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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の三「新体制」その3

今回はほぼ全編「近衛前久」卿のお話となります。

新たなキーパーソンと成り得る人物ですので、少々詳しく書こうと思ったら丸々一話分となりました。

             信長続生記 巻の三 「新体制」 その3




 この時代の最も有名な公家として、「近衛前久」という男がいる。

 上杉謙信や織田信長、豊臣秀吉などの人物史を紐解くと、この三者とは並々ならぬ関係性を見出すことが出来る人物である。

 この時代の公家、というものは基本的には各大名家や本願寺などの寺社勢力から、貢物という扱いで様々なものを都合してもらって、何とか食い繋いでいるのが実情であった。

 世の中の流れが戦国時代へと突入する以前、公家はただ京の都において存在するだけで良かった。

 血筋によって決まる地位、与えられる官位、何もせずとも荘園からもたらされる収入、そういったもの全てがまさに、生まれた時からほぼ決まっていたのだ。


 風雅の道に造形深く、誰よりも良い詩などを詠める者であれば、そこから得られる人脈や役職などはあったかもしれないが、それでもある程度は血筋によったものでしかない。

 そして地位はあくまで地位であり、公家の収入を支えるのは荘園、つまり公家にとっての領地からの収入は、黙っていても勝手にもたらされるものであり、公家の感覚からすれば絶対不変のものであった。

 それが応仁の乱、西暦1467年に起きた室町幕府将軍位の後継問題に端を発する、やがては日ノ本全土に飛び火するその戦が、荘園制度を絶対不変のものではなくした。

 戦が起きれば当然治安は悪化、収入は不確かになり、そもそも荘園という領地の代官すら殺された場合、管理する者などいなくなる。

 それがいかに恵まれた事かを享受する事しかせず、生まれた時から当たり前に過ごしていた生活は、戦国の世となった事で一変した。


 全国に「守護職」という立場で配置されていた数多の大名は「守護大名」から「戦国大名」へと転身を遂げ、自らの足場を領地と定めてその地域から上がる収入を、自らの地盤とした。

 公家から見れば、許せない、認められない横取りであったことだろう。

 だが彼らはただ都にあって、荘園からの収入に頼るだけの生活を送っていた。

 自らの命を投げ打つ事も無く、泥にまみれることなく送っていた生活を取り戻すためには、一体どうすれば良かったのか。

 結論としては朝廷に、帝にすがることとなった。


 帝の後ろ盾を得て、その周りに侍る自分たちがいかに偉いか、いかに尊いかを喧伝することで、自らの地位と生活を守ろうとしたのである。

 たとえ実情は困窮していようと、たとえその権威が中身のない、ハリボテであろうとも彼らが自らの見栄と誇りだけは手放すことは無かった。

 その無意味に見える誇りと見苦しいまでの見栄が無くなった時、彼らは本当に全てを失ってしまうのだから。

 各大名家は、そんな公家の本音をわかった上で、あえて貢物を差し出した。

 全てはいつか、自らが京に上って天下に号令するためである。


 または近隣のどこかの家が自らの行動の正当性を得るため、大量の貢物を差し出した上で敵対する相手を朝廷が公式に認めた『朝敵』となすのを、事前に防いだりするためでもあった。

 公家は朝廷の権威を最大限利用し、金を、物を、それぞれ繋がりが出来た大名家へ無心していった。

 特に多くの貢物を贈ってよこした相手には、朝廷に口利きをして官位を与えるなど、今後もたくさんの貢物を贈りたくなるように仕向けることを忘れない。

 官位という分かりやすい権威の切り売り、それが公家が見出した生活方法であった。

 その他にも、これは、と思う大名家には娘を嫁に出す事すらあった。


 かの有名な武田信玄の正室には、左大臣を務める三条家から娘が嫁いできていた。

 この事で武田家と三条家は親戚となるし、もし武田家が京に上って天下に号令をかける立場となれば、三条家の立場も一気に上がるというものである。

 一方の武田家にも、いきなり武力を持って京に攻め上っても、何の伝手も縁者も無く、現代でいうところのコネが無い場合は、ただの無頼の徒、という扱いしかされない可能性があるのだ。

 かつての源平合戦の折、源義仲、という猛将がいた。

 この義仲、別名木曽義仲とも言うが、この人物は天才的な戦術眼を持ち、平家軍をさんざんに打ち負かして京に攻め上った。


 その後平家軍を京から追い出し実権を握ったが、その際にあまりに粗暴な振る舞いをし続けたため、公家も民も義仲軍を嫌い、人心は離れていった。

 たとえ戦に強くとも、それだけでは人を統治は出来ない。

 武田信玄は父・信虎の暴政を間近で見て育ち、これを追放して当主となった人物であり、また領地も甲斐・信濃を領有し、かつての木曽義仲の領地と一致する部分もあった。

 そんな存在が、武力でもって京に攻め上り、なんの伝手も無く京都に軍勢を駐留させた場合、かつての木曽義仲の再来か、と京で忌み嫌われる恐れもあった。

 信玄はそれも見越した上で、正室となった三条の方を始め、公家とは連歌会などを催すことで人脈を形成し、京に上った後のことを考慮した行動を取っている。


 武力を持たず、財力を持たず、ただ権威に侍りながらその権威を切り売りすることで、自らの地位と生活を保つ存在、それが公家というものである。

 そしてその頂点に立つのが「関白」の官位を賜った者である。

 帝に代わって政務を司り、その地位に就くのが許されるのは、公家の中でもごく一部の者に限られる。

 その一部こそ「五摂家」と呼ばれる家柄の者達である。

 この五摂家の歴史は、とにかく古い。


 遡っていけば西暦にして645年、世に言う「大化の改新」が起きた時である。

 それまでの絶対的な権力者・蘇我入鹿を打ち倒した中大兄皇子が天智天皇として即位、それに協力した中臣鎌足は、その功績を讃えられ「藤原」姓を賜る。

 これが現在まで続く名家、「藤原家」の誕生であった。

 藤原家はその後中臣鎌足改め藤原鎌足の子孫、藤原道長の時代に大きく栄えた。

 「源氏物語」の著者・紫式部の上司としても知られ、権力者として様々な権謀術数を駆使する一方、文化的なものを好んでもいたという。


 さらにその後時代は流れ、藤原家は五つの家に分派した。

 その五つの家が五摂家となるのだが、その五摂家にも序列がある。

 「関白」の地位は五摂家の持ち回りであり、その時の関白の座に就いた者の家が筆頭となり、他の四家がそれに従う、というものである。

 この五摂家は帝の弟などが養子として入り、その家の当主を務めるなどという事が頻繁にあり、天皇家との繋がりもとても強いものであった。

 そして冒頭紹介した近衛前久という人物は、近衛家の当主にして、「関白」の地位にいた者である。


 つまりこの当時の公家においての最高位に立った人物であり、その家柄といい様々なものへの造詣の深さといい、公家でありながら日ノ本の様々な所へ足を運ぶ行動力といい、おおよそ公家とは思えぬほどの行動を成した男として、歴史に名を残してもいる。

 この男が戦国史に名を残す最初のきっかけとなるのが、上杉謙信との関係である。

 軍勢を伴った上洛ではなく、あくまで朝廷と将軍家への拝謁と、そして寺社勢力への礼儀として京へとやって来た上杉謙信と親しくしたのが、この近衛前久なのである。

 意気投合したのか、領国である越後へと帰っていった謙信に、今度は前久自身が訪ねに行ったほどであった。

 当時の公家としては、異例中の異例とも言える行いであった。


 雪深い事で有名な越後、そこへわざわざ公家の中でも最上位にいる人物が会いに行く、というのだから当時としては信じられない行動であった。

 その後も謙信とは関白という地位を利用して様々な面で協力し合うなど、前久はまるで同盟相手の様な振る舞いで謙信を助けていくのである。

 しかしその後越後国を去り、京へと帰還した前久は室町幕府将軍位後継問題に関わった事で、関白という地位を解任されると共に、京の都を追放された。

 これが他者の力を頼ることでしか生き延びられない公家ならば、世を儚んで入水自殺でもしかねない所だが、近衛前久という男は公家として、いや人間としての精神力が並外れていた。

 たとえ地位と居場所を奪われ、流浪の身になり果ててもこの男は全く怯まなかった。


 自分よりも前に関白となっていた二条晴良、この男によって失脚することになった近衛前久は、それまでは信長と対立する立場を取っていたが、信長が二条晴良と敵対する関係になったと知るや否や、自らの伝手を頼って信長に接近し、以降は信長の『天下布武』の協力者となった。

 彼は信長の威勢を借りる形で「前関白」として力を振るい始めた。

 関白を解任されたとて五摂家の一角、近衛家当主という家柄の地位まで失ったわけではない。

 前久は実質的な役職などは無くとも、以前関白を務めていた五摂家の当主、という立場だけで物事を進めていくだけの、行動力と胆力を持ち合わせた男であった。

 事実、彼はれっきとした役職が決まっていないにも拘らず、遠く九州まで足を運んで、信長の意向を九州諸大名に伝え、中央にいながらにして、九州へと指示を出す信長の名代を務めている。


 その後の彼は太政大臣という、五摂家以外の者が付く役職としては、やはり最上位に位置する役職に就くことになるが、わずかの間ですぐに辞任するなど、地位に固執しがちな公家としては、やはり型破りな行動を取り続ける。

 そして信長と前久は武家勢力と朝廷内での、いわば二人三脚のような関係で天下統一へと動いていった。

 天正十年三月に行われた武田殲滅戦においても、近衛前久は織田軍と同行し、戦国最強を謳われた武田軍が、織田軍によって討ち滅ぼされていく様を間近で見た。

 その時信長が前久に何を言ったのか、前久は信長に何を見たのか、詳細な資料は残ってはいない。

 だが、信長が長年の懸案だった武田家を滅ぼしたことに気を良くした一方で、前久は生まれて初めて富士山を己が目で見る信長を尻目に、素早く京へと帰っていった。


 そうして天正十年六月二日、あの本能寺の事件が起きる。

 武田殲滅から三ヶ月と経っていないその間、近衛前久がどういった行動を取っていたのか、これもまた詳細な資料は残ってはいない。

 だが彼の朝廷内での立場や、その行動力や胆力などを見ると、一つの仮説が浮かび上がる。

 もし何かしらの理由があって信長を討つ決意をしたなら、彼自身の実行が可能かはともかく、その下準備のための計画や根回しが出来る立場ではある、と。

 近衛前久が本能寺の事件の黒幕なのではないか、という説も実際にある。


 そして今、自ら積極的に日ノ本全土をこれほど行き来した公家は他に類を見ない、とまで言われるほど動き続けていた近衛前久は、三河の地にいた。

 彼の足は徳川家康の居城・浜松城に向いている。

 輿に乗る訳でもなく、供を大勢引き連れる訳でもない。

 少しくたびれた旅装に身を包んで、しかし歩き慣れたその健脚は、日ノ本全土を歩き回って培ったものである。

 齢四十を超えながら、しっかりとした足取りで一定の速さを保ち、流れる汗を拭きつつ前久は歩き続ける。


 歩くことに苦難は感じない。

 日ノ本の様々な場所を巡ることに、不満は感じない。

 世の中の動きに積極的に関わっていく事に、不安は感じない。

 ただ一つ、苦難と不満と不安、全てを感じるものがあるとすれば、自らの人を見る目の無さか。

 何故、自分が「これだ!」と見込んだ者は天下に届かないのか。


 上杉謙信は領土的野心が無さ過ぎた。

 欲を捨て、仏道に帰依し、互いに信じ合い、助け合う。

 確かにそれは素晴らしい事だと思う、世が世なら高僧として力なき民を導いてほしい、とすら思う。

 だが今は戦国の世であり、血で血を洗い、欲と裏切りが渦巻く末法の世だ。

 そんな時に綺麗事だけでは立ち行かぬ、と公家である自分よりもよほど分かっているはずの立場ではないのか。


 戦国最強の武田軍を相手に、小競り合いでも一大決戦でも決して引けを取らぬ、軍神と呼ばれた男。

 その生涯においてほとんど負けを知らず、この男ならば世を安んじてくれるであろう、と望みをかけて越後に出向き、その協力をしたがどうにももどかしかった。

 領土的野心が無い、つまり領土をあまり広げないから、国力も上がりにくい。

 そのくせ遠征出兵はさんざんやっておいて、なのにしっかり勝つから余計に始末が悪い。

 勝ったのなら、そのままその地を領有し、国力の増加に努めるべきだろう。


 なんで公家である自分が、戦国大名として名を馳せる男に富国強兵論を説いているのか。

 上杉謙信の強さと信心深さ、そして朝廷と幕府に対する忠誠心の高さに惚れ込み、この男が世を治めてくれるのなら良き世の中になると思ったが、この男の行動は支離滅裂すぎた。

 なまじ強いだけに歯痒い、この男が本気で領土を広げ、それによって増大した国力を持ってすれば、日ノ本など十年かそこらで統一出来てしまうのではないか、そう思わせるほどの男なのに。

 当代随一の実力と独特の考えを持った変人、という評価を下した前久は、落胆と失望だけを感じて越後を去った後、新たな才能と出会った。

 その男は上杉謙信と違い、野心に溢れ、向上心があり、何より勢いがとてつもない。


 少々言動に過激な部分や、手法が残虐な所はあるが、それでも才覚はしっかりと感じさせる。

 上杉謙信とはまた違った才覚に溢れたこの男を、近衛前久は天下統一の希望を賭けて助けていくと決め、行動を開始した。

 その新たなる才能・信長は目に見えて勢力を拡大していき、敵となるものを次々打ち破っていった。

 これならば、と思い、今度こそは、と期待をかけていたその時、彼はまたも落胆と失望に沈むことになったのだ。

 織田信長の死、その事件は精神力の強い彼にとっても、生半可な衝撃ではなかった。


「何故あの時この身は……いや、言うても詮無きことやな……冥土で信長はんや光秀はんに会うて、いきなり斬りかかられんかったら、話すとしまひょか…」


 肉体的な疲労よりも精神的な疲労で、前久は疲れ切っていた。

 これから向かう先、浜松にいる徳川家康、という男は果たしてどれほどの器か。

 三度目の正直、を信じたい気持ちと、二度あることは三度ある、を恐れる気持ち。

 それらがないまぜになりながら、前久は歩みを止めず道を行く。


「もう戦国の世はこりごりや。 この身が生きとる間に、枕高うして寝られる様にしてもらわんと」


 ため息交じりのその言葉は、同じように道を行く誰の耳にも届かないまま、吹き荒ぶ風に散らされていった。

 前久の言葉は、この時代に生きる者たちの大半が願うものではあったが、未だ時代は多くの戦と混乱が続いている。

 しかも自分はその戦と混乱に、拍車をかけてしまった存在かもしれない。

 今までは純粋な願いでもって世の流れに関わり続けてきた前久であったが、今の前久には関わらねばならないもう一つの理由が出来てしまった。


「信長はん、光秀はん…あんさんらの死は無駄にはせんよって、堪忍しとくれやす」


 前久の眼に、三河国と遠江国の国境が見えてきた。

 あれを超えればいよいよ、家康のいる浜松城がある遠江だ。

 前久はゆっくりと、しかししっかりと足を踏みしめ歩いていく。

 自らの歩む道の先に、安寧の時代があることを願って。

近衛前久の喋り方に関してはかなりいい加減な京都弁です。

もし京都在住の方が読んでて不快になられましたら、「所詮は京都生まれでも京都在住でもない者が、無理やり使ったインチキ京都弁」と思って頂いて、広い御心で見逃してやって下さい。

もしくは訂正すべき個所がありましたらご指摘頂けますと助かります。


なお、藤原の家系に関しては少々端折りましたが、それを細かく書こうと思うと話の焦点がぶれてしまいますので、本文中のような形になりました。

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