とは信長の意を伝える一方で、朝廷の意見とをすり合わせた外交戦を何度も行っている。

 当然、朝廷は光秀の人柄を知っているし朝廷自体が後ろ盾となれば、光秀が本能寺を攻める際には計画的な犯行に及ぶことが可能なように、様々な便宜を図ることも出来るだろう。


 光秀は堕落した比叡山の僧侶を討つ際には、信長の命を忠実に守って僧兵たちを討ち果たした。

 その功績を認められ、織田家臣初となる十万石を超える独立大名としての地位も手に入れていた。

 しかもその領地は比叡山焼き討ちによる被害が、最も大きかった場所である近江国坂本であった。

 しかしその近江国坂本の地を光秀は見事に治め、以後は反乱などがあった形跡はない。

 既に延暦寺の僧の大半は、比叡山の麓にある町の民からの求心力すら失っていたという、何よりの証拠とも言える。


 しかし、相手が朝廷となれば話は別である。

 今まで幾度となくその時代の権力者によって翻弄され、ある天皇は強制的にその座を退かされ、ある天皇はまだ幼い内にその座に就いて、その後見という名目で実権の全てを奪われた。

 しかし、朝廷という存在、帝を頂点とする多くの公家衆。

 それらを根底から覆しかねない存在は、朝廷に対して敬意を払う光秀にとって、許しがたいものであった可能性もある。

 それに関連する事柄として、戦国の時代よりも時を遡って考えると、またも一つの可能性が浮き上がる。


 遡ること約四百年ほど昔、『平清盛』という英傑が存在した。

 桓武天皇を祖とする桓武平氏の頭領となったその男は、自らの娘を天皇に嫁がせ、生まれた孫を無理やり天皇に就かせることで、天皇の外戚という立場を手に入れて権勢を欲しいままにした。

 武士という身分出身の男が、初めてこの国の政治の頂点に立った瞬間でもあった。

 それを快く思わなかった後白河法皇は、清和天皇を祖とする清和源氏の一族を焚き付け、武士の勢力でもって別の武士の勢力を駆逐する、という手段を取った。

 『武士』という存在を軽んじていた公家衆から見れば、「毒を以て毒を制す」という心境であったと思われる。


 世に言う『源平合戦』であるが、その戦中において途中で病死していた平清盛に代われるだけの英傑は平氏におらず、やがて戦は源氏の勝利に終わる。

 そして光秀はその清和源氏の末裔、土岐氏の一族である。

 対して信長は、桓武平氏の末裔の一つが織田家であると自称したという説がある。

 平氏に連なる末裔が、時を超えてまたも朝廷を蔑ろにするということに、源氏の末裔である光秀にとっては、信長を討たねばならないというある種の使命感に動かされた、と見る向きもある。

 だがもちろんこれも、あくまで可能性の一つでしかない。


 諸説入り乱れ、どれも絶対確実な真実とは言えないものの、当時の明智光秀の取った行動は様々な記述に事細かく残されている。

 『それだけ光秀は実行を迷っていたのだ』と見るものや『この時すでに光秀は覚悟を決めて、信長を討つという宣言代わりにこういう行動を取ったのだ』と言われるもの。

 残されたそれらの行動の結果が、天正十年六月二日未明、京都・本能寺に集約される。

 一万を超える軍勢が京都へと進軍し、一路本能寺を目指していた。

 はじめ光秀は、兵たちには「京都にて信長様の閲兵を受ける」と説明したとされている。


 「信長を討つ」と言い放って、万が一にも自軍から信長への密告者が出ないように、とした光秀なりの細心の注意の払い方であった。

 その後桂川付近にて馬の嘶きや足音などを消す工夫を施し、大人数での移動によって生じる騒音を少しでも軽減するために、部隊を分けて時間や経路などを変えて、本能寺へと集結させるよう命じた。

 桂川付近で襲撃準備を行った時点で、これから信長の閲兵を受けるというのが嘘であると、末端の兵士たちにもすでにわかっていた。

 だがだからと言って、上から命じられた仕事を怠る訳にもいかず、兵士たちは黙々と作業を続けた。

 疑問を持ちながらも作業を終えた兵士たち、そこへ光秀の宣言が響き渡る。


「敵は、本能寺にあり!」


 ただ、その一言である。

 その敵とは誰なのか、討つべき者は誰なのか。

 それすら明らかにせずにただ本能寺を攻めろ、という異質な命令。

 だが、末端の兵士たちに「敵とは誰か?」を問う事など出来はしない。

 ただ命じられるままに槍を振るい、矢を射かけ、鉄砲を放つ。


 それが戦国乱世の戦場において、兵士たちが出来る精一杯の方法だった。




 同時刻、京都・本能寺では酒宴が終わり、不寝番は持ち場へと就き、他の者は眠りにつく。

 無論信長とて例外ではない。

 酒を嗜まない信長は、商人たちが後生大事に持っていた茶器の名物などを半ば強引に召し上げ、それを招待した公家衆に見せ付け、己が権勢を誇っていたとも言われる。

 それらが終わって信長も床につき、眠っていた。

 一刻程後、眠っている信長の耳に届いてきたのは、夜が明けて朝が来たという知らせではなく、遠くで聞こえる何かの喧騒じみた会話だった。




 本能寺襲撃に際し、用意周到な明智光秀が二つもの失策を犯していた。

 一つ目は自らの軍勢の中に、信長からの『隠れ軍監』が潜んでいた事に気付かなかったことである。

 軍監とは直接戦には加わらずに少し離れた所から、誰がどのような働きをしたかを監査する役割の者であり、戦の際には必ず同行している。

 この者の記録を参考に、勝ち戦の際には恩賞を振り分け、褒美を与えていくのである。

 一万を超える光秀の軍勢には、当然複数の軍艦がその任に就き、大きな部隊には必ず一人以上が随行している。


 そして信長の用心深さは、もはや戦国随一と言っていい程のものだった。

 謀反・反乱を起こした者を討つための戦をくり返し、戦の最中に敵に寝返り、こちらを窮地に陥れようとした者を討伐し、敵と通じた者は生涯忘れない。

 裏切りが日常化している信長の周囲には、信長が心から信用している者が極端に少ない。

 一部の例外、自らが選んで側に置いた小姓などはいるが、それでも何かの理由があれば裏切るのが人である、とすら考えている信長である。

 あくまで能力があり、自分にとって有益であるか否か、という点が信長にとっての評価の対象だ。


 そんな信長が、各地で強敵・大勢力と戦っている者たちが、もしかしたら目の前の敵と結んで自分に反旗を翻してくるかもしれない、その考えに至った時にはすぐさま対応策を打ち出すことを決めた。

 通常、各部隊の軍勢には軍監職に就く者がおり、それらは当然一人だけでこなせるものではない。

 戦場が広くなれば広くなった分だけ、そこで戦う人数も増える。

 そうなればどこで誰が手柄を上げたかを正確に測ることも出来ず、また見落とす部分も増えてしまえば結局軍監としての意味が無くなってしまう。

 だがだからといって、基本非戦闘要員でなければならないはずの軍監をやたらに増やすのも、信長の嫌う非効率であり、非合理的なものだ。


 そこで出した結論が「ならば戦える軍監を作ってしまえば良い」というものだった。

 平時には領民として田畑を耕し、戦になれば足軽として出陣する。

 そんな当時は当たり前の農民の中に、隠れ軍監である忍びを混ぜておく。

 信長の元には以前攻め込んで屈服させた忍びの集団、甲賀忍軍がいる。

 その甲賀忍軍に極秘任務として、各遠征軍に足軽として潜んだ隠れ軍監を配置させていたのである。


 当時の戦では、勝てそうならば足軽たちは一気呵成に攻めかかるが、負けそうになったり互角の戦いになると、及び腰になる事が多かった。

 なので戦の際には移動中や休憩中に出される飯だけを食らい、戦になれば我先に逃げだすという足軽すら存在していた。

 ましてや信長が生まれ育った尾張は、足軽が弱い事で有名で「尾張の弱兵」と嘲られていた程だった。

 だからこそ、信長は足軽の本音、心の内を知り尽くしている。

 隠れ軍監である忍びには、極力及び腰を装って戦闘には最低限の参加で、むしろ周りの者たちがどう動くかをつぶさに観察するよう命じてある。


 その一方で隠れ軍監の役割は、信長に報告しないようなことを各方面軍で勝手にやらないように、間者としての諜報活動も同時に行わせるという念の入れようだった。

 ちなみにこの隠れ軍監の報告によって、実は大変なことも分かってしまっている。

 例えば中国地方・対毛利戦線を担う羽柴秀吉が、生野銀山などから産出する銀を、本当の産出量をごまかして信長に報告し、上納する量を減らして着服しているのだ。

 実際この頃から本能寺の変後、天下を握るまで秀吉は驚くほど金回りが良くなっている。

 元々の領地などからの収入ではあり得ないほど、費用が掛かる作戦なども実行に移せているのがいい証拠である。


 信長自身、生野銀山の存在自体を隠して丸々着服したならさすがに見過ごせないが、毛利家という大勢力を相手に戦を何年も続けている秀吉には、そのくらいの褒美は最初からくれてやる気でいた。

 もちろん失態を犯した場合にはその部分も含めて処罰の対象に入れるが、どちらにしろ秀吉もおそらく信長の放った隠れ軍監の存在には気付いていないのだろう。

 戦というのはとにかく色々な部分で金がかかり、信長もそれを嫌というほど知っている。

 なので秀吉の着服・横領は戦のための軍資金を現地調達している、という認識で今は黙っている。

 むしろそのくらいの事で、信長に金の無心をしてこないなら安いものだ、位のつもりである。


 話を戻すと、各方面軍には当然その軍の指揮官直属の軍監がおり、さらに信長から命じられて付けられた、表の軍監も当然いる。

 しかし信長は表の軍監すらその存在自体知らない、足軽に紛れ込ませた隠れ軍監という新しい枠組みを用意していたのだ。

 事実この事を知っているのは命じた信長本人と命じられた甲賀忍軍、そして森蘭丸をはじめとする一部の小姓のみであった。

 連絡自体も信長に直接、もしくは存在を知っている一部の小姓のみで、極力少ない人間にしかその存在を悟らせないようにしている。

 だからこそ、そこからもたらされる情報は、最高機密として扱われる。


 各方面軍の総司令官のすぐ脇に付けられた表の軍監が知りえない、末端の兵士たちの噂話や様々な陰口すらも、信長は安土城に座したまま報告を受けることが出来る。

 これがいかに恐ろしい事か、想像するに難くない。

 自分たちの事がそこまで信用出来ないのか、と各地の重臣が聞けば憤慨するだろう。

 あるいはそれを知って、信長を見限る者すら出てくるかもしれない。

 しかし信長の疑心暗鬼とすら言えるこの表に出ない諜報活動が、今まさに最高の形で実を結ぼうとしていた。


 光秀二つ目の失策は、その存在を知らなかった事による宣言だった。

 「敵は本能寺にあり」、この一言が彼の運命を決定付けた。

 隠れ軍監の一人は確かにその言葉をその耳で聞き、そっと鼻をすすった。

 その際鼻を掻いて、その動きに呼応して何人かの足軽がボリボリと音を立てて頭を掻く。

 明智光秀乾坤一擲の本能寺襲撃という計画が、信長に報告されようとしていた。

今回『隠れ軍監』という独自の役職を勝手に作りました。

「軍監」というのは本当にある役職ですが、この「軍監」という立場の人と仲が悪いと、せっかく上げた手柄が無かった事にされるなど、当時は本当にあったようです。

朝鮮出兵時の先鋒・加藤清正と軍監・石田三成のような関係ですと、清正の手柄は報告されず、命令違反などは事細かく秀吉に、という具合ですね。


未だに本能寺に到着しませんが、今しばらくお待ちください。

次回は27日、午前0時に投稿予約をしております。


お読みになられた方の好みなどもございますので、全ての方に満足をして頂くのは不可能だとは思います、ですが出来る限り全力で書かせて頂きますのでどうかお付き合いの程、よろしくお願いいたします。

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