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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その6

            信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その6




 家康は無事に三河国、そして自らの勢力圏を通り、遠江国・浜松城へと到着した。

 実は途中、自分の首を狙ってくる者がいつ、どこから襲いかかって来るか分からない、という恐怖に耐えかねた家康は弱音を吐いたりもしたという。

 「もはや生きて三河に帰る事は望めぬ、ならば信長殿に殉じようぞ」などと言って、切腹しようとしたがそれを周りに力ずくで止められ「自分たちが必ずや殿を無事に三河へお帰しいたします」と断言されて思い直した、という逸話もある。

 その発言で家康を思い留まらせたのは、武勇に優れた者の多い徳川家臣団の中でもその武功は随一、戦国最強の名を欲しいままにしていた当時の武田家にすら『家康に過ぎたるものが二つあり 唐の兜と本多平八」と謳われた、本多平八郎忠勝だったという。


 さらに忠勝は道中の安全を確保するため、村を見かけたらその村の村長宅へ行き、村長を人質にして次の村まで案内させる、という荒業を使ったという。

 当時落ち武者狩りなどを行うのはその近辺の村に住む住民が、戦で荒らされた田畑や家、もしくは人さらいに遭うなどの被害を補填する上でも、公然と行われていた行為であったため、村長を人質に取ることでその村の住民からの襲撃を防ぐことが出来る、という判断であった。

 その判断は上手くいき、さらに茶屋四郎次郎は協力をしてくれた者へは惜しみなく金銀などを渡し、硬軟使い分けた様々な手段を取ることで、家康は窮地を脱した。

 この時の茶屋四郎次郎の働きを恩に感じ、家康はこの後も四郎次郎を御用商人として重く用いて、後の江戸時代においては四郎次郎の家は巨万の富を築いたのである。

 それでも途中、最大の難関が立ち塞がった。


 伊賀国に細々と生き残った伊賀忍者たちである。

 信長による『天正伊賀の乱』と言われた伊賀の里襲撃で、その勢力を大きく減らす一方、信長への恨みを募らせる者たちが、果たして信長の同盟者たる家康を黙って見過ごすだろうか。

 そこで家康は今自分を助けてくれたなら、必ず伊賀の里復興に尽力するという約束を伊賀出身の服部正成に託し、それを信じて家康の護衛を買って出てくれた者たちをそのまま召し抱えた。

 後年この時召し抱えた伊賀忍軍は将軍家お抱えの忍び集団となり、その頭領は服部正成、世に言う「服部半蔵」が務め、その功績によって後の江戸城にも『半蔵門』という名の門が作られるようになり、今の東京都内を走る地下鉄『半蔵門線』などにもその名前が残っている。


 こうして無事伊賀国も抜け、伊勢へと辿り着いて船を手配し、船上で飯を出された家康は「殊の外風味良し!」と、満面の笑顔で飯を食ったという。

 そうして三河に到着後、遠江にある本拠・浜松城まで帰り着いた家康は、帰りを待ちわびていた家臣たちの安堵の表情を見て、ようやく帰って来れたと実感し、大きく息を吐いたのだった。

 だが京周辺は変わらず明智軍の支配下にあり、情報をかき集めてみると既に安土城すらも明智の手に落ちたという。

 家康自身信長の同盟者という事で、仇討の戦に参加する大義名分もあれば、その遺志を継いだ天下統一まで視野に入れた、いわば信長の後継者としての地位すら確立することも不可能ではない。

 無事に領国へと戻り、家臣たちも無事、ならば今自分が真っ先に成すべきことはなにかと考える。


 家康は正直迷っていた。

 今ここで信長の同盟者として、その地位を引き継いだ者として振る舞い、あくまで織田家との誼を通じたまま天下統一事業に乗り出すのか。

 それとも信長亡き後の織田家を見限り、明智包囲網なるものが織田家臣団で形成されるのを待ち、両陣営の疲弊を待ってから、全てをまとめて飲み込んでしまうか。

 明智はおそらく自分側に付く者を取り込み、さらに強大化するだろう。

 しかし織田家臣団の、特に各方面軍がそれを黙っているとは思えない。


 近い内に織田家臣団は真っ二つに割れて、明智側と反明智側に分かれて内紛に発展するだろう。

 現時点では兵力はともかく、状況は明智側が優勢と見る。

 家康が浜松城に帰り着いた時には、明智光秀からの一通の書状が届いていた。

 そこには朝廷の後ろ盾を得たこと、信長亡き後の天下の行く末を話し合いたいということ、また過去の経緯を一切問わずに、同盟を結ぶ意思がある者を拒まぬことなどが書かれていた。

 これを明智光秀の本心と捉えるか、それとも罠にかけてきた者を謀殺する策略か。


 だが疑問もあった。

 家康が浜松へと到着する前に、光秀の使者は浜松を訪れてその書状を置いていったらしい。

 留守を預かる家臣が「殿はまだお戻りではない」と言うと「お帰り頂いてからお読み下されば結構、それまではどなたの目にも触れぬようお願い申し上げる」とだけ返して去って行ったという。

 その使者が来た次の日、浜松に本能寺の一件の凶報が届き、使者からの書状を開けて読むか否かで家臣は揉めていたのだという。

 だがそこは感心半分嘲り半分で『三河の武士は犬のように忠実だ』と言われる三河武士の気質である、たとえ家康が無事に帰って来るかどうか分からなくとも、主君宛の手紙を勝手に読むような無礼な真似はしなかった。


 そうして家康は無事帰り着いてから、明智の使者が置いていった書状に目を通したのである。

 いずれにしろ京や安土を抑えた光秀なら、朝廷の後ろ盾を得ている、というのも満更あり得ない話でもなく、茶屋四郎次郎からも聞いていたし、光秀という男が朝廷に顔が利くのは周知の事実である。

 家康も信長とは長い付き合いで、光秀とも何度も顔を合わせ、彼の人となりや有能さ、彼の親戚関係や家臣団などもおおよそ把握は出来ている。

 だがそれだけに分からない、なぜあの男が信長を殺したかが。

 信長は光秀を重用し、全幅の信頼を置いていたのではなかったのか、それを利用した光秀が自らの天下簒奪のために信長を討ったのだろうか。


 書状から読み取れる情報から考えても、明智が突発的な行動に出たとは思えず、性格的にも内容的にも計画性があっての行動だとは分かるのだが。

 書状の内容が嘘だと断言できる材料は少なく、また信長を討った明智の真意がどこにあるのかもわからない、だが早晩結論を出して行動を起こさなければ、おそらくは乗り遅れる。

 信長の死という大きな衝撃によって、日ノ本を覆う時間の流れは一気に加速して、その流れに乗れる者と乗れない者を大きく振り分け、そして乗れない者に待つのは悲惨な転落であろう。

 既に三河、遠江、駿河の三カ国、かつて『海道一の弓取り』と謳われたあの今川義元、彼の生前領した最大の規模に並ぶほどの成長を遂げた徳川家が、この大きな時代の流れに乗り遅れるわけにはいかない。

 自らを信じ、命を賭ける事も厭わない家臣の忠勇に応えるためにも、家康に誤りは許されない。


 しばし悩んで、家康は次にもたらされる状況報告によって、どの道に行くかを決めようと結論を出した。

 家康の頭の中で用意した道は、大きく分けて三つ。

 一つは対明智に集中し、場合にもよるが基本的には織田家とは同盟を維持したままで、天下統一事業を補佐、もしくは受け継ぐ形で行く。

 もう一つは独自路線、信長の仇討を含めた対明智への対応は、基本的には織田家の家臣団に任せる。

 その間に自らの領地を拡大し、場合によっては北条家などとも開戦して、あくまで明智とは相互不干渉、織田家とも距離を置く形。


 最後の一つは信長を討った明智と、同盟を結び直して新たな天下統一事業に協力する形。

 むろんこれは書状の内容が全て真実で、明智がこちらを罠にかける気が無いことが前提となるが。

 しかしこの道はおそらく織田との決定的な手切れとなるため、関東方面を任された滝川軍などとは即開戦に踏み切る覚悟すら必要だろう。

 それを考えると最期の一つは少々危険性が高い、その上長年の同盟国との手切れになるため、下手をすれば自らに悪名を付ける事にもなりかねない。

 もちろん他二つが安全確実な保証はどこにもないが、それでもやはり道の一つとして考えておく。


 おそらく今日中にはまた新たな報告が入る。

 留守居の家臣たちも大分情報収集に力を入れてくれていたが、やはり自分が戻ってきた後だと家臣たちも最大の不安が払拭されたためか、テキパキと仕事をしてくれる。

 家康は京周辺の新たな情報が入り次第、最優先かつ時間を問わず報せるよう命じていた。

 その一方で主立った家臣に戦の準備に入らせ、場合によっては即座に出陣できるようにもしている。

 新たな報告の内容によって、三つの内のどれかの道を進もう、家康はそう考えていた。


 史実では一つ目を実行しようとしたが秀吉に先を越され、結果として二つ目の独自路線展開に進んだ家康であったが、史実では起こりえない事が起こるのが今のこの時である。

 浜松城内にある家康の居室、浜松城でも奥まった所にある、家康個人の私室である。

 そこに足音を響かせて報告に来た者がいる。

 どうやらよほど慌てているらしく、ドタドタとうるさいくらいだ。

 だがその音が、次にやってくる報告の重要性・緊急性を表しているかのようで、家康はむしろ早くその報告が聞きたくてしょうがなくなった。


「きたか。 さて、わしが進むのはどのような道か」


 報告に来た兵の口から出る言葉によって、家康はどれかの道を選ぶ。

 いわばこの後家康が聞く言葉が、徳川家の命運を左右するのだ。

 自然と家康の手に力が籠もり、服の下には汗をかき、のどが渇いてくる。

 足音は家康の居室の前で止まり、ふすまの向こうから「申し上げます!」という声が聞こえた。

 即座に家康も「苦しうない、申せ!」と返す。


「只今大手門前にて、織田信長と名乗る男の一行が殿にお目通りを求めてきております、既に酒井忠次様、本多忠勝様、榊原康政様が確認のため、大手門に向かっております!」


 その言葉に、家康の頭は真っ白になった。


「………は?」


 気が付けば、口から出た言葉は意味を成していなかった。

 報告に来た者も、どうやら自分でもおかしなことを報告したと自覚しているようで、今度はその声音が少し弱々しくなった。


「そ、そして……『吉法師が遊びに来た、と竹千代に伝えよ』と……信じられない事ではございますが、本当に織田様であれば一大事かと」


 家康はどのような報告が来ても、驚かないよう心に決めていた。

 だがさすがにこれは予想の外にあり過ぎて、家康もその思考を止めてしまっていた。

 家康からの返答が返ってこない事に、報告に来た家臣が戸惑いながら声をかける。


「その…いかがいたしましょうか」


「ん、あ、ああ……そうじゃのぅ、忠次たちが確認に行ったと申したな。 ならばあやつらが信長殿本人と確認出来たなら急ぎお通しせよ、わしも忠次たちから話を聞いた上でお会いしよう」


「はッ」


 家康の指示に報告に来た家臣がすぐさま駆け戻っていく。

 そして周りに誰の気配も無くなってから、家康は息を吐きながら一人呟いた。


「まったくつくづく予想の付かぬ御仁よ。 謀反慣れしておる、とでも言うのかのぅ…なんにせよ、これで明智と結ぶ手は無くなったわ」


 家康の待ち望んだ新たな報告、それは徳川家の未来を左右することは間違いない。

 だが、それは家康の望んだ報告とは毛色が違いすぎる上に、考えてあった道の全てを根底から覆すものであった。

 訪ねてきたのは信長本人で間違いない、と家康は見ている。

 信長と家康の同盟は二〇年にも及び、また本能寺の一件を知って信長を騙ろうとする者など、どこの国にもいる筈がない、という判断である。

 信長を騙った偽物が、長年の同盟相手の本拠の大手門前で「自分は信長だ」などと語ろうものなら即座に斬り捨てられて、後には精々「馬鹿がいた」という笑い話にしかならない。


 問題はどうして信長がわざわざ遠江の浜松城まで来たのか、である。

 安土・岐阜・清州といった歴代の信長の居城、そのどこかによれば信長生存はすぐにこちらの耳にも報告として届いたであろうに。

 どうやら、きな臭い何かがありそうだ、と家康は心の中だけで呟き、腰を上げる。

 本能寺の一件で互いに死地を脱した者同士、果たしてどのような話題になるやら、などとどこか他人事のようなことを考えながら、家康は居室を出た。

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