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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その2

           信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その2




 堺の街に来ていた家康は、その日も昨日と変わらず堺見物にいそしんでいた。

 初めてきた堺の街は、信長程の新しいもの好きでなくとも、興味と好奇心をそそられる。

 あちらの通りには何があるだろう、これは見たことは無いがどこから来た物か。

 れっきとした大大名の地位にいる家康であっても、珍しいものが溢れる堺の街という場所は、物珍しさに落ち着かないままキョロキョロと顔を左右に向けてしまうほどだ。

 無論随行している家臣たちも、主君の護衛という最重要任務が無ければ、すぐにでも個別に見て回りたいという誘惑に駆られている。


 そもそも幼い頃より人質という境遇に置かれていた家康にとっては、子供のようにはしゃぐという経験がほとんどなかった。

 たとえ面白そうなものでも、興味があるようなそぶりは出来ない。

 こうしたいという希望があっても、それを口にする事すら叶わない。

 立場が下の所から来た人質というものは、何かを要求出来るようなものではない。

 あくまで自らの所属する家のため、その身を差し出す決意でいなくてはならない。


 たとえまだ子供といえど、自分の知らない所で自分の価値が無くなったと決まれば、いつ殺されるかもわからない立場なのである。

 なので同じ年頃の子供たちのようにただ遊ぶ、という事をしてこなかった。

 周りにいるのはわずかな供と監視の侍。

 甘えもわずかな我が儘も許されぬ、忍従の生活であった。

 そういう生活の中で、唯一の例外が吉法師との交流だった。


 吉法師、後の織田信長であり、後年「辛い人質生活の中で、唯一の楽しみは信長殿と遊びに行った時だった」などと家康は語ったという。

 信長の父・織田信秀率いる織田軍の三河侵攻、それに窮した家康の父・松平広忠は駿河・遠江の二ヵ国を収める大大名・今川義元へと援軍を請うた。

 今川義元は援軍を出す交換条件に広忠の嫡男・竹千代を人質として駿河へ送るよう命じた。

 嫡男を人質に出すという事は、実質的な属国化である。

 人質に出された子供は、その家の中でその家の教育に染まり、やがて成人した暁にはその家にとって非常に都合のいい存在へと作り変えられる。


 幼少期に子供を人質に出す、という事はそれすらも了承の上だという事の現れであり、三河国を治める松平家現当主・松平広忠は苦渋の決断の末、その条件を呑んだ。

 松平広忠自身、実はかつて勇名を馳せた父・松平清康が家臣によって討たれたことを機に、領国を追い出され今川義元を頼ったという過去がある。

 その際今川義元の後援があって三河を取り戻すことが出来た、という恩があった以上、ここで断ることは今川家との致命的な関係悪化を招く恐れがあった。

 そうなれば今回の織田家の侵攻を防いだとしても、今後近隣諸国の者たちは広忠を「恩知らず」として、心から信用されることも無くなるだろうし、また今川家からの攻撃さえ受ける可能性もあった。

 つまり、今回のこの条件は松平家存続のためには、呑まざるを得ない状況であったのだ。


 無論『海道一の弓取り』とまで呼ばれた今川義元が、その事に気付いていない訳が無い。

 後年信長に桶狭間の戦いの際、奇襲でもって討ち取られた事によって今川義元を実は無能か、と見る向きもあったが当然そんなことは無く、詳しい資料などから見るに、今川義元が非常に優れた武将であることの証明は、いくらでも見つかるのである。

 こうして三河松平家は織田家の侵攻を防ぐため、今川家の傘下に入った。

 そしてそこで事件は起こる。

 松平広忠の嫡男・竹千代こと後の徳川家康が、人質護送を請け負った戸田康光の裏切りによって、こともあろうに敵対している織田家へと、その身柄を送られてしまったのである。


 織田家は当然三河松平家に対し、一方的な従属を要求するが、広忠はこれを拒否。

 たとえ息子の命を盾に取られようとも、大恩ある今川家に弓引く訳にはゆかぬ、と回答したのだ。

 これによって松平家から見捨てられた竹千代は、あとは織田家の胸先三寸で決まる命となった。

 明日には、いや一分後にはどうなっているか分からないという自分の命。

 幼少期の家康が味わっていた恐怖は、想像を絶するものであったろう。


 しかしその恐怖を忘れさせるような存在がいた。

 それが信長であり、信長は人質の身分である竹千代相手でも、自らの遊び相手として付き合わせた。

 幼少期の年頃で九歳上、となればもはや絶対的な強者である。

 立場的にも年齢的にも体格・体力的にも弱者の家康であったが、信長の性格から察するに無茶な遊びに付き合わせたことはあっても、いじめのような真似はしなかったと思われる。

 幼き日のこの二人の親交は、信長が死ぬその時まで続くのである。


 その後、信長の兄である織田信広が守る三河安祥城が、今川・松平軍の攻撃によって陥落、城主織田信広の身柄と、松平竹千代の人質交換をもって二人の親交は一旦途絶えた。

 その後の竹千代は今川家へと即座に送られ、今川家の当主・今川義元の師に当たる太原雪斎の元で様々な教育を施されたが、その際に竹千代は雪斎からその才能を見込まれている。

 徳川家康が後に天下を取ったため、後世脚色された話という説もあるが、「竹千代は今川家天下統一の暁には、三河国を領地として与えるなどの厚遇をもって迎えるべし」と、雪斎が義元に口添えをしたという逸話がある。

 また、今川義元を全国屈指の有能な大名に育て上げた、今川家の軍師兼宰相として名高き雪斎が、竹千代の才覚を見込んで今川家と縁を結ばせ、一門衆として迎えさせるよう遺言を残したという話もある。

 事実竹千代は元服後、今川義元の姪に当たる女性を正室に迎え、名前も当初義元の片諱をもらい「松平元信」と名乗っていた時期がある。


 その経緯から、どこから見ても今川家一門の武将にされた家康も、桶狭間の合戦において当主・今川義元が討死、自らもそれを機に今川を離反し、その二年後には親交があった信長との誼を再び通じさせ、清州同盟という、信長が本能寺で炎に消えるまでの間、二十年もの長きに渡って続く同盟を結ぶのである。

 その時点では、最初の名前『元信』から祖父の名前『清康』の一文字をもらい、『元康』と名乗っていたが、信長との同盟を機に義元の元の字を捨て、『家康』へと名を改めるのである。

 家康は、生まれてからずっと苦難に満ちた生涯を送っている。

 信長とは違う種類の苦難であるが、果たしてそれはどちらがより苦しいものなのか。

 人によって意見は分かれるが、どちらも苦難に満ちた生涯を送っている故か、信長と家康の同盟は今まで破られたことが無い。


 今日も家康は家臣たちと共に堺を巡る。

 重臣も多く連れてきてはいるが、さすがに全て留守にする訳にはいかず、重臣・大久保忠世などが国に残って万が一の時のための留守居役を務めている。

 そんな忠世たちのためにも堺土産でも買ってゆこうと、様々なものを物色している中、家康の姿を見付け、駆けてくる者がいた。

 家康も家臣たちも見覚えのある男、京の商人・茶屋四郎次郎であった。


「い、家康様こちらにおいででしたか!」


「おお、四郎次郎か! そなたも堺に来たのだな。 せっかくじゃ、そなたも忠世たちへの土産選びに」


「その様な事を言っている場合ではございません!」


 突然の大声に、周りの通行人や店の者が「なんだなんだ」と視線を向ける。

 家康もその大声に只ならぬものを感じ、それまでの緩んだ空気を引き締め、真顔となって家臣たちと道の端へ寄り、家康と四郎次郎、そして他数名が路地へと入った。

 周りは家臣たちで固めて、万が一にも話した内容が他の者へ洩れないようにする。

 普段から温和で、商人としては良いのかもしれないが先程のような大声を発するような人物ではなかったはずの、茶屋四郎次郎である。

 その男が家康を前に初めて大声を張り上げたのだから、その内容は決して軽いものではないはずだ。


「昨日未明、明智光秀の軍勢が信長殿の宿所、本能寺を突如襲撃。 本能寺は焼け落ち信長殿はご自害、その後妙覚寺から二条御所へと移った信忠殿も同じくお腹を召され、京の街はその話で持ち切りで」


「は? 待て待て四郎次郎、今なんと申した! 信長殿が、え、明智殿に…と?」


 さしもの家康も頭が追い付かない。

 あの織田信長という男が腹を切るという光景が思い付かないだけでなく、その信任篤い光秀がどうして信長を襲うというのか。

 驚きもあるがそれ以上に信じられない、という思いの方が強い。

 あの二人は今や織田家の象徴とそれを支える大黒柱だ、それが大黒柱が反旗を翻したなどという話をにわかに信じられるはずもない。


「某も同じ思いにございます、されど事実は事実。 明智はすでに朝廷へも参内し事の正統性を得ている様子、したがって殿は下手をすれば信長の同盟者として、逆賊・朝敵の汚名すら被せられる恐れもございます故、急ぎ浜松城へお帰り下さいませ! 道中の路銀その他はこの私が用意いたします!」


 一気にまくしたてる四郎次郎に、思わず家康もコクコクと頷く。

 もちろんそれを聞いていてそのまま立っているだけの家臣たちでもない。

 家康の指示が出る前に、すでに話題の衝撃から立ち直った者が、宿へと走り出した。

 家康は四郎次郎と随行した家臣の半分を連れて堺の街の入口へ向かう。

 他の者は必要な物を回収・もしくは買い揃えてその後を追う形だ。


 堺の街はその治安や独立性を確保するため、街全体を堀で囲いそこに橋をかけ、刻限で締め切る門まで設け、さながら商業都市というより、城塞都市と呼んでもよいほどの防備を誇っていた。

 正確に言えば城塞、という言葉が使えないのは、商人の街である故に城が無いからではあるのだが。

 なので基本的に街に出入りする際には、設置されている門以外を通ることが出来ない。

 もし家康を狙う軍がこの街に押し寄せた場合、門を固められてしまっては家康は堺に閉じ込められた袋の鼠となる恐れすらあるのだ。

 なのでまずは家康の安全を確保するのが先決、とばかりに家臣たちは誰ともなくそれぞれが何を担当するかを即座に決め、自分の役割を果たすために行動を開始した。


「相変わらず良き方々ですな、各々がしっかと自分の役割を分かっておられる」


「この者たちあってのわしよ、だからこそわしが討たれる訳にはいかぬ」


 四郎次郎の言葉に、家康は歩きながら胸を張る。

 その歩みは周囲の人間から注目を浴びない程度の急ぎ足。

 あまり大急ぎでドタバタと走ると、かえって何事かと周囲に怪しまれるからである。

 つい先日家康がこの街に来たことは、すでに堺に住んでいる者であれば誰もが知っているだろう。

 だが光秀の謀反による信長の死、の情報が行き渡るまではおそらくあと半日程度の猶予はあるはず。


 この間に家康は堺を脱していなければ、下手をすると光秀に家康の首を差し出して、幾ばくかの褒賞を得ようという不埒者が出ないとも限らない。

 この堺という街の治安を守るために、堺の支配者・会合衆と呼ばれる大商人たちは、共同で金を出し合って雇った治安維持や門番などの兵だけでなく、それぞれが独自に護衛などに使う兵も雇っている。

 元々この兵士たちも食い詰めた傭兵崩れや、元野盗などが安定した飯の種を求めてここで職にありつけた者たちだったりもするので、そういった者がよからぬ企みをしないとも限らない。

 ましてや会合衆は信長に対し、堺の独立性を奪い取り、半ば支配地域として戦の際には軍資金の要求などを度々行ったため、恨み骨髄と言っていいほど恨んでいる可能性があるのだ。

 そして家康はその信長の同盟者であり、もし会合衆が光秀に迎合し、自らの私兵を動員したらどうなるかを考えた時、この堺という街は潜在的に多くの敵が潜んでいる、ということになる。


 家康は本来はもう少し滞在するはずであったが、急に領国から使いが来たため帰国することになった、と門番には曖昧な理由をでっち上げて、早々に堺の街を脱出した。

 実際来た時よりも随行の家臣は半分ほど、しかも来た時には連れていなかった男が一人増えていることもあって、その理由は信憑性があるように思えた。

 なので門番も特に深くは考えずに「道中、お気を付けて」と一礼して見送った。

 どうやらまだ堺には本能寺の事は伝わっていないらしい。

 もし伝わっているのであれば、何のかんのと理由を付けて堺の街に押し留めようとされていたかもしれない。


「ふぅ、どうやら間に合ったようじゃな」


 堺を遠くに見る所まで歩いてきた家康は、そこで一旦休憩を取る。

 強行軍で領国の三河まで戻ることになるだろうが、それでも最低限の水と食料は必要だ。

 家康始め、その周りを固めた者たちは持ち物も着る物もそのままで来てしまったので、旅に必要な物は一切何も持っていない。

 ここで堺の宿から荷物をまとめてきた者たちと、商店で品物をかき集めた者たちが合流するのを待ち、その者達が持ってきたものを手に、これから三河までほぼ休みなく移動することになる。

 なので今の内に移動経路を決めておく必要がある。


 少し大きめの木の下に陣取って、家康は家臣たちと四郎次郎を交えて、地図を広げながら相談する。

 北側の街道、京周辺は明智が固めているため真っ先に除外、当然だが光秀の領地にもなるべく近づかない方が良いだろう。

 かといって南、紀伊に行けば雑賀衆や石山本願寺から退去した一向宗がいる。

 となれば中央、京からはなるべく離れながらも南近江と大和国を掠める様に通って伊賀国、そこから伊勢に抜けて船で伊勢湾を渡り三河へ。

 最短経路と言えば聞こえは良いが、道中危険が無い訳が無い。


 実質的な経路は中央で決定だが、問題は「どう通るか」である。

 いかに安全に、いかに素早く通り抜けるかが肝となる。

 四郎次郎が用立てた金で、必要な品々を買い集めている者たちはまだ来ない。

 仕方がないので、その場にいる者だけで大体の方法論を決めておく。

 と、そこへ目を血走らせながら走る男を先頭にした一団が通りかかる。


「おお、ここにおられたか徳川殿。 我らは先に失礼いたしますぞ」


 そう声をかけたと思ったら、即座にその横を駆け抜けていったのは穴山梅雪であった。

 どうやら信長の死を知ったらしいが、ひどく慌てて駆けていったものだから、供の家臣が汗だくになって息も絶え絶えに追いかけている。

 梅雪自身は何も持たず、全ての荷物を家臣に押し付けて先頭切って走っているのだから、楽と言えば楽なのだろうが、家臣が自分に付いてきていないと知るや否や「遅いぞ! 急がんか、走れ走れ!」と怒鳴っている様は、あまり褒められた光景ではない。

 その様子を見ていた家康たちに、続々と他の家臣も合流してくる。


「商店で保存食用の丸薬などをありったけ買っている所を穴山様に見られまして…話さぬ訳にもいかず訳を話したらあの有様で。 聞くなり顔色を変えて大急ぎで街中を走って行かれました。 あの御仁、ああも目立ちながら移動されてはかえって危険、という事を分かっておられないのでしょうか」


 合流してきた家臣の一人が、呆れ半分に言った言葉を四郎次郎が返す。


「いやいや、かえって助かるかもしれませんな。 あの方が目立ってくれればその分我ら一行が目立ちませぬ故、穴山様の方から囮を買って出てくれた、と思えば」


 その言葉に周りの者も「それもそうだな」と納得して頷き合う。

 向こうも逃げ遅れるのが嫌だから、こちらを置き去りにして自分たちだけで逃げている訳なので、どちらが正しいのか、どちらが助かるのかはその者の天運次第、というものだろう。

 第一、注意を促してやろうにもすでに穴山梅雪の姿は見えない。

 よほど急いで駆けているのだから、こちらはこちらで動くだけだ。


「よいか皆の者、我らは一人も欠けることなく三河へと帰還する。 決して単独行動などせず、必ず三人以上で動くべし。 今日明日で極力距離を稼ぎ、伊賀国を抜ける際には細心の注意を払え。 飯も水も歩きながらにせよ、無事に帰りついた時にはたらふく食わせてやるでな」


 最後に、にやりと笑って見せる家康。

 家臣たちはわずかの乱れも無しに「はッ!」と返す。

 後に『神君伊賀越え』と名付けられ、家康最大の苦難と言われた逃避行が始まる。

この巻では本能寺の後のそれぞれの動きを描いていきます。

登場人物が増えたため、この巻の二は全12話構成と大分膨らんでしまいましたが、懲りずにお付き合い頂けましたら幸いです。


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