信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その12
今回で巻の二も終了です。
長らくお付き合い頂きありがとうございました。
信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その12
フクロウが京周辺まで辿り着いた時には、すでに山崎の合戦は始まっていた。
浜松城からここまで、幾度かの休憩を挟みながらも夜通し駆け続け、フクロウはようやく京近郊へ戻ってきたのである。
ここに来るまでの間に、その地域ごとの情報収集を続けている『隠れ軍監』の者たちに合流しては最新の情報を仕入れてもらいつつ、今現在の光秀の状況を掴み続ける。
どうやら光秀は、信長に代わって新たな天下人として京で政務を行っていたが、羽柴軍接近の報を受けて秀満の別動隊に安土城の守備を任せ、自らは守備兵以外の全軍を率いて羽柴軍迎撃のため、山崎方面へと出陣したらしい。
それを聞いてフクロウはすぐさま山崎へと向かった。
フクロウが山崎の、恐らくは合戦場となっているであろう場所に近づいたその時、向こうから明らかにフクロウに向かって駆けて来る者がいた。
右手に足軽たちに支給された槍を持ちながら、左手をしきりに閉じたり開いたりしている。
『隠れ軍監』同士の合図である。
格好は明智軍の足軽であり、どうやら戦場から離脱した兵に紛れていたようだった。
フクロウはその『隠れ軍監』と共に、近くの茂みの中に入った。
「上様の命により、光秀に用があって参った。 彼の者はどこに?」
「すでに戦は決し、光秀は敗北。 明智軍は散り散り、光秀自身は勝竜寺城に退いたらしい。 竹丸の組が極力光秀と行動を共にするよう言い渡されておる、恐らくは居城のある近江坂本へ退くつもりじゃ」
フクロウはその情報を元に、今度は勝竜寺城へと駆ける。
既に常人であれば一歩も動けなくなるであろう距離を、フクロウはまだまだ駆け続けている。
フクロウはこのような時のために、走力に特化して鍛えた忍びである。
天性の夜目の効きと、忍びとして鍛えた走力は、甲賀の中でも屈指のものを持っている。
加えてフクロウは齢二十を少し超えた程度であり、体力的にも充実していた。
勝竜寺城へと近づけば、そこには明智軍の敗走して来た兵たちが溢れかえっていた。
この城は元々そこまで大きなものではなく、敗走兵全てを収容しきれるようなものではなかった。
だが最寄りの城がここしかなく、明智軍の兵士たちは少しでも助かりたい一心と、水と食料・一夜の寝床を求めて次々とこの城に集まってくる。
見たところ明智軍の兵士に見えない格好をしていたフクロウを、誰も見咎めることなくそれぞれが好きなように過ごしていた兵たちの間を、フクロウは縫うように歩いていく。
命惜しさに逃げて来た者にとって、自分たちに危害を加えようとしない者であれば、この際なんでも構わない、というほど疲弊しているというのが現状だった。
フクロウは見張りの兵などがいれば、そこに光秀がいると踏んでいたが、その見張りの兵すらロクに見当たらず、かといってそれらしい人物もどこにも見付けられなかった。
いや、それどころか竹丸の組の者たちも見当たらない。
一歩遅かったか、と思ったフクロウの肩を軽く叩く者がいた。
振り返ればそこには竹丸の組に入れられていた内の一人が、あごを振って物陰を指していた。
その男と共に、今度は物陰へと進むフクロウ。
「久しぶりじゃのぉ、フクロウ」
「光秀は?」
「既におらん、竹丸と一太が足軽として引っ付いているはずじゃ。 わしは念のため残っておったが、どうやら正解だった様じゃな」
「ああ…やはり近江坂本に?」
「おそらくはな、供の者は重臣では溝尾庄兵衛のみであとは足軽数人のみ、その内二人が竹丸と一太じゃ。 顔は覚えておるな」
黙って頷くフクロウに、その男はさらに声を潜めて問いかけてきた。
「上様御存命は知っておる。 が、この事は織田の重臣の方々には?」
「当面は内密、とのこと。 何やらお考えがあるらしい」
「分かった、ではわしは京の洛中で次の指令を待つ。 連絡笛は持っておるな」
そう言って男は懐から小さな笛を出した。
フクロウも同じ物を懐から取り出した。
『隠れ軍監』専用の、常人には聞き取り辛い音域の音を鳴らす、特殊な呼び笛である。
決して大きな音は立たないが、広く響き渡る音を鳴らし、耳を鍛えている忍びでしか聴き取れない、その笛の鳴らし方で現状の報告や居場所の特定、様々な用途に使うことが出来る笛である。
笛は小指ほどの大きさしかない小さな物だが、所々に穴が開いており、その穴の特定の部位を開けたり塞いだりすることで、様々な音を出すことが出来る。
「念のため竹丸との連絡用に用意しておいたが、必要なかったな。 竹丸の符丁は「イの三番」にしておる、おそらくは小栗栖を通る経路で近江坂本城に向かうはすじゃ、急げよ」
言われてみれば、すでに時間は真夜中、と言っていい時間帯だった。
夜の闇に紛れての撤退、確かにこれなら見つかり難いが、こちらには『隠れ軍監』同士の連絡網と呼び笛がある。
フクロウはすでに重く感じている身体に喝を入れ、息を整えて再び駆け出した。
無論勝竜寺城から一気に駆け出す様な目立つ真似はせず、ある程度城から遠ざかるまでは息を整えながら歩き、十分に離れてから駆け出す。
隙の無い諜報活動と素早い連絡網、これこそが忍びの真骨頂であった。
一定の速度を保ちながらフクロウは駆ける。
その間に一定の感覚を開けて呼び笛を鳴らし続けるが、なかなか返事の音が返ってこない。
どうやら光秀とは結構な距離を離されているらしく、その光秀に付いた竹丸たちにも、呼び笛の音は聞こえていないらしい。
それでもフクロウは駆け続け、呼び笛を鳴らし続けていると、ようやく返事の音が返ってきた。
どうやら大分近づいたらしい、とフクロウがさらに速度を上げようとしたその時、緊急の事態を報せる音がフクロウの耳に届いた。
光秀を刺した百姓は、いわゆる『落ち武者狩り』である。
当時は日本全国至る所で戦が起こり、それによって徴集される百姓たちは足軽として使い捨てられる。
その一方で戦によって田畑は荒らされ、百姓は戦で命を落とさずとも、自分が耕した田畑を荒らされる、もしくは収穫を横取りされるなどの被害に遭い、年貢も払えなくなりやがて飢えて死ぬ、などの苦しみも味わわされるのが常であった。
そうした苦しみから逃れるため、百姓は戦で負けた敗残兵を襲い、彼らの持つ武器や具足を奪って売り払い、名のある武士なら首を持って行き報奨金をもらって、その金で飢えを凌ぐ。
光秀は本能寺の一件で一気に名前が知れ渡り、昨日急遽畿内に舞い戻った羽柴軍との戦を始めたと、近隣の者は誰もが知っていた。
光秀は百姓たちにとって、分かりやすい「賞金首」となっていた。
その首を持って行けば、織田家臣団のどこの家であろうと、言い値で払うほどの価値がある。
それほど光秀の首の価値、というものは急騰していたのである。
山崎の合戦時には万を超える軍勢、勝竜寺城は小さいながらも城であり、今この小栗栖を通る光秀はわずかな供しか連れていない。
光秀を襲うのは今を置いて他に無い、と落ち武者狩りを行う者たちが決断したのは必然であった。
刺されたことで馬上から崩れ落ちる光秀。
足軽たちは逃げ腰になりながらも槍を構え、落ち武者狩りを牽制する。
溝尾庄兵衛はすぐさま馬を下りて光秀に駆け寄り、首を狙って襲いかかって来る落ち武者狩りを、振り向き様に刀を抜き払ってそのまま斬り伏せる。
そのまま二人、三人と立て続けに斬り捨てると、今度は落ち武者狩りの百姓が逃げ腰となる。
彼らは命惜しさに落ち武者狩りを行うのであって、このようにまだまだ戦える意思と強さを持っている者相手では、かえって命を失いかねない。
自然と彼らは距離を置き、やがて全員が一斉に逃げ去っていく。
倒れた仲間には気の毒でも、それを救うために自らの命を危険に晒す気はない。
彼らもまた、この戦国という時代を生きるために他者から奪い、他者から奪われながらその日その日を生きているのである。
足軽たちも落ち武者狩りの脅威が去った事で、一斉に気を抜いたその瞬間。
風斬り音とともに矢が飛来し、足軽の一人の首を貫いた。
「伏せよ、矢が来るぞ!」
溝尾庄兵衛の言葉に、足軽たちは未だ自分たちが危機から脱してはいないのだと思い直し、慌ててその辺りの岩や木の陰に隠れる。
溝尾庄兵衛も明智光秀の身体を抱え、光秀の乗っていた馬の陰に隠れる。
馬には盾にするようで気の毒だが、ここで光秀を死なせてしまう訳にはいかない。
夜の暗闇、そして竹藪の向こうから飛来する矢を、完全に見切って防ぐというのは不可能だ。
先程の落ち武者狩りが逃げたのはこの巻き添えになるのを恐れたことと、逃げたとこちらに思わせて油断させるためだったのだ。
溝尾庄兵衛は焦っていた。
百姓であるはずの落ち武者狩りが、ここまでしっかりと作戦を立てた上でこちらに襲いかかるということは、彼らは自分たちが何者で、その価値がどれほどのものかをしっかりと把握しているということだ。
どうやら何があっても逃がす気はないらしい。
こうなれば向こうの矢が全て撃ち尽くされるまで耐えるか、一か八かの強行突破しかない。
だが向こうがどれだけの矢を持っているか、そして強行突破と言っても逃げ道が塞がれていたらどうしようもない。
「おのれぇ! せめて殿だけでも!」
馬の身体にも矢が刺さり、馬が痛がって暴れるが、しっかりと手綱を握りしめてそれを力ずくで抑え込む。
右手に刀を持ちながら、左手一本で手綱を掴む庄兵衛は、身動きが取れない。
未だ止まぬ矢の雨を、払えるだけ刀で切り払うが、どうしても状況は好転しない。
矢を放つ方もこの闇の中でまともに狙いが定まらないのか、大半は地面に突き刺さっているおり、最初に足軽の首に突き刺さったのは、その者に運が無かったとしか言いようがない。
それでも何本かは、木や岩の陰に隠れた足軽たちに刺さったようで、あちこちから時折悲鳴じみた声が上がっている。
どうすればいい、どうすれば。
庄兵衛は傍らで脇腹を抑え、痛みに顔を歪めながら呻く光秀を見る。
光秀はとても指示を出せる状態ではない。
かといって今の自分では暴れている馬を抑えるのに精一杯で、この状況に打開策を見出す余裕などある訳もない。
そして無論、援軍などは期待出来ない。
「殿、今より拙者が突撃をかけまする! その隙に馬に乗ってお逃げをッ!」
庄兵衛の言葉に、光秀は力なく首を振る。
その反応が「やめろ」という意味か、「自分は馬に乗れる状態ではない」という意味かは分からない。
だがどちらにしろ、このままでは万策尽きて討たれるのを待つばかりである。
最初に比べれば矢の数は減ってはいるようだが、その分一発一発に狙いが定まっている気がする。
どうやら矢が残り少ないのか、それとも狙いを定めて間違いなく仕留めようという腹か。
庄兵衛はいよいよ覚悟を決めようかと思ったその時、竹藪の向こうから声がした。
その声は明らかに悲鳴じみており、さらにその声は立て続けに聞こえ出した。
竹藪の向こうからさらに物音がする。
何かを切り裂く音、断末魔の様な悲鳴、ガサガサと草をかき分けて歩く音が響き渡る。
気が付けば、矢の雨は止まっていた。
そっと庄兵衛は馬の身体の陰から顔を出す。
すると竹藪の向こうから、一人の男が姿を現す。
竹藪の中でも月明かりのおかげで、その男の風体がぼんやりと見える。
どうやら竹藪の向こうにいた落ち武者狩りを撃退したのは、この男のようだ。
庄兵衛は油断なくその男を見据えながら、誰何の声を上げた。
「何者ぞ、別の落ち武者狩りか?」
「光秀か?」
「……そうじゃ、わしが明智日向守光秀である」
「甲賀忍びフクロウ、主命により参上したが、お前は光秀ではないな」
フクロウの眼には、馬の陰からそっと顔を出した男が光秀ではないのはすぐ分かった。
だがわざわざ光秀を名乗るのは、恐らく光秀に代わって討たれることも覚悟の上だと判断し、フクロウも自らの名を名乗った。
しかしフクロウの言葉に反応したのは、光秀の名を騙った溝尾庄兵衛だけではなかった。
「しゅ、主命とは……誰じゃ、一体…誰の、命…で…来た?」
「殿!」
光秀は刺された左脇腹を手で押さえながら、懸命に身体を起こしてフクロウを見ようとする。
そんな光秀を支えながら、庄兵衛は油断なくフクロウを見据える。
「我ら甲賀忍びが、主とお呼びするのはただ一人。 織田信長公を置いて他に無い」
「信長……上、様………もしや、上様…は……」
息を絶え絶えにしながら、光秀は目を見開いて懸命に言葉を紡ぐ。
その目は絶対に確認しなければならない事がある、と雄弁に語っていた。
この暗闇の中で、光秀の眼にどこまでフクロウの姿が映っているかは分からない。
しかし光秀は、寸分狂うことなくフクロウの眼を真っ直ぐに見ていた。
そんな光秀の鬼気迫る雰囲気に、フクロウは若干気圧されながら、ゆっくりと首を縦に振る。
「御存命である」
ただその一言。
その一言で光秀の眼からは、涙が溢れ出た。
顔にあった険は瞬時に消え、眼の奥の哀しみが失せ、苦しみに呻いていた口元からは、歓喜の声が上がった。
溝尾庄兵衛はその一言に目を見開き、身体を硬直させ、持っていた刀すら取り落とした。
その時、竹藪の中を月明かりが一層明るく照らした。
その月明かりに照らされた庄兵衛の顔を見た時、フクロウはその人物を思い返した。
本能寺脱出の際、あえて傷を負った木猿を見て、助かるかもしれないから早く手当をしてやれと言っていた武将である。
妙な縁を感じながらも、フクロウはさらに言葉を続けた。
「上様は現在、さる所にて再起を図っておられる。 明智光秀、本能寺の一件の真意を聞かせてもらおう」
フクロウの言葉が終わるより早く、光秀はすでに目を閉じて、その身体からは力が抜けていた。
まるでこの世に思い残すことが何もない、というような安らかな顔をしたまま、光秀は眠りについたのだった。
次回は 巻の三「新体制」その1 となります。
首巻で4話、巻の一で8話、巻の二で12話だからといって、巻の三は16話構成という事はさすがにありません。
ですが巻の三も予定では10話以上にはなってしまいそうなので、気長にお読み頂ければ幸いでございます。
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