信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その4
信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その4
思った以上に上手くいった。
それが京を抜け出した後に思った一同の総意である。
旅装に身を包み、街中で寺院や親王がおわす御所が襲撃される、そんな状況の京にはいたくないと懇願すれば、明智軍の兵士はそれ以上引きとめもせず、京からの脱出を認めてくれた。
今現在の信長たちの格好は、至って平凡な旅装に身を包んだ一行である。
人数は5人、信長、帰蝶、蘭丸、フクロウ、犬助である。
信長、帰蝶はいわば最重要人物であるため当然京を脱出する、そして蘭丸も小姓として信長に同行する、さらにいざという時のための護衛・斥候などを担当するため甲賀忍者であるフクロウと犬助がこの一行に同行することとなった。
残された形になった弥助と木猿は、折を見て木猿が別の仲間と連絡を取りつつ弥助の所在を報告。
弥助には「信長の命令で妙覚寺に向かったが、明智軍に見つかり慌てて身を隠して潜んでいたら、本能寺が焼ける所を見て、途方に暮れている所を捕らえられた」という口裏合わせをしておいた。
あのまま本能寺にいて抵抗していたら、弥助もおそらく殺されただろうが、この状況ならおそらく弥助も多少の不自由は被っても、殺されるまではいかないと判断した信長である。
さらに上手くいけば、弥助を光秀に仕えさせてそこから情報を得ようとまで考えた。
もちろんすべてが上手くいくわけではないし、光秀が弥助を危険視して殺さないとも限らない。
信長からこの命令を聞かされた弥助は、当初こそ怖がったが信忠自刃の責任を感じたらしく、最後は自ら「ヤラセテクダサイ、ワタシ、ウエサマノタメ、ガンバリタイ」と言った。
仮に光秀に仕えられても、情報収集は弥助が怪しまれぬように、ある程度自由になってからで良いという事にしておいたので、信長も弥助からの連絡は最低数ヶ月は無いと計算していた。
そして傷を負っていた木猿も、他の『隠れ軍監』の者との諜報連絡役として、傷を癒しながら京の街に潜伏し続ける事になった。
そうしたことから信長の一行は数を五人に減らし、一路三河へと向かっていた。
既に甲賀の里や、他の甲賀忍者たちには今回の一件は知らせており、それぞれが可能な範囲で信長たちを後援し、また現時点での信長生存は誰にも知らせないように、という命令を下しておいた。
現在信長のいる地域は南近江、甲賀の里の近くである。
ここから南に行けば伊賀国、そして伊勢国があり、東に進めばやがて美濃国に入る。
南東の方角に尾張があり、さらにその先が三河だ。
そこで、「ずっと気になってはいたのですが」と前置きして帰蝶が口を開く。
「なぜ三河なのです? 安土は近すぎて危険なのはわかりますが、岐阜や清州でも」
「今のわしには、誰が敵か味方か分からぬからだ」
信長は歩みを止めずにそう返す。
確かに信頼していた光秀にすら謀反を起こされるのだから、織田家中において誰が味方で誰が敵になるか、もはや見当が付かない。
距離的なものと戦力的なもの、そして息子や重臣がいる事からも、四国遠征軍に頼るのが一番簡単な方法かと思われたのだが、信長はあえてそうはしなかった。
ありていに言えば四国遠征軍には、寄せ集めの軍勢しかいないからだ。
もちろん丹羽長秀の率いる部隊と信長三男・信孝の直轄部隊はその限りではない。
だがそれ以外の部隊は、所詮信長という絶対的支配者に従っているだけ豪族や、小大名たちのものであり、戦の趨勢次第では即座に逃亡もしかねない軍勢なのだ。
事実、本能寺の変後に仇討ちを掲げた秀吉の軍勢に、無傷のはずの四国遠征軍が合流した際には信孝や長秀以外の部隊のほとんどが逃亡しており、本来二万とも三万とも言われたはずの四国遠征軍は、一万にも満たない所までその数を減らしていた。。
もしその逃亡した兵が、逃げるどころか敵となったなら。
自軍の兵と思っていた者たちの半分以上が敵となったなら、果たしてその軍は壊滅を免れるだろうか。
まず、答えは否である。
寝返った者は後戻り出来ずに死に物狂いで襲いかかって来るが、寝返られた者は動揺して士気も下がる、挙句数も寝返った方が多いとなれば、もはや抗う術は無いだろう。
謀反を受けて逃亡した先で、また反旗を翻されたのではたまらない。
信長は息子や長秀個人は信用したかもしれないが、その配下の兵やましてや寄せ集めの軍勢たちを信用する気など欠片も無い。
なのであえて信長は織田家の家臣団とは距離を置き、それでいて自らの唯一の同盟者である家康の元に行くことを決めたのである。
確かに距離は遠いが、そこに行くまでの道程の後半は織田家の勢力圏であり、京周辺さえ無事に抜けてしまえばあとは少々遠出になる、程度の感覚だった。
そして岐阜や清州に行かぬ理由も、ありていに言えば兵力が無い為でもある。
現在の織田家は多方面同時侵略戦のため、戦力のほとんどを他勢力と接している前線に向けてしまっているのだ。
なので何かあった時のための留守居の兵力はいても、明智の指揮する万を超える軍勢に対抗するだけの戦力をかき集めるには、相当な時間と手間がかかってしまう。
しかも当然信長の名で集めなくてはならないので、信長の生存を大々的に報せる必要がある。
そうなると軍勢が集まるより先に、光秀からの追手が差し向けられる方が遥かに速い。
そういった事もあり、安土どころか岐阜も清州も信長が腰を落ち着けるには不十分な場所であり、対して徳川家康の治める東海の三ヶ国なら、確かに距離はあるがその分光秀が攻め寄せて来るまでに時間がかかり、なおかつ家康の軍勢なら光秀にも十分対抗できる。
離れている距離すら逆に利用でき、戦力として申し分ない。
さらに自らの考えを家康にもしっかりと理解させて、より強固に同盟を結ぶ機会でもある。
もちろん今までは表面上の仲は良くても実は恨まれていて、顔を合わせるなり斬られる可能性も無い訳ではないだろうが、それは極めて低い可能性だと、信長は見ていた。
そのあたりの説明を聞かされた一行は、納得して後は黙々と歩いている。
信長と帰蝶の傍には常に蘭丸とフクロウが控え、犬助だけは少しだけ前を歩き、辺りを警戒しながらの旅路である。
信長の予想では、おそらく家康は今自分が歩いている道の近くから、場合によっては大和国に一部入り、伊賀国、伊勢国などを経由して、伊勢湾を通って三河入りするであろうというものだった。
信長にとって、家康は幼い頃から知っている相手である。
あの男は自分に勝るとも劣らない慎重さを兼ね備える一方、下手をすれば自分を超えるバクチ打ちの気質を備えた男でもある。
どれだけの危険があろうとも、その先に確かな光明が見えるのならば、たとえ万難を排せずとも進むという蛮勇、その一方で石橋をとにかく叩いて渡りたいという臆病とも言える慎重さ。
信長自身、そういう家康の気質を好んでもいる。
加えて家康を支える家臣団には実に有能な者が多い。
しかも有能だけでなく『三河武士は犬のように忠実だ』などと言われるほど忠誠心に篤く、かつて三河国で大規模な一向一揆が起きた際にも、様々な逸話が残っている。
信仰を取るか、忠誠心を取るかで迷う者が多いのが一向一揆の特徴なのだが、三河国では驚くほど忠誠心を取った者が多いばかりか、一旦信仰を取っても主君に槍は向けられぬ、と家康自身が一揆鎮圧に乗り出した時には、槍を置いて逃亡・降伏する者が続々と現れたという。
信長はその話を聞いた時には、本当にこの世の話なのかと疑ったほどだ。
また家康も、降伏した者たちを即座に許して家臣同士の争いに終止符を打とうと、色々な手を尽くして回った結果、一向一揆は見る見る内に終息、以後三河国で一向一揆の気配は無くなった。
信長も同盟者である家康の才覚を素直に喜び、家康を敵に回すのは愚策であると悟った。
家康は家臣を想い、また家臣も家康を敬うという理想の主従関係を構築した三河軍団は、その後も戦国最強と謳われた武田軍にも頑強に抵抗、さらに信長の援軍にと戦い続けた。
信長の勢力の急拡大には、背中を安心して任せられる家康の存在があった。
半属国のような扱いを受けながらも、家康は信長との同盟を守り続けた。
さらには先年、武田との内通を図ったとされる正室・築山御前とその間に生まれた嫡男・信康の切腹を命じられても、家康は苦渋の決断をした。
かつて父が家のために自分を見捨てたように、今度は自分が妻と息子を見捨てたのである。
以前に触れたが築山御前とは、今川義元の姪であり、家康が信長と同盟を結ぶ際には最後まで反対をし続け、それが原因で夫婦仲は冷め切っていた。
そのため信長憎しの念に囚われた築山御前は、息子信康を味方に付けて武田へと接近を図ったのだというのが定説である。
そしてその一方で信長の娘、五徳姫を正室に向かえていた信康が別の女性を寵愛し、自分に振り向いてくれない事を嘆いた文を父である信長に宛てたことで、信長が怒り切腹を命じさせたなどという説もある。
なんにせよ既に形だけの夫婦であった築山御前はともかく、嫡男まで切腹させよという命令に、家臣たちは当然怒り狂い、信長と一戦あるべしと家康に詰め寄った。
しかし家康は家臣をなだめ、信康にも切腹を命じた。
信長にとっても、これは一種の賭けであった可能性が高い。
家康という男の本質を見極める上で、ここまでされても尚自分と共に歩く覚悟があるのかを問うためのものであったのかもしれない。
信長としてもこれ以降、家康に対してあまり無茶な要求はしなかった。
そして今の状況は信長、家康共に光秀から追われる身の上であり、どちらも身の安全が確保出来なければ屍を晒すだけで、戦国の露と消えて終わるだろう。
だが信長は自分も家康もそんな事にはならないだろう、と予感していた。
自分も、家康も、こんな道中で死ぬようならばとっくの昔に死んでいるだけの修羅場を幾度となく潜っているのだ。
数日かけて南近江から西美濃に入り、さらに尾張までの道のりを歩いた。
女である帰蝶の足も考え、急ぎながらも信長たちは黙々と歩を進める。
(さて、おそらくは今頃竹千代の奴も三河に帰っておるであろう。 どうやって会ったものか)
歩きながら信長の脳裏には、堺の街見物を楽しみだと語っていた盟友の姿が浮かんでいた。




