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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の三「新体制」その1

今回より巻の三「新体制」が始まります。

巻の一と巻の二に比べ戦が行われない分、少々砕けた要素が出てきますが楽しんで頂ければ幸いです。

          信長続生記 巻の三 「新体制」 その1




 羽柴秀吉はすこぶる上機嫌であった。

 今や彼はどこに行っても、本能寺にて信長を討った明智光秀、その明智光秀を討ち果たし、主君の仇を取った功労者にして忠義者、という目で見られるのだ。

 これが嬉しくない訳が無い。

 その出自は貧しい農民でありながら、織田信長という稀代の英傑にその才覚を見出され、見る見る内に出世を果たして、織田家の宿老格まで上り詰めた。

 十年前までは頭を下げていた者に、今や逆に頭を下げられる立場となったのである。


 成長・拡張著しい織田家の中では、立場や家柄にあぐらをかく者には転落の末路が待っている。

 その一方でしっかりと働きを見せ、成果を上げれば褒美と出世が待っている。

 自らの才覚に自信がある者にとって、これほど働き甲斐のある主君はいない。

 当然秀吉は信長に対して多大な恩義を感じている。

 彼無くして今の自分は無く、どこの大名家でも信長程の高評価を出してはくれなかっただろう。


 譜代の家臣ではなく、ましてや生まれは農民という立場では、仕えることが出来ても最下層の小物から始まり、常備兵という立場の一応は給料の出る兵士に上るまで、何年かかることか。

 さる大名家によっては御家人衆、とも呼ばれる兵士たちは、言わば重臣たちお抱えの兵士であったりするので、一応は給料の扱いで米や金をもらえるため、すぐに飢え死にする心配は無くなる。

 そこまで行ければ日々の生活の安定感は比べ物にならないが、その一方でそうなったらなった後での出世もまた、大変なものがあるのだ。

 目立つ働きをすれば先輩や同僚の妬みや足の引っ張り合い、手柄の奪い合いなどは日常茶飯事で、下手をすると戦のドサクサで後ろから刺されかねない、というのが実情なのである。

 それを織田信長、という織田家の当主直属お抱えの小物から始めることが出来たのも、秀吉にとっては最初の幸運であった。


 まず直属のお抱え、であればたとえ小物からの始まりでもその働きは目に付くものである。

 そこで秀吉は、必死に信長の前で自らの存在と働きを喧伝した。

 創作であるとは言われるが、寒い冬の日に信長の草履を懐に入れて温めていた、という逸話が残るのはそういった秀吉の信長への喧伝ぶりを証明するものでもある。

 やがて秀吉は雑用係の小物から、少しずつ出世を重ねて、武士の仲間入りをする。

 その際には、キチンと人脈も形成しておくことも忘れない。


 まず出世が早い事を同僚や重臣お抱えの兵などから妬まれないように、味方を作っておく。

 その味方に選んだのは後の加賀百万石と言われる加賀藩の藩祖・前田利家である。

 若い頃の利家は荒くれた傾奇者であり、ある日カッとなった事で信長の弟の一人を斬るという事件を起こした。

 利家は罰を恐れて、織田家を出奔して行方をくらませたのである。

 その時点での利家の立場は、前田家の嫡男というものでもなく、四男坊であったが故の地位の低さから実家からも、勘当同然の処置を取られた。


 本来であれば打ち首は確実なところを、重臣・柴田勝家や森可成といった面々から可愛がられていたことで、さらに秀吉もそこに加わっての取り成しもあり、利家は命をつないだ。

 だが無罪という訳にもいかず、利家は2年間出仕禁止、つまり停職処分を受けた。

 当然その間の収入は無くなる上、実家からも勘当状態である。

 金も無く飢え死にするか犯罪に手を染めるかの二択しか無かった利家を、秀吉は自らのなけなしの金を分け、援助を続けた。

 やがて信長の戦に無断参戦して、次々と手柄を立てた事で帰参が叶った利家は、秀吉に対して恩義を感じ、以後も何かと行動を共にしたり、秀吉とは家族ぐるみで付き合うようになっていった。


 利家は若い頃のこういった行動に苦労を感じ反省したのか、ある程度の年齢になり、部下や領地を持つようになってからは、非常に蓄財に励むようになり、また計算高くもなっていった。

 その利家は信長のお気に入りの部下の一人でもあり、また利家自身が「槍の又左」と言われる槍の使い手であった事から、その男を味方に付けている秀吉には、誰も手が出せなくなった。

 そうして自らの安全を確保した上で、秀吉は着々と出世街道を歩んでいった。

 気が付けば織田家の重臣だけが任せられる、方面軍の司令官にまで任じられるようになった。

 領地も安土城にほど近い近江長浜に、十万石を超える領地ももらい、今や押しも押されぬ大名の仲間入りである。


 さらに中国地方を進撃していく中で、幾多の苦難もあったがそれらも乗り越え、ついに対毛利戦線の鍵を握る、『毛利両川』と言われる吉川元春・小早川隆景との直接対決も迫ってきていた。

 正直、このまま行けば秀吉とて危なかった。

 毛利がまさか、ここまで自分たちに力を集中させてくるとは思わなかったのである。

 だが、今更引くわけにもいかず、だからと言って玉砕する気はない。

 恥も外聞も捨て、信長に援軍を頼んで織田家と毛利家の雌雄を決するための、一大決戦に臨もうとしたその時、光秀が本能寺で信長を討った、というのである。


 これを好機と取るか、もはやこれまでと諦めるか、それはその人物によって、その状況によって異なるため、どれが良いということを論じる意味はない。

 ただこの時の秀吉は、好機、と捉え「させられ」てしまった。

 他でもない、軍師である黒田官兵衛に、である。

 瞬間的には激昂した、だがその後すぐに自らも好機である、ということを認識してしまった。

 そして秀吉という男は一度それを好機と捉えれば、その動きの素早さはまさに神速の域である。


 本能寺での一件からわずか半月、それだけの日数で今や天下に並ぶもの無き名声を手に入れた。

 織田家の一族すら、もはや自分を軽んじることは出来まい。

 なにせあの絶対的な支配者であった信長を討ち果たした、恐るべき謀反人・明智光秀を打ち破った最大殊勲者であり、それを行った軍の最高司令官だったのだから。

 皆の前ではむしろ腰を低く『皆のおかげで勝てた、これで浄土におわす上様もお喜びであろう』と、涙で顔をくしゃくしゃにしながら一人一人手を取って、互いに喜び合ったりもした。

 この辺りは「人たらし」として名を馳せた秀吉にとって、朝飯前とも言うべき行動である。


 無論信長の三男・信孝にも、秀吉は臣下の礼を尽くして戦勝の祝いを述べた。

 信孝は才覚において到底信長に及ぶものは無く、ただ分かりやすい暗愚ではない、というだけの凡庸な人物であった。

 それだけに、秀吉が特に大した働きの無い信孝を、やたらと丁重に腰を低くして持ち上げる、その真意に気付けなかった。

 自分はあの信長の息子である、という自らの血統に自信を持ち、重臣とはいえ織田家家臣である秀吉が自分のことを持ち上げるのは、当然なのだという感覚であった。

 もちろん秀吉はその辺りの信孝の心情も、分かった上で持ち上げている。


 その一方で信長次男・信雄は周囲から暗愚と見なされ、内心で呆れられていた。

 何かしらの失態を犯した時「三介殿のやる事よ」などと、信雄のやる事なら上手くいく訳が無い、とまで揶揄されてしまうような人物であったと言われている。

 彼は本能寺の一件を聞いて、すぐさま兵を上げたが結局一戦もせずに退却した。

 戦においても政においても成果を出さず、また織田家存亡の危機においてもこのような体たらくではあったが、それでも信長の息子であるため、無碍には扱えなかった。

 嫡男にして織田家当主となっていた信忠亡き今、次男と三男は骨肉の後継者争い、いわゆるお家騒動を起こしかけていた。


 弟たち二人に比べ、信長程ではなくとも才覚はあり、信長も家督を譲っていた事から誰もが認めざるを得ない織田家当主・信忠、その信忠がいないという事が織田家を内部崩壊の危機へと直面させた。

 信雄も信孝も、父と兄の存命中には特に反抗の様なものは見せていない。

 立場・実力・人望、全てにおいて上を行く父と兄に対し、牙をむいたのでは暗愚どころではない。

 ましてやこの二人は、かつて伊勢国に勢力を持っていた二つの家、北畠家と神戸家に養子に入ってその名跡を継いでいるため、名乗りとしては「北畠信雄・神戸信孝」なのである。

 信長は降伏した大名家に対し、自らの息子を養子に入れて無理やり家督を継承させ、実質的な乗っ取りを仕掛けるという事が、効率的で手っ取り早いと判断したのである。


 しかし父・信長と兄にして当主・信忠がいなくなると、二人は猛然と「織田家次期当主」として名乗りを挙げた。

 名乗りを以前からそうであったかの如く「織田信雄・織田信孝」として、互いを不倶戴天の敵と見なして、戦さえ起こしかねない険悪な雰囲気となった。

 片や兄を差し置く弟など、許されざるものだと主張。

 片や父の仇討にも参加しない者など、後継者の資格無しと主張。

 結局互いの意見は決して交わらず、平行線を辿る。


 だが実は次男・信雄と三男・信孝の二人は、その出生からしてややこしい問題を抱えていた。

 三男とされている信孝は、実は次男とされた信雄よりも早く生まれたと言われている。

 次男・信雄の母は長男・信忠の生母でもあり、信長が寵愛した側室・吉乃が産んだ二人目の男児が信雄であったため、生まれた順を逆にされた、もしくは信孝出生を信長に伝えたのが遅かったため、とも言われているが、そういう経緯もあって二人の仲が良くなることは無かった。

 武家において長子相続は基本とされ、弟は優秀であっても兄の補佐に付くのが当然、という考えがある一方で、戦国の世では優秀な者が後を継ぐべき、という考えもあった。

 つまり信雄にとって「長子相続」のみが、自らが信孝に勝る唯一の要素であったが、もし出生時の問題をほじくり返され、それによって後継者から除外された場合、信雄は織田家後継どころかその命さえ危ぶまれるのである。


 当然信雄側はそんな事をさせる訳にはいかず、力ずくでも信孝の当主就任を邪魔しようという考えであった。

 そして兵まで出されては信孝側も自衛のため、という名目で兵を出すことが出来るため、一気に織田家内で不穏な空気が立ち込めることになった。

 これを止めるため、織田家は重臣が集まって織田家の後継者をを決めるための会議を開くべきだという意見が出始めた。

 場所は織田家本貫の地であり、その地の中心・尾張清州城。

 織田家に古くから仕える者にとって、久々の故郷への凱旋とも言える旅路となった。




 秀吉は自分に付き従う者たちと別れ、一人自分用に宛がわれた部屋に入った。

 清州城内の一室、秀吉のために用意された重臣用の個室の部屋である。

 かつてこの城で信長に仕えていた頃、このような形で部屋に入ることになるとは思いもよらなかった。

 信長が清州城を本拠城としていた頃は、まだまだ秀吉は出世途中でこのような一人部屋を宛がってもらうような立場まで、とても上れてはいなかったのだ。

 それが今や、最上級のもてなしでもって迎えられる立場である。


「くくくく……ええのぅ、皆のわしを見るあの目つき。 憧れも嫉妬も尊敬も畏怖も、全部気持ちええモンじゃのぅ…」


 清州城から岐阜城、そして安土城。

 信長が安土城に本拠を構える頃には、押しも押されぬ重臣となっていたため堂々と屋敷を建てた。

 安土城本丸に向かうまでの道の途中に、「羽柴秀吉邸」と堂々と屋敷を構え、重臣の一人であることを知らしめることが出来た。

 だが秀吉がメキメキと頭角を現せたのは、信長が岐阜城に移ったあたりからであった。

 そのためこの清州城では、重臣用の広い部屋を用意され、その部屋の中央で大の字に寝っ転がるなど、決して許される事では無かったのだが。


「んー、この畳の匂いはあの頃のまんまじゃのぅ、畳は変わらずともわしは随分変わったぞ!」


 二十年ほどの昔の自分がいたら、胸を張って言ってやりたいものだ。

 自分はここまで上り詰めたぞ、と。

 ここまでは上手くいっている、この後も上手くやり遂げればいずれは天下さえも望める、そんな位置にまで自分は来れるのだぞ、と。

 そしてこの重臣用の部屋で思う様に好きなものを食い、酒を飲み、女も呼んで、自らの出世ぶりを実感するのだ。

 清州城のこういう部屋に立ち入ったのは、信長の命令があった時くらいのもので、自分の意思で入った事など無かっただけに、嬉しさはひとしおだ。


「いずれは全ての城の全ての部屋が、わしが入りたいように入れる、そういう世にしてやりたいのぅ」


 言いながら、部屋の隅から隅までゴロゴロと転がっていく。

 自らの居城である長浜城なら、こんな事をしても何の問題もない。

 せいぜい母親に見られたら「みっともない真似をするんじゃない」とどやされるかもしれないが、それだって相手が母親だから言ってくるだけの事だ。

 自らの居城でもないのに、ましてや織田家の清州城で、このような部屋を宛がわれて好きに過ごせる、これが今の秀吉にとってはたまらない優越感だった。

 部屋の外には誰かしらがいるのだろうから、あまり大声ではしゃぐ訳にもいかないが、それでも込み上げてくる笑いを抑える事だけは出来なかった。


 織田家、というくくりを取り外して各方面軍を独立大名家として勘定した場合、そして制圧した土地を領地として換算すると、その領地が最も多いのは他でもない、羽柴秀吉である。

 最初に信長から与えられたのは近江長浜十二万石ほどだが、畿内から中国地方までの自らの制圧地域全体の影響力を考えれば、その石高は何十万石、いや百万石を超えるだろう。

 今や日ノ本全土を見回しても、自分程の石高を持ち合わせている者など、そうはいない。

 ここまで上り詰めたのなら、そして自らの上に立つ絶対的な存在がもはやいないのなら、やはり狙うは一つである。


「信長様抜きで、織田家に天下が取れる訳ないじゃろうが」


 あくまで密やかに、それでも口には出さずにいられない、そんな秀吉の本音は部屋の中だけでひっそりと響いた。

 部屋の中心でただ一人大の字になって寝転がる秀吉。

 その顔に浮かぶのは「人たらし」と言われる時に浮かべる、人当たりの良い柔和な笑みでもなく、また先程までの優越感に浸った、満面の笑顔でもない。

 秀吉の出世欲や金銭欲、独占欲や名誉欲などの、欲の感情の源泉となった、自らの出自の貧しさを嘲っていた者たちに対する、復讐の感情。

 皆が自分を下に見て、誰もが自分を卑しく貧しく汚らしい存在だと、そういう思いを視線に乗せて自分を見ていた。


 そういう幼少期・そして若かりし頃を過ごした秀吉にとって、今の地位に上り詰めるまで四十年という長い時間を費やし、そしてついに花開いた我が人生。

 誰もが自分を羨ましがり、誰もが自分を妬ましく思い、誰もが自分のようになりたいと思う、そういう視線でもって見られることは、秀吉にとってたまらない快感だった。

 見たか、あの時俺を蔑んだ目で見た者どもよ。

 良い気味だ、あの時俺に唾を吐きかけた奴らめ。

 思い知れ、生まれだけが人生の全てを決める訳ではない事を。


 天性の明るさ、人当たりの良さ、抜群の機転を持つ秀吉を、他者は「人たらし」とは呼んでも、「復讐鬼」などとは呼びはしない。

 だが、秀吉の感情の源泉には、絶対的な欲と復讐がある。

 幼き頃より抑圧された全ての欲を肯定し、若かりし頃より積み重なった復讐を遂げる。

 秀吉自身、半ば無意識に行っていた、そして抑えていた感情であった。

 それが今、昔の自分がいたこの清州城に戻って来たことで、自分自身でも気付いていなかった感情が一気に溢れ出してきた。


 織田信長、という存在には多大な恩義がある。

 これは間違いないし、今でも信長という存在がもし目の前にいれば頭を垂れることに躊躇いはない。

 ただ信長が生きていれば、の話である。

 だが、もはやその存在がいないのなら、織田家にもはや先が無いのなら。


「信長様、後はこのサルめが上手くやるで。 心配せずに、成仏してちょーよ」


 清州城内の部屋の天井、さらにその先にある天に向かって、秀吉は一人呟いた。

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