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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その5

今回は各地の状況です。

            信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その5




 織田家の多方面同時侵攻戦を担う各方面軍は、信長の死を知らされた瞬間、その動きを止めた。

 まずはほど近い四国侵攻のために、渡海準備をしていた四国方面軍。

 信孝は父の死を知って狼狽え、丹羽長秀は情報の真偽を確かめるために各地に斥候を放ち、その一方でその首謀者が明智と知るや否や、明智光秀の娘婿となっていた津田信澄を斬り捨てた。

 津田信澄は、元々は信長の甥に当たる人物である。

 だがこの人物はその立場からして、色々と疑問を持たれがちな人物でもあった。


 まず津田信澄の父、というのが信長と同腹の弟・信行であり、この信行という人物はかつて信長の家督相続に異を唱え、戦を起こして信長に敗れている。

 同腹の兄弟であるためか一度目は許されたが、懲りずに二度目の謀反を画策したため、一度目で信長の器を思い知った柴田勝家などが信長に密告、その後暗殺されていた。

 信澄自身は当時まだ幼少であったため、その命を助けられはしたが「織田」の名を名乗ることは許されずに、「津田」という別家を立てる事になったのである。

 もっとも、信長も「津田信澄」という名で働く甥を邪険には扱わず、自らの息子たちや弟たちに次ぐ、いわば準一門衆のような扱いでその立場は低いものではなかった。

 だがそれが、この時の信孝に危機感を募らせた可能性もある。


 「津田信澄」の経緯は当然信孝も知っており、従兄弟であると同時にかつては父同士が戦を起こした同族の人間でもある。

 それが信長によって許され、今ではそんなに扱いも悪くなく、そして自分に付けられた部下でもある。

 だが彼の父は間違いなく自分の父信長を殺そうとした逆賊の血筋であり、しかもその妻は自分の父を本当に殺した明智光秀の娘なのだ。

 逆賊の血筋の人間が、謀反を起こした男の娘を娶り、自分の傍にいる。

 これが、信孝の心境であれば平静ではいられないだろう。


 無論津田信澄自身は無実、無関係を主張した可能性も高い。

 だが結果として、本能寺の変から三日後には信澄は討ち取られ、その首は堺の街に晒されるという哀れな結末を迎えた。

 当然のことだが、その首が晒された時には家康は堺を脱出している。

 そして津田信澄を殺すこと以外目立った動きを見せることが出来なかった四国遠征軍だが、その内訳は逃亡兵が相次ぎ、もはや軍としての立て直しは不可能に近かった。

 明智軍の最も近くにいながら、座して黙する事しか出来なかった四国遠征軍を率いる信孝は、史実ではその後躍進する秀吉によって徐々に立場を失い、切腹して果てるのである。



 変わって北陸、対上杉戦線を担当する柴田軍はその知らせに一様に困惑した。

 柴田勝家を総司令官としたこの軍勢には、前田利家・佐々成政をはじめとする織田家の有力家臣も多く付けられていた。

 だがそれは言い換えれば織田家譜代の家臣が多い、という事でもあり、信長が死んだという衝撃は他の方面軍よりも強く響いていた、という事にもなる。

 「掛かれ柴田」と呼ばれるほど、戦場での活躍目覚ましい猛将・柴田勝家ではあるが、既にこの時齢六十を超え、本来であれば隠居していてもおかしくない年齢ではあったが、信長への忠誠心を貫くため生涯現役の意思をもって、戦場に臨み続けていた。

 そして上杉の支配する越後制圧を完遂し、長年の信長への奉公の集大成にと思っていたこの北陸侵攻戦は、思いもよらぬ事態となってその歩みを止める羽目になった。


 柴田勝家を慕い、そして信長を敬っていた前田利家や佐々成政などは、茫然とした表情で肩を落とし、今にも魂が抜け落ちそうな状態だ。

 知らせが届いた後、すぐさま各部隊の指揮官を集め事の次第を説明した勝家は、全てを話し終えた上でそれぞれの意見を聞くことにした。

 もっとも、勝家自身もそれで事態が好転するとは思えなかったが、やらないよりは良かった。

 なにせ全く想定できなかった大事件である、これで冷静でいられる者は、かえって信用できない。

 こうして柴田軍での緊急軍議が開かれる事となった。


 議題は「故あって信長を害したが、これは朝廷の後ろ盾を持つ明智光秀の行なった義挙であり、織田家の各方面軍を統括する諸将と、敵対していた各勢力の代表者は即時停戦を結び、京まで来られたし。 なお、これはこの日ノ本全体の存続に関わる問題であり、これを無視することは朝廷に弓引く逆賊の汚名を着る事になる。 しかし、志を一つにする者とは、過去の経緯一切を問わず、ただ目標に向けて合力したいと思う、各々の英断を心待ちにしている。 明智日向守光秀」という内容の文について、である。


 朝廷の後ろ盾、という点にまず疑問も出る。

 そして信長が本当に殺されたのかどうか。

 さらに日ノ本全体の存続に関わる問題とは何か。

 朝廷に弓引く逆賊、すなわち本当に朝敵、とされてしまうのか。

 最後に「志を一つに」とは言うが、一体何を目的とするのか。


 どうにも分からない事だらけであった。

 これは光秀が本当にこちらに理解させる気が無く、ただのこのこと京に向かった所を、騙し討ちにする計略ではないかと疑うことも出来る。

 しかしその一方で「朝廷」や「日ノ本全体の存続に関わる」などと、随分と大風呂敷を広げている部分もあるため、本当に重大な問題である可能性も捨てきれない。

 柴田勝家は、猛将と知られるがあまり内政には全くの不向き、戦うだけの武将とも取られることが多いが、決してそんなことは無く、どの分野においてもしっかりと仕事をこなせるだけの能力を持っている。

 ただその中でも戦での武功が突出し、織田家随一の猛将として他の追随を許さぬからこそ、戦での武功ばかりが注目されがちなのであった。


 そしてその勝家が、戦場に長年身を置き続けた者ゆえの勘なども総動員した上で、一つの結論を出していた。

 折良く、衝撃から立ち直った前田利家から「親父様はどう思われる」と、意見を求められた。

 前田利家は柴田勝家を実の親のように慕い、呼ぶ時も「親父様」などと呼ぶ。

 水を向けられた勝家は、居並ぶ諸将をぐるりと見渡し、重々しく口を開いた。


「この書状の語る所、正直に申さば…」


 勝家の言葉が一瞬詰まる。

 誰かが喉を震わせ、生唾を飲み込む音すら響く。

 皆が勝家の言葉を聞き逃すまいと、何一つ物音を立てない。


「解らぬ、としか言いようがない」


 その言葉に、全員が一斉に泣きそうな顔になる。

 だがそんな諸将の顔を気にも留めず、勝家は言葉を続ける。


「あの光秀が、本当に上様を害するとなればそれは余程のこと。 仮にこの書状の全てが真実であれば、おそらく全ての敵味方に知れ渡っていることになろう、ならば我らはまず上杉の動きを見る。 上杉が即時停戦を求めてきたら応じ、まずは各地の軍と連絡を密にした上で光秀の真意を確かめねばならん」


 その言葉に「そういう指示を待っていたんだ」と、居並ぶ全員がそう言わんばかりな顔になる。

 しかし今度は佐々成政が口を開く。


「では、逆に書状の内容が偽りであれば?」


「それこそ愚問よ。 このようなつまらぬ謀を巡らせた光秀の首など、ねじ切ってやれば良い」


 声と顔に怒りを滲ませてそう言い放った勝家に、今度は全員が「この人は本当にやるだろうな」という思いを一致させた。

 書状を握り潰し、勝家は立ち上がる。


「お主らもここで話した内容は一切他言無用、上杉への監視は倍に増やせ。 わずかな動きも見逃すな! また、京・安土方面への伝令を至急遣わして状況を探らせよ。 各方面軍への連絡も忘れるな!」


 柴田勝家の指揮に、全員が立ち上がって「応!」と答える。

 織田譜代であるからこその一糸乱れぬ統率、それこそが柴田軍の強さの真骨頂であった。



 さらに一番距離が離れていたが故に、一番最後に知ることになったのが関東の北条と戦を始めた滝川一益であった。

 一益は当初、どういう事が起きたのか分からずにいた。

 一益のいた上野国はとにかく京都からは距離があり、またすぐ戻ろうにも戻れぬ事情もあった。

 武田攻めの功により、上野国、現在の群馬県を領地として与えられたが、それからまだやっと二ヶ月半といった時期に、いきなりの凶報である。

 領内統治や関東の大部分を収める北条家、それ以外の関東の諸勢力にさらには奥羽の大名とも既に書状のやり取りなども始めており、北条家とはすでに戦の機運が高まっている。


 この状況でいきなり全てを投げ出して行けるはずもない。

 ましてや一益はいわば東国における、信長の名代のような立場を任されているのだ。

 自分がここで下手に取り乱して、いきなり全てを投げ出して上方に戻ろうものなら、それこそ織田家全体の沽券に係わる。

 そこで一益は、全てを投げ出せないのなら、全てを明らかにする道を選んだ。

 もちろん家臣たちは反対したが、一益はその反対を押し切って全てをぶちまけたのだ。


 上様を害した逆賊、明智光秀を討つためにこの滝川一益、たとえどのような邪魔が入ろうとも必ずや上方に舞い戻り、上様の仇を討つ、と大々的に言い放った。

 もちろんこれはその宣言を聞かされた者たちを、大いに戸惑わせた。

 織田家の勢いはまさに日の出の如く、抗うなどもっての外で、新たにこの地を領地とした織田家の重臣滝川一益には、極力気に入られてあわよくば信長の直臣に。

 などと考えていた者からすれば、その信長が死んだというのだから戸惑わぬはずがない。

 だが一益も戸惑われることは承知の上で宣言したのである。


 どのような邪魔が入ろうとも、とは反旗を翻そうというのならやってみろ、それらを全て潰した上で悠々と京に戻ってやる、という意思の表れだ。

 その後一益は本来急いで戻るべき所を、あえて余裕のある態度で数日を過ごす。

 もちろんその間も領内の様々な事務処理も進ませてはいたが、あえて外から見える部分においては余裕の態度で、攻めて来るなら攻めて来てみろ、と言わんばかりに振る舞っていた。

 すると北条家は総勢五万とも伝わる大軍勢の総力をもって、上野国に侵攻を開始した。

 さすがにこれは相手し切れぬ、とばかりに一益は程々に北条家にも被害を与え、自軍の被害も致命的なものになる前に、上野国の本拠・厩橋城に撤退し、北条軍の追撃を振り切った。


 しかしやはり関東から京への道のりは遠く、滝川一益はあの手この手を使って巧みに、そして強かに、少しずつ京へと近づいていった。

 一益以外の旧武田領を領地として分配された者たちは、それぞれが様々な道を辿った。

 例えば森武蔵守長可、かつて信長のために命を散らせた森可成の次男であり、森蘭丸の兄である。

 その武勇を褒め称えられ、武蔵守を名乗った事から「鬼武蔵」の二つ名で呼ばれる男でもある。

 彼は信濃国、現在の長野県の一部に領地をもらい、柴田軍と激戦を繰り広げる上杉軍を背後から挟撃すべく、越後国に侵攻していた。


 そして本能寺の一件を聞いた時には、率いていた軍勢が越後のかなり深くまで入り込んでしまっていたため、そこからの脱出に相当な手間と時間を要した。

 しかし信濃国に戻っても、そこも既に信長の死が知れ渡った事で四面楚歌の状況になり、それでも個人の武勇ととっさの機転などもあり、彼は無事に織田の勢力圏である美濃国まで生還することが出来た。

 その一方で甲斐国の大半を領地として貰い受けた河尻秀隆は、本能寺の事件後も甲斐国に留まり続けた。

 そこへ旧武田家臣たちの一斉蜂起が起こり、慌てて織田家の勢力圏に逃げようとするも、時すでに遅く河尻秀隆は、甲斐の地で討ち取られることになった。



 日本各地で信長の死、という情報が多大な影響をもたらしていく。

 夢にも思わなかったこの事態に、ある者は対応が遅れやがて没落し、またある者は素早く対応したことで後の世の栄華を得た。

 しかしそれも全ては信長が本当に死んでいたら、の事である。

 この時点・この歴史の流れの中では、信長は生きていた。

 しかしその事を知る者も、ごく僅かにしかいなかったのである。


 その信長は今、尾張、三河を超え、ついに家康が本拠とする遠江国・浜松城が見える所までやって来た。

 信長たち一行の視線の先にある浜松城は、別段混乱に陥っている様子は無く、ある意味では平穏なように見えた。

 これが家康がどこかで殺された、となればこんな状態ではないだろう。

 まず間違いなく、家康は無事にこの浜松まで帰り着いている。

 信長はそう確信して歩を進め、浜松城の門へとまっすぐ歩いていく。


(さて、なんと言って報せたらあやつを一番驚かせられるか)


 日本各地でその男が死んだ、という情報が大きな混乱を呼ぶ中、当の本人は悪戯を思いついた悪ガキの顔で、門番へと歩み寄っていった。

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