信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その7
巻の二もようやく折り返しました。
巻の二は12話構成ですので、気長にお読み頂ければ、と思います。
信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その7
秀吉は今、姫路城にいた。
後に「中国大返し」と呼ばれる昼夜問わずの大移動で、備中高松城の陣を引き払って即、今いる姫路城までロクに休憩も挟まぬまま、駆け抜けてきたのだった。
兵士たちにもほとんど裸同然で走らせ続け、具足や食料、荷物になる物資は全て船を調達して海上輸送に頼った。
ただひたすらに走りながら飯を食い、水を飲み、用もそこらの草むらで足して、駆け抜けたのである。
秀吉もさすがに疲労が溜まって、今は広間に大の字になって転がっている。
「あぁ、疲れたのう。 いっそこのまま眠っちまえたら幸せなんじゃが」
「ここで眠ってしまっては、何のために急いだか分からなくなりますぞ」
秀吉の独り言に官兵衛がすかさず口を挟む。
秀吉も「分かっとる分かっとる」と、手をヒラヒラと振りながら答える。
信長の死を報せる明智からの書状が届いた後、秀吉と官兵衛は善後策を練った。
当初秀吉は官兵衛の言葉に激昂して、その胸倉を掴み上げた。
「自分が何を言ったのか、分かっておるのか!」と大声で詰め寄った。
だがそう言われた官兵衛の方は、自分の主の感情のうねりを柳のように受け流した。
「信長公が頂点に立ち、光秀殿がそれを支える。 であれば貴方様はどこまで行っても三番手が関の山、その状況がたった一晩で覆ったのです、御運が開けたではありませんか」という言葉を返され、秀吉は目を大きく見開き、その胸倉を掴んでいた手が緩んだ。
官兵衛の言う事を理解出来てしまった自分がいた。
そしてそれをどこかで喜んでしまった自分がいたことにも、気付いてしまったのだ。
秀吉もまた、頭の回転が速い。
自分がこの状況で何をするのが、どういった指示を下すのが最善かを考え出す。
官兵衛の言う『開けた運』というのは、今のこの状況を乗り越えてこそ使える言葉だ。
目の前には半ば以上が水没した備中高松城、そして最短二日以内には攻め込んでくる可能性がある毛利の援軍、今の自分が置かれた状況は決して楽観視は出来ない。
ならばどうする、毛利との即時講和を結ぶか、いや備中高松城を放置して急ぎ京へ戻るか。
何が最善か、何が最悪か、目まぐるしく秀吉の脳が回転する。
「羽柴様、この官兵衛に一案がございます。 この状況を取りまとめ、なおかつ羽柴様が中央で大きく躍進できる、またとない機会を逃す訳には参りません」
秀吉の前には、先程から表情をロクに変えない官兵衛の顔がある。
以前の官兵衛も秀吉ほど感情を表には出さなかったが、それでも多少の喜怒哀楽は見えた。
だが今の官兵衛という男は、まるで人間の感情をどこかに捨て去ったかのように見える。
かつて摂津国で荒木村重という男が謀反を起こし、その説得のために村重の籠もる有岡城に単身出向いた官兵衛が、その後丸一年ほど牢に閉じ込められ、その際に足を悪くした。
救出された官兵衛の姿を見た秀吉は、その痩せこけた身体と顔付き、長年の虜囚生活によってみすぼらしい装いとなった官兵衛を見て「すまぬ、よく耐えてくれた」と、その手を取って感謝した。
その時から、官兵衛の表情にはロクに感情が籠もらなくなったように思える。
立ち上がることも出来ない狭い牢の中、雨が降れば水が染み込みそこにボウフラまで湧く、そんな劣悪な環境の中、黒田官兵衛という男は一体何を見たのだろう。
秀吉にもそこまでは分からない。
だが救出され、すでに亡くなってしまった竹中半兵衛に代わる軍師として秀吉から重用される様になってから、彼は今までよりもさらに冴え渡った軍略を見せ始めた。
ただどうすれば合理的に、素早く敵を殲滅し勝利することが出来るか、ということに意識を傾けて策を出す官兵衛を、秀吉は頼もしくも空恐ろしく感じていた。
秀吉は官兵衛に一任し、任された官兵衛は備中高松城城主・清水宗治の切腹による降伏をもって、他の城兵の命を助けるということで毛利との即時停戦の講和をまとめ上げた。
毛利の外交を担当する僧侶・安国寺恵瓊とはすでに何度も顔を合わせている。
安国寺恵瓊は強気を崩さず、毛利の中核を成す吉川元春の武力と小早川隆景の知略をもってすれば、羽柴軍など一捻りであるという持論を展開する。
もちろん官兵衛もそこは負けない、既に信長への援軍も手配し、一両日中には畿内の軍を率いて信長自らの出馬によって、毛利家を完膚なきまでに殲滅する、と脅しをかけたのだ。
信長の名はすでに日ノ本の津々浦々まで知れ渡っている、その信長が毛利殲滅のためにわざわざ備中まで出向き、長年の対立に自ら止めを刺しに来る、ということを淡々と語った。
無論信長はこの時すでに死亡していると思いながらも、さらに援軍が来るはずもないと分かっている官兵衛だが、そこに感情は籠っていない。
だがその感情の籠もらなさが、安国寺恵瓊に不安の芽を植え付けた。
官兵衛の物言いには、ただ事実をありのままに語っているだけ、と恵瓊には見えたのだ。
織田と毛利は互いにいくつもの戦線を同時に展開するだけの国力を持ち、そして毛利よりも織田の方がその規模は大きい。
だが恵瓊個人の考えでは、毛利と織田の決定的な違いは、当主の器の差であると見ていた。
現在の毛利家当主・毛利輝元はまぎれもなく中国地方を代表する英傑・毛利元就の嫡孫であり、その血筋にわずかな隙も無く、また二人の叔父・吉川元春と小早川隆景の実力は疑うべくもない。
だがそれでも、あの『毛利元就』を知っている安国寺恵瓊には、その三人の誰もが毛利元就を超える器であるとは思えなかった。
安国寺恵瓊の家系は、安芸武田家、つまり甲斐の武田家とは祖先を同じくする「武田」の名を持つ一族の末裔でもあった。
その安芸武田家は毛利元就によって滅ぼされ、逃げ延びた当時幼少の恵瓊はその後、僧として才覚を表し、元就に招かれ毛利家に仕える事になった。
本来であれば仇敵である元就に仕えるなど、死んでも嫌だと思っていた恵瓊だったが、その考えは元就と正面から対峙した瞬間に霧散した。
アレは、化け物だ。
ただそう思った。
眼の奥には人とは思えないほどの昏さが潜み、自らが「敵」と認識した者にはどのような手段を用いようとも、一向に構わないと言い切れる冷酷さがそこにはあった。
ただそこにいるだけの老人は、別段刀を振りかざしているわけでもない。
槍を構えても、矢を番えている訳でもないはずなのに、濃密な死の気配が漂っていた。
顔に浮かぶは温和な笑み、口元の口角は少しだけ上がっており、平和な時代・安全な場所で会っていたら、それは子や孫の成長を楽しむ好々爺そのものの様な風貌だった。
恵瓊は今でも元就に初めて謁見した時の事を忘れない、いや、忘れられない。
この世には人の姿をした化け物、というものが存在するのだと思い知らされた。
一目見た瞬間に『毛利元就』を、同じ「人」であるという見方が出来なくなったのだ。
その息子たちは化け物の血を引く者たちだと思い、内心怖れを抱いていた恵瓊ではあったが、息子たちはすこぶる優秀ではあっても、同じ「人」であった。
あの時あの瞬間、恵瓊が元就の命じるがままに、外交を主任務とする外交僧として仕えよという言葉を、ただひたすらに平伏して従ったあの瞬間、恵瓊は元就に対する復讐を諦めた。
自分は「人」である。
「化け物」に挑めるのは同じく「人」の領域に収まり切らない「化け物」でなくては、勝負にならないだろう。
幼い頃からの艱難辛苦、それこそが毛利元就を「人」の領域に収めない「化け物」へと変じさせた。
無論恵瓊自身もその元就によって幼い頃から苦労はしたが、元就にはその「化け物」に成り切れるだけの素養と実力があったのだ、と恵瓊は解釈した。
そして今の当主輝元は、父や叔父と同じ血が薄まったためか、凡庸極まりなき「人」である。
ならば対する織田の総帥、今や天下人とも呼ばれる信長はどうか。
信長も若い頃から様々な艱難辛苦を乗り越え、そして今の地位まで上り詰めた紛う事無き英雄の一人であり、果たしてこれも「人」の枠に収まり切るかどうかは怪しい。
話に聞く、そして現在までの功績を鑑みて、当主としての器の勝負なら間違いなく織田家に軍配が上がるだろう。
その信長がここに来る、あの時元就から感じた恐怖を、元就が死んでもうあの眼の昏さに怯える心配が無くなった、と安堵したというのに。
元就以外の別の人間があの気配を纏わせながら、毛利殲滅のためにやってくるのかもしれない。
恵瓊自身が考え過ぎた、という部分はあっても事実信長が中国地方にまで出向いていたら、毛利家は本当に滅ぼされていた可能性はある。
恵瓊の強気な態度はついに折れた。
それでも羽柴側の言い分全てを鵜呑みにする訳にはいかない、せめてもの折衷案を出して、毛利家側の重臣たちを納得させる材料を作らなければならない。
清水宗治の命は惜しいが、彼を切腹させて城兵の命を助ける、というのは双方にとって益もあることであり、宗治本人の名誉も上がり後世に名を残すだろう。
そして官兵衛の出した当初の領土割譲条件、五ヶ国割譲を三ヶ国割譲に減らし、他にも様々な諸条件はあったものの、織田との存亡を賭けた一戦を行うよりは、マシな話であった。
毛利両川、と言われた吉川小早川の主力軍まで引っ張り出し、それでもし信長率いる織田軍との決戦に負けた場合、九州や瀬戸内、四国の領土云々の話ではなくなる。
勝てる可能性は五分と五分にしても、負けた場合の被害はそのまま毛利家滅亡にすら繋がりかねない、致命的な大打撃となるだろう。
その一方で勝てたとしても、他の方面での軍勢を手薄にしてまで対織田軍に注力したため、その影響でもって結局毛利は弱体化を免れない。
もちろん織田にも相応の被害をもたらすだろうが、果たしてそれが織田家全軍にとっての割合はどれくらいになるのか、恵瓊には分からなかった。
こうして講和条件の大部分は纏まった、という所でその日の話は終わり、それぞれが席を立つ。
だが、せめてもの置き土産、とばかりに恵瓊は杖を持った官兵衛に言い放つ。
「信長公は位人臣を極められる方かも知れませぬが、あの御方の御気性では、いずれは高転びに倒れる末路が待っていましょう。 羽柴様であれば、もっと良い形に収まるかもしれませぬが、な」
世間話を装った、謀反の楔、である。
この言葉を官兵衛が秀吉に伝え、その言葉を鵜呑みにした秀吉が信長に対して謀反の兆しを見せれば、それを機に織田の内紛に発展し、その内紛こそが信長の高転び、に繋がるかもしれない。
遠回しな「離間の策」である。
毛利という外からの力で信長を倒せぬなら、信長の足元からの力で倒れさせてしまえば良い。
官兵衛も出世欲が旺盛な性質、と見抜いた上でまずは官兵衛が、その後秀吉がその気になればまさに将棋倒しの要領であると、恵瓊は思っていた。
「そうだな、わしもそう思う」
官兵衛は恵瓊に背を向けながら、そう一言だけ言ってその場を去っていった。
コツ、コツ、という官兵衛の杖の付く音が遠ざかっていく中、恵瓊はその場に立ち尽くしていた。
今のは一体どういう意味だ、わしの言葉は上手く官兵衛を刺激出来ていたのか?
結果は分からないが、とりあえず話し合いの結果を毛利陣営に伝えに戻らなければならない。
恵瓊はそそくさと帰り支度をまとめ、大きく息を吐いた。
恵瓊自身も無意識の事だったのだろう。
今回の講和がまとまったのは、恵瓊が信長という存在に畏れを抱いた、というよりかつて存在した化け物と同じものが、今また自分の前に現れる事を恐れた上での、逃げの判断故であった。
そして先程の言葉が、「信長」という存在を自らが知る最恐の存在『毛利元就』に重ね合せることで、その存在がこの世から抹消されることを望んだが故の、口をついて出てきた言葉であったと。
毛利元就、という人間が世を去って既に十一年の年月が流れている。
「戦国時代最高の謀将」とまで言われた男は、死してなおその存在によって世の中を動かしていた。
清水宗治の切腹は、備中高松城を水没させている水の上、今や湖と化した場所の船上で行われた。
敵味方双方、数万の軍勢が見守る中で見事果てた清水宗治は、その後「武士の鏡」として後世にまで名を残し、彼の切腹はその所作を後の世の切腹の見本、とまで言われるようになるのである。
世にも珍しく、そして誇らしく水上で果てた清水宗治の最期を見届け、秀吉は即刻陣を引き払って京への大強行軍を敢行した。
官兵衛が恵瓊と講和会談を行っている頃、秀吉は陸上と海上双方の根回しを行い、一旦の集結地点として全軍に姫路城を目指させた。
そこで兵力をかき集められるだけかき集めて、明智軍へと決戦を挑むのである。
そして今、かつては官兵衛の居城であった姫路城に羽柴軍のほぼ全軍が集結している。
京では今頃、いきなり羽柴軍が畿内に戻ってきた事を知って、明智軍は右往左往していることだろう。
向こうが動揺している間に、こちらは着々と準備を進めていく。
そして期待していた四国遠征軍と連絡が付き、その軍勢も集結させれば明智軍の予想戦力の優に倍以上の兵力が用意できる、と喜んだ秀吉の耳に、次の知らせが届いた。
四国遠征軍は信長三男・信孝の直轄軍と副将・丹羽長秀の部隊以外は、ほとんど逃げていて当初の数の半分以下であるという。
「使えんのぉ……丹羽殿までおってその体たらくか、こりゃ大義名分のためにしか…いや、いっそ御父君の仇討ですから一番槍の先陣を、とか言って戦で明智諸共に…」
誰にも聞こえないようにボソボソと言っているつもりの秀吉だったが、持ち前の声の大きさから、報告に来た兵士だけでなく、少し離れた場所に座る官兵衛や石田三成にまで丸聞こえであった。
兵士はあえて何も言わずに、片膝をついて報告時の姿勢のまま頭を上げない。
官兵衛は無反応なまま、上がってくる情報を精査してまとめている。
ただ唯一その場にいた若者、石田三成のみが「そこまで言ってしまって良いのか」という顔をしてしまっていたため、秀吉はバツが悪そうに咳払いを一つしてごまかした。
毛利元就、という年代的に登場不可能な武将に少しでもスポットを当てたかった、という気持ちが膨らんだ結果、本文中のようなことになりました。




