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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その11

            信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その11




 暗闇の中を、武装した一団が移動する。

 馬に乗った身分の高そうな武士が二人、そしてその周りに付き従う数人の足軽たち。

 それが、今現在の明智軍の様相だった。

 兜や笠に隠れてはいても、その表情は一様に疲労にまみれ、陰鬱さが張り付いていた。

 山崎の合戦の敗北により、明智光秀は勝竜寺城へと退却した。


 その後休む間もなく、光秀は本拠である近江坂本城を目指して移動している。

 だが軍勢を引き連れて退却すれば、その人数の分だけ行軍速度は遅くなり、羽柴軍の追撃を受けることは必至である。

 なので光秀はあえて少人数での移動を選び、今こうして馬上にいる。

 付き従う重臣はわずかに溝尾庄兵衛ただ一人のみ。

 あとの者たちは、ある者は山崎にて討ち取られ、あるいは敗走して散り散りとなった。


 新たなる天下人として、この日ノ本誰もが期待を寄せるかもしれなかった男は、今こうして泥と疲労にまみれて馬上で身体を揺すられていた。

 道中、誰も何も話さない。

 声など出して、どこに潜んでいるやも知れない羽柴軍の追手に見つかる訳にはいかない、そういう危険性を見越した上でのものではなく、純粋なる疲労感と悲愴感、その重苦しい空気が口を開くのを躊躇わせていた。

 そんな中でも、光秀は襲い来る疲労と絶望感に立ち向かいながら、自らの居城を目指す。

 信長から賜った、織田家の家臣として初の城持ち大名として名を馳せることになった、あの城を。


 自分は死ぬわけにはいかない。

 『信長』をこれ以上死なせるわけにはいかない。

 自分はまだ、新たな『信長』を見出してはいない。

 この日ノ本を、真に守るべき存在を死なせてはならないのだ。

 倒れそうな身体と折れそうな心、その二つを支えているのは、たった一つの思いだけだった。


 あの御方は世の者たちが言うほど、勝ち続けていた訳ではない。

 最終的には勝利を収めても、そこに至るまで何度も敗北し、挫折し、失敗した。

 だが決して折れず、諦めず、踏み越えたのだ。

 決して信用が出来ない織田の同族たち、同父母の弟・信行、叔父とも対立し、叔母には裏切られ、妻の実家・斎藤家とも戦い、妹のお市の方を嫁がせた義弟・浅井長政の裏切りで窮地に陥り、そして信長包囲網が形成された。

 松永弾正久秀の二度の謀反、本願寺一向宗との十一年に及んだ抗争、武田・上杉らの相次ぐ強大な敵との戦、そして最後は腹心の部下であったはずの自分の謀反。


 自分が上様であれば、とうの昔に気が狂っている。

 ここまで人から裏切られ、嘲られ、背かれ、詰られ、欺かれ、誹られ、踏み躙られる。

 まるで、この世にお前が生きる場所など無い、と言わんばかりな扱いではないか。

 それでもあの御方は止まらないのだ、自らの目標のために。

 あの時、自分は一体何故上様に弓引くような真似をしてしまったのか。


 自分に謀反を唆してきたあの使者を、なぜあの場で斬ってしまわなかったのか。

 日ノ本を守るためなら自ら悪名を被ることすら厭わない、そんな覚悟をもって第六天魔王などと名乗った、あの御方に仕えていながら何故。

 結局は自らの保身のため、自らの名声のため、自らの栄華のため。

 そのために自分は日ノ本の運命と稀代の英傑、その両方を売り飛ばした極悪人なのか。

 己の汚さに震えが、醜さに目眩が、愚かさに涙が出て来る。


 こんな自分が羽柴の行動を、どうして批難できたのだろう。

 むしろ自分の欲のために堂々と行動を起こせる、あの男の方がよほどマシだ。

 その上自分は『信長』としての責務も果たせず、今こうして無様な生き恥を晒している。

 上様がこんな自分をご覧になったら、どのように思われるだろうか。

 光秀の口から、誰に聞こえるでもない僅かな声が漏れ出す。


「上様、重ね重ね申しわ…け……」


 最初は違和感。

 次に熱さ。

 その後で痛みが来た。

 その時、光秀は無意識の内に自らの左後方を見た。

 そこには光秀の左脇腹に刺さった竹槍を持つ、一人の百姓の姿があった。




 浜松城の一室で密談を行っていた信長たちの下に、徳川の家臣が急報を持ってきた。

 どうやら羽柴秀吉が遠き備中国から一気に畿内まで駆け戻り、明智軍と一戦交えようということらしい。

 報せを聞いて、しばし黙考した信長は家康に尋ねた。


「徳川に子飼いの忍びはおるか?」


「あ、伊賀国を抜ける際に雇い入れた者たちが」


 言って家康はハッとなった。

 伊賀国の忍びと言えば、信長による天正伊賀の乱で、敵対していた勢力である。

 それを今、信長の目の前で「雇い入れた」と明言してしまった。

 それに気付いた家康がとっさに口を抑えるような素振りを見せ、察した蘭丸が目を険しくさせ、徳川家臣の三人はとっさに刀に手をやる。

 だが信長は、それら全てを黙殺してさらに尋ねた。


「では走りに自信のある者は?」


「え……いや、そこまでは…」


「ではフクロウを出すか。 お蘭、外におるフクロウに急ぎ明智方、特に光秀の様子を探らせよ。 場合によっては光秀と接触し、本能寺での真意を問い質させよ」


「え…ハッ!」


 信長の言葉に一瞬躊躇いながらも、蘭丸は即座に部屋を飛び出して、外で控えているフクロウに信長の命令を伝えに行く。

 一介の忍びでは、このような主君と重臣のみの場になど、同席は許されないのだ。

 なので同行していた甲賀忍びの二人は、密談用の部屋から近い場所の庭にじっと佇んでいた。

 部屋に残った徳川家の四人と信長夫妻の間には、妙な緊張感が漂っていた。

 いや、正確に言えば徳川家の四人が発する空気が、緊張感で張り詰めていた。


「伊賀国を抜ける、か…お主ならやれなくもないと思うておったが、まさか本当にやり遂げたか。 そしてそこを抜けるために伊賀忍びを雇い入れ、道案内でもさせたのか。 やりおるわ」


 信長は顔に笑みを浮かべている。

 だがその笑みが、どういう意味の笑みなのか家臣たち三人には分からない。

 ただ一人、家康のみがその笑みを見てホッと胸を撫で下ろした。

 この顔は、素直に褒める、感心する時に見せる顔だと分かったのである。


「急に命を狙われる身の上になりましてな、使える手段は何でも使いました故、こうなり申した」


「わしに代わって恨みを受けるやもしれぬ所を、雇い入れて味方としたか。 お主いつの間にか狸になりよったな」


「狸とはまた…サルといいキンカンといい、もちっと良い呼び名を付けれぬものですかな」


「褒めておるではないか。 敵を味方に化かした、とな」


 信長は自分の好む調子で、家康と軽口と皮肉を叩き合う。

 その調子をハラハラしながら見るのが家臣たちであったが、どうやら刀に手をかけておく必要は無さそうだった。


「伊賀の事を謝する気はないが、今後お主と手を結び続ける上で、障害となり得るか?」


「いえ、恨みと思わず働ける者だけを雇いましょうぞ。 そちらの甲賀は?」


「伊賀も甲賀も役に立つ、ならばそれぞれに協力させ我らの目となり耳となってもらう」


「承知いたした、ならば今後は伊賀と甲賀は我らがまとめて面倒見る、ということに」


「お主にはしばらく頼り切ることになろう…その礼として先に言うておく、甲斐信濃を治められるか?」


 忍びの雇用問題から一転、いきなりの話の転換は信長の悪い癖でもある。

 頭の回転が速い信長は、当時の人間には思考能力が追い付かないほど、会話の流れを性急にする悪癖があった。

 それでいてその速度に追い付けずにモタモタしていると、信長は急速に機嫌が悪くなる。

 それが続くとよく通る高い声で怒鳴るのだから、家臣としてみれば一瞬の気の緩みすら許されない主君であった。

 だがその一方、その速度に追い付ける者であれば、信長は傍におくし重用もされる。


 今や一軍の将となり、かつては信長の小姓としてその有能さを発揮していた堀久太郎秀政など、その典型であると言える。

 そしてその速度に付いて行ける者は現時点では、光秀、秀吉、家康、蘭丸などであり、逆を言えば信長とある程度の親交・寵愛・信頼を受けるには、頭の回転の速さが必須であった。

 そして今この場にいる者たちは、その信長の頭の回転の速さにほとんどが付いて来れていた。

 帰蝶も信長の正室故か、そして家康の家臣たちも有能揃いであるが故か。

 驚きながらも、その言わんとしている所にしっかりと気付いているあたりに、信長は徳川家臣団に好感を抱いた。


「よろしいのですかな、あそこは武田殲滅の折に家臣の方々に分配されて」


「武田殲滅からやっと三ヶ月じゃ、その間にあやつら全員が旧武田領を完全に掌握出来た、とは思えぬ。 いくつかは犠牲も出よう、その空白地となった場所を徳川に託す」


 この言葉は、実質的な甲斐国と信濃国の領有権譲渡、である。

 信長からしてみても、いくら自らの構想が正しいものだという自信を持ってはいても、自分の存在は相当に厄介なものである、という認識はあった。

 それを、いくら付き合いの長い同盟国とはいえ、その厄介者を何の利益も出させずに抱え込ませるのは徳川にとって只々負担となる。

 下手をすれば自分を消しかねない危険性もあるため、先に徳川に見返りの条件を示しておいたのだ。

 それが、旧武田領の実質的割譲であった。


 旧武田領はまだまだ武田の遺臣による勢力が根を張っており、油断のならない土地でもある。

 新たに得た領土をしっかりと治めるには、様々な条件が必要となる。

 強大な君主が頂点におり、その下でその土地を領有する領主が善政を敷いた場合であれば、不満を抱えた一揆なども起こりにくいだろうし、最終的には上手く治まるだろう。

 だがそれもたった三ヶ月では、精々が命じられた領地の実地検分や、それぞれの村や里の長達との面通しや年貢の制度など、様々な決まり事を徹底させる事ぐらいしか出来ないだろう。

 下手をすればそれすら困難な場合もあるだろうし、その一方で暴政を敷いたならあっという間に武田の遺臣による扇動で、暴徒化した民衆が反乱を起こすだろう。


 そんな面倒事を抱えている土地で、支配者が代わって三ヶ月で強大な君主、とやらもいなくなったら、それこそ一斉に牙をむき始めることは想像に難くない。

 信長は正直なところ旧武田領を分配した家臣たちは、全滅もあり得る、とすら思っていた。

 これは家臣たちの能力云々よりも、暴徒化した民衆の恐ろしさというものを、一向一揆などで肌で知っている信長だからこそ、冷静に導き出した結論であった。

 自分が一旦歴史の表舞台から降ろされてしまった今、しかも織田家の家臣の中でも誰が信用できて、誰が危険かの判断が付けられない現状、再起を図るには協力者は不可欠であり、それを徳川家に求めるならば、何らかの見返りも用意するべきだろう。

 そこで思い付いたのが旧武田領の割譲である。


 治めるのに苦労する土地であり、しかもその土地は広大。

 北は上杉、東は北条と接し、様々な勢力が入り乱れ混沌としている地域である。

 信長としても時間をかけてゆっくりと治めていかなければいけない土地ではあるが、こんな事になってしまっている今、そちらに手間や時間を取られる訳にもいかない。

 その結果として、上手く治めれば非常に美味しい、しかし危険性が高く手間暇がかかる土地は、家康に譲ることで恩を売ると共に、パッと見れば見返りに十分な条件にも成り得る。

 だが信長は、そういった外交上黙っておいた方が良いことまで含めて、全て家康に語ったのだ。


 これは信長から家康への一種の信頼であり、また誠意でもあった。

 そしてそれを気付けぬ家康でもない。

 全ての言葉の真意を読み取り、家康は信長に頭を垂れる。


「承知いたしましたぞ。 某に東国をお預け下さる、という訳ですな」


「むしろお主でなくばまとめられまい、この日ノ本全体を思えば今少しお主には力を持ってもらいたいと思うておる。 わしの考えを理解し、共感し、共に歩める者なくば、立ち行かぬ所まで来ておるのでな」


「なるほど。 共に歩む担い手であったはずの明智が起こしたこの度の本能寺の一件、信長殿の目指す日ノ本防衛構想にどれほどの遅れを生じさせたことやら…」


「だがその遅れも、徳川家康という男の奮闘によっては取り戻せよう。 頼みとしておるぞ」


「おや、第六天魔王と名乗る方が、狸を頼られますかな」


「先程の仕返しか、お主も執念深いな」


「それはお互い様にて」


 言いながら、お互いの顔には笑みが浮かんでいる。

 欲もある。

 打算もある。

 だがそれだけではない、お互いへの信頼がある。

 信長という、多くの者から敵と見なされた男を、しっかりと理解し共に立つ意思を持った男が、ここにもいるのである。


 その事が、帰蝶には嬉しかった。

 その場においてただ一人、何も発言せず、ただ座り、会話の流れを見続けた存在である。

 帰蝶の正面に座る三人は、信長と共に歩む意思を固めている主君を見ながら、近く起こるであろう甲斐・信濃平定戦への闘志を高めている様にも見える。

 この者たちもまた、家康の考え・忠義に殉じようとする者たちなのだろう。

 家康は信長と共に、そしてその家康は我らが支えるという揺ぎ無い決意と覚悟。


(こういう時は自らが女であることを口惜しく思う、ということを誰も理解してはくれぬのでしょうな)


 この場で唯一の女性である帰蝶は、少しだけ疎外感を味わいながら苦笑を浮かべる。

 そこにフクロウへの命令を伝えに行った蘭丸が帰ってきた。

 その蘭丸を見て、帰蝶はそっとため息をつきながらぼやいた。

 「せめてあなたも女であればよかったものを」と聞こえた蘭丸は、一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに真顔に戻って帰蝶に返した。

 「女であっては上様のお側近くでお仕えできませぬ」などと言ってきた蘭丸を見て、そういえばこの美貌の小姓はこういう性格だった、と帰蝶は改めてため息をついたのだった。

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