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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 首巻 その2

少々焦らす形になってしまいますがご了承下さい。

       信長続生記  首巻  その2



 明智光秀、という人物は聡明かつ理知的で、領内統治・外交政策・軍指揮官いずれも人後に落ちず、また鉄砲の腕前は名人、と称されるほどの者であったという。

 家柄も祖先は清和源氏に連なる者として、信長に仕える以前は朝倉家や足利将軍家に仕えたとされている。

 若い頃の光秀の経歴は諸説あるが、一族が離散の憂き目に遭い苦労したという逸話もある。

 そんな光秀の人生の転機となったのが、織田信長との出会いである。

 多方面に渡る才覚を示す光秀が、信長の目に止まりやがて重臣に名を連ねるようになるのは、必然であったとも言える。


 京都の朝廷や幕府との対外折衝なども行いながら、内政と戦を同時にこなしていき、さらには敵方・あるいは中立を保っていた者の調略も行ったという光秀。

 彼はあらゆる面においてその才を発揮していき、そうなれば当然信長からも絶賛される。

 光秀も自らの才を認め、褒め称え、それに見合った褒賞を与えてくれた信長に感謝し、天下に並ぶもののない大勢力へと成長を遂げた織田家の、実質的な副将格にまで出世していた。

 実力のある者を身分・出自を問わず引き入れ、働きに合った褒美を与えるという信長の姿勢は、多くの技能と才覚を備えた光秀にとって、最高の職場環境だったのかもしれない。

 実際の所、光秀は信長からの褒美として領地や名物などを多数下賜されている。


 天正十年五月時点での織田家の状況は、重臣それぞれに各地方への遠征軍を任せ、それぞれの采配で戦を行わせた多方面同時侵略戦の真っ最中であった。

 この時代、それまでは各地方戦線で何万という大規模な軍勢を同時に動かし、また維持をしていくだけの軍事力と財力を持ち合わせていた勢力などはいなかった。

 それを実際に成し遂げ、互いに戦果を競わせることによって更なる目標達成への時間短縮を狙った、信長らしい実に合理的な戦略であったと言える。

 各地方戦線はそれぞれが独立し、信長は安土城に座したまま各地の報告を聞くという体制である。

 これによって信長自身は京を睨み、必要に応じた指示を各戦線に送り続ける事で、『天下布武』を推し進めていった。


 越後国を中心にその名を天下に轟かせた稀代の戦上手・上杉謙信。

 その上杉謙信率いる上杉家に対抗するため、織田家きっての猛将と謳われた柴田勝家は北陸へと向かい、越前から能登・越中などを主戦場に戦をくり返していた。

 上杉謙信存命中には、手取川の戦いと言われる合戦で柴田勝家を総大将とした織田軍は大敗を喫し、上杉軍が優位に立つがやがて当主・謙信が死去。

 上杉に傾いていた状勢は一気に織田へとひっくり返り、勝家の織田軍は猛烈な反撃を行った。

 さらに謙信の正式な後継者を決めていなかった上杉家では、世に言う「御舘の乱」と言われるお家騒動が勃発、ここに来て内乱により織田家を相手に戦っている場合では無くなっていた。


 一方の関東では、実質的な関東の支配者にまで上り詰めていた北条家が、『関東管領』の役職を与えられた滝川一益をはじめとする、織田家の重臣と若手武将の混成軍との戦を始めようとしていた。

 武田信玄亡き後の武田家は、信玄没後二年経った天正三年に起きた長篠の戦いにおいて、多くの重臣を失ったことで弱体化し、天正十年の三月には信長から織田家の家督を譲られた嫡男・信忠を総司令官に据えた、武田殲滅の軍勢によって討ち滅ぼされていた。

 それによって旧武田領は織田家の家臣たちに分配され、新たに領地を接することとなった北条家との間に、戦端が開かれる事となった。

 だがこの時点では、北条も積極的に織田家と対立しようとは思っておらず、潜在的な敵という認識はしても、正面からぶつかる事を避けている節もあった。

 なので当初は同盟・従属などの道を模索しながらの行動であったため、滝川一益との大規模な戦は行われてはいなかった。


 さらに四国地方に対しては、土佐国を本拠とする長宗我部元親による四国統一が近付いており、信長に恭順することを拒否した長宗我部を討つための、四国遠征軍が着々とその準備を進めていた。

 遠征軍の総大将は信長の三男・神戸信孝であるが、実質的にはその副将として付けられた、丹羽長秀による采配で四国制圧戦が行われる。

 先に行われた武田家殲滅戦の総指揮を執った嫡男・信忠に負けじと武功を上げようとする信孝の、手綱を取りつつ戦を進めるという難しい任務ではあったが、内容を問わず全ての任務を着実にこなすことでも定評のある丹羽長秀ならば、という人事であった。

 事実、明智光秀程の派手な活躍は無くとも、丹羽長秀は安土城の建築総指揮を任されたこともあり、長年の働きもあって信長の信頼も篤かった。

 『米五郎左』の異名を持ち、どんな時にも必要になる、すなわちどんな仕事でも出来る、と謳われた丹羽長秀だからこその役目であった。


 そして中国地方においては、こちらもあらゆる仕事をこなす事でも定評のある羽柴秀吉である。

 既に中国地方に覇を唱え、先々代・毛利元就の代で一挙にその版図を拡大した毛利家は、元就の息子・吉川元春と小早川隆景の二人を軸に、侵攻してくる羽柴軍に対抗した。

 九州や四国・瀬戸内にも勢力を持つが故に、羽柴軍だけに力を集中できなかった毛利家は徐々にだが押され、すでに数ヶ国を羽柴軍の勢力下に置かれていた。

 城攻めの天才と言われ、城攻めの常套手段である兵糧攻めのみならず、城の周りに堤防を築いて城を水上に孤立させるという日本戦史史上初の水攻めを敢行した秀吉は、備中高松城をその水攻めで攻め立て、城主・清水宗治に降伏勧告を行っていた。

 だがその一方で、いよいよ対羽柴に戦力を集中し始めた吉川元春と、小早川隆景率いる毛利家主力部隊が、その備中高松城に迫っている。


 最後に、織田家勢力圏の中心地であり、朝廷を擁する京都と本拠地安土城を含む畿内の遊軍を統括するのが明智光秀であった。

 織田家の実質的な副将である光秀は、古今の知識を修め、礼儀作法にも隙が無く、朝廷に対しても最も顔の利く人物としても認識されている。

 また、敵地であった土地の精密な調査などにもその才を発揮したため、新たな支配地を家臣に分配する前にまずは光秀が現地に入り、精査した上で信長に報告、その後恩賞を振り分けるなどの制度が取られていたという話すらあるほどだった。

 丹羽長秀・羽柴秀吉すら超える、万事においてそつなくどころか、万全なる仕事を行う明智光秀の面目躍如であった。

 その光秀に、信長から一つの新たな命が下された。


『徳川家康饗応の任を解く、急ぎ領国にたち帰り軍勢を整え、サルを助けてやれ』


 中国の対毛利戦線を任された秀吉からの救援要請があったのだ。

 これは本来であれば、近畿にいる軍勢を信長自らがまとめ、一挙に毛利家を叩き潰す所であったのかもしれない。

 しかし信長は中央で、安土にいてこそ京都を中心とする各地への睨みが効く。

 信長自身が動くわけにいかず、かといってそのままにしておく訳にもいかない。

 そこで信長は光秀に秀吉救援を命じた。


 光秀は命令通り、家康をもてなす役を途中で別の者と代わり、領国へと戻っていった。

 家康は武田討滅の功を労う・またその帰路において最高のもてなしをしてくれた返礼がしたい、という名目で信長に安土へと招待されていた。

 家康はその招きに応じ、日本で一番栄えているという商業都市・堺の街見物もその後の予定に入れ、当時の世には珍しい少人数の供だけを連れた、観光旅行のようなものを行う予定だった。

 これは信長の勢力下にある地域ならではの、抜群の治安の良さが成せるものでもある。

 でなければ東海三ヶ国を収める太守・徳川家康程の貴人が少数の供で旅路に、などとはあり得ない話であった。


 日本一商業が盛んであるという自負と、誰の支配も受け入れない自治都市として名を馳せた堺も、この時はすでに信長によって半ば支配地域と化していた。

 「会合衆」と言われる堺を支配していた大商人の何人かはすでに信長の息がかかっており、堺の街中にも相当な数の織田家臣が密偵として入り込んでいる。

 また、戦の際にも軍資金を徴収したり、鉄砲・火薬・硝石なども生産・輸入させるなど、織田家の屋台骨を支える重要な存在の一角となっているほどだ。

 だが今や日ノ本一の大勢力と化した織田家と、密接な繋がりを持つが故の発展もまた事実である。

 以前とは違う形ではあるものの、堺の街は以前として日ノ本第一の巨大商業都市として、日ノ本全土に名を馳せていた。


 家康は安土城での饗応を受け、5月中に安土を出て堺へと向かった。

 堺の街に着いた家康は、海の向こうから来る様々な見た事もない品物の数々を、二十人程度の少ない供と見て回り、その日は堺の街で一泊となった。

 そこから遡ること数日、明智光秀は領国へと戻って兵を集め、中国地方へ遠征するための部隊の形成を終えていた。

 その部隊は中国地方にいる秀吉の元へは向かわせず、わざわざ遠回りになるはずの京へと向かう道を進ませた。

 付き従う者達は、一見不可解にも思えるこの光秀の行動に、誰一人異論を挟むことなく粛々と歩みを進めて行く。


 その部隊の総指揮官である光秀は、その真意をこの場の誰にも明かせずにいた。

現時点でこの「首巻」はその4までを予定しております。

今しばらくお付き合いの程、よろしくお願いいたします。

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